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イエズス会 南米における栄光と挫折 (前編)サンパウロ新聞大木まゆみ記者連載記事
都道府県連合会主催のふるさと巡りでパラグアイ、アルゼンチン、ブラジルのイエズス会の南米におけるインヂオ教化を目的とした拠点として栄えた教化村の栄光と挫折を同旅行団に随行したサンパウロ新聞の大木まゆみ記者が、悠久の教化村、廃墟を見ながらイエズス会の栄光と挫折、栄枯盛衰に思いを馳せその歴史を掘り下げ11回に分け連載しておられます。
南米史の中で大きな広がりとその後の各国の歴史に大きな影響を与えたイエズス会の栄光と挫折を上手く纏め上げた格好の読み物であり知って置きたい歴史の一部です。
写真も毎回現地でご自分で撮られた写真が掲載されていましたが、リオグランデドスール州のサントアンジエロ市に残るサンミゲルの廃墟の全景を使用しました。


イエズス会 南米における栄光と挫折@

《『ミッション』設立の尖兵 カトリック布教を使命に文明運ぶ》

 この物語の舞台がユネスコの世界遺産に指定されているグァラニー伝道施設遺跡群。アルゼンチンとブラジル側が一九八三年に、パラグアイ国側の施設が一九九三年にユネスコ世界遺産に登録されている。

 パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルの三国にまたがるミッソンエス地方の遺跡を訪れて、期待を裏ぎらない荘厳な石造りの教会跡に、新大陸南アメリカに向けられたイエズス会の壮大な夢と情熱をまざまざと見せつけられた。赤い石や瓦を積み上げた教会には十二聖人の像や彫刻が施され、華麗なバロック様式の面影が残っていた。

 ブラジルを始めとする新大陸の歴史はイエズス会の活動なくしては語れない。
どうしても一度は見てみたかった。

 この遺跡が何で南米のジャングルの中に忽然と現われ、崩壊したかを説明するには、歴史的な部分が多く、ブラジルの授業でもあまり教えられていないため、資料が少ない。なにしろこちらは記者なので、専門的な部分は大先輩、故中隅哲郎氏、および故田尻哲也氏の書いた論文を活用させていただくこととし、@概要Aイエズス会の歴史的成り立ちや活動Bインディオ狩りをしたバンデイランテスCミッションの繁栄Dミッションの終焉という順序で、簡単に説明していきたいと思う。

 さて遺跡はポルトガルやスペインからきたローマカトリック教の一派であるイエズス会の宣教師たちが、先住民グァラニー族にキリスト教の教えを説いて、彼らを文明的なクリスチャンに教育しようとした「教化村」だ。

 インディオの教化村は一般にレドウソン(スペイン語でレドクシオン)と呼ばれている。この意味は「再教育をするために隔離した場所」のこと。

 イエズス会独特の伝道方式で、インディオを本来の居住地から引き離し、共同生活を営みながら農耕生活を中心とする自給体制をとり、カトリック教を普及させていこうというやり方だ。

 彼らはこのあたりに住んでいたグァラニー族を集め、村を作って学校、工場、宿舎、食堂、厨房、倉庫、住宅などを建設し、バナナやマンディオカ、マテ茶を植えて生産活動を行った。

 当時この地方には三十の教化村が作られ、約十五万人のグァラニー族インディオが住んでイエズス会士の指導のもとに生活を行っていたのだ。

 一五六〇年にバイアの教化村を指導するルイース・ダ・グロン神父がインディオの主を集めて、カトリック信者の守らねばならぬことを四か条にまとめたのが、◎一人以上の妻をもたない。◎酒を酔うまで飲まない。◎パジェーの言葉に従ってはならない。◎人間を殺さない、人間の肉を食べない、というものだったのであるから、いかにインディオたちが高度な文明を作り上げたかがわかろうというもの。 (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折A

スペイン王朝の迫害で壊滅 密林に建設されたゼズイッタ帝国

 ポルトガルは十九世紀初期になっても非識字率九〇%でほとんどの市民が読み書きできなかったことから考えると三百年も前にイエズス会士たちはインディオの子供たちに、学校で読み書きを教え、楽器を作って、それを演奏し賛美歌を歌っていたのだのだからすごい。

 これら三十の教化村には六千人から一万人の住人が住み、『祈りと労働と教育』で生きる社会をつくった。これがイエズス会士たちが挑戦した「地上の楽園」ユートピアの世界だったのだ。

 十八世紀の半ばには、全人口が三十万人近くになっていたようで、歴史家によっては、それを『グァラニー共和国』、または『ゼズイッタ帝国』と呼んでいる。(※ブラジルではイエズス会のことをゼズイッタという)

 ブラジル側で知られているのはセッテ・ポーボ・ダス・ミッソンエスで、リオグランデ・ド・スール州にあった七つの教化村@サン・ボルジャ、Aサン・ニコラウ、Bサン・ルイース・ゴンザーガ、Cサン・ミゲール・アルカンジョ、Dサン・ロウレンソ、Eサン・ジョアン・バチスタ、Fサント・アンジェロ・クストージオでいずれも十七世紀後半から十八世紀初期に作られたものだ。

 イエズス会士がミッソンエス地方で行った活動は一六一〇年から百五十年にわたった。

 一七五〇年、ポルトガルとスペインの両王は南米植民地の境界線を確定する協議をして、マドリード条約に調印したのだが、この時、ウルグァイ川以東の地にあった教化村に住むグァラニー族はすべて村を放棄してウルグアイ川の西に移住することを迫られた。

 ブラジル側になったセッテ・ポーボの教化村は立ち退きを拒否、一七五三年からスペイン、ポルトガル両王は討伐軍を出し、五六年、遂に教化村は崩壊したのである。
インディオたちは逃げる際に教会や住居に火を放ち、石造りの部分だけが焼け残った。これが有名な「グァラニー戦争」だ。

 彼らは独裁者ポンバル侯の怒りに触れ、一七五九年に突如としてブラジル側から追放された。ブラジル側にいた六百三十人のイエズス会士は船でポルトガルに送られ、改めて国外追放された。

 ポンバル侯はよほどイエズス会士が気に入らなかったとみえ、それでは満足せず、隣接のスペイン王朝に働きかけて一七六八年、今度はスペイン王が領内からのイエズス会士を追放し、パラグアイからアルゼンチンにかけて存在した三十余の教化村はすべて廃墟と化した。

 その後、法王庁に働きかけて、一七七三年にはクレメンス十四世法王を説き伏せてイエズス会を消滅させるのに成功している。
       (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折B

新大陸開拓の尖兵橋頭堡造りに教化村建設に力

 時はまさに宗教改革の嵐が吹き荒れていた頃。カトリック教会の腐敗と堕落を痛烈に批判するルターに対抗するため、カトリック側も反撃、対抗宗教改革を起こした。

 一五三四年八月十五日、パリの郊外にある教会でイグナティウス・ロヨラほか七人の青年たちがイエズス会結成の誓いをたてた。彼らが世界に先駆けて新天地へと布教に出かけることになるのだが、新しくできたばかりのイエズス会に頼むほどヨーロッパには聖職者がいなかったというとそうではない。

 十五〜十六世紀のヨーロッパは、カトリック教団の勢力が最も発達していた時代だったといわれているが、法王庁においては教理が忘れられ、キリスト教の精神が失われていた時期だったのだ。

 例えばポルトガル国内の聖職者の数は、人口百万強のところに、三つの大司教座(司教座聖堂、カテドラル、大聖堂、ドウオモ、ドーム)に七つの司教座も組織していたが、ポルトガルにいる既存の聖職者は、海外布教といった困難な仕事には役に立たなかった。

 司教、大司教といった高位聖職者の地位は、ほぼ貴族の手中に入っていて、富を貪るのに夢中、無節操で、傲慢という体たらく。

 イエズス会は厳格な軍隊的規律と世界を神のために獲得しようという希望に燃えていた。『祈り、禁欲、労働、教皇に対する絶対服従』をモットーに主にヨーロッパ以外の地へ伝道活動に出かけたのだ。

 ルターの宗教改革の結果、ヨーロッパの北部、中部はプロテスタントになってしまい、カトリックはフランス、イタリア、スペイン、ポルトガルという南ヨーロッパにしか勢力が残らなかったからだ。

 さて、どうして新大陸発見と布教が結びつくのかが、一般人にはよくわからないところである。

 この当時は征服と宣教は一体だった。大航海時代のポルトガル船には船医のように、常に一人かそれ以上の聖職者が乗り組んでいたのだ。

 新大陸では一四九四年、ローマ法王の仲介でトルデシリャス条約が結ばれ、スペイン、ポルトガル領の境界が決まるが、そのときローマ法王が出した条件は『新大陸原住民のキリスト教化の義務付け』だった。

 そのため、一五四九年、初代ブラジル総督トメ・デ・ソウザとイエズス会初代ブラジル管区長マノエル・ダ・ノブレガが同じ航海でブラジルに赴任したのは決して偶然ではなく、ブラジルのインディオたちに布教するために、その後、続々と新大陸入りを始めた。

 当時のポルトガル王としては、勇気、能力、信仰心のある聖職者を数多く見つけることが、法王との約束を遂行するのに最も重要なことであった。ポルトガルが海外に勢力を伸ばすに従って、王が必要とする聖職者の数は制限なく増加し、異教徒をカトリックに改宗させるということを目的の一つとしているイエズス会は最適だったに違いない。イエズス会はポルトガル王朝と結びつき、ポルトガル王室のパドロアード制(布教保護権)のもとに布教活動を始めた。

 ポルトガルに続いてイエズス会はスペイン王にも協力し、南アメリカ大陸にイエズス会が着いたのは大陸発見と前後している。

 一五七六年にはメキシコ、同じく八〇年代になるとアルゼンチン、パラグヮイ方面にも活動の舞台を広げた。

 裸で暮らすインディオが住んでいるという他は何もわかっていない人跡未踏の秘境に命も省みずに入って行くのだから、イエズス会士たちのその使命感たるや凄まじいものだったに違いない。

 原住民を教化しようとしたのはイエズス会のみならず、フランシスコ会やイタリア・カプチン会なども進出したが、ことインディオの教化についてはイエズス会が飛び抜けて熱心であった。

 現在残っている遺跡はブラジル・パラグアイ・アルゼンチン三国にまたがるミッソンエス地方のもので、イエズス会士追放の時まで残っていた三十の教化村である。

 これ以前の教化村はグゥイラ地方に十二、ウルグアイ河左岸の現ブラジルリオ・グランデ・ド・スール州に十八、現パラグアイと南マット・グロッソ州にまたがるイタチン地方の六つの教化村があった。

 このほとんどがサンパウロ出身のインディオ狩りバンデイランテスの攻撃で壊滅している。五十年間に三十万人を越す、グァラニー族インディオが捕らえられ、奴隷としてサンパウロへ送られた。

 イエズス会の創立者で初代の総長でもあったロヨラは一五五六年に没するが、法王に修道会が認可されてからそれまでのわずか十六年の間に、たった十人であった修道士は千人近くに増え、その活動範囲は、東は極東の日本まで、西は新大陸のブラジルにまで及んでいた。    (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折C
人狩りにも手をつける 奴隷不足をインジオで数合わせ

 十六世紀後半、ポルトガルからブラジルへ移住して、最初にサトウキビのプランテーションと砂糖工場を成功させたのはユダヤ系移民とその子孫だった。一五七〇年に六十か所しかなかった砂糖農園は一六一〇年には二百三十か所へと増大している

 十六世紀後半には早くも黒人奴隷の導入が始まっているが、まだまだ労働力が不足した。

 このサトウキビのプランテーションと砂糖工場の労働力確保のためインジオ狩りを主体とし、教化村を度々襲ったのが『バンデイランテス』だ。

 バンデイランテスは当初は、金、銀、宝石など金目のもを探すために奥地へ探検を始めたが、次第にインジオ狩りを主目的にして奴隷売買を始めた。彼らはそれぞれ自分の隊長家紋の旗を掲げて進行したため、この名前で呼ばれるようになったといわれている。

 バンデイランテスは指揮官にポルトガル人、下士官に混血のマメルコ(白人とインジオの混血)、その下にグァラニー族と敵対するツピー系インジオという構成で百人から二百人の隊を組んだ。

 バンデイランテスの活動は十六世紀の末から十七世紀の終わりにかけての一世紀にわたっている。

 ここで日本人が疑問に思うのはなんで『奴隷か』、ということだ。労働=奴隷という式が、理解できない。

 ヨーロッパは古くから奴隷制度があり、イベリヤ半島だけでは、紀元前から千五百年も奴隷制が一度も中断されることなく続いていた。そのため、イベリヤ半島のカトリック信者には、奴隷制のない社会というのが理解できなかったというのだ。そのため、インジオの教化に熱心なイエズス会士たちでさえ、黒人奴隷を使ったのだ。

 当時のブラジル移住者たちは、日系移民のように朝から晩まで農場に出て働くなど夢にも思わなかっただろう、彼らは体を動かさず、口だけ動かしていたのだ。

 一五八〇年からハプスブルグ家がポルトガル王を兼ねるようになると、アフリカからの黒人奴隷は値段の高いスペイン王植民地の方に流れてしまい、ブラジル側では黒人奴隷が不足して、インジオ奴隷の需要が再び増大した。黒人奴隷と安いインジオでは四倍の差があったという。

 十七世紀に次々に教化村が作られていくのと時期を同じくしてバンデイランテスの活動も活発化してくる。

 バンデイランテスたちは最初のうちは教化村を襲うことはなかったが、一六二〇年代になって、オランダ、イギリスの海上勢力がポルトガル、スペインのアフリカからの奴隷船も片端から捕獲するようになると、奴隷不足はますます深刻化し、ブラジル総督は奴隷用のインジオ捕獲を公認し、サンパウロ住民集団バンデイランテスによるミッション攻撃が一躍、激化してくることになる。
       (つづく)
イエズス会 南米における栄光と挫折D
無抵抗のイエズス会 暴虐の限り尽すバンデイランテス

 中でもすごいのは一六二九年の悪名高いアントニオ・ラポーゾ・タバーレスを隊長とするグループ九百人が、地元のツピー族のインジオ二千二百人を率いて、グアイーラ地区十一のミッションと七か所のインジオ部落を襲い、一万八千人のグヮラニー族インジオを捕らえてサンパウロへ運んだと伝えられている。

 バンデイランテスは、ミッション襲撃に際し虐殺を重ねただけでなく、その捕虜をサンパウロに連行するに当たっても、多くのインジオを殺戮している。リーダー格と見られるインジオや老人・子供は、もとより幼児を連れた母親は、路傍に遺棄を命ぜられた。

 バンデイランテスが教化村を襲ったのは、そこにインジオが多数集っており、グアラニー族は素質がよいうえに、イエズス会士に教育されているため、奴隷として、他のインジオより高価で取引きできること。そして何よりもイエズス会士が無抵抗主義に徹していたため、バンデイランテスたちは安心して傍若無人な振る舞いができたからだ。

 バンデイランテスによって、グアイーラ地区、タペー地区を合わせたミッションで捕われ奴隷となったインジオの総数は不明だが、一説に二十万人ともいわれる。

 度重なるバンデイランテスの襲撃にたまりかねた神父たちはローマ法王へ度々直訴したが、ローマ法王パウロ三世がインジオに関しての小勅令を出しても効果ははかばかしくなかった。

 暴力に対して無抵抗を守ってきたイエズス会士も、バンデイランテスの再々の暴挙に、最後にはインジオ側の武装案を容れ、初めて応戦することを認めた。

 こうして武装したインディオ軍の応戦で、一六四一年のムボロレーの戦いは壮快だ。

 前回、思わぬ抵抗に遭って不覚を取ったバンデイランテス側からの復讐戦であった。六百人のバンデイランテスが七百隻のカヌーに分乗したツピー族四千人の軍を率いて、ウルグアイ河沿いに下降進撃してきたものを、ほぼ同数のイエズス会側インジオ軍が迎えうち、相手を粉砕した。

 一六四九年、パラグアイのアスンシオンに駐留するスペイン軍はミッソンエス地方の三十の教化村を承認し、宣教師以外のヨーロッパ人、混血人の立ち入りを禁止する。

 これはバンデイランテスに対する一種の宣戦布告で「今後バンデイランテスが混血のマメルコを率いて教化村を襲ってきたら、スペイン軍が相手をする」という意思表示だった。これ以降、バンデイランテスが教化村を襲うことはなくなった。

 それから十七世紀の終りまで百年に渡って教化村は外敵にさらされることなく独自の文化を作り上げていく。 (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折E
遺跡も今は観光村に 日本の援助で修復工事が進行

 記者が訪れたのはパラグアイ国東南部にあるイタプア県の首都エンカルナシオンの町から五十キロのトリニダード遺跡、アルゼンチン国に入ってポサダスのサント・アナとサン・イナシオ、ブラジル側に渡ってリオ・グランデ・ド・スール州サン・ミゲール・ダス・ミッソンエスの四か所だった。

 パラグアイのトリニダード遺跡は日本でもっとも知られるミッションで、これは日本企業の支援で遺跡修復工事が行われたからだ。

 トリニダードは保存状態もよく、木をあまり使わずに教化村が作られたため、昔の形をとどめている。教会の柱には十二聖人が祭られ、グァラニー族の幸運のお守りとされる四つの花びらのマークがあちこちに装飾されており、床には千度以上の高温で焼かれたタイルが使用されている。教会や他の建物の屋根には瓦を使用、セメントのかわりに自分たちで考えた骨や卵の殻を混ぜて補強したものを使って石を積み上げていた。

 アルゼンチン側のサン・イナシオ遺跡は最盛期には十八から二十ヘクタールの広さがあったという。一八一七年に終焉を迎えてから百三十年以上放置されており、密林に覆われた遺跡をアルゼンチン国が修復開始したのは一九四〇年代になってからのこと。フィゲイラの木が遺跡のあちこちに入り込んで大きくなり、石垣を壊し始めている。

 また教化村が元になって町ができたため、後から入った住民たちに破戒されてしまった。ガイドの説明では自分の家を作るために、遺跡の石をせっせと運んで建てたというのだ。そのため、めぼしいものはなにも残っていない。あちこちに石が放置されていた。

 最も研究が進んでいるのはブラジル側のサン・ミゲール・アルカンジョの教化村で、ここは観光地化しており、遺跡も修復保存状態がいい。夜は『音と光のショー』と題して、教化村のグァラニー族ストリーを紹介し、大勢の学生や観光客で賑わっている。

 記者が見学した日には近隣から貸切バスで小学生たちが見学に来ていた。その生徒たちを見渡すとリオ・グランデ・ド・スール州に多い北欧系の金髪白人に混じってインディオ系の子供たちも案外いた。彼らがひょっとするとグァラニーの子孫か。

 サン・ミゲール・アルカンジョには南米に唯一残ったイエズス会の十字架や繁栄を偲ばせる教会跡など見ごたえ充分。ビデオでの説明なども用意され、博物館があり、当時の彫刻やキリスト像など一流の芸術品が集められて展示されている。始めて見るものには説明書も行き届いて理解しやすい。
       (つづく)



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