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11月21日ー12月2日までアルゼンチン及びチリ(帰路サンパウロに立ち寄る)に出張しました。
今回の出張は2週間弱の出張で日本行き、休暇旅行を除くと長い方です。アルゼンチン(ブエノスアイレス、コルドバ)、チリ(サンチアゴ、ロスアンデス)、サンパウロと廻りました。其の都度感嘆に飛行場の待合室等で叩きblogに写真入りで報告しておりますが、一応纏めて寄稿集に収録して置きます。
尚、番外にけい子の大火傷の顛末記を一緒に掲載して置きました。
写真は、どれが良いか選ぶのに苦労しましたが、2000年12月にUNESCOの世界文化遺産に選ばれているコルドバ大学校内で撮った一枚を使う事にしました。


けい子の鉄瓶による大火傷の事故があり家事の手伝をする必要があった事でもあり暫く出張を控えていましたが約1ヶ月振りにアルゼンチン、チリ、ブラジル(サンパウロ)に出張する事になり11月21日午後2時半のTANでブエノスに向かい国際空港EZEIZASでコルドバ行きのコネクソンをアエロリニアの待合室で過ごしています。

またまたやってしまいました。
徳力さんの目に留まればまたまた喜ばせてしまう大失敗をやらかしました。幸い実害ゼロですみましたが。。。国際空港での接続待ちがアルゼンチンは、夏時間を採用していない事から1時間の時差があることとTANが遅れなかったこともあり3時間以上あり三菱重工工作機械の現地販売店をお願いしているCONTROLE UNO社に電話で打ち合わせる為に電話カードを購入し簡単な打ち合わせをしたのは良かったのですが、AERORINEA PULSのマイレージカードを忘れて来ていたので管理番号を聞く為に電話を入れたと所、随分待たされ待ち時間の間に携帯を取り出しポルトアレグレの事務所に電話を入れたのは良かったのですが、公衆電話BOXの上に携帯電話を置き忘れると言うへまをやらかせました。前にメンドンサでタクシーにデジタルカメラを忘れ大事な写真をふいにした時の事を思い出し今回も徳力さんが喜ぶ顔が浮かんで来た次第です。メンドンサのタクシーの運ちゃんはカメラを返して呉れませんでしたが、ブエノスの国際空港は、シビリザード(良心的)でお巡りさんがちゃんとイミグレーションの紛失物保管事務所に置いて呉れていました。フライトの変更手続きをしたり1時間近く経っておりこれは戻って来ないと諦めましたが念の為にと側にいたお巡りさんに聞いた所、同僚が携帯電話を見付けたとか云っていたので確認してやると管理室に電話してくれ見つかったので取りに行くようにと先導して連れって行ってくれました。
簡単な確認作業の上無事携帯電話を受け取る事が出来今回はアルゼンチンが好きになりました。ブエノスのお住みのTOMOKOさん、同船者の仲間も喜んで呉れるのではないかと思います。それにしても年なんでしょうかね。忘れ物が多いし人の名が直ぐに出てこなくなって困っています。

昨日は、ポルトアレグレからブエノス経由7時間掛けてアルゼンチン第2の都会コルドバにやって来ました。ホテルはオウトモベル・クルビ・アルゼンチナと言うコルドバの街でも大きな老舗のホテルですが、古いだけに客室でのブロードバンドによるADSL接続が出来ず電話回線で接続し必要なメールだけは出したのですが、blog更新等は、出来ませんでした。
睡眠時間が極端に減り昼間も眠くて仕方がなかったが何とか頑張り夕刻のフライトでブエノスに戻ります。これはコルドバの飛行場で叩いています。
月曜日から始まった三菱重工の工作機械(歯車研削機械)の据え付けも順調に進んでおり夕刻最初の歯車を切る事が出来ました。明日日本から来る出張者をブエノスで出迎え再度コルドバに戻って来る予定です。
今日は、忘れ物をすることもなく無事過ごせました。
コルドバは人口150万人の街で広く町並みが広がっており今回で2度目ですが良く理解出来ない街ですが、既に時期を過ぎたジャカランダの並木が続き緑の多い素敵な街です。これからも足繁く通う事になりそうです。適当な写真を撮る暇が見付かりませんでしたがポルトアレグレでは既に時期が過ぎている桑の木が工場の側にあり誰も見向きもしないのか手の届く所に黒く熟した桑のみが沢山あり喜んで子供のように千切っては口にほりこみましたが後で見たら手の指が紫に染まっていました。
写真は美味しそうに熟した桑の実と据え付け完了した三菱重工の機械が初めて削った歯車の写真です。

コルドバからの飛行機は定時で飛び無事ブエノスに戻って来ました。今回の宿泊ホテルはポルトアレグレの旅行社に取らせたオベリスクの直ぐ側のCOLON HOTELで大変便利です。何より部屋でワイアレスの接続が可能で助かりました。広い部屋に応接間が付いており1泊100ドルはリーゾナブルです。コルドバから戻る土曜、日曜の週末も空いておればとTRYしてみましたが満杯でした。
10時20分着予定のUA便が20分遅れとの事でどうせ11時頃迄出てこないだろうと近くの固い鉄線のベンチ(長く座っておれないように工夫している?)に座りこれを叩いています。飛行場にはワイアレスの電波は飛んでいるようですが、ユーザー名、パスワードの要求があるのでこれも有料のようです。短い待ち時間でもあり固いベンチに座りPCを叩いています。
飛行機は遅れ更に三菱重工の出張者は、ワシントンでの接続時間が短く体だけはブエノスまで来ましたが荷物が届かず24時間遅れの明日のフライトで届けられるとのことでUAからは、75ドルまで負担するので身の回り品を購入し領収書を提示するようにと言われアエロパルケ(ラプラタ河に面した国内線の飛行場)で探すのを手伝いましたが、飛行所湯の免税店では下着類は、置いておらずボクサー用の派手なパンツ、模様の付いたポロシャツ、靴下程度しか手に入らず困っていました。
何とか夕刻のフライトで再度コルドバに戻って来ています。
写真は、尻が痛くなり長く座っておれなかった針金製のベンチの写真です。

今日は、ホテルから飛行場に向かうレミス(ハイヤー?)の中からテアトロ・コロン(コロン劇場)の全景、オベリスクを撮りましたのでblogに貼り付けて置きます。
またまたコルドバの飛行場でブエノス行きのフライト待ちでブエノスアイレスの針金のベンチより座り心地の良いベンチに座りこれを叩き始めました。ポルトアレグレを出たのが火曜日の午後でしたので既に5日目に入っています。コルドバでの機械の据え付け作業は無事昨日完了しており今回三菱のホービングマシンを購入して呉れたTifec社の他に98年に納入した横型マシング・センターを購入してくれている客先Vottero社訪問、新規案件として有望なFIAT、PEUGEOT向けのギアボックス生産用の工作機械5台のネゴをフォロウしており一段と具体化させる事が出来、仕事は順調に進んでいます。と言うわけではないのですが、昨日は日の高いコルドバの中心を1時間半程歩き回り世界遺産に指定されているアルゼンチンで一番古い大学(多分ブラジルの一番古い大学であるオリンダの法科大学より古い?)を見学したり今朝は8時からTifec社が回して呉れた車でコロドバから36km離れたALTA GRACIAの町にある世界遺産指定のイエズス会の教化拠点となった古い教会、ビール祭りが行われる(ブラジルと同じ10月に行われるようでオクトーバ・フェスタと呼ばれている)ドイツ人の多い町、ベルグラーノ将軍の町(VILLA Gral. Bergrano)からその先のサンタ・ローザ・デ・カタムチータ(Catamuchita)と呼ばれる町まで行き1時50分発の飛行機の時間を気にしながら戻って来たら飛行機が1時間近く遅れるとのことで簡単なランチを取り待合室でPCを広げた次第です。
ここまで叩いたら搭乗が始まりましたのでストップします。

今回の旅における最後の国際線フライトになりました。SWWIS AIRでサンパウロまで飛びますが、機体そのものはスイスのチュウリッヒまで行くとの事。ブエノスから乗ったAIR CANADAの機体は、サンチアゴ出ると終点は、カナダのトロントとの事。トロントまで飛べば丸木さんがおられるしチュリッヒは、一度は行って見たいヨーロッパの国ですし旅への誘いを誘うフライトに乗ることになりました。STAR ALLAIANCEで世界一周航空切符がビジネスクラスで65万円程度戸の事でこれを使用する出張者が増えて来ているようです。3大陸を飛ぶ必要がありUSA、南米、ヨーロッパを同じ都市を2度通過しないとの条件で幾つもの選択があり今回のブエノスーサンチアゴーサンパウロは日本からの出張者合わせて切符を押さえました。落第生とは云えVARIGもALLAIANCEに入っておりマイレッジが付くとのことですが、溜まっても利用出来るのですかね。と言う事でVARIGのゴールドが生きルフタンザのVIP ROOMが使用できこれを叩いています。
サンチアゴを飛び立ち直ぐにアンデス山脈にぶつかりA24の座席はまたまた主翼の横でアングルが無く苦労しましたがアンデスの山越えの写真を撮ることが出来まいsた。アコンカグアは反対側のようで残念ながら拝む事が出来ませんでした。その内近くまで行って見たいと思います。1963年末真夏のアンデス越えをメンドンサ側から汽車に乗りロスアンデスのチリとの国境近くの山巓で汽車を乗り換え(確か両国間の軌道幅が違い機関車、車両毎乗り換え滝億があります)バルパライーゾまで下った経験がありますが、このメンドンサーヴァルパライソ間の国際鉄道は、20年程前?に廃止されて現在ではバス、車の連絡となっているそうです。昔の国境の側の乗り換え地点を探して行って見たいと願ってますが実現するでしょうか?

明日11月30日(木)サンパウロでは、あるぜんちな丸第12次航の仲間の皆さんと忘年会をする事になっています。このMLで小山さんを通じてお願いして置いた所、いつもの通り和子さんが皆さんに連絡してくれたとの事で久しぶりに10数名が集まるとのことで楽しいにしております。
この『私たちの40年!!』MLのメンバーの皆さんで参加頂ける方がおられましたら是非参加下さい。ニッケイパレスホテルの隣の韓国料理の焼き肉店とのことです。時間は、午後6時半頃からの集合だそうです。
出来れば2007年5月の45周年記念式典実施についても皆で話し合えればと思います。

12月2日(土)ニッケイパレスの地下食堂『つばき』で来伯中の山添ご夫妻と8時から10時まで朝食をご一緒させて頂き色々歓談する機会があった。
山添 洋子さんは、日本学生移住連盟(学移連)の1965年派遣第6次実習団員10名の紅一点として来伯、赤間学院での幼稚部での実習他で1年過ごされ帰国後1967年―1968年の2年間三井大阪商船の南米移住船のあるぜんちな丸とぶらじる丸で乗組員(スチユワデス)として勤務されました。同船者の園田 昭憲さんがブエノスから日本に勉強の為に帰国した1968年12月13日横浜着のぶらじる丸でお世話になった事を覚えておられ今回直接お会いできないので事実関係を確認して欲しいとの事でしたのでお聞きしたところ間違いなく1968年12月着のぶらじる丸に乗船していたこと。この航海を最後に陸にあがり翌1969年春に大阪の万博(EXPO70)でお手伝いするために三井大阪商船を退社、万博で活躍されたとのことです。従い今回の来伯は、実に38年振りのブラジルへの里帰り?になったとの事でリオ、サンパウロ、クリチーバ、イグアス(パラグアイ)、マナウス等を訪問観光は勿論ですが、第6次派遣団員の5人がブラジル、パラグアイに住んでおられるとのことで再会を楽しみにしているとの事です。
ご主人の山添 耕治さんは、京都市立芸術大学の名誉教授をしておられ油絵が専門とのことで多くの作品を残しておられます。洋子さんがブラジル向け移民船に乗っておられた時期に耕治さんは、スペインでの研修を目指し1967年―68年の1年間船で32日間掛けてマルセユウー経由スペインに留学されたそうで東と西に向かい長い船旅を経験されています。山添ご夫妻には、31歳、29歳、27歳の一姫二太郎のお子さまも巣立ちご夫婦そろっての海外旅行は、矢張り洋子さんの第二の故郷とも云うべきブラジルを選ばれたそうです。洋子さんが船に乗っておられた当時の写真を見せて頂きましたが是非『私たちの40年!!』HP、ブログにも掲載させて頂きたい写真があり帰国後スキャナーに掛け送って頂くようにお願いしました。
写真は、ニッケイパレスホテルの『つばき』で撮らせて頂いた山添 洋子さん、耕治さんご夫妻と私も一緒に記念写真を撮って頂きました。

(番外)番外として冒頭に記載しているけい子の鉄瓶による大火傷に付き多くの皆さんから「どうしたのか?」、「もうよくなったのか?」、「傷は残らないのか?」等々ご心配を掛けてしまいましたが、この大事故?は私がサンパウロに出張中に起きたことから傍に居て遣れなかったことから引け目を感じていましたが、コーヒーを飲む積りで何時も使用の鉄瓶で湯を沸かしていたがつい試験の採点で鉄瓶をガスに掛けていることを忘れてしまい水がなくなって30分?近く空炊きしていた鉄瓶は多分200度?近くまで加熱していたのではないかと思いますが其の鉄瓶を水道の蛇口に持って行きいきなり水を注いだものだから蒸気が噴出し両手に大火傷をおった次第です。直ぐに離せばよいのに思い鉄瓶をしっかり握っていた左手は、水脹れが出来それは酷いものでした。火傷の痛み止めと薬を塗り皮膚が破れないように水が引くまで見守り手が下に成らない様に首から包帯でぶら下げ運転が出来ないし家事も水は使えなくなり流石の私も家事一切を手伝わざるを得なくなりこれまで手伝って来た食事の準備、食器洗いの後片付けは勿論の事、何と洗濯も出来るようになりました。学生の頃から洗濯が苦手で古いパンツを引っ張り出し裏返しにしてまた着用したりしこともある私ですのでこれまで洗濯だけはした事がなく汚れた下着も其のまま洗濯機につ込めば洗濯機が洗って呉れるものだと思っていましたが、汚れ易い箇所は1枚ずつ各所に石鹸を付け各所洗いをしてから洗濯機に入れるように傍で監視付きで始めての洗濯をさせて貰いました。
と言う事で出張を控えて家事、おさんどんに徹し毎日散歩をしながら治癒をまちましたが、人間の治癒力と言うか其の回復の早さに自然の力と言うか神の加護さえ感じる日々でした。
幸い現在はもうすっかりよくなりケロイドが残ると行けないとの医師の指示で現在も左手だけは私のゴルフの手袋をして車の運転をしています。日焼けをするとそこだけ色が変わり皮膚が変形する可能性があるとのことでこの夏は、日焼け止めとゴルフの手袋を離せないようです。




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