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波乱万丈「押忍人生」生き抜いて サンパウロ新聞WEB版より
拓大の学友世界大会開催を取材に出向かれたサンパウロ新聞の福岡支局長の吉永 拓哉貴社のインタビュウ記事《拓大OB「拓魂」貫く高木一臣翁》がサンパウロ新聞WEB版に2度に分けて掲載されていました。
話題の高木 一臣さんは、アルゼンチンと言うより南米で有名な方で多才の持ち主です。吉永記者の読ませる筆致により浮き彫りになった高木翁。是非お会いして話しを聞かせて頂きたい人生の大先輩です。
写真は、ブエノスにおける拓大学友世界大会にポルトアレグレからご家族全員で参加された有川 修さんにお借りしたものです。


拓大OBの世界大会が行われたブエノスアイレスより現地報告として下記レポートを吉永 拓哉記者が送っています。拓哉君の御尊父とは学生の頃からの仲間ですが今回のブエノスの大会にも参加されたのでしょうか?
【拓哉さんへ】 サンパウロ新聞のWEB版では写真が×になって掲載されていないので出来ればDMで送って頂けますか。

波乱万丈「押忍人生」生き抜いて 亜国日系の一匹狼誇る
《拓大OB「拓魂」貫く高木一臣翁》
 今月十日にブエノスアイレス市内で開かれた『第五回拓殖大学学友会世界会議』の開会挨拶で、拓大学友会アルゼンチン支部前支部長の高木一臣さん(八十歳)は威勢よく「押忍!」と出席者に声をかけるも「私の時代は紋付袴で闊歩して“拓大生が通れば泣く子も黙る”といわれていた世代だったが、今はどうか・・。最近の拓大生は髪を茶色に染めている者ばかりですっかり時代が変わってしまった」と寂しそうに話した。だが、つぎに彼が言った言葉が印象的だった。
 《タンゴの街に憧れて 終戦で陸軍中野学校入学がフイ》
 「時代は変われども海外雄飛の精神は今も昔も変わらないものと信じている」――。
 一昔前の拓大には海外、とくに中南米に夢とロマンを抱く学生が多かった。戦後五〇年代から学生移住がはじまり六〇、七〇年代にはピークに達した。横浜港には拓大の旗が勇ましく靡(なび)き、学生服姿の拓大生たちが名物「勝ちます踊り」を踊って学友の旅立ちを見送った。そんな時代だった。
 高木さんは拓大中南米移住者たちの先駆者的存在なので、どんなに豪腕豪傑な拓大生でも彼の前では頭が上がらない。彼が南米アルゼンチンで奮闘した波乱万丈な半生は、いまも拓大学友会のなかで語り草となっている。
 高木さんは三重県生まれ。拓大に在学していた十八歳のときに学徒動員で満州に出兵した。その後、一九四五年九月から陸軍中野学校に入学することになっていたが同年八月に終戦を迎えたことで自身は拓大に再入学している。
 大学時代にはカーキ色の学生服に墨で『喧嘩買います』と書いていたという高木さん。「交番を縄で括り近くの川まで運んで落っことすフリをしたら警官が真っ青な顔をして『助けてくれ〜』と叫んでなあ。あの顔が傑作だったよ」と記者に豪快な昔話をする。そんな彼が狭い日本に納まろうはずがない。
 子供時代にアルゼンチン・タンゴを聴いてアルゼンチンに興味を持っていたこともあり「地球の反対側までなんでも見てやろう」という軽い気持ちで海外雄飛を決意。当時の日本は連合国の占領下にあったもので、日本の権益代表国だったスウェーデンのパスポートを取得して一九五一年に貨物船「星光丸」で日本を飛び出した。
 同船は西回りで南米へ。途中アジア諸国では、戦争の恨みで「日本人の腕を斬りおとしてやる」と息を巻く原住民が多くて下船できなかったが、南アフリカに寄航した時は黒人たちから「日本人は奴隷解放のためによく戦ってくれた」と握手を求められ優遇された。そのような終戦後の世界情勢を視察して同年アルゼンチンの首都ブエノスアイレス市に到着した。
 戦後はアルゼンチンが一番最初(一九五〇年)に移民の門を開いているが、戦前の同国は主にヨーロッパ系移民を受け入れてきたため戦前のアルゼンチン日本移民は皆無だった。高木さんが渡亜した当時の日本移民はブラジルなどから流れてきた人たちだった。 「アルゼンチンの戦前日本移民は、云わば一匹狼のような存在だったので、その影響を受けたのか現在でも日系人のまとまりはありません」と話していた。
(つづく、吉永拓哉記者)
 〔写真:学友と談笑する高木一臣さん〕

波乱万丈「押忍人生」生き抜いて 数奇な蛮カラ行路に悔なし サンパウロ新聞WEB版より。
《会社支配人、記者、アナウンサー、俳優》

 現在、アルゼンチンには約五万人の日系人が生活しているといわれているが、高木一臣さんはここの日系社会の顔役といっても過言ではない。「押忍」(拓大生の掛け声)の力でアルゼンチンを渡り歩いた彼の半生を紹介したい。
 
 一九五一年に渡亜した当時の日本移民の仕事といえば衣服のクリーニング業が多かった。日本人はこの地でも誠実・勤勉に徹していた。例えば客から預かったズボンの中に小銭が入っていたとしても日本人は正直に客に戻すなど、アルゼンチン人との信頼関係を重んじた。

 高木さんもその一人だ。「アルゼンチンで最初に働いた建築資材店では、公用語のスペイン語もろくに話せない状態だったっが入社当日から支配人に任命されちまった」という。

 だが、この仕事も後に肺病を患ったことで退社。その後、日本から進出して間もなかった三井物産(当時第一物産)や日系企業などの勤務を経て同国邦字紙『らぷらた報知』の記者となった。

 新聞社に入社して間もなく編集長が死亡したため、若くして高木編集長が誕生。その間、取材先で出会ったフランス系アルゼンチン女性と結ばれた。

 一九六四年のこと。駐日大使を務めたカノ氏がアルゼンチン政府に対して「日本語によるラジオ放送の重要性」を提言するが、その報道をいち早く知った高木さんは国営放送・アルゼンチン国立放送局に願い出て、海外日本語班の責任者となりラジオアナウンサーの仕事もはじめた。

 この放送は毎朝七時から二時間、同国の文化紹介や国内事情などを報じている。高木さんは二〇〇五年まで実に四十一年間にわたってマイクロフォンと向きあってきた。 「私も高齢だからラジオアナウンサーは引退したが、邦字紙編集長としてはいまも現役で動き回ってますよ」と溌剌とした声で話す。

 また、高木さんは還暦を迎えた年に面白半分でアルゼンチン映画『PLATA DUCE』にエキストラとして出演、素人離れした演技力を発揮したことで監督に目を付けられ、それを機に映画俳優としての道を歩む。ときには東洋系マフィアの親分役になり、神風特攻隊や忍者になるなど、アルゼンチンきっての日系名俳優として今も君臨しているという異色の存在だ。

 体の調子はどうかと伺ったところ、片目は手術の失敗により義眼、胃や腎臓も取ってしまったのだという。交通事故は過去に三度遭遇、すべて居眠り運転で起こしているが奇跡的に命を取り留めている運の強さ。

 そんな傷だらけの老人はつい昨年のこと、ブエノスアイレス市内でうっかり白タクに乗ったところこの運転手は強盗に早替わりし、いきなり「有り金をすべて寄越せ」と脅した。後部座席に座っていた高木さんは怯まずに運転手に組み付き、首を絞め落として「あばよ!」と去った。

 「あの時は運転手を殺しちまったかもと思い、翌日の新聞を恐るおそる読んだが、どこにもその記事が載っていなかったのでホッとしたよ」と飄々(ひょうひょう)と話す高木さんの姿に昔の拓大生の勇ましさを感じずにはいられなかった。

 八十歳でも現役邦字紙記者兼編集長というアルゼンチン日系社会の重鎮・高木一臣翁。最近の軟弱な日本男児に彼の爪の垢でも飲ませたいものだ。(おわり、吉永拓哉記者)



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