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【セーラガウーシャ見て歩る記】 BATEPAPOに投稿された赤嶺 尚由さんの紀行文です。
サンパウロの日本商工会議所、コンサルタント部会のメンバーを中心としたメーリングリストBATEPAPOの主力メンバーである赤嶺さんが今回は、南大河州の観光スポットイタリア移民の多く住むセーラガウーシャをご家族で訪問されました。単なる観光紀行文でなく元邦字新聞記者をしておられただけに何時もジャーナリスト的な目の付け所が随所に光る観察的紀行文となっています。これまでに何度も紹介されているセーラガウーシャに日本移民との比較考察も含めた赤嶺さんらしい読み物を収録させて頂く事にしました。
この赤嶺さんの書き込みに早川さん、平野さん、桜井さんのコメントも寄せられており一緒に収録させて頂きました。
写真を2枚送って頂いたのですが、今回は愛孫のフィリップ君の成長振りを伺える写真を使用させて頂きました。


セーラガウーシャ見て歩る記<その1 信号の無い街>

 そう長くはないが、邦字紙記者をしていたこともあるので、この国を殆どくまなく歩かせて貰っている。しかし、リオ グランデ ド スール(南大河)州だけは、州都のポルト アレグレを2,3回、通過程度に旅行した以外、とんと縁が無くて、特にお目当てのセーラ ガウーシャには、足を運ぶ機会がなかった。このBate-Papoの仲間である和田さんからは、それとなく、「ガウーショ良いとこ」のPRをしていただいていたし、SPJetro前所長時代の桜井悌司さんからも「とても気に入ってしまって、2度も足を運びましたよ」と、宣伝臭さの一切感じられないご推奨を耳にしていたので、一年に1度の休暇を海岸べりで休養する計画を急遽変更し、愚妻と愚息と愛孫に今年16歳になる1卵双生児の男の甥たちを加えて、急遽、セーラ ガウーシャ行きを決めたのであった。

 愚息がツアーで予め予約していて、着いた所は、グラマード市随1ともいわれるリゾートホテルで、このツアーを売っている旅行会社の経営下に入って既に10年以上になるらしく、滞在8日間を過ごすには、プール、サウナ、フィットネス、クーパー等の各設備、上から下までほぼ総白人従業員による接客サービスも、控えめで押し付けがましくなく、申し分なかった。しかし、知っていらっしゃる皆さんも数多いと思うが、私は、不勉強でつい知らなかったものの、1番吃驚したのは、人口3万6000人内外のグラマード市の目抜き通りにも、他の街路にも、車の交通整理のための信号灯が1切無かったことである。10年ごろ前から信号に替わるものとして、例えば、4車路には、丸い大き目のロータリーが作られており、そこへ先に進入してきた車が、優先的に通過する権利を持つ。遅れてやってきた車は、それを尊重する。後は、ドライバー同士の相互信頼である。それで、事故が滅多に起こらない。何事につけ、自分の権利を先に主張し、黒を白と言い張るこの国においてである。滞在中、車の警笛をたった1度聞いたような気がする。お隣の人口4万1000人内外と規模のより大きいカネーラ市でも、数年前から信号無しになったとのことであった。

 グラマード市で最高級のリゾートホテルの従業員は、殆どがほっぺたがちょっと赤く染まるようなイタリア系かドイツ系、ツアー以外の自由行動の時に数回、入ったピッツアリアやポル`の従業員たちも、揃って白人の男女だった。数日過ごした後、親しくなったホテルのサウナ担当従業員に確認してみたところ、黒人や半黒人は、全然いないわけではないが、いたとしても、ごく少数にとどまり、男が製材所の肉体労働者に、女がホテルなどの下働きとか一般家庭のお手伝いという風に大体相場が決まっている。ポルトアレグレ辺りから時々身元のはっきりしない毛色の変わった男女が現われることはあっても、周りの雰囲気や風潮に馴染めず、長く居つかないそうである。

 そういえば、2,3年前、セーラガウーシャのある市の市長が州間長距離バスでやってきたばかりの子供を連れた半黒人の夫婦者たちに帰りのバス代を渡して、そのままトンボ返りで追い返したらしい。私は、この記事をある有力週刊誌で読んで、ありとあらゆる国の移民が入っていて、88年10月に公布された現憲法で以って、イの1番に人種差別を禁止しているこの国にあって「そこまでやるの」、「そこまでやらなければならないの」と考え、改めてドイツ人やイタリア人、いや、とりわけ、あのナチスによるユダヤ大量虐殺事件を惹き起こしたドイツ人たちの純血好みや排他性と表現して少しきつければ、三つ子の魂百までも、と言ったようなこれらの国々からの移民の先祖が母国で既に培っていた強烈な精神構造にまで思いを馳せたものである。それと相俟って、セーラガウーショという山脈の中という一つの要塞に似た地の利が外界と隔離する役割も自然に果たしていて、右を向いても白人(イタリア系)と左を見ても白人(ドイツ系)のより純潔性を保つのに有利になっていて、結果としてバグンサ(混沌)が売り物のこの国で、却ってMonotonia(単調さ)を醸し出しているのではないか、という点にもふと気付いたのであった。。

 <OBS> 南の和田さん、やっと念願のセーラガウーシャ行きが実現しましたが、山の中に入りびたり、いや、浸り切りとなり、貴兄の活躍していらっしゃるポルトアレグレとは、帰り道、雨で曇った空港の窓ガラス越しに久闊を叙す程度になりました。空港の窓越しに見る貴市の小雨に煙った摩天楼は、当地といささかも変わらず、威勢の良さを感じさせましたが、貴州のイエダ クルシウス新女性知事による財政再建のための極度の引き締政策の厳しさを地元の有力紙が盛んに伝えていたところを見ますと、前途多難な模様ですね。末筆になりますが、早川さんからも<読書のすすめ>の有り難いオリエンタソンをいただきました。エスタドンの編集幹部であるHokubaru氏のお名前は、仄聞していましたが、その著書に触れる機会がありませんでしたので、この機会に是非読みたいと思います。又、愚息にも読んで貰うつもりです。


セーラガウーシャ見て歩る記<その2 パラナ松の雌雄>

 学名アラウカリア松(パラナ松)は、伐採された後、木材として製材所に運び込まれ、貴重な家具類に加工する段階で、セーラガウーシャで生活する半黒人たちに、糊口をしのぐための数少ないMao De Obra(手間賃)を提供してくれている天然資源である。標高850bとかいわれるグラマード市周辺には、ことの他、南部諸州の高所を好み、ミナス州辺りが北限といわれるパラナ松が無数に自生していたり、栽培されている。この通称パラナ松にメス科とオス科の2種類があることを迂闊にも今まで知らずにいて、今回の旅行で初めて見聞することが出来た。

 オス科のパラナ松は、天辺がやや三角形で尖ったまま伸びていて、味も素っ気も愛嬌も無いのに対して、メス科のパラナ松ときたら、私のちょっと思い過ごしかもしれないが、一番上の枝のいくつかがちょうど上の方に向けて円く女の股を開いた形になり、何かを待って受け皿みたいな形に映るような気がして仕方なかった、パラナ松に色気があるといったら、少々大袈裟になるので、いかにも妖艶な感じと言い直すことにしたいが、兎に角、魅力のある姿形をしている。言わずもがな、私の独断偏見に違いないが、たおやかと言えばたおやか、婉然と言えば婉然としたメス科のパラナ松には、何故かイタリアやドイツ辺りからやってきた白人移民が似合っていて、少し泥臭い日本移民には、釣り合いが取れないのではないか、とも思った。

 セーラガウーシャにご執心だったSPJetro前所長の桜井悌司さんも、多分、足を運ばれたと思うが、グラマード市の郊外にイタリア移民の築いたコロニア(植民地)がある。1840年頃にこの地に移住してきて以来の生活(生業)ぶり、歴史、文化等をそれぞれ当時のままの農家に分けて紹介していて、それらを観光客がバスで巡回して見て回り、ワインや乾物類やその他の特産物を同時に販売する商魂の逞しさもある。私は、移民の生活を少し商売化し、俗化し過ぎているような気がして、途中から急速に興味を失ってしまった。

 しかし、すべからく、移民は、棄民であり、石川達三が描いた蒼茫の民である、といった短絡的な図式で以って、捉えられがちな日本移民と際立って異なる明るい側面が彼らに自ずから備わっていることに気付かないわけには行かなかった。それが何かといえば、本国で貧しい生活を強いられたという点では、恐らく日本移民と左程変わらないイタリア移民が初期の開拓時代から、陽気さ、もう1歩踏み込んで言えば、アコーデオン等の楽器1個だけを引っさげてでも、円陣を作り、ともすれば、暗憂に満ちて単調になりがちな移民生活のひと時を出来るだけ楽しんだという点である。その意味で、天を向いて大手(いや、股?)を拡げて、たおやかで妖艶で楽天的なメス科のパラナ松と似てなくもない、と表現したのである。

 セーラガウーシャという大きな山脈が一つの要塞みたいになって、外部からの有色人種の出入りを拒み、困難にさせたのではないか、といった私見を<その1>で書いたが、その上に、ドイツ人やイタリア人を始めとする白人らの本当の<正体>ともいうべき純血好みとか、その前に、元々、彼らの祖先の代から身に備わっていた排他主義的な肌合いも、相乗的に効果を出さなければ、セーラガウーシャ的な白人優先社会の構築を可能にさせたとは、とても思えない。実は、日本移民にも、そういうより純血社会を作る機会が過去にあったように思う。それは、1930年頃から70年初期にかけて、折からのバナナブームに触発されて、サントスジュキア方面で俄かに発生した沖縄移民を中心とした入植気運の時である。

 先輩移民が同県出身の後輩移民を他州から次々呼び寄せ、最盛期には、同県出身者が90%位、1000家族強にも達し、公的資金でバナナ搬出専用の鉄道を建設させるほどの過熱振りであった。ご存知の通り、サントス市からジュキア市までの数十`は、片一方が山、もう一方が大西洋と言った具合に、要塞化しようと思えば、出来なくもない地形である。しかも、バナナ栽培を意図する沖縄県人らが入植した最初の頃は、泥んこの悪路一本しかなかったらしい。しかし、日本が鎖国時代の昔からオランダやポルトガルや中国あたりと交易を重ね、いわゆる<外人慣れ>した沖縄の移民たちは、純血の有り難さを充分に知っていたとは思うが、欧州移民のように、有色の原住民たちを住みにくくさせる程には、排他的ではなかった。

 当時のバナナの植え付けにも、穫り入れにも、欠かせないのが土着民や原住民などの提供する労働力であった。しかし、それ以上に、戦争など、彼の島の歴史上、絶えることの無かった辛い数々の試練を身を以って、体験してきていた沖縄からの移民たちは、同化しようと接近してくる彼らを排斥するどころか、温かく迎え入れて、自分たちの最も大切な文化である言語(方言)の教育まで施してやったそうである。以下は、私がイタリリというバナナ栽培だけで成り立っている街へ県人会の記念誌の現地取材に出掛けた時、実際に聞いた話である。バナナ景気に湧きに湧いていた頃のこと、すぐ前方も見通せないほどの集中豪雨が降っている日の朝、ある沖縄県人の一人が広大なバナナ園の畦道を歩いていて、雨合羽をスッポリ頭から被り、後ろからは正体の全くつかめない男に、沖縄県出身のあるバナナ園主が沖縄の方言で挨拶をして話かけたら、返ってきた答えも、同じく立派な沖縄の方言で「マーヌ、ター ヤミセーガヤ」(何処のどなた様でしょうか」ということだったらしい。そして、振り返ったその顔は、紛れも無くここの黒い肌の原住民だったそうである。


セーラガウーシャ見て歩る記<その3 イタリア尽くし 終わり>

州間長距離バスを乗り継いで遠い東北伯からやってきた半分Pardo(褐色)の肌色をした子連れの夫婦者を帰りのバス賃を渡してトンボ返りで追い返したのも、ドイツ系の市長だったという事実のある割には、セーラガウーシャの行く先々でより目立ったのは、ドイツ系の威勢の良さではなく、専らイタリア人とイタリア文化の影響の濃さであった。一説に拠れば、この国における現在のイタリア系の人口は、7,800万人に達しており、特に、セーラガウーシャあたりの白人たちが純血を保つために、有色の原住民の出入りに神経を使っているという一つの証拠は、1840年に移住してきたイタリア人の3,4世が話すここの言葉に、まだ強い訛りが残っていること、同じような現象がそれより少し以前の1820年代に移住してきたドイツ移民の長い世代交代を経た子孫たちにも、色濃く感じ取れることであった。言葉の訛りは、純血主義への強い願望であり、バロメーターのようにも考えられて仕方なかった。

 グラマードやカネーラなどの中小の街のほかに、人口14,5万人のベントゴンサルベス市とか、人口50万人のカシアス ド スール市などのかなり規模の大きい街なども巡って見て驚いたのは、やはり、イタリア、ドイツの先駆移住者たちが残した工業の数の多さと大きさであった。なかんずく、イタリア系の企業の健闘振りが光っているように思われた。先ず、金属刃物を手始めに、最近では、台所用品、家具一般にまで進出してきているトラモンチーナ(Tramontina)の技術力と市場開拓の緻密さには、感嘆せざるを得なかった。しかし、今迄、国内市場と輸出面でほぼ独占を続けてきた同社が最近では、30%も価格の安い中国製の包丁や食器類の攻勢に大分うろたえ気味の模様だそうである。その他に、製鉄重化学工業のジェルダウ(Gerdau)やバス車体で断然国内トップ、輸出でメキシコなどの中南米市場を席巻してしまい、今後は、中国市場の開拓に照準を合わせているマルコポーロ(Marcopolo)社等、枚挙の暇もない。

 反面、日系の地場企業で、これらに比肩して、100年以上も、歴史の風雪に耐え得る企業が一体、どれ位、残るだろうかを考えた場合、ちょっと暗澹たる気持ちにならざるを得なかった。しかし、日本移民には、日本移民たちでなければ、成し遂げられなかった素晴らしい仕事も、間違いなく築き上げてきている。地味で目立たない存在だが、言わずと知れた農業部門である。殆どありとあらゆる野菜、蔬菜、果物類が移住した日本移民の手によって、この国の一般家庭の食卓にも上がり、飾るようになった。トラモンチーナという包丁1本のブランド名と共に、イタリア移民の足跡は、これからも、ずっと長く残っていくだろう。そして、富有柿とか林檎のフジとか、つい最近、生み出されつつあるらしい大粒のぶどう等と一緒に、日本人の果たした功績もずっと記録され、讃えられていきそうな気がする。包丁が大切か、富有柿が大切か、一概には言えないが、いくら目立たず、地味であっても、日本移民の果たした役割は、やはり大したものだわい、と自画自賛したい持ちで一杯である。

 日本移民は、自分たちが死んだ後、先ず、誰が自分たちの墓守役をやり、たまの命日や毎年11月初旬のブラジルのお盆の際などには、几帳面に欠かさず墓参りをやってくれるだろうか、ということを心配し、次に自分たちがこの国に移り住む時に持ち込んできた日本の文化をどのように長く伝承させていくかに心を砕いたりしている。しかし、人文研の宮尾進顧問たちの貴重な調査研究によると、140万内外に達しているここの日系人は、3世の代になると、約60%が混血になっている事実を見ても判る通り、来年の日本移民100周年を境に、一段と混血同化が進み、やがてタイの土地にすっかり埋没してしまった山田長政一行の2の舞とまではならなくても、日本人色が急速に希薄になっていきそうな気がする。

 そういうことを右を向いても、左を見ても、白人ばかりのセーラガウーシャの中にいて、愚息と結婚して僅か2年で別居したシリア系の女医との間に生まれ、1緒に就いてきていた可愛い盛りの同じく混血の孫を眺めたら、心細さ心淋しさみたいなものがそくそくと湧き上がってきて、感傷的になって仕方なかった。その点、この山岳地帯に自らを隔離したり、封じ込めたりして置いて、押し寄せてくる毛色の変わった人種を排斥するようにして暮らしている白人たちは、これから随分と長く純血と自分たちの文化を保ち得ることが出来るに違いないような気もした。移住してきた世代の人たちの幸せだけを考えてもいけない。後世の子孫たちの為に良かれかしということも考慮に入れてやらなければならない。純血ばかりをひたすら守り抜こうとして辿り着いた先に何の発展性も無くて先細りにならないとも限らない。同化を果たした日本移民の子孫たちが却って幸せになるかもしれない。移住を決意した者たちの、いずれの道を行くにしても、宿命みたいなものである。

 Bate−Papoの通常の紙幅も既に尽きてしまったようだが、いつもこの種の見て歩る記を書く場合に、欠かしたくない事柄を寸でのところで、忘れるところだった。それは、日頃から下半身の方は、口ほど言うことを利かなくなってきているが、魅力的な女性を観察することにかけては、まだ興味を失っていないつもりである。最高級のリゾートホテルとあって、インフラの設備が至りつくせりで、混浴式ではあったが、日本風呂もあるのには吃驚してしまった。これ幸いとばかり、同行してきた一覧双生児の16歳になる甥たちと湯に浸かっていたら、付いていている時には、飽くまで付きに恵まれているもので、掛け値なしに、見てくれも素晴らしいピチピチしたどうもまだAdolescente(思春期)とおぼしき白人の若い女の娘が入ってきた。

 早速、女性には禁物の筈の年齢を聞いたら、16歳になったばかりだという。これは、幸先良いと勝手に決め込んで「キミは、見目麗しくてチャーミングで、バストも、真に以って素晴らしいが、シリコンでも入れてあるの?」と、多少ぶしつけに尋ねたら「いいえ、その正反対だわ。少し、日常の活動に邪魔になるので、専門の医者に頼んで、贅肉の部分を取って貰い、このように今の適当な大きさと形ににして貰ったの」という答えだった。げに恐ろしきは、イタリア系の16歳の女の娘、この若さにして、日常生活に邪魔になるほど、豊かなバストを既に持つ。これだけは、どうやら、日系の若い女性では、まだとても太刀打ちできそうにない。

 <OBS 1)日本の桜井悌司さん、ご無沙汰しています。貴兄のお言葉に触発される7ようにして、念願のセーラガウーシャに行って来ました。桜井さんは、あの山岳地帯の中の一番何が印象的だったか、相変らずお忙しいとは存じますが、出来ればBate−Papoでコメントしてくださいませんか。

赤嶺 さん 皆さん 南の和田です。
そうですか赤嶺ファミリーのグラーマード揃い入りですか。『 私たちの40年!! 』HPに掲載させて頂いている赤嶺さんの愛孫君も大きくなっているのでしょうね。
この〈セーラガウーシャ見て歩る記〉は、是非ホームページに掲載させて下さい。できれば愛孫君を囲んだ赤嶺ファミリーの写真を一枚送って欲しいですね。カネラのカラコールの滝か石の教会がバックに入っていると良いですね。まだ紫陽花も綺麗でしょうからグラーマードのラーゴネグロの紫陽花トンネルを背景にしたものも良いですね。
雨のポルトアレグレと云うと土曜日にサンパウロに戻られたのでしょうか。

赤嶺 さん 皆さん 南の和田です。
写真2枚添付有り難う御座います。元気に育ったお孫さんとカネラのカラコルの滝をバックにした赤嶺さんの勇姿。とても良いですね。
連載がどの程度続くか分かりませんが週末にでも収録作業をするつもりにしています。
現在午前3時ですが、もう6時間もカラカスの飛行場でVARIG便を待っています。3時半に到着し4時にはサンパウロに向けて発つとの事ですが、30分で乗り降りができるとは思えませんので多分4時半発、グアルリョス着は午前10時頃になりそうです。国内線に乗り換える為にコンゴニアスまで移動、午後のフライトでポルトアレグレに戻ります。

早川です、南部への家族ご旅行の紀行文面白く又楽しく拝見致しました、例によりその地域社会存在の事由を深く探索して結論に至る過程に披瀝される博学には脱帽です、今後も機会あるごとにお聞かせ下さい。
 −旅に在り緑燃え立つ山間(やまあい)に今も息衝くゲルマン文化
サンタ カタリーナのドイツ人都市<ブルメナウ>は郊外を流れる川がライン河に似ておる所以で都市構築されたと聞いております、それから道路に信号無くロータリーのみはサンパウロ州のブラガンサ パウリスタもこの方法を採用しております。

赤嶺さん、 皆さん
平野@広島です。
本当に可愛いお孫さんですね!お孫さんが小5年生になった時、添付しているような詩を書かれたとすれば・・・。
添付しました内容は当地元新聞である「中国新聞」に現在連載で掲載されている広島在中の小学生の作文や詩の中にブラジル日系人のお子さん(小5年生)の詩がありましたのでそのまま書き出して添付していますが、とても素直で素晴らしい内容に感動しました。家庭環境や親御さんの躾・教育が垣間見ることが出来ます。
第59回 鈴木三重吉賞 特選作品         (中国新聞:2007/01/23 朝刊)
詩の部 (松尾静明 選)

東広島市 西条小5年  藤本 歩 カロリーナ
オブリガード・ありがとう

「ここが、日本なんだ。」
去年の四月
ブラジルから日本にやってきた
日本人の祖父母の話に、いつも
あこがれていた
私も日本語を話したい
日本に行ってみたい
いつも いつも思っていた
そして 夢かなって日本にくる
チャンスがめぐってきた
日本語は三か月でマスター
すごい
がんばった
自分をほめたい
父と母が言った
「日本人は、やさしいけど、厳しさを持って頑張る人が多い。
だから、あなたも目標をもってがんばりなさい。」
私は、目標をもってがんばる
水泳も頑張って一番
勉強も日本人よりたくさん勉強している
友達もたくさんできた
文化のちがいも何となく分かってきた
日本語で好きな言葉
それは
「ありがとう。」
ポルトガル語で
「オブリガード。」
この言葉をつかうときは
いつも
うれしいとき
私は ずっと日本で生きていく
決めた
日本人になる
ドクターになって
ずっと日本に住む
そして みんなから
「ありがとう。」
と、言ってもらえるドクターになる
いろいろなことを教えてくれた人に
心から
ありがとう
そして
オブリガード

赤嶺さん、BATEPAPOの皆様 桜井です
なつかしいセーハ・ガウーシャの話、ありがとうございました。
私が最初に行きましたのは、2003年12月末で、その当時単身赴任で、@年末年始に1人さびしくサンパウロで過ごすのは何としても避けたい、A1週間くらいの長さの旅行、B団体で行くバス旅行、Cついでにポルトガル語の練習もしたいので、日系の観光会社ではなく、ブラジルの会社によるツアーという4つの条件をかなえるとすれば、CBCのセーハ・ガウーシャしかなかったということでした。もちろんドイツ人やイタリア人のつくった都市を見たいという強い希望もありました。行って見て、なるほどブラジルは多様性に富んでいることがよくわかりました。全くOUTRO BRASILでした。
家内がそのうちブラジルの来ましたので、2004年の年末にまたCBCのバス旅行で
セーハ・ガウーシャに行きました。OUTRO BRASILを見せたかったからです。
グラマードとかカネラのあたりを重点的に回るコースは、同じですが、最初に基点
は、カネラで2回目は、ベントゴンサルベスで若干回るところが異なりました。2度目ですので、もう少しゆっくり見られました。
一番印象に残ったのは、ドイツ人にせよ、イタリア人にせよ、将来の観光地となる
ような、ドイツ村とかミニムンドとかパパノエルとかエポペヤ・イタリアーナというテーマパーク等をしっかり残していること、文協の移民資料館のように暗いイメージではなく、我々は苦労した結果、これほど成功したのだぞと高らかと歌い上げていることでした。
その後、家内もバス旅行が気に入り、ミナスジェライス州の歴史都市めぐりやリオ観光に出かけました。
経済的だし、ブラジルの中流の人々を知ることができたし、言葉も少しうまくなったし、OUTRO BRASILを知ることができたし、一石四鳥でした。

桜井 さま 皆さん 南の和田です。
桜井さん お元気に活躍の様子時々このBATEPAPO欄でお見受けしています。
我がセーラガウーシャをOUTRO MUNDO、OUTRO BRASILとして以前ご紹介頂いた事もあり嬉しく思っていました。
今回の赤嶺さんの原稿は、写真まで貼付頂いており週末に『 私たちの40年!! 』HPに収録しますがその時に関連コメントとして桜井さんのこの書き込みを一緒に使わせて下さい。宜しくお願いします。




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