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笠戸丸第一回移民物語取材日記 FDP記録映画製作所 サンパウロ新聞WEB版より。
FDP記録映画製作所では、2008年のブラジルの日本移民100周年に焦点を合わせて笠戸丸第一回移民を取り上げて記録映画を製作しておりその完成が待たれますが、今回サンパウロ新聞に笠戸丸が1908年に初めての日本移民781人が到着したサントス港の第14倉庫の現在の様子を映像に納める取材日記を掲載しています。ブラジルならではの取材、撮影許可取得の手続きの煩雑さ(責任の盥回し)等の苦労話、逸話をふんだんに披露、最後はこれ又ブラジルらしいアミゴ(友達と言うよりコネ)の有り難さでサントスの警察署長自信の案内で笠戸丸が99年前に着眼したアルマゼン14号付近の撮影ができたとのこと。今後2008年の日本移民100周年祭関係の話題が増えて行くことから新たに『日本移民100周年の話題』の欄を設けることにしました。その第1号に取り上げました。
写真もサンパウロ新聞掲載分からお借りしました。


笠戸丸第一回移民物語取材日記(1) FDP記録映画製作所
《急勾配を登るアプト式機関車サントス サンパウロの鉄道撮影》
 一九〇八年六月十八日、総航程一万二千カイリ、船はサントス港十四号アルマゼン(倉庫)前に着岸。
 翌十九日七時、下船、七百九十一名(内自由渡航者十名)の出稼ぎ移民はブラジルの土を踏んだ。 埠頭の引込線に列車が待っていて、その列車に全員乗せられサンパウロに向かった。
 港町サントスは海抜〇メートルでサンパウロ高原は標高八百メートルの高台である。その絶壁に近いところを登るためにクバトンで列車を六両ずつに分け、ロープ牽引アプト式機関車に繋がれ、急坂を徐々に登って行く。パラナピアカーバ駅でサンパウロ高原に辿り着く。そこで平坦用の機関車で全車両を繋ぎサンパウロ州立移民収容所の駅に着いた。
 二〇〇五年三月、笠戸丸移民の足取りを辿ろうと、この鉄道撮影の下見と撮影許可申請はどのようにすれば良いかを探るためKの車でサントスに下った。
 まずサントス市に残っている古い街角家屋、旧駅舎、チンチン電車を撮影、昼食後、日本移民上陸のシンボル像を撮り、港の全景を撮るために小高い丘に車で登って行くが皆目道が分からず、道を聞くにも人が居らず、しばらく車を進めると賑やかな一角に出た。そこに警官が立っていたので頂上に行く道を聞くと怪訝そうに「貴方達は何しに行くのか」と云うので「港の全景をカメラに収めたい」と答えると「この辺りは物騒なので気を付けなさい」と行手を指差して教えてくれるがこの辺りはファベーラ(貧民街)らしく、周りの人々は我々三人を鋭い目付きでじろじろ見ている。全景の撮れそうな丘は他に二、三あるが似たり寄ったりのファベーラなので「有難う」と礼を述べ、緊張しながら上に進み頂上に出た。カメラマンが「早く済ませて下に降りようよ」と云って港が一望出来る場所にカメラを据え、手早く映像に収め、車に乗り、一気に下った。その途中でさっき警官のいた所を見たが彼はそこにはもう居なかった。
 街並みから線路に沿うて鉄道事務所を探し当て、許可の件を話すと、そこではなくピアサゲーラ駅だと云うのでクバトン市まで車を飛ばす。二十分位で目的駅に着き、バレット助役に許可申請の相談をすると彼は「この件はミナス・ジェライス州ジュイス・デ・フォーラ駅の通信部の管轄なので」とメールアドレスを教えてくれた。礼を言って表に出たが未だ三時なので次の駅ライス・デ・セーラ駅まで足を延ばし、断崖絶壁を登る鉄道の下見をすることにした。そこの登って行く線路の写真を撮っている内に夕方四時近くなり、藪蚊にいやというほど刺されてしまい、ほうほうのていで車の中に逃げ込み一目散に帰路に着いた。
 六月三十日 撮影許可申請の書類を持ってSと二人でバスに乗ってサントスに下った。サントスのバスターミナルに着いた時は十一時を回っていたので、昼食には未だ早いがクバトンの奥の鉄道駅に着く頃は正午になるし、向うは貨物だけの駅なので食事をする所もないのでお腹に何か詰めて行こうと近くのブチキン(場末の立飲み屋)に入り、エスペチーニョ(やきとりの三倍位の大きさ)一本ずつとビール一本(合計四レアイス・約百八十円)を飲み食べして、市内バスでピアサゲーラまで揺られて行った。バレット助役はあいにくミナスに出張中で留守だったので困ったなあと思っていたらサブチーフのワウデミール氏が我々のことを覚えていてくれ、この書類をジュイス・デ・フォーラ事務所の通信部にマロッテ急行便で送るからと気持ち良く引き受けてくれたのでホーっとして、宜しく頼むと頭を下げ、来週、電話を入れるから約束をして帰路に就いた。(つづく)
(写真:現在のサントス港)
2007年5月29日付け 

笠戸丸第一回移民物語取材日記(2) FDP記録映画製作所
≪撮影許可をとるまで約1か月 ブラジルタイムで部署をタライ回し≫
 翌週七月五日(月)朝十時ワウデミール氏に電話をするとチーフのバレット氏が今日ミナスから帰って来るから明日電話をしてくれとの返事だった。
 翌日、電話を入れるとバレット氏はサントスに行って留守だったがワウデミール氏が「ミナスに電話をするから午後電話をしてくれ」と云う。午後電話を再び入れると同氏がミナスのチーフがサンパウロに出張中なので三日後に連絡してくれとの返事だった。
 三日後の金曜日朝、電話を入れるとバレット氏が出て「今、ミナスに電話をするから十分後に又、電話してくれ」とのことなので余裕を見て二十分後に電話をすると彼はワウデミール氏と一緒にサントスに打合せに行って今日は戻らないと言うではないか。「しまった。十分後に電話をすれば良かった」と思ったが後の祭りだった。
 翌週、月曜日十二日朝、電話を入れるとチーフ、サブはサントスへ講習に行ったと言うので午後改めて電話をしたが遂に掴まらなかった。
 翌日、翌々日、十六日(金)も掴らず、この週も話は進まなかった。
 三週目十九日(月)朝、バレット氏に電話を入れる。未だ講習でサントスとのこと、午後は戻るから連絡をすればよいとのことなので十四時に電話をするとようやくバレット氏に繋がり「もうミナスに了解を得たので直接通信部のチーフ・ジョアーナ女史に電話をしろ」と電話番号を教えてくれた。そこでミナス州ジュイス・デ・フォーラに早速電話を入れると彼女はサンパウロに出張中で明後日帰って来ると言われる。
 二十二日朝、ミナスに電話を入れるとジョアーナ女史がおり、用件を云うと「今朝、出張から帰ったばかりだから後で書類に目を通すので明日又電話をして下さい」と云う。
 二十三日再びミナスに電話を入れる。丁度彼女が受話器を取り「私の方はサインをしてサンパウロの最高責任者に書類を回したので秘書のフランシースに電話をするように」と番号をくれる。直ぐサンパウロに電話を入れるとフランシース秘書はボスは今日からミナスに出張で書類は今、私の手元にあるのでボスが帰って来たら直ぐ見せるから月曜日に電話をするように」との返事をくれた。
 二十六日(月)サンパウロ本社に電話を入れるとフランシース秘書は「ボスは今朝帰って来たが席が暖まらないので未だ書類を見せていないが今日中には見せるから明日電話をして下さい」。
 二十七日(火)又、本社に電話を入れると秘書は「ボスに書類を回したのでOKするように催促するのでこちらから貴方に電話します」と云う。どうにかようやっと最終段階に漕ぎ付けたようだ。
 二十九日(木)昨日は一日地方に出かけており、留守電に伝言が入っていたので朝、電話をすると秘書は席を外しており、午後三時に再び電話を入れると彼女は「昨日そちらに電話をしたが誰も出ないので留守電に用件を入れておいたが聞きましたか。ボスがOKのサインをしてくれたのでダイヤオペレーションのアンネ・チーフに電話すように」とオペレーション部の電話を教えてくれる。
 アンネ女史に電話をするとサントスからパラナピアカーバまではサントス支社の管轄なのでロネイ部長に連絡をするようにと彼の携帯電話の番号を教えてくれる。
 早速サントスに電話を入れ、ロネイ部長に撮影許可が出た旨を告げると彼はもうそのこと知っており「何時撮影に来るか」と言うので来週水曜日十一時に打合せに行く約束をする。(つづく)
(写真:海側から見たサントス港)
2007年5月30日付け

笠戸丸第一回」移民物語取材日記(3)
≪サントスへ取材の下打ち合わせ 親切な人たちに助けられ順調に進行≫
 八月三日(水)八時、我々スタッフ二人でサントス行きのバスターミナルに向かった。サンパウロの気温は十六度で肌寒い。Sはサントスは暖かいからと半袖シャツで出かけたため震えている。しかしSの予想はぴたりと当たり、サントスに着くと三十度位で現地の人は半袖で汗ばんでいる。まず支社に行く前に冷たいビールで喉を潤し、先に撮影した昔の駅を探しながら歩いて行った。その駅はきれいに改装されていて今はサントス市役所で鉄道とは関係がないので分らないという。その前に線路があり、そこにCET(交通管理公社)のエーリオ係長が立って作業員に指示を出していた。彼に支社事務所の場所を尋ねると「相手の電話が分るか」と云うので電話番号を見せると自分の携帯電話でロネイ部長と話し、事務所の場所を聞いてくれた。その行く方を我々に説明しながら「俺の娘は日本趣味で日本人形だとか、色々な日本品を集めて楽しんでいる」と話していた。こんな所で親日家に親切にして貰えたのは有難かった。
 MRS鉄道事務所の入り口までは十分位で着いたがその囲いの中に入ると引っ込み線路が何本も続いてその脇に砂利石の道があるだけで徒歩では歩き難いので枕木の上を渡り、トコトコ事務所まで歩いた。距離にしては直ぐそこなのに十分位掛ってしまった。
 ロネイ部長と撮影の細かい打合せしているとサントスに出て来てたバレット助役が現れ「撮影許可が下りたか」と声をかけてくれた。「うまくいった」と右手の親指を立てると(very goodの意)「よかったなあ」と同じく親指を立てて喜んでくれた。皆良い人々ばかりだ。
 打合せが終わり、来週の水曜日に撮影をすることになり、立上りロネイ部長と握手をすると「これから会議だ」と彼は忙しそうに会議室に入って行った。また、あの線路を歩くのかと少しうんざりと思っていたら、丁度この部屋に日系の女子事務員が働いていたのでSが「表の大通りに出る近道はないのか」と彼女に話しかけると「他はもっと遠い」と答える。諦めて、他の話題に切替え「サンチスタか(サントス生れ)」と問うと「サンパウロ州奥地の三世です」「日本語は」と聞くと「お祖父ちゃん、お祖母ちゃんと一緒に暮らしていた時は話していたのですがもう死んじゃったので、それから使わなくなってしまい忘れてしまいました」と云っていた。二世までは日本語を話すが三世になると覚える環境も薄れて来て、遠のいてしまうのだろう。一世にとっては寂しいことだ。しかしパラナ州に行くと日本語教師の三世達にあったことがあり、日系人だとの誇りを持っていた。サンタカタリーナ州のドイツ系は四、五世でもドイツ語を話している。日本政府ももっと文化予算を注ぎ込んで日系人のために環境作りをして日本文化の普及に力を入れるべきだと思う。日本語が分らないと日本の文化を理解するのは難しいと思うし、経済だけでなく文化も海外にもっともっと進出する必要があると思う。素地のある日系人を仕込むのが一番手っ取り早く、日本語が分る彼らがブラジル社会に日本文化を紹介するだろう。
 そのようなことを思ったりしていたら部長が戻って来て「車で送らすから下で待っててくれ」と言ってくれる。助かったと思い、皆に挨拶をして下に降りると社員が車で待っていてくれ、バスターミナルまで送ってくれた。
 八月九日朝、サンパウロ本社のフランシース重役秘書より「撮影の方はうまく運んでいるか」と電話がかかった。先週ロネイ部長と打合せが終わり、明日サントスに下り、撮影することになった旨を説明し「色々お手配をありがとう」と礼を述べると「これで私も安心しました。ボア・ソルテ(good luck)」と云ってくれ電話は切れた。皆が心配してくれ、本当に感謝、感謝だった。   (つづく) 
(写真:サントスを走る市電)
2007年5月31日付け

笠戸丸第一回移民物語取材日記(4) FDP記録映画製作所 サンパウロ新聞

《サンパウロ―サントス鉄道の撮影開始 ライス・ダ・セーハからパラナピアカーバまで 》

 八月十日朝六時に二人で重いカメラと三脚を担ぎ、地下鉄でジャバクアラに出て、サントス行きのバスに乗った。サントスのバスターミナルからタクシーでクバトンのピアサゲーラ駅まで飛ばしてもらった。最初料金を聞くと六十レアイスというのを五十(約二千八百円)に負けてもらったが車で三十分位は走ったので、さすが距離があるのを実感した。
 ピアサゲーラ駅に着くと構内からホームまでは三本線路を横切らなければならないので、やれやれまた、重い荷物を運ばなければならないのかと思っているとその運ちゃんはサービス精神に富んでいるのか、二個のトランクを軽々とホームまで運んでくれた。チップ二レイスを出すと喜んで「ボン・トラバーリョ」(良い仕事が出来ますように)とサントスに向けて走り出した。
 事務所に入るとバレット助役は居なかったがサブチーフのワウデミール氏が「許可が下りたのか」と言ってくれ、サントスのロネイ部長に電話をしてくれた。部長の方ではあちらの事務所で待ってくれたらしく、我々が直接こちらに来るとは思っていなかったようで直ぐに警備員をこちらに回すから待っていろと云っているので、ここに居ろと彼は自分の仕事に就いてしまった。
 サントスからここまでは早くとも二十分はかかるので、コーヒーを飲んで来るからと柵外のキヨスクに行き、冷たい飲料水を飲んで時間を潰していると構内に車両が着いたので急いで戻ると警備員が二人が車両から出て来た。
 その車両で次のライス・ダ・セーラ駅まで運んでもらい、そこから列車は海抜八百メートルのパラナピアカーバ駅まで絶壁を登りサンパウロ高原に辿り着くのである。
 移民がサントスよりサンパウロまで運ばれた道程を映像に収めるためカメラをセットし、そこから貨物列車に乗せて貰う。今日はダイヤが遅れ、これが一番列車だという。線路より機関車の運転席に乗込むのだが高さが三メートルくらいあり、カメラ、三脚、その他の荷物は運転手、警備員に手伝ってもらって積込み、身体一つだけでようやっとよじ登った。サントスの港からこの駅までは機関車は二から三十両貨車を連結して来るが、ここからは絶壁のような坂なので日立製の歯車牽引クレマリェイラ方式の機関車で貨車六両だけを連結し、重量を軽くして走り出した。途中、森林があり、滝が見える。移民たちが乗ったロープ牽引アプト式の旧鉄道は十数年前ロープが切れる事故を起こし廃線になった。その旧鉄道の鉄橋の跡を右手に見ながら列車はぐんぐん登って行く。
 笠戸丸移民の一人は滝を見て「大したもんだなあ」と感嘆すれば「こんあ美しい国で金儲けが出来るとは有難い」と云う者も出る。「三、四年もすれば、長くとも五年でこの柳行李一杯に札束を詰めて帰る積もりですばい」と前途洋洋と威勢をつける熊本県人も出たと記述に残っている。
 三十分で急に平坦になってパラナピアカーバ駅に着く。我々二人はその駅で降りる。
 するとこの駅の警備員が来て、色々と説明してくれる。まず時計台を撮影する。
 一八七四年、英国の鉄道会社がサントスからジュンジアイー線の建設開始、海抜八百メートル山頂に第一番目のパラナピアカーバ駅を作り、断崖の森の中を切り拓き、あらゆる困難を乗越えて海抜〇メートルの海岸線まで下った。その地点にピアサゲーラ駅が落成したのが一八九〇年であった。
 同年、パラナピアカーバ駅にロンドンにてジョニー・ウオーカー・ベンソン氏が製作した時計台が建てられた。
 二年前、サンパウロから電車で二時間位かけて、パラナピアカーバ駅の下見に行った。この鉄道はリオ・グランデ・ダ・セーラ駅が終点でそこから先はバスに乗り換えるとのことでそのバス停を探す。この終着駅は田舎町で人家は駅の周りにあるだけだ。昔この近くに日本移民が沢山入ったと聞いていたのでブラジル人に問うと未だ日系農家が居ると答えが返って来た。昼食を済ませ、待っていたバスに乗り込む。目的地を目指すと、山道に入り、霧が濃くなって来る。窓を開けるとサンパウロの濁った空気と異なり、やさしく甘い感じで、両側にはブラジル特有のサマンバイヤー草が生えている。その奥には原始林の面影が未だ残っている。
 バスが街道より逸れて左に入るのでそこが目的地なのかと思っていると一工場の正門の前でUターンする。バスは経営上、この工場の労働者が顧客なのだろう。朝夕の通勤時間は工員で混み合うに違いない。又、元の街道に出る。そして峠らしき所が終点でそこで降ろされた。
(つづく)
(写真:サントス・サンパウロ間の鉄道)
2007年6月1日付け

笠戸丸第一回移民物語取材日記(5)  FDP記録映画製作所
《駅で上り坂撮影 重い機材運搬に親切な人々》
 途中、同じ景色を見ながら下って二十五分で元の出発点に戻った。そしてハイス・デ・セーラ駅まで歩き、列車が登る姿を撮っていると、サントスの警備員二人が迎えに来てくれた。我々が「もう終わった」と告げると機材を担いでくれた。カメラを組立てた所に戻り、トランクに納め、帰る準備が出来たことを待っていた警備員に言うと、ピアサゲーラ駅のバス停まで送ってくれた。
 この辺はタクシーが通らないので重いトランクをめいめい持ち、サントス行きのバスに乗込んだ。夕方のこと故、道も混み、乗客もだんだん増えてきた。その上、そのバスはエンコしていまい、全員が他のバスに乗換えなければならず、いやいや重い荷物で乗り降りを繰返すのかと腹の中で思っていたら、傍にいた青年が乗換えバスに荷物の積替えを手伝ってくれ、大いに助かった。サントスまでは一時間くらい掛った。長距離バスターミナルで降りる時、その青年がまた荷物を降ろすのを手伝ってくれ、本当に感謝だった。礼を言うと彼は再びバスに戻り、にこにこ笑顔を見せながら手を振っていた。
 もう我々はヘバッていたのでサンパウロ行きのバスに乗る前にガソリンを入れようと二人で頷き、バールでビールを飲みその勢いで帰宅のバスに乗込んだ。
 八月二十四日また、サントスに下り、再び撮影をするため列車に乗せてもらい、警備員付きで高原頂上まで登った。今回は先の補足で主目的はパラナピアカーバ駅にある鉄道博物館内の取材であるが、丁度十二時だったので昼食を済ましてから博物館に向かった。しかし入り口に行くと、許可がないと取材させないと断られた。
(つづく)
(写真:ハイス・デ・セーラ駅)
2007年6月6日付け

笠戸丸第一回移物語取材日記・終 FDP記録映画製作所 
≪手こずった14号埠頭撮影 それでも陸と海から映像収める≫
 MRS鉄道の許可を取ってあるからと粘ったがここの管轄は鉄道とは違い、ABPF協会に改めて申請してくれと協会のメールアドレスをくれた。しょうがないのので館内を下見し、下り列車でサントスに戻った。同行の警備員は一番重い機材を担いでくれた。そして警備員は来るまでクバトンの長距離バスターミナルまで送ってくれた。
 後日、ABPF協会に撮影許可申請書を出すと二千ドル寄付しろと言われたので断念した。ガラクタだけが並んでいたのでそんな価値はないように思える。
 一方、笠戸丸移民が下船した十四号倉庫岸壁も重要な場所なので是非映像に収めたいと撮影許可申請を申し込んだが色々な難しい条件を出され、二か月位、コネを手づるに運動したが遂に許可は出ず、波止場の中には入れなかった。それでしかたがないので小船をチャーターして海側より八号埠頭付近を撮影したのである。しかし当時の写真のような雰囲気は出ていない。
 二〇〇七年三月八日、もう撮影は出来ないと諦めていたらサンパウロ新聞の水本エドワルド会長から「撮影が出来るぞ」と声が掛かった。元新聞社社員O氏がサントス警察のワルドミール・ブエノ署長と親しいのでその筋から港の中に入れるとのことでぜひ「よろしく」と頭を下げる。
 十二時三十分、O氏が警察の車でジェロニモ警察官と一緒に迎いに来てくれ、その車でサントスに向かった。途中パラナピアカーバ付近を通過すると霧が濃く、あの付近の撮影は冬だけだと再確認させられた。
 サントスの警察に着くとワルドミール署長が出迎いに出てくれ、早速アラン刑事主任とルイス刑事がパトカーで十四号倉庫岸壁に案内してくれる。
 事前に許可を取ってくれたのでしょうスムースに映像を収めることが出来た。これで念願の笠戸丸のサントス到着の現在地状況の撮影が出来たのである。(おわり)
(写真:鉄道途中の風景)
2007年6月9日付け




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