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真砂 睦の「おいやんのブラジル便り」最終回(その90とそれ以前)
JICAの専門ヴォランタリーとしてサンパウロに3年近く勤務中に忙しい仕事の合間に郷里の和歌山県田辺市にある地元紙黒潮タイムスに掲載しておられた「おいやんのブラジル便り」の第90回(最終回)が届きました。何時も原稿を書くのにネタ不足で四苦八苦しているといいながら90回も良く書き続けたものと感心する。一つの話題を必ず1ページに纏め挙げる推敲に推敲を重ねた文は多くの人を引きつけた。字が小さい、行間が詰まっているとのコメントも有り皆さんに送る時には字を多きくし適当な所で行を明けて送ったりした。「おいやんのブラジル便り」を楽しみにしておられた方にはこれが最終回となります。彼のブラジル人気質に付いての総まとめ、どうして『ブラキチ』が生まれるのかの考察は長くブラジルに住んでいる我々がなるほどと納得する説得力がある。真砂さん長い間有り難う御座いました。『この国に再び帰って来るという希望を捨てない。また会おうぜ、ブラジル!』お待ちしています。
写真は真砂さんご夫妻の帰国歓迎会の際に撮られた早稲田の海外移住研究会のメンバーの皆さんとの記念写真です。


「おいやんのブラジル便り」(最終回) 2006年12月25日

これまで90回にわたりお便りしてきたが、振り返ってみると果たしてどこまでブラジルの魅力をお伝えできたか心許なくなる。変化に富んだ大自然の迫力は文句なしだが、そのうえ人間がおもしろいので、ブラジル人の「矛盾に満ちた魅力」をお伝えできないと、この国の良いところをわかって頂けないからだ。そのブラジル人がなかなかつかみにくい。行政は非能率極まりないのに、ゴールを狙う時のあの連携プレーのスピードと正確さ。半世紀も前から類をみない労働者保護法を創りあげていながら、その法律で労働者が守られたためしがない。公金を狙う時の一族の結束は盤石なのに、遺産相続では互いに死闘を演じる。食うや食わずの貧しい人々が多いのに、同年配の日本人に比べてはるかに人生に疲れていない。政治家のモラルを非難しながら、派手に公金を横領した張本人に票を投じる。サンバの熱狂とボサノバの静けさを見事に演じ分ける。肌の色の違いに無頓着に見えるのに、肌の色や人種を識別する単語が30ほどもある。おしゃべりが好きで土壇場までわいわい騒いでいるのだが、本番にはなんとなく間に合わせてしまう。約束の時間に30分も遅れて平然としているのに、車に乗ると恐ろしく気が短くなり赤信号でも猛スピードでぶっ飛ばす。ブラジル人は一筋縄でいかない。ところがこの国を訪れる外国人は、日を重ねるうちになんとも得体の知れないこの国の魅力に抵抗できず、熱病のように「ブラジル病」にとりつかれてしまう。別名ブラジルきちがい、略して「ブラキチ」と呼ばれる。「シンパチコ」というポルトガル語がある。感じがいい・親しみがもてる・愛嬌がある・気持ちが通じるといった意味だ。ブラジル人はシンパチコである。はなはだいいかげんなのにどこか憎めない。外国人はこのシンパチコなブラジル人にコロリとまいる。おしゃべりであてにならない。言い訳と責任のがれがうまい。少々のことでめげないしひるまない。規則に捕らわれず裏で物事を解決しようとする。日本紳士はめんくらうことが多いが、人々は親しげで愛嬌があり、心暖かい。よそ者は心が癒されるような気分になる。やがて百年の知己であったように互いに肩を抱き合うはめになってしまうのである。手ひどいしっぺ返しをくらった時でさえ、心から相手を憎めず、なんとなく許してしまう。ブラジル人が発散する開放的な雰囲気に、人は誰でも「俺はこの国でならなんとかやっていける」と幸せな感情に浸ってしまうのだ。この国の治安の悪さは危機的な状態であるのに、ブラジル人に接していると「こんな気の良い連中だ。自分に危害はふりかからないさ」とさえ感じてしまう。なんとも不思議な人々である。やはりブラジル人は「神様が念入りにお創りになった傑作」なのであろう。こうしたブラジル人の奇妙な魅力に幻惑された時、人はもうかなり深刻な「ブラジル病」にとりつかれてしまっている。そしてこのブラジル病の症状、「ブラジルへの耐え難い懐かしさ」は、彼の地を離れて時間が経っても、時としてそっと忍び寄って来る。矛盾と不条理に満ちた社会ではあっても、ブラジル人は希望を捨てない。「ブラキチおいやん」はブラジルを離れる時がやってきた。しかしおいやんも、おおらかで陽気で心暖かいこの国に再び帰って来るという希望を捨てない。また会おうぜ、ブラジル!(終)

(その89)           2006年11月18日
ブラジルのマスメデイアはテレビが主役である。90%を超す世帯がテレビを持っており、日本のような全国紙というものがないこともあって、活字メデイアを押さえてテレビが圧倒的な影響力をもっている。なかでも全国ネットを張るTVグロボは、司法・立法・行政の3権に次ぐ「第4の権力」といわれる程の力を持っている。せんだって、この国へのデジタル映像システムの売込を巡って日米欧が死闘を演じたが、最終的に日本方式の採用を決めたのもグロボの政治力であったといわれる。
 そのグロボの売りは、全国版ニュース番組とテレビドラマである。なかんずく連続ドラマが凄い。夕方6時、7時台それに夜9時台に3本のドラマが放映されるが、いずれも広告を挟んで1時間、毎週月曜から土曜までぶっ続けで、しかも物語は半年間にわたって延々と続く。NHKの大河ドラマを3本、しかも毎日連続放映しているようなものである。そのうえ年に数回、夜11時から1時間のミニ連続ドラマが入る。ミニといっても週4日間、2〜3ヶ月間続くので半端ではない。こうした夥しい映像を世に出す為に、グロボは本拠地リオデジャネイロに「南米のハリウッド」といわれる撮影スタジオ群を持って、休みなくドラマの制作に励んでいる。
 ブラジルの俳優は演技がうまい。もともと表現が豊かな国民であるうえに、役者は演じる対象への感情移入が凄い。これだけドラマの放映があると、俳優の数は多いのに、人気俳優は出演の機会が多い。先のドラマで敬虔な神父を好演し喝采をあびた役者が、次は汚れきった悪徳弁護士になりきり視聴者から激しい憎しみをかう、といったことがよく起こる。同じ役者が次のドラマでがらりと違った人物をみごとに演じわける、その変わり身の鮮やかさ。役柄が固定されがちな日本の役者を見慣れた身には、大きな驚きである。だから同じ役者が繰り返し登場しても、役者の個性にドラマが引っ張られることもないし、見る方もあきない。
 一方で、この国でもテレビドラマは娯楽の提供には変りないが、その実、内容は相当な社会性を持っている。人間の欲や愛憎を表にしながらも、その裏には歴史的事実の掘り起し、社会的な矛盾の暴露や批判などが隠されている物語が多い。奴隷時代の社会生活、東北伯乾燥地帯の極貧住民の人生、イタリア移民社会、労働運動の芽生え、軍政時代の人権抑圧、土地の不法占拠、人種差別、カーニバルを裏で牛耳る違法賭博の胴元の実態、警察の腐敗と犯罪組織との癒着、政治家の汚職、金満家のしたい放題の生活、麻薬密輸にからむ犯罪、米国への密入国、ファッション業界の内幕、ユダヤ人やアラブ系移民社会の内側等々実に多彩な社会的事象を絡めて物語が展開される。過去や現在の社会的事実を背景に芸達者な役者が演じるので、ドラマは恐ろしくリアルで、ブラジルの多様性がそのまま反映された映像となり、興味がつきない。
 物語を創る脚本家も多士済々、高視聴率獲得競争にしのぎを削っている。視聴率が低いと次の仕事が来なくなるので、脚本家は視聴者に弱い。悲しい結末ではこの国の視聴者が承知せず、放映局と脚本家に抗議が殺到する。ためにドラマはハッピーエンドで締めくくられるのが常である。主役がどんなに虐められても最後は救われるので、視聴者は安心して見ていられる。ドラマの人気が衰えない所以であろうか。

その88)            2006年11月4日
ブラジル東北部に広大な乾燥した半砂漠地帯がある。「干魃多角地帯」と呼ばれる。年間雨量が400ミリ程度と少ないのでサボテンなどの有棘灌木以外は育たない。夏のわずかな雨に芽をふく緑を頼りに、住民は山羊や育ちの悪い牛の放牧でその日暮しをしている。ブラジルの極貧地帯だ。そのうえ十数年おきに大きな干魃(セッカ)にみまわれる。セッカがやって来ると、餓死から逃れるために人々は土地を捨て、わずかな家財道具をかかえて、難民となって大都市へ流れ込む。サンパウロやリオに流れ着いた難民は、生計の糧を稼ぐ手だても住むべき家もないので、違法貧民窟(ファベーラ)に入り込む。幾世紀にもわたって「干魃多角地帯」は膨大な数の難民の発生源となってきた。その乾燥地帯の真ん中に近年、近代的な熱帯果樹栽培農場が増えている。干魃地帯をぬってサンフランシスコという大河が流れている。大河の中流にソブラジーニョという人造湖がある。1978年に築造され、貯水量34兆トンは世界最大。湛水面積が琵琶湖の6倍ある。この人造湖と大河から引っ張り出した水を使って、干魃地帯の一画が南米の熱帯果樹栽培のメッカとなった。一帯は「第2のカリフォルニア」と呼ばれている。ブドウ・メロン・マンゴウ・パパイア・アセローラなど、甘味たっぷりの熱帯果物が一年を通して栽培され、ヨーロッパや米国に空輸される。昨年初めて日本が輸入したマンゴウもこの地域で栽培されたものだ。もともとサンフランシスコ河流域開発計画は米国のテネシー河流域開発に触発され、1960年代から政府が企画・推進していたものだが、熱帯果樹の栽培という成果が現実となったのは1980年代も後半であった。巨大な人造湖は作ったが、土壌の塩性化という難問の克服にてこずったからである。乾燥地帯では灌漑によって安定的に水の供給を行っても、数年すると地表に近い土壌に塩分が集積して植物が育たなくなる。乾燥が続くと地表から水分の蒸発が激しくなり、灌漑で導入した水が濃縮されて、地表近くの塩分濃度が急速に高くなるからである。干上がった水溜りのあとなどは塩分で真っ白になる。塩害にみまわれた農民は土地を捨て、新たな更地を求めて移動を繰りかえさざるを得ない。灌漑水路の施設が乾燥地帯の農業育成に結びついていなかったのである。この土壌の塩害問題を解決したのは「農業の魔術師」、日系人。地表近くの水分が蒸発し、塩分濃度が上がるのを避けるには、地表近くに灌漑後の水分を貯めないで排水する必要がある。「灌漑」に「排水」を組合わせることで地表近くの余分な水分を取り除き、水分蒸発に伴う塩分濃度の上昇を避けるという仕組みが決定的に重要であることを、日系人が見抜いたのである。日系入植者達は先行投資もいとわず、それぞれの耕地の地中に排水溝を這わせていった。排水溝の地表からの深さは、水を通しにくい粘土質層に応じて決めた。試みはみごとに成功した。乾燥地帯でも適切な排水を行えば塩害を避けられる!!「干魃多角地帯」の真ん中で持続可能な農業が始まった。塩害という難問を解決した日系農民の努力が、巨大事業「第2のカリフォルニア」の礎となった。サンフランシスコ流域開発公社が地中排水溝設置の指導に乗り出したのは、日系人先駆者達が熱帯果樹の栽培に成功して10年ほども経った後のことであったという。



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