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写真展を通して見詰めた日系社会の喜怒哀楽@-D サンパウロ新聞松本浩治記者の連載。
十三年間の記者活動の中で撮り続けてきた日本人移民とその子弟たちの写真を、〇六年の十一月、十二月にわたって南マットグロッソ州ドゥラードス、パラー州ベレン、サンパウロ市内の三か所で展示する機会を得た。既報の通り、同写真展は本紙創刊六十周年を記念して開催されたもので、初の写真集「移民T」の発刊をきかっけに実現した。三つの地域で約一千人の人たちが写真と向き合ってくれ、自分たちの歩んできた道のりを思い出してくれた人も少なくなかったようだ。各地での写真展に付随した出来事などを改めて振り返ってみたい。(松本浩治記者)
写真もサンパウロ新聞連載の3回目記事よりお借りしております。(写真=松原移民の柳生豊彦さん)


写真展を通して見詰めた日系社会の喜怒哀楽@
 十三年間の記者活動の中で撮り続けてきた日本人移民とその子弟たちの写真を、〇六年の十一月、十二月にわたって南マットグロッソ州ドゥラードス、パラー州ベレン、サンパウロ市内の三か所で展示する機会を得た。既報の通り、同写真展は本紙創刊六十周年を記念して開催されたもので、初の写真集「移民T」の発刊をきかっけに実現した。三つの地域で約一千人の人たちが写真と向き合ってくれ、自分たちの歩んできた道のりを思い出してくれた人も少なくなかったようだ。各地での写真展に付随した出来事などを改めて振り返ってみたい。(松本浩治記者)

 ≪城田志津子教師古稀祝い 南麻州ドゥラードス文協開催まで≫

 写真展用のキャプション作りやお世話になった人々への写真集配布などをとりあえず終えた十一月八日、慌しい雰囲気の中、聖市バラ・フンダのバスターミナルを午後九時に出発。翌九日の午前六時頃に聖州プレジデンテ・プルデンテ、午前八時半頃にパラナ州境のプリマベーラを経て、正午過ぎ、目的地のドゥラードスへ到着した。

 バスターミナルには、今回宿泊などのお世話になり、ドゥラードス市内から二十六キロ離れた共栄移住地に在住する住岡要さん(六九、広島県出身)が迎えに来てくれていた。

 市内のレストランでの昼食の時、住岡さんが笑顔を見せながら言った。

 「お前、今日はツイとるぞお。夜に城田先生の古稀祝いがあるので、ご馳走が食べられるぞ」と。

 「城田先生」とは、同地で三十五年にわたって日本語教育に力を注いでいる城田志津子さん(七〇、北海道出身)のことだ。本人には内緒にして、共栄移住地の人々が同日本人会(城田芳久会長)会館での古稀祝いの準備を進めていた。その夜は移住地やドゥラードスなどから知人たちが大勢駆けつけるという。

 そのため、当初は十一日から開く予定だった写真展を急きょ、九日の夜から実施することを思いついた。

 その旨を説明することとドゥラードスでの写真展開催日程打ち合わせなどを目的に、午後過ぎに同市内にある南マットグロッソ州日伯文化連合会の会館を訪問。小野亨右(こうすけ)会長と面会した。小野連合会長がドゥラードス日伯文化体育協会会長の宮川順治会長を呼び出してくれ、日程変更とともに、十二日にドゥラードスで開く写真展の会場準備に必要な衝立(ついたて)の使用などを快諾してくれた。

 その後、共栄日本人会の会長で城田さんの息子でもある城田芳久氏に日程変更の承諾を得るため、移住地へと住岡さんが車を飛ばしてくれた。城田会長も二つ返事で了解してくれ、午後七時からの古稀祝いを前に、会館で写真を張る作業を行った。

 ちなみに、共栄移住地は一九五四年二月二十四日に初期移住者十家族が同地に入ったのが始まりとされ、〇四年には半世紀の節目の年を迎えている。しかし、当時はまだ区画整理ができていなかったことから入植許可がなかなか下りず、移住者たちは同地の小学校で半年間にわたる共同生活を余儀なくされた経緯がある。

 現在の移住地には二十六家族が在住しており、肥沃な土地で主に大豆やミーリョなどの穀物生産活動が行われている。(つづく)

写真展を通して見詰めた日系社会の喜怒哀楽A
大霜害の悲劇乗り越え 支えとなった「あすなろ」の歌

 午後六時半頃になると、移住地の婦人たちが一品持ち寄りでそれぞれ手作りのご馳走を持参してきた。午後七時頃、城田さんも祝賀会場となる会館に姿を見せた。予想外の展開に目を白黒させながらも、喜びの色が溢れ出すのが表情から見て取れる。

 古稀祝いでは、自分の実母への讃辞を言いづらい城田芳久・共栄日本人会会長に代わり、副会長の谷口史郎氏が祝辞を述べた。その中で谷口副会長は、一九七一年に発足した同地日本語学校の三十五年間におよぶ歴史の中で、約百四十人の生徒たちが巣立っていったこととともに、現在も七人のOBが日本語学校教師として活動していることに言及。「ドラードス地方に大きな功績を与えてくれた」と、城田さんの貢献を褒め称えた。

 また、来賓として出席した小野亨右・南マットグロッソ州日伯文化連合会会長も「城田先生も古稀になられ、人生の節目の年として過去を振り返る余裕もでき、そのことを明日への活力にしてもらいたいと思います。『全伯にドラードスあり』と、この地域の名誉と発展のために尽力されたことに心から敬意を表したい」と祝辞を述べた。

 関係者の話によると、日本語学校が設立された背景には、七一年当時、日本人会で若い会長(飯山達男氏)が選出されたこともあり、「何か新しいことをやろう」との気運が高まっていたことが一因だったという。

 一方、その頃の共栄移住地はカフェ栽培を中心に農業生産活動が盛んだったが、霜害による影響などでカフェに代わる永年作物転換の必要性に迫られていた。特に、七五年の大霜の被害が転機となり、機械化による大豆、ミーリョなどへの穀物生産に切り替えたことが、現在の移住地の繁栄につながっている。

 そうした中で、「あすなろ」という歌が日本語学校で歌われていた。城田さん自身、「あすなろ」を生徒たちに教え、自らも歌いながら苦しい時代を耐え抜いてきた。

 「明日はなろう。お山の誰にも負けぬように。ぐんと大きく育つように」

 転換を迫られていた苦しい時代、「あすなろ」は単に日本語学校生徒たちの歌だけではなく、移住者たちにとっても心の支えだったに違いない。 「その頃はただ明日へ、明日へと夢見ながら無我夢中でやってきました。『共栄』という地に住んで、皆さんに教えられながら今日まで来ました。この地であったからこそ、今まで教師を続けてくることができました。本当に皆さんのお陰です」と城田さんは当時を振り返り、移住地の人々の心意気に感謝の気持ちを重ねた。

 乾杯では共栄移住地の恒例により、参加者全員が列を作り一人一人と杯を交わした。

 祝賀会のあとは、アトラクションとして母の会(住岡恵美子会長)による大正琴演奏、日本語学校生徒やOBたちによる歌が披露された。場が盛り上がったところで、カラオケ大会へと発展。夜中の一時過ぎまで人々の歌声が響いていた。(つづく・松本浩治記者)

写真展を通して見詰めた日系社会の喜怒哀楽B
<敗戦の苦渋伝えた戦後移民 「松原」に入植の柳生豊彦さん>

 翌十一月十日、共栄日本人会の谷口史郎副会長が運転する車に便乗し、共栄移住地の隣町ファチマ・ド・スールに在住する柳生豊彦さん(八〇、和歌山県出身)に再会する機会を得た。

 柳生さんには、〇三年八月に「松原安太郎移民」の一人として取材したことがあった。また、今回の写真展の被写体の一人でもあった。〇三年当時はファチマ・ド・スール日本人会で日本語学校の校長を務めていたが、〇六年の二月に退任。二十二年間の同校での教師生活に終止符を打った。その後、引き継いだ若い教師も諸事情で辞めざるを得なくなり、同日本語学校は惜しくも閉校になったという。

 柳生さんは、一九五三年七月八日にサントス港に到着。戦後移民再開すぐの松原移民の中で、若い家長としてブラジルの土を踏んだ。

 今回、前回の取材では見逃していた当時のサントスからの汽車内での出来事や移住地の生活の思い出話などを聞くことができた。

 その頃は、汽車が途中の鉄橋で停止したかと思うと、機関士が線路の上から川に釣り糸を垂れるなど、おっとりとした時代でもあった。しかし、石炭の火の粉が飛び散るため窓を閉める必要があり、車内は蒸し風呂状態だったという。さらに、座席は対向のボックスシートだったが、固く、狭いのが難点だった。 

 「床に直接寝ましたけど、線路の継ぎ目がガタンと揺れるたびに背骨に当り、痛(いと)うて寝られんかったです」と柳生さんは当時のことを振り返りながら苦笑する。 嬉しかったのは、戦後再開後始めての日本移民到着ということで、どこの駅に着いても戦前移民の同胞たちから大歓迎を受けたことだ。「万歳!」の叫び声とともに、窓からお握りをはじめ、パン、牛乳や果物などを手渡してくれる。

 「そのお陰で、腹が減ったということはありませんでした」

 柳生さんたちもこれに応え、日本から持参してきた「日の丸」の旗を掲げると、駅で待っていた同胞の中には手を合わせて拝んでいる人の姿もあったという。

 困惑したのは、当時の時局で日本からの詳細情報がまだ完全に入りきらないブラジル日系社会の状況の中で、「日本は戦争に勝ったのか、負けたのか」と聞かれた時だった。

 「負けた」と言えば、もめることは必至の雰囲気の中、柳生さんたちは事前に相談した結果、「天皇陛下が決められて、戦争は終りました」とだけ答えるしかできなかったという。戦前移民たちは悄然(しょうぜん)として何も言えず、柳生さんたちの言葉から、敗戦を悟ったようだ。

 ようやく、サントスから一週間かけてイタウン駅に到着したのはすでに夕方近く。そこに戦前移民の人たちがカミニョン(大型トラック)四台を用意してくれていた。一同はそれに乗り込み、ドゥラードスまでの約七十キロの道のりを荷台で揺られた。

 数時間でドゥラードスに着くと言われていたが、行けども行けども目的地は見えてこない。荷台でのスシ詰め状態の中、車を走らせると乾燥した土埃が舞いあがる。互いの顔は土まみれで真っ赤になり、「白いのは歯だけ」(柳生さん)だった。

 とりあえず、到着したのは夜中のこと。当時、「新移民が来る」ということでドゥラードスで初めての日本人会が五三年に結成された。初代会長の西村嘉平次氏の家で夜食をよばれ、「子供たちも疲れているので、とにかく寝かせてほしい」と頼むと、「あんた方は、まだこれから先にいかにゃあならん」と言われ、さらに疲れが出たという。

 一行は、ドゥラードスから十五キロ離れた現在のインダーポリスと言われる場所の連邦政府直轄の病院施設で寝泊まりすることに。施設の中は窓ガラスがすべて割れており、ゴミだらけの状態だった。 

「何とまあ、えらいところやなあ」

 柳生さんたちは、同地に来たことに大きな戸惑いを覚えたという。(つづく・松本浩治記者) 
 (写真=松原移民の柳生豊彦さん)

写真展を通して見詰めた日系社会の喜怒哀楽C
苦労も吹っ飛ぶひと浴び 柳生さん星を仰いでドラム缶風呂に天国

 八三年までの三十年間を松原移住地で過ごした柳生さん。その中でも特に思い出として心に残っているのは、正月の新年会での出来事だという。 会館での新年会のあと、酒に酔った人々が「新年のあいさつ回り」と称して移住地を一軒一軒訪問し、練り歩いた。

 柳生さんの家は「コルム・フンド」と呼ばれる移住地の一番奥側の小川の近くにあり、道の一部が坂になっていた。当時、移住者の一人がジープを持っており、家長や若者たちがその荷台に乗って「年始回り」をしていたところ、誰もが酔っ払っているために、坂の所に来るとバタバタと地面に落ちたという。

 「荷台に山のように乗っているために、一人一人落ちていくんですけど、まるで蟻の群れのようでね。倒れた人を助け起こしたり、まあ大変でしたわ」と柳生さんは、苦しい移住地時代であったからこそ、楽しかった出来事を鮮明に覚えている。

 また、移住地で風呂を作ったのも柳生さんが最初だった。風呂桶用のドラム缶を買うために、移住地からファチマ・ド・スールまでの土道を丸一日がかりで歩いたエピソードがある。

 ある日、一人娘が風邪を引き、アスピリン(抗生物質)を買うために移住地を午前七時に出た柳生さんは、午後二時頃、ファチマ・ド・スールの鍛冶屋の前を通りかかったところ、ドラム缶が置いてあるのが目に止まった。

 日本にいた頃から風呂好きだった柳生さんは、移住地での風呂の無い生活に我慢しながらも、「いつかは風呂を炊きたい」と心に決めていた。

 ドラム缶を見つけて、「いてもたってもおれなくなった」柳生さんは、娘の風邪のことはすっかり忘れ、持っていた薬代でドラム缶を購入。どうやって運んで帰るか迷った挙句、缶の上部三十センチほどを鍛冶屋で切断してもらい、肩に担いでみると案外軽かったことから徒歩で持って帰ることを決意した。 

 ドラム缶を担いで歩いていると、道行くブラジル人たちからは呆れた目で見られたという。幹線道路から移住地に入る「トラベッサ・オンサ(豹の道)」と呼ばれた開拓道に差しかかった頃には、辺りはすでに真っ暗闇に。当時の開拓道は、大木を避けて拓いているために道がジグザグになっていた。鬱蒼(うっそう)とした原始林が生い茂る中、かすかに見える空を見上げて方向を確認し、途中で木の根っこに何度も躓(つまづ)きながらも家に向かって前進を続けた。

 開拓道の半分ほどに来た時、突然の大雨が降りだし、柳生さんは思わず持っていたドラム缶を傘代わりに腰を下ろして雨が止むのを待った。

 やっとの思いで移住地に着き、一番手前に住む人の家で泊めてもらおうと扉を叩いたが、すでに夜中になっていたため反応がなかった。気を取り直し、自分の家に辿りついたは午前四時頃。倒れ込むように家に入ったところ、夫人のキヌエさん(七八)が喜び顔で迎えてくれた。当時は電話などの連絡手段は何もなく、夜になっても帰ってこない柳生さんをキヌエさんは相当に心配していたようだ。

 移住地からファチマ・ド・スールまでの道のりは片道で二十二キロ。柳生さんは往復四十四キロの距離を一日で歩いたことになる。

 「あの日は一生のうちで一番長い日でした」と柳生さん。その二日後には赤土混じりの水から湯を沸かし、念願だった露天風呂に浸かった。

 その話を聞いた移住地の人々が次から次へと風呂に入りに来た。こうして、移住地で初めてのドラム缶風呂は柳生さんの健脚と必死の思いにより実現し、大変喜ばれたという。

 日本語学校の校長を辞めた今でも、ファチマ・ド・スールの町中を一日に約四キロほどは歩くという柳生さんは、移住地時代のことに思いを馳せながら、元気な日々を過ごしている。(つづく・松本浩治記者)

写真展を通して見詰めた日系社会の喜怒哀楽D
<豹の道に辛苦の歴程偲ぶ 松原移住地 細々としたコーヒーの樹の出迎え>

 十一月十一日。南マット・グロッソ州日伯文化連合会(小野亨右会長)の配慮により、サンパウロからの仏教連合会(佐々木陽明会長)の慰問布教と合わせて、共栄移住地の会館で「移民の肖像」写真展が開催されることになった。

 午前十時頃、予定より一時間半ほど遅れて佐々木会長をはじめとする仏連一行四人がドゥラードスに到着。一行を迎えた小野会長をはじめ連合会関係者は、一九五三年の戦後移民再開の地となり、ドラードスから東へ約七十五キロ離れた「松原移住地」へと案内するべく、三台の車を発進させた。

 記者が同乗させてもらったのは、共栄日本人会副会長で松原移民でもある谷口史郎さん。それにJICAシニアボランティアの竹村雅義氏が同行した。

 松原移住地の手前十五キロの地点にあるビセンチーナで、現在も松原移住地に在住する残り少ない移住者の一人である那須勝さん(六四、和歌山県出身)と合流。同氏の案内で、ビセンチーナ墓地を訪問する。同墓地には、六〇年代半ばに惨殺された日本人家族の墓があるという。仏連一行が慰霊碑前で読経を行い、時間が押しているため足早に移住地へと向かう。 昔の「トラベッサ・オンサ(豹の道)」と言われる開拓道から直線距離で約五キロ入った移住地の入り口で、小野会長が当時のロッテ割りの状況など説明を行う。それによると、男子十五歳以上の全員が数か月を要して当時の五三年型シボレーのトラックが通れる道づくりに励み、同時に飲料水を運ぶ作業が行われた。また、家長がくじ引きで各ロッテの場所を決めたという。

 「トラベッサ・オンサ」を右折した入り口からテルセイロ・リンニャ(第三線)と呼ばれる約十五キロの道を隔てて千二百万平米の土地が広がる。「250×1200」メートルの土地を一ロッテとして移住地が構成され、現在はわずかに三家族のみが在住しているだけだが、入植当時のままの古い家並みが土道沿いから見える。

 那須さんの道案内で、現在の移住地では唯一のコーヒー栽培を行っている土地へと連れて行ってもらった。同地の標高は五百五十メートル。移住地でもっとも高度のある土地だという。裏作のミーリョが刈り取られた後で、農地は本作の大豆の蒔き付けを前に土地が露出しており、青い空が一段と広さを増しているように見える。その奥にコーヒー農園があった。

 同地は西尾さんという人が所有しており、現在はブラジル人に土地を管理させていた。四千本のコーヒーの木が今も植わっているというが、お世辞にも「管理されている」とは思えない状況で、ところどころ木々が枯れているのが見えた。しかし、「金の成る木」として移民たちが希望と不安を抱いて海を越え、苦労して栽培したにもかかわらず霜などの被害に遭い、大型機械導入による穀物栽培に転換された時代の流れの中で、唯一移住地で残っているコーヒー園かと思うと、感慨深いものがあった。

 木々の枝からは、まだ小さく青いコーヒーの実が見て取れた。

 松原移住地を後にした一行は午後一時、昼食を用意して待っていた共栄移住地に到着。誰もが腹を空かせている状態だが、今回の一番の目的である慰霊法要の行事を先に行う。共栄日本人会の会館には約六十人が集まり、家長たちがそれぞれに位牌を持参。佐々木仏連会長は一つ一つの位牌に刻まれた名前を読み上げ、出席者たちは開拓先没者の冥福を祈った。

 城田芳久会長は追悼の辞として「志半ばにして亡くなった方々の遺志を継ぎ、子供たちのためにより良い共栄移住地の未来を築き、ブラジルの発展のために日本人会全員で力を合わせて努力していきたいと思います」と述べ、先駆者への思いとともに未来への発展を誓った。

 法要の後の説教で佐々木仏連会長は、師である故・長谷川良信氏が一九五四年に松原移住地を訪れていた経緯を説明。「私もドゥラードスまでは何回か訪問させていただいているが、松原移住地に行ったのは今回が初めて」とし、師との「因縁」に触れたとの気持ちを表した。

 仏連一行は次の訪問地であるカフェ・ポランへと向かい、共栄移住地の人々は同会館で展示された移民の写真を見つめながら入植当時のことなどに思いを馳せていた。(第一部おわり・松本浩治記者)



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