HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




笠戸丸第一回移民物語 サンパウロ新聞WEB版より
ブラジル移民に付いて幾らかでも興味をお持ちの方は、笠戸丸の名前はご存知だと思います。数奇の運命を辿った笠戸丸ですが、第1回移民781名(自由渡航10名を含まない)の出向当時から到着迄の歴史には興味を抱きます。つい先日唯一の笠戸丸移民の生き残りであった中川 トミさんが亡くなりました。
2008年のブラジル日本移民100周年を迎える当たり笠戸丸は、これからも色々な形で出て来ると思いますが、今回サンパウロ新聞に記録映画を製作中のFDP記録映画製作所取材の掲題の記事がWEB版に掲載されていましたので各国の移民の歴史欄に収録して置きます。
(写真=神戸市の移民宿屋のポスター)



笠戸丸第一回移民物語
「金の生る樹」を夢見て 移民携帯金を流用した会社の罪

 「金のなる樹コーヒー」を夢見た七百九十一名(内自由渡航十名)を乗せた笠戸丸はブラジルに向けてきて汽笛と共に神戸港を出帆した。時に一九〇八年四月二十八日午後五時五十分であった。

 移民者達は三等の二段ベットの蚕棚、一等船客には先発した通訳五人男(嶺昌、平野運平、加藤順之助、仁平高、大野基尚)の二人の妻仁平綱、大野まつと水野龍社長、上塚周平代理人が乗っている。

 一昨日までは神戸の波止場通りの移民宿は移民約八百名が分宿してどこの宿屋も一杯で賑やかであったが昨日、艀で運ばれ、沖合いに停泊している笠戸丸に乗船した。その当時の神戸波止場は今みたいにきれいに整然としてなく、ごっちゃ返して殺風景であったし、海底が浅く、船を岸に付けることが出来ず、沖合いに泊まり、艀で乗り降りしていた。

 艀といえば、一九五九年六月、私はオランダ船ボイスベン号でブラジルに渡ったのであるが香港は沖合いから艀で乗船下船しており、上陸するのにとても不便であった記憶がある。この船はインド洋経由でサントスまで五十七日間かかったのであるが半貨物船であったため香港に五日間、荷物の積み下ろしで停泊した。その間、我々は香港、九龍観光と洒落込んだ。出港の日に上陸していた数名が出発時間に間に合わず、皆でやきもきしていたがドラの音がなり、一段とスクリューの音が高くなり出し、動き始めた。Sの奥さんは夫が帰らないので心配の余り「あの飲んだくれ亭主はもう帰ってこない方がいいよ」とヒステリックなっていた。船は少し移動しただけで止まった。すると走って来た小船が横付けになり、遅れた人々がバツの悪そうな顔をして船に上がって来た。Sは奥さんにこっぴどく叱られていたことを思い出す。

 波止場通りの移民宿は移民者が全員乗船したので静まり返っていたが一軒だけ明かりを煌々と灯し、芸者を揚げてどんちゃん騒ぎをしていた。これは皇国殖民会社(水野龍社長)の移民斡旋屋各県代理人が斡旋料をたんまり受取り、その金で乱痴気騒ぎをしているのだった。移民の中には出稼ぎ移民手数料、その他を二回も支払わされた者もいたし、先祖代々の田畑を売って作った金を言葉巧みに預けさせられ、持ち逃げされて渡航を断念した家族も出たほどだ。

 おまけに移民名簿も応募申込み書類すらないという移民会社のだらしない丼勘定振りは呆れ返るほどで、乗船してから自由渡航者・香山六郎は会社に書記として雇われ、移民名簿を作ることになり、移民者に旅券提出を求めたが沖縄移民者が「殖民会社の奴は今まで何度も我々を騙しているので今度は旅券を巻上げ、再度の金を要求する手段に違いない」と旅券提出を拒む者も出る始末で、ようやく説得し了解を得て名簿が出来たと香山は語っている。

 四月十六日出港と聞いていたのでその日に間に合うように移民者は次々と神戸に集まった。しかし笠戸丸は沖合いに停泊しているが乗船の知らせが来ないので移民達は宿賃が嵩むことなどがあり、騙されたのではないかと心配になり、会社職員に質すと「船は皆さんの安全且つ快い船旅が出来るように改装中である」との返事だった。実際は今までは五万円であったものを突如、外務省の方から皇国殖民会社に十万円の移民輸出許可保証金を命じた。用意した五万円では足らず、金策に奔走していたのである。しかし不足の五万円の金策が出来ず、急場凌ぎとして移民の携帯金を「道中紛失の怖れがあるので安全のために会社が預かっておき、下船時に皆に返す」と言葉巧みに皆の金を預けさせ、その金七千六百余円(内沖縄県人五千五百弐拾円)を含め八万円を外務省に納め、ようやっと出港出来たのである。この遅れて出港したことがサンパウロ州のコーヒー最盛期に間に合わず、移民達をして窮地に押し込んで行く一つの原因でもあった。

 又、この保証金は「移民保護法」にあり、移民先で不測の事故が起こった時に移民者の救助や帰国の費用とされていたが、その金が運用されたという話は今まで聞いたことがない。

 しかし会社は五十二日間の航海中にそれだけの金を調達出来ず、移民達に返済することがことが出来なかった。移民達にとっては田畑を売った金、土地を抵当に高利の借金をした掛換えのない血の出るような金で特に沖縄県民一行は預金額も多かった。この携行金問題が緒を引き、彼らの流転の道にと繋がって行くのである。(つづく)取材=FDP記録映画製作所。

 (写真=神戸市の移民宿屋のポスター)

笠戸丸第一回移民物語
金の恨みが殺人事件へ 話題には事欠かぬ52日の船中生活

 五月六日夜、下級船員の火夫(ボイラー焚)が大声で暴れ出したので移民達は警戒態勢を取る。実は水野社長がありったけの金を外務省に払ってしまい、文無しだったため下級船員にチップを払えなかったための不満と同行四分の一の移民女性をシンガポールで誘拐し、売り飛ばす女衒(ゼゲン)業者が同乗しており、その人々が「水野はブラジルで女達を売ろうといるので俺達の手で奪い返そう」と火夫達を煽ったこと、又、一等船客の仁平高通訳の妻が結婚前好きな青年がおり、夫とはしっくり行っていなかった。彼女は船の不快な揺れ、ブラジルでの生活の不安が募り、その上、恋人に瓜二つの香山六郎が傍にいるので終日泣き明かしていたのも火夫たちを煽る女衒業者の良きネタだった。

 五月七日、火夫達が夜、移民の部屋に忍び込み、女性を襲うとしたが男性達が警戒態勢を敷いたため何事も起らなかった。

 五月九日、シンガポールに入港。船側は女性軍を船倉に閉じ込め一歩も上甲板に出さなかったため平穏無事だったと「ブラジルにかける虹」で大野が述べているが、彼は同乗していなかったので又聞きであり、話を面白くするために脚色したように思われる。当時シンガポールには「からゆきさん」と呼ばれる淫売婦がかなり居たようで、上陸した香山六郎がその類の女性に道を聞き、頭を下げて礼を言ったために皆に笑われたと語っていたので有り得そうな話だが、どうもあやふやなことのようだ。しかし水野が下級船員にチップをやらなかったのが原因で遂にサントス入港直前に殺人事件で爆発する。

 何艘かの丸木舟が船に近寄ると船員が銭を海に投げる。すると現地人は素早く海に飛込み、水中に潜り、その金を速やかに掴み、浮上って銭を握った手を差し上げ皆に見せる芸当をする。移民達は面白がって次々と銭を投げる。現地人は一銭たりとも失わないで確実にキャッチする。それを見ている移民たちは「うまいものだ」と感心する。

 五月十六日、シンガポールを出た船はインド洋セイロン島の近くで赤道を越える。赤道祭にはご馳走が出て笠戸丸の甲板上では飲めや歌えやの騒ぎになり、沖縄の三線(蛇皮線)による「空手踊り」、山口の「三味線新内節」、愛媛の尺八での「鶴の巣篭り」、福島の「相馬節」等を披露した。

 当時、日本ではラッパ節が流行っていて、未だ見ぬブラジルの自然に夢を馳せ、船内でその替え歌を作り、唄われており、この日も全員で合唱した。

 一、「流れ千里のアマゾンの 岸の大樹を伐り払い 筏造りて日の丸立てて 墨田川まで流したい トコトットトット」(香山公孫樹)

 一、「チエテ河畔に秋深けて 今宵も出で来し弦月に 影と二人でただずみつ 故郷を偲べば虫の声 トコトットトット」(高桑勢人)

 一、「涼風通う珈琲蔭 昼の疲れを安らえば 遠方の笛の音ゆかしくも 月さえ出くる夕かな トコトットトット」(高桑勢人)

 六月二日、ケープタウン着。日本の巡洋艦と会う。移民たちは「帝國海軍は無敵艦隊だからすごいなあ」と感激する。上陸は許されないので、美しいテーブル・マウンテンを眺めながら移民達は退屈しのぎに釣をするより手はなかった。アジ、サバ、ボラ等が沢山釣れるが直ぐに飽きてしまう。

 出港後、大西洋に出てブラジルに向かう。

 六月十五日、いよいよサントスに近づきお別れパーテーが船全体で開かれた。特に一等サロンでの宴は夜まで続いた。その時、下で仲間と飲んでいた火夫の一人が「移民屋を殺してやる」とドスを片手にサロン目掛けて駆け込もうとした。後ろから駆け付け、それを制止しようとした横山清蔵火夫長がもつれる内、ドスで刺されてしまった。駆けつけた船医が応急手当をしたが重傷であった。

 六月十八日午後五時、船はサントス港十四号埠頭に着岸、移民達は翌日の下船の準備に大わらわであった。

 一方、重傷の火夫長は直ちにサントス市サンタカーザ病院に担ぎ込まれたが三日後に息を引き取り、パケタ墓地に埋葬された。結局、彼は水野龍の犠牲になったのである。

 因みに移民というと何故か、笠戸丸を思い浮かべるのはアメリカからシャットアウトされ、ブラジルに門戸が開かれて、第一回目の移民船ということと日本では初めて家族単位の集団移民ということで移民のシンボルとなっており、とても皆から親しまれているからだと言われている。(おわり)資料提供=宇佐美昇三、黒田公男、藤崎康夫の三氏。取材=FDP記録映画製作所。

 (写真=横山清蔵さんが埋葬されているパケタ墓地)



アクセス数 7564356 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0142 segundos.