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―支倉常長欧州紀行―「サムライたちが見たもの、残したもの」横内 正毅
早稲田大学の海外移住研究会OBでYKK勤務当時長くローマにも滞在した横内さんは、慶長遣欧使節団の一行、支倉常長に強い興味を示しこれまで色々研究、考察を続けて来られていますが、今回支倉常長欧州紀行「サムライたちがみたもの、残したもの」を書き上げられました。この『私たちの40年!!』HPに横内さんの寄稿『海外派遣の先駆者、支倉常長を想う』 http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=693 
を収録しております。
写真は、横内さん提供の1615年に日本人として初めてローマ法王パウロ5世と会見した聖ピエトロ大聖堂です。


―支倉常長欧州紀行―「サムライたちが見たもの、残したもの」

慶長遺欧使節として、支倉常長を始めとする十数人のサムライたちが、日本を発って凡そ2年、念願のローマ入りを果し、その目でローマを見たのは、今から391年前、即ち1615年10月のことである。
慶長遺欧使節は、ローマ北郊外のチビタベッキア(ローマの外港都市)に上陸し、同月25日ローマに到着した。 その4日後の10月29日、晴れてローマ入市式に臨んだ後、ローマ教皇パウロ5世に謁見したのである。ローマに滞在中、使節の代表として描かれた支倉常長の肖像画(写真上)が、現在もボルゲーゼ宮に残っている。
この慶長遺欧使節について、作家の阿川弘之氏が昨年の「文芸春秋11月号」の中で次の様に書いている。 原文より一部抜粋させて頂いた。
『ローマ北郊のチビタベッキアは、日本にとってゆかりの深い港町なのに、そのことを知ってイタリアを訪ねる日本人観光客は殆どいないらしい。どんな御縁かと言うと、古くは凡そ四百年昔、教皇パウルス5世に謁見する為、ローマへ向う慶長遺欧使節支倉常長達一行が船を下りた港、それがチビタベッキアであった。 新しくは20世紀中葉、この町の修道院聖堂に、カソリックの日本画家長谷川路可が大きな壁画を描き残している。 長崎で十字架にかけられた26聖人殉教記念の壁画だそうで、機会があれば一度見に行きたいと思っていた。年来の望みを果たす事が出来て、以下は見聞録感想録である。
―――中略―――   慶長十八年(1613)伊達政宗の命を受け、家臣常長がメキシコ経由ヨーロッパへ向けて船出したのは、石巻東方牡鹿半島の月の浦、現在チビタベッキアと姉妹都市の契りを結んでいる石巻は、我が師、志賀直哉の生地だし、支倉常長や
長崎の26聖人は我が友、遠藤周作の執筆対象だった。遠い異国の小さな港町で、しみじみ人の絆の不思議さを感じさせられた ――後略――― 』下の絵は当時のチビタベッキア。
1.サムライたちが見たローマ
江戸時代の初頭、武士の一行がメキシコ、キューバ、スペイン、ローマを歴訪し、各地足跡を残した事実を知る日本人は驚くほど少ない。イタリアを訪問する日本人観光客は年間61万人を越えた(2006年世界観光白書)と言われ、その大半の人がローマを訪れるが、
ガイドが慶長遺欧使節に言及する事は殆ど無い。多くの日本人が、その足跡を知る事無く通過してしまうのは、なんとも残念であり、阿川弘之氏が指摘される通りである。
ローマ市の中央を流れるテレベ川、その川沿いに立つサンタンジェロ(聖天使)城は、オペラ「トスカ」の最後の名場面として有名であるが、その城門からバチカンのサンピエトロ広場に向う大通りは、今も中世のまま。 ローマ観光のハイライトでもあり、多くの日本人観光客が一度は通る道でもある。 慶長遺欧使節のローマ入市式が行われた391年前(1615年10月29日)、その同じ道をローマ市民の大歓呼の声に迎えられ、支倉一行が侍姿の正装(肖像画と同じ)で行進し、パウロ5世の謁見を受けた場面は、ドラマのシーンを見る様で感動的であったに違いない。
支倉常長を始め、大半のものがメキシコ及びスペインで洗礼を受けている。キリスト教徒にとってのローマは聖都として、特別の場所であったので、ローマ入りに続き、教皇パウロ5世との謁見の場に臨む彼らの胸中は、正に至福の絶頂であったことは想像に難くない。
ローマにある7つの丘の中で、最も高い丘にあるクリナーレ宮は、かっての王宮で、歴代法王の夏の住まいとして使われていた。 現在はイタリア大統領官邸として使われているが、この王宮の「王の間」で支倉常長はパウロ5世に最初の謁見をした。王宮の中には支倉常長と同行の神父ソテロを描いた絵(壁絵)がある。
                                 
支倉常長一行のローマ滞在中の世話は、ローマの名門貴族のシピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿が受持った事が詳細に記録されている。 謁見したパウロ5世もボルゲーゼ家の出身(参考1)であり、謁見がかなったのも、ボルゲーゼ枢機卿の力添えが大きかったと推察される。
因みに、カトリックの総本山たる聖ピエトロ聖堂の大円蓋がミケランジェロを始めとする10人の建築家の手を経て、一世紀を越す大建設事業の末、現在の形を整えたのはパウロ5世の時世になる1614年(参考2)。 支倉一行がバチカンを正式訪問したのは、1615年なので、聖ピエトロ大聖堂(写真下)の大円蓋を見た最初の日本人と言う事になる。
2. ローマ以後のサムライたち          
しかし、その後の彼らの運命は、大きく二つに分かれる。主君伊達政宗の命を最後まで守り、家臣としての忠義の為に、7年と言う歳月を経て帰国した支倉常長は、藩政時代の武士を貫いた、いわば現代の企業や国からの海外派遣の源流であり、一方、信仰に目覚め,人間として生きる為に、武士を捨てて現地に残った人たちは、それぞれの決断で人生を選択した、いわば近世の海外移住の源流の様に思われてならない。
遺欧使節団の数名が、現地に残って永住した町とされるスペインのコリア・デル・リオには咋年6月、知人が訪れ、スペイン・ハポン支倉常長顕彰会の会長、Manuel Virginio Cardajal Japon 氏(その後亡くなられた)にホテルで偶然出会い、親しく交歓し、現地に建てられた常長の銅像や町の様子等、詳細に聞く事が出来た。
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遺欧使節はセルビアに入る前の4日間と、ローマからの帰途9ヶ月間をこの町に滞在した。
遺欧使節のうち、スペインに渡った日本人は約30名だが、乗船記録などから7人前後が帰国していない。 それから50年後の1667年11月1日の同市のエストレイジャ教会の洗礼台帳に、「ファン・ハポンの娘を洗礼」と記録されている事が判明した(参考3)。 確認された最初の「ハポン」姓であり、最古の「ハポン」姓である。 同市の「ハポン」姓は
648人(参考4)。 彼らは慶長遺欧使節の末裔と自ら信じ、誇りにしていると言う。
                                      
3.サムライたちが残したもの
2004年12月、支倉家第29代当主の支倉哲男氏(当時87歳)から手紙と家系図が現地に届いた。 そこには、「貴スペインに使いをなした侍の子孫」から「愛知万博でビクトリア号とサンファン号が相まみえ、旧交を温める際は、是非皆様と握手を交わしたい」と記されていた(参考5)と言う。 ビクトリア号は大航海時代にマゼランが世界一周を果した帆船
(ビクトリア号)の復元船である。 一方、サンファン号は慶長遺欧使節が月の浦より出帆したサンファン・バティスタ号の復元船であり、この記念すべき2つの船が相まみえる企画が愛知万博の大きなプロジェクトの一つであった。日本に帰ったサムライと、現地に残ったサムライたちの子孫は、390年の時を越えて、今も結ばれている。
平成18年6月
海外派遣の先駆者・支倉常長を顕彰する
横内 正毅




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