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イエズス会 南米における栄光と挫折 (後編)サンパウロ新聞大木まゆみ記者連載記事
今回サンパウロ新聞の木本まゆみ記者が直接訪問されたのは、パラグアイ側のトリニダード、アルゼンチンのサンターナ、サン・イナシオそれにブラジル側のサン・ミゲールの四箇所とか。私はブラジル側のサン・ミゲールの廃墟は大豆生産地帯の中心地でもあり毎年大豆の作付け状況をCHKするためにフィールドサーヴェイで通ったのを思い出します。又大阪の妹が来てくれた時にこの大木さん達の逆のコースを辿りブラジル、アルゼンチン、パラグアイの教化部落跡の廃墟を見ながらパラグアイ、アルゼンチン側の同船者を訪ねながらイグアス迄車で旅をしたことがある。何れの廃墟も現在ではユネスコの世界遺産に登録されておりますが、ブラジル側のサン・ミゲールは、アルゼンチン側の遺跡と同時期にアルゼンチンの一部として一括登録されておりブラジル側の世界遺産登録項目に入っておらず不思議に思い調べたことがある。
写真は木本さんが撮られた悠久の時を告げていたサン・ミゲールにある大鐘堂の写真をお借りしました。


イエズス会 南米における栄光と挫折F
効奏したカシッキ酋長懐柔策 道遠かったインジオへ宗教心萌芽

 教化村の発展でインジオと生活習慣がまったく違うのにどうやってキリスト教へ改宗させたのか、という興味が湧く。

 イエズス会士はまずグァラニー族のカシッキという制度を取り込んだ。

 カシッキは酋長のような上下関係で、まずトップのものをキリスト教へ改宗させようとしたのだ。この制度をうまく利用したため、スムーズに改宗が運んだといわれているが、もちろんキリスト教を受け入れず、殺された神父も初期にはたくさんいた。

 サン・ミゲール・アルカンジョのサント・マリオ・デ・カアロ教会にはインディオに殺害されたスペイン人のアフォンソ・ロドリーゲス、ジョン・デカスチーリョとパラグアイ人ロッケ・ゴンザガの三人のイエズス会士が祭られている。

 この教会はもともと日本の長崎で殺された二十六聖人のうちの三人を祭るために作られた教会だったそうだ。同教会の神父が当日私たちのために「旅行が無事に終わること」を祈って特別ミサをあげてくれた。

 ブラジル側の平原やアマゾン低地のインジオはマヤ、アステカ、インカのように絶対権力を持つ王と祭事をとりしきる神官、王に忠誠を捧げる兵士のような国家を作るまでには発展していなかった。

 熱帯低地のインジオは狩猟、採取の生活から脱することができず、進化の過程を辿ることなく小部落の集団に終始した。

 グァラニー族は狩猟、採取民族から一歩進んでトウモロコシやマンジョカなどの栽培を焼畑農業で行っていた。グァラニーは他のインジオより進んでいたために神父の指導で教化村の繁栄を作ることができたのだ。

 イエズス会士たちはグァラニー族を教化するのに苦心惨憺している。なにしろ文化国家から来た神父の常識とグァラニー族の常識はまったく違うのだ。

 神父らが苦心した最初の問題はグァラニーにパンツをはかせることだったという。インジオ側から考えるとえらい迷惑なことと映っただろう。でも一番やっかいだったのは一夫多妻制のグァラニーに一夫一妻制を教えることだった。文化人からインジオまで男という種はまったくやっかいにできているのだ。

 当時、グァラニー族らは鉄製の道具を使用していなかった。そのため神父たちは酋長と仲良くなるために鉄製の斧や山刀、釣り針などをプレゼントして、親密な関係を結んだ。それでも神父がちょっと留守にすると村人全員が逃げ出していたなどということが頻繁に起こったのだ。

 グァラニーは普通百人ほどの小集団を作って暮らしていたが、一つの場所に定住することはなく、転々と場所を変えていたのだ。しかしそれでは少数の神父で巡回して回るのはとても不可能だったため何千というグァラニーが一か所に集められた教化村が出現したのだ。

 イエズス会士たちはキリストの教理を教えるため最初は木で人形を作ったり、ジェスチャーで説明していたが、インジオの言葉を覚えた移住者や神父が現れ始めた。ブラジルでは、イエズス会士によって後にリングァ・ジェラルというツピー語を元にした共通語が作られていた。

 これは十七世紀の間にほとんどのブラジル移住者が使用する言葉となっていたが、十八世紀に金が発見されてゴールドラッシュがおき、新しいポルトガル移住者が入ってくるとポルトガル人と言葉が通じなくなっていた。ポンバル侯爵は、大変怒り、それが追放の一因だったともいわれている。
     (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折G
インジオ最初の文明村 バシリカ形式の教会や病院も

 教化村はどのような作りになっていたのだろう。ミッソンエス地方の教化村はどこも同じような企画や配置で作られている。十七世紀終わりまでの教化村は教会や住居は木造、泥壁、サッペ椰子葺きの粗末な建物だったが、バンデイランテスが襲って来なくなった十八世紀になってからは、より計画的に造られ、本格的な石造りの教会建設が始まった。これらは中世ヨーロッパの修道院を模倣したものだった。

 教化村を建設する場所は農畜産業と健康に適する地帯を物色し、水捌けを考慮して丘の上の傾斜地が選ばれている。また相互の教化村の連絡網を重視し、道路の敷設、架橋、渡し舟が整備されていた。

 各教化村では製作者が工夫を凝らし、技術を駆使してレンガと石造りで教会建設を行った。

 サン・ミゲール・アルカンジョを例にとってみよう。

 この教化村は十八世紀半ばで、人口が約六千五百人だったと見られている。

 一六三二年パブロ・ベネビデスおよびクリストヴァン・デ・メンドンサ神父らによって教化村が作られるが、バンデイランテスの攻撃でわずか八年で崩壊。一六八七年に再び設立され急速に発展した。

 サン・ミゲール・アルカンジョの教会はミラノの著名な建築家で後にイエズス会士になったジョアン・バチスタ・プリモリ神父が担当したもので、百三十メートル角の広場をもち、その正面に幅二十六メートル、奥行き七十五メートルもあるバシリカ形式の荘厳な教会が建設されている。

 建設に使われている石は比較的柔らかい砂岩で、何キロも離れた河から牛車で運ばれたという。

 教会に施された彫刻は細かくデリケートで、壁の茶色が印象的だ。教会横には鐘が下がっていた塔が残っている。

 この鐘は「二トンの重さがあり、ラテンアメリカで最初に製造された」とガイドが説明していたが、現在は博物館に保存されている。これらの建設に十年以上が費やされた。屋根の落ちてしまった壁だけの姿をさらす教会はどっしりと威圧さえ漂わせていた。この教会はブラジル側七つの教化村の中で一番見事な教会だといわれている。

 教会の左手にコレジオ、各種作業の指導所が続き、右手には墓地、墓地からわずかな距離をおいて、養老院・孤児院があった。

 広場を囲む三方はインディオの住居区で、住宅もすべてレンガ仕上げと屋根瓦で葺かれていた。

 住宅はアパート方式で、一部屋の広さは五×五か六×六(メートル)の正方形、一棟に二〜四家族が入るブロックが二百棟もあった。

 トイレ(便所)についてはさまざまな諸論があり、初歩的な水洗式だったか否かは定かではないが、河から水を引いて水利用していたといわれる。

 イエズス会が作り上げた教化村の繁栄は移住者たちの「ねたみ」をかい、追放された後「イエズス会の財宝」が隠されているというデマによって、地下の下水溝まで乱掘されてしまったため調査は難航している。

 それでも当時これだけ全体の環境が整備されていたところは、南米にはなかった。

 この教化村には病室も完備しており、教会の裏手の菜園で、果樹、有用植物など、多種の薬草が育成し、調剤されていた。

 教化村の居住区は高い石塀に囲まれていて、一般のインディオは自由に出入りできないようになっていた。
       (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折H
経済支えたマテ茶と牧畜 進んだ産業を積極導入の教化村
 見事な教会を作るには経済的に豊かでなければできない。教化村はどうやって経済活動を行っていたのか。
 教化村の経済を支えた主な産物はマテ茶と牧畜だった。特にマテ茶はこの地方にしかできな特産物だった。
 マテ茶は古来グァラニー族が愛用していたもので、マテ茶を乾燥し、粉にしてそれをひょうたんに入れ、お湯を注ぎポンビンニャという吸引具を入れてまわし飲みする。熱湯を入れたものをシマロン、水の場合をテレレと呼んでいる。
 ところがマテ茶の調整をしない生葉には毒がある。スペイン側の移住者たちもインジオを使ってマテ茶の製造を早くから始めていたが、製造方法はパジェーが握っていた。マテ茶の調整は工程が複雑かつ微妙。永年の伝統と技術を持つグァラニーが製造するマテ茶のような一級品は作れなかったといわれている。(パジェーは部族の呪術師で医者の役も務めていた)。
 アルゼンチンの教化村サン・イグナシオ・ミニで見たマテ茶の木は十メートル以上の高さになっていた。生の葉っぱを噛んで味見をしていた人がいたが、吐き気、悪寒、ふるえが来るそうだ。記者も好奇心で味見をしたかったのだが、止めてよかった。知らぬが仏だ。マテ茶は当時から南米南部のブエノスアイレス、サンタフェ、チリ、ペルーなどに取り引きされ、教化村の製品は最高級品との評価を受けていた。
 何しろスペイン領土ではブラジルのように奴隷を労働力として開発を奨励するポルトガル側と違い、エンコメンデーロというシステムで、住民から厳しい徴収を地方ごとに義務付け、スペインの収穫畑として南米を監督していたため、教化村も徴税されていたことから現金収入が必要だった。
 そのため、収入源としてマテ茶のほかにもトウモロコシ、マンジオカ、タバコ、ワタ、小麦、サトウキビなどを多量に生産していた。
 ミッソンエス地方に牛を導入したのはイエズス会だった。サン・ミゲール所有の牛は三十万頭近かったと言われ、牛皮の生産量は大変なもので、多岐に亘る加工品を受注していた。
 サン・ミゲールでは皮革加工、瓦・レンガ製造、板金加工、鍛冶、大工、製靴、紡績、縫栽、金属加工、塗装、彫刻、印刷から砂糖製造まで、多岐にわたる産業があったのだ。その指導には、ヨーロッパから技術者を招くこともあったという。
 教化村内の運営にはイエズス会士があたっていたが、何千という教化村に普通二人、多くても三人しかいなかった。彼らは「カビルド」という一種の自治機関を作って運営に当たった。
 これは昔、交通や通信が発達していない時代にスペインの地方都市で行われていた制度で、徴税吏を兼ねた代官コレヒドーレを派遣し、この代官に統治機関をつくらせたもの。
 教化村ではイエズス会士とカシッキがインジオの中から選出していた。選出されたカビルドは行政や立法、司法を統括、軍事面もインジオに任されていた。
 民主的な運営の中で、収益は、村全体の共有の財産とされ、一種の原始共産主義システムで、貨幣流通はなかった。
       (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折I
百芸に通じた神父 教化村の繁栄を支えた通力

 ここまでイエズス会士たちのことを説明してつくづく思うことは彼らのマルチ能力だ。

 教化村にわずか二人で神父のみならず、医者、薬剤師、教育者、心理学者などを兼ね、しかも農業や牧畜を指導し、教会建設の建築者や鍛冶屋となり、彫刻や絵までこなしてしまう。超人的としかいいようがない。

 それだけでもすごいのに、サン・ミゲール・アルカンジョの隣のサン・ジョアン・バチスタのオーストリア人アントニオ・セップ・フォン・レイネェグ神父は音楽にも通じていた。

 インジオとともに、限られた材料と道具を使ってオルガン、クラビコルジオ(ピアノの一種)、サルテリオ(十三弦琴の一種)、ファゴット(大立笛)、フルート、チオバ(ギターの一種)、コーネット(ラッパ)などの楽器を製造したのだ。

 そしてインジオにそれぞれの楽器の演奏方法を指導して楽団を組織し、教会音楽を管弦楽で演奏したといわれる。これは新大陸では最初のことだそうだ。

 またこのセップ神父は南米南部としては最初の小型溶鉱炉を設置し、鉄の鋳造加工を行って教会の鐘を鋳造した。

 セッペ神父はサン・ジョアン・バチスタの近くに多い鉄鉱石を原料として、鉄を作り、その鉄を溶かし、鋳鉄をつくって鐘をつくり出したのだ。

 教化村での労働は、七歳以上のインジオは男も女も日に六時間と決められ、ミッション内で製造された時計が教会の鐘に連結されていて、遠方の作業場まで時刻を告げた。

 学校では、子供たちの学習、大人向けにカトリック教理、宗教儀礼の授業が行われていたという。

 しかしこれまでにするには大変な苦心があったろう。もともとブラジルなどではインジオは労働意欲がない怠け者ということになっている。インディオには文明人のような物質に対する欲望がないから働かないのである。

 イエズス会士はあの手この手でインジオが効率よく働き生産性を高める手段を試みた。そして『ツパンバエ』という方法を考え付く。これはツパン(神)ンバエ(所有)で、神のために働くというものだった。土地は神のものであり、神が労働と生産を欲し給うから働かなければならない、ということで『ツパンバエー共同作業』と『アマンバエー』と呼ばれる家族単位の作業を組み合わせた方法で、生産が飛躍的に上昇したのだった。

 イエズス会を創立したロヨラの奉仕の精神と情熱は大変なもので、意志を受け継いだイエズス会士たちがインジオたちを指導して南米に築き上げた「ミッション」(教化村)はまさに情熱と努力の賜物として出来上がった「地上のユートピア」だったのだ。
       (つづく)

イエズス会 南米における栄光と挫折 終
大国の領土争いで全て無に 今も生きている今も生きている イエズス会伝授の技術

 教化村が崩壊したのは早かった。ことの起こりは、一七五〇年ポルトガルとスペインが締結したマドリード条約だ。

 両国は一四九四年にトルデシーリャス条約を結んでいたが、実情に合わなくなったため、新たに国の境界線を決めたのだ。

 そのときポルトガルはラ・プラタ地方から手を引く代わりにウルグアイ河以東の土地をスペインから譲り受けた。

 ウルグアイ河左岸にあった七つの教化村は驚愕した。残忍非道だったバンデイランテスの襲撃や、戦いは鮮明に記憶されていたからだ。ポルトガルの領土に留まるなど論外で唯一の方法はすべての村を放棄してウルグアイ河の右岸へ移り、新たに教化村を建設することだったのだ。現地のイエズス会士はこの決定に強く反対し、スペイン王に条約を見直すよう要請した。

 しかしスペイン国王はイエズス会総長に圧力をかけ、アルタミラノ枢機卿をアスンシオンに派遣して、条約の履行を促した。

 マドリッド条約の取り決めに従い、国境線の測量と標識設定のためにリオデジャネイロの知事ボルデラ伯爵が現地を訪問するが、教化村のグァラニー族は実力で測量隊を追い返し、遂に蜂起して、武力で阻止する決意をしたのだった。

 これに対してスペイン、ポルトガル両王は討伐軍を出したが、一七五三、五四年にはミッション軍の猛烈な抵抗に遭い占拠できなかった。一七五六年になってスペイン、ポルトガル連合軍三千七百人が十九門の大砲を装備して、カイボアテーに於いてミッション軍千七百人と対戦した。

 なにしろ戦力の差があり過ぎた。グァラニー軍は対バンデイランテス戦争時代に用いた竹筒大砲二門と後は槍と山刀に馬五十頭という戦力だった。この結果、ミッション軍は千五百人以上の死者を出して惨敗を喫した。これが有名な「グァラニー戦争」だ。

 連合軍によって占領されたセッチ・ポーボは、ポルトガル王の支配下となった。そして、最初に書いたとおり、ポルトガルの独裁者ポンバル侯爵は一七五九年、財産を没収してイエズス会士を全ポルトガル領から追放してしまった。それでは気が治まらなかったのかスペイン王朝にも働きかけて一七六七年にはスペイン領からも追放させ、ミッソンエス地方にあった約三十の教化村は終焉を迎えた。

 イエズス会とインジオ・グァラニーが共存して創造した世界でまれに見る「地上の天国」教化村はスペインとポルトガル両国の領土争いに振り回され、わずか百五十年で廃墟となってしまった。

 遂に一七七三年、ポンバル侯はクレメンス十四世法王を動かしてイエズス会を消滅させる。しかし一八一四年、法王庁は非を認めてイエズス会を再建させることになる。

 一説にはブラジル側の移住者は二百年経っても人口三十万人となかなか移住者が増えず、開拓されなかったが、十八世紀、金が発見されてゴールドラッシュが来ると一挙に四百万人に膨れ上がり、イエズス会が必要でなくなったためといわれる。

 誰でも思うのはこれだけイエズス会士に指導された産業や技術はいったいどうなってしまったのだろうか、ということだ。

 一八一六年、このミッション地帯を旅行したフランス人、ジャン・バチスタ・デブレーは、『ミッションは崩壊していたが、ミッションにいたというインディオが、近隣のとある場所で石鹸製造で有名になっていたことや、別の場所では見事なブドー酒を製造していている』ことを記している。

 イエズス会士が持ち込んだ女性に授けたレース編みなどは、今もパラグアイ・インディオの一部に受け継がれているという。残念ながらブラジル側ではこういうものは残らなかったが、イエズス会が導入した北米種のブドウは、イザベル種として現在のリオ・グランデ・ド・スールでは最も栽培が多い種類となっているそうだ。

 あとがき
 記者はこの遺跡を巡って平家物語の一説、『祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらわす。 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ』が、浮かんできてしようがなかった。 

 当時、これほど企画、整然と作られた町はないと言われた「ユートピア」は一瞬のうちに崩壊して、荘厳といわれた教会は哀れな姿を曝している。

 歴史学者でもなんでもない記者が、この「ミッション(教化村)」の記事を書こうと思ったのは、ブラジルにそしてパラグアイ、アルゼンチンにこのようなすばらしいユネスコ遺産が存在することを知ってもらいたかったからだ。

 私たちは日常でもイエズス会の恩恵を受けている。サンパウロ、ペルナンブッコ、マラニョン、バイア、パラー各地方や、マナウスなど現在の主な都市は彼らが教化村を建設したことから発展してきた町だ。

 しかし後悔した。これは荷が重すぎた。日々の編集と片手間にできる代物ではない。書き残したことがいっぱいある。興味のある人はサイトで検索するといろいろな本が出版されているし、聖市のコレジオ・パッチオには資料がたくさん残っている。記者は、大先輩の故中隅哲郎氏と故田尻哲也氏の遺稿を参考にさせていただき、なんとか終章にこぎつけた。大先輩たちに敬意を表し、心から感謝したい。(木本まゆみ記者=おわり)



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