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ヤクルトとリンゴの町(1)(2)(3) サンパウロ新聞WEB版より。
ポルトアレグレの廃止された総領事館管轄にサンタカタリーナ州のサンジョアキンの町近郊にあるヤクルト農場とラジェスのリンゴジュース工場があり毎年日伯交流協会の研修生を引き受けて貰っていました。今回サンパウロ新聞の上岡弥生記者が(株)ヤクルト商工の貞方賢彦社長がリンゴの収穫祭に参加するのに同行させて貰い現地の状況を3回に渡り報告しています。
リンゴ園のあるサンジョアキンは、ブラジルで一番寒い町と言われており毎年雪が降ります。何どか雪を見に出掛けたしヤクルトのリンゴ園にも2度ほどお邪魔しています。今年はカーニバル時期にラーモス移住地の梨を見に行った帰りにサンジョアキンにも立ち寄りました。リンゴが取り持つ縁でサンタカタリーナ州と青森県が姉妹県として交流が続いています。写真は、サンジョアキンの町の近くにあるリンゴ園で撮らせて貰ったものを使用しました。


ヤクルトとリンゴの町(1) サンパウロ新聞WEB版より
ヤクルト果樹園に10万本のリンゴ 標高1300メートルラージェス市の町おこし
 サンパウロ市から南南西に約八百キロ、サンタ・カタリーナ州内陸部のラージェス市に(株)ヤクルト商工のジュース工場がある。リンゴ生産で有名な隣町のサンジョアキンに果樹園を持つ同社は、同農園で収穫したフジから商品の「スッコ・デ・マッサン」を生産している。
 例年より多い収穫量を祝って行われた五月最終土曜の収穫祭に、聖市から出席した貞方賢彦社長に同行させてもらうことができた。十時間のドライブの末ラージェスに到着、緯度差のためかサンパウロより暗くなるのが早い。
 街にはカウボーイを連想させるようなカントリー調の雰囲気を持つ人が多い。これがこの地域の「ガウーショ」スタイルか、サンパウロからは想像できない違いに改めてブラジルの奥深さを知る。
 夜、十二年ぶりに同地方を訪れるという貞方社長を囲んでの歓迎夕食会がイタリアレストランで開かれた。イタリア、ドイツ系移民の子孫が多いという同地方だけに社員もヨーロッパ系の人が目立つ。
 恰幅のいい社員が多いと思えば、「ブラジル人は日本人の三倍肉を食べるということだが、ここのものはもっと食べるよ」ということだ。そういえば道中牛の放牧地も多かった。
 「ヤクルトで働いてるから社員はみんな日本語が話せるんだよ」といって数を数え始める社員もいる。十までだろうとタカをくくっていると一千台まで数えるのには驚かされた。
 「思えば前社長は先見の明があったんだな。リンゴは大当たりだよ」と故・若林輝男前社長の話も出てきた。ヤクルトとリンゴの関係は、新しい事業に挑戦するのが好きだった若林前社長が一九七五年、サンジョアキンに果樹園を購入、リンゴ栽培を始めたことから始まった。
 七十年代は同地方でリンゴ生産の町おこしが始まった頃だった。標高千三百六十メートルのサンジョアキンは寒暖の差が激しく、夏は三十度、冬はマイナス十五度を記録したこともある。この気候がリンゴ栽培に適し、一帯ではフジを主に生産している。「リンゴの町」としてすっかり定着したサンジョアキンは約六百の果実生産者、リンゴが経済の七割を支えるほどとなった。
 ヤクルトの果樹園は面積四百三十ヘクタール。そこにフジとガラの果樹を約十万本持ち、毎年二千二百トン程度の収穫量がある。収穫のうちいいものは生果で売り、それ以外はジュースにする。 「こんなおいしいリンゴはサンパウロでは食べられないよ」と貞方社長は果樹園でもぎたてのリンゴを次々と試食していた。直径五センチほどの小さなものでも芯の周りに糖が詰まっていてとても甘い。ジュースにするのがもったいないくらいだ。「太陽が直にあたるから日本のものより甘いくらい」というフジは糖度十五度、ジュースにするには実際甘すぎるぐらいだという。
 貞方社長を囲んだ夕食会の終盤にはステージでライブ音楽も始まり、サンジョアキン特産の高級ワインでほろ酔いとなった一同はいい気分でレストランを後にした。(つづく・上岡弥生記者)
 (写真=貞方社長(中央)歓迎夕食会の様子)
2007年6月6日付け

ヤクルトとリンゴの町(2) サンパウロ新聞WEB版より

昔の味残す混濁リンゴジュース 生産量の90%を日本へ輸出

 翌日、ラージェスにあるリンゴ梱包工場とジュース工場を見学した。ヤクルト商品の「スッコ・デ・マッサン」はここで作られる。搾りたての混濁リンゴジュースを商品化したのは、ブラジルではヤクルトが最初だという。
 市場では透明のものが主流だが、混濁ジュースからはリンゴそのものの味がする。「昔の日本人が搾って飲んだジュースの味がうちのスッコ・デ・マッサン」と御簾野良樹常務取締役は話す。
 パッキング工場では、生果用のリンゴの箱詰めとジュース用のリンゴのより分けが行われる。二月から五月の収穫期は最も忙しい時期だ。見学日も従業員たちが黙々と作業に従事していた。ベルトコンベアーに乗って次々と運ばれてくるリンゴの量は目を圧倒する。
 ジュース用のリンゴは貯蔵量二千四百トンの冷蔵室で保存する。特に保存に強いフジは、室内の温度を二・五度以下、酸素量を二%にコントロールすることで半年以上保存できるという。
 次に訪れたジュース製造工場で、洗ったリンゴを搾汁機にかけ、潰して繊維を濾(こ)す。それをすぐ殺菌、マイナス三十五度以下で冷凍するので品質は保たれる。冷凍庫には天井まで山積みされたジュースの入ったドラム缶が並ぶ。デジカメに写った画像がゆがむほど中は凍てついている。こうして作られたジュースが日本をはじめ、市場に出荷される。
 一日あたりの生産量は濃縮ジュースで六十トン、二百四十キロのドラム缶二百五十個分だ。年間五万トンのリンゴから一万トンのジュースを生産する。そのうち九割が日本へ輸出される。自社農園で賄えない分のリンゴは近隣町から買い取る。生果として売れないものもヤクルトが買い取るので、リンゴ生産者にはありがたい存在だ。

 ラージェスにあるこれらの工場を見学後、サンジョアキンの果樹園に向かった。標高九百メートルのなだらかな丘の道を南東へ八十キロ進む。タイパと呼ばれる高さ五十センチ程度の石垣が道路縁や家々の周囲に廻らされている。この地方では昔からこうして境界を作っているという。 一帯はアラウカーリアというパラナ松の生産地でもあり、すっと伸びた松の上部には頭の大きさほどある松の実(ピニョン)が実をつけている。日本のまつぼっくりとあまりにも大きさが違うピニョンは今が旬だ。
 風景を眺めているうちに車はわき道へ入った。舗装されていない砂利道を六キロ走ったところにヤクルトのファゼンダはあった。(つづく・上岡弥生記者)
(写真=リンゴ梱包工場の様子)2007年6月7日付け

ヤクルトとリンゴの町(3) サンパウロ新聞WEBより。
認められた日本人の功績 多くの地域住民と支えあって生きる
 収穫祭当日のサンジョアキンは前々日の雪天から一転、半袖でも大丈夫なほど穏やかな天候に恵まれた。会場に到着したとき、従業員や家族らがすでに百五十人ほど集まっていた。倉庫を会場に、家族連れのアットホームな雰囲気はなんとなくヨーロッパのお祭りを想像させる。
 サンジョアキンにはポルトガル、ドイツ、イタリア、アフリカ系、日本人が入植したが、従業員は大半が白人系。中には黒人系も何人かいた。日本人は我々だけで、注目が集まる。
 我々と距離を置き遠巻きにしている大人たちとうってかわって、子供たちは積極的に話しかけてくる。
 「向こうに見えるファゼンダでお母さんたちは毎朝七時半から五時まで働くの。収穫して、袋に入れて、それからトラックで運ぶの」。「この二種類の松の木はこっちが普通のでそっちはアメリカ松。松は水をよく吸って貯蔵するから飲み水の供給源よ」と我が物顔でファゼンダ内にあるものを逐一説明してくれる。両親についてファゼンダによく足を運ぶので自然と詳しくなるようだ。
 この周辺には家族ぐるみでヤクルトファゼンダに関わっている人が多い。ファゼンダ内でも家が二十軒、収穫期には妻などの家族が臨時職員として働く家庭も多い。収穫量の多かった今年は季節職員を六十人雇った。親子代々ファゼンダで働く人もいる。果樹園設立当初から三十二年間働いて今年定年退職したというウィルソンさん(六十三歳)は、「そんなにきつくもないし、いい仕事だった」と真っ黒に日焼けした顔から所々歯のない口を見せて笑った。彼の娘夫婦もまたヤクルトファゼンダで生計を立てている。
 「パラベンス。寒さにも負けず本当によく頑張ってくれました、ありがとう。おかげで今年は二千二百トンの富士と八百トンのガラで合計三千トンの収穫がありました」とマルコス・ビスト果樹園支配人の発表に大きな拍手が沸き起こった。
 前日から準備したシュラスコを満腹になるまで食べた後は中央のテーブルが取り払われ、会場はいつのまにかダンス会場となっていた。この地方のガウーショ音楽にのせて夫婦やカップルがくるくると回りながらステップを踏む。このダンスもバネーラという当地のものだという。
 多文化が継承されているサンジョアキンで、ヨーロッパを彷彿とさせる文化を持つ人々が日系企業で働き、収穫祭を祝う。ゆっくりと流れる午時間の中で、ヤクルトという一大企業と土地に根ざして生きる人々の生活が支えあっていることに不思議な気持ちを覚えた。
 「ありがとう」と言って果樹園を去る貞方社長に、「こちらこそ見に来てくれてありがとう」と見送ったマルコス支配人の言葉が心に沁みた。(おわり・上岡弥生記者)
 (写真=収穫祭をダンスで祝う参加者ら)
2007年6月9日付け



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