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〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(上)(中)(下) ニッケイ新聞堀江記者署名記事。
ニッケイ新聞の敏腕記者、移住者関係記事を書かすとその才能が光る大好きな記者の一人堀江剛史さんが笠戸丸移民以前にブラジルに足を踏み入れた世紀の旅行家岡田芳太郎の謎に迫る。三回に分けての連載記事がニッケイ新聞に掲載されています。『〃世界徒歩旅行家〃と自称し、二十世紀初頭に北米、ヨーロッパ、中南米を三十年かけて旅行した日本人がいた。その人物の名は岡田芳太郎。一九〇六年にブラジルに入国、南米各地を歩き、一九三三年、聖州レジストロで客死している。享年五七歳。』堀江記者は、岡田芳太郎のブラジル日本移民資料館に残された日記八冊を紐解きその謎の解明に挑む。まだまだ知られない笠戸丸移民以前の日本人も存在するようです。それらの先達にも一〇〇周年を前に日を当てて見る必要がありそうですね。関係記事を今後とも拾って行きたいと思います。
写真は、ニッケイ新聞に掲載されていた岡田芳太郎さんです。


久振りに【堀江剛史記者】の読み応えのある記事がニッケイ新聞に掲載されている。皆さんにも是非読んで頂きたいと思い転載させて頂きました。(『私たちの40年!!』MLへの書き込みの前文より)

2007年5月17日付け ニッケイ新聞より。
〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(上)=笠戸丸以前にブラジルへ=世界を歩き、レジストロに死す
 〃世界徒歩旅行家〃と自称し、二十世紀初頭に北米、ヨーロッパ、中南米を三十年かけて旅行した日本人がいた。その人物の名は岡田芳太郎。一九〇六年にブラジルに入国、南米各地を歩き、一九三三年、聖州レジストロで客死している。享年五七歳。日本の新聞社に記事を送り、糊口を凌いでいたという岡田の生前を知る資料は少ない。ブラジル日本移民史料館に八冊の日記が残されているが、ウルグアイに関しては、単なる旅行者メモの域を超える詳細な国内情報が記されており、その目的は定かではない。広島出身と戦前の邦字新聞の記事にあるが、同県に岡田の旅券発行記録はなく、その謎は深まるばかりだ。笠戸丸以前にブラジルの土を踏んだ〃世紀の旅行家〃岡田芳太郎とはどんな人物であったのか。【堀江剛史記者】
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 笠戸丸から五年後の一九一三年、イグアッペ植民地(桂、レジストロ、セッテ・バラス、キロンボ・ジュキアの総称)に入植した日本移民は土地を購入、ブラジルの大地に確固たる意思を持って根を生やした。
 そのことを証明するかのように、レジストロ市営墓地には、日本語で彫られた立派な墓が数多くある。そのなかに、赤茶色の御影石に「岡田芳太郎」と書かれた墓がある。
 三三年、レジストロで客死した〃世界徒歩旅行者〃のものだ。ただ一晩泊まっただけの同胞を戦前の地元日系社会は手厚く葬った。そして、七十年以上経った現在でも墓を守る日系家族がいる。
 「この遺品をご家族にお返ししたい」――。
 エミア・コマツ・レイテ・デ・ソウザさん(81)は、七十年以上守り続けてきた黒光りした岡田の杖を愛でるように撫でた。
 酷暑の二月、レジストロ。町の名物である灯ろう流しが半世紀の歴史を持つリベイラ河畔はかつて、セントロとして栄えた。
 日本移民が上陸した港からほど近くに、移民たちが旅の疲れを癒した小松旅館(Hotel Riveira)があった。現在、その場所にエミアさん一家は住んでいる。
 旅館の経営者だった小松敬一郎氏(長野県出身、五六年死去)の長女のエミアさんは、八〇年代末まで同じ場所でペンソンを経営していた。
 エミアさんの長女、エリザベッチさん(60)は、「岡田さんのことについて、誰かが訪ねてくるのをずっと待っていました」と優しい笑みを浮かべながら、取り出してきた箱からセピア色の写真、各国硬貨、絵葉書などを広げた。
 そのなかにあった一枚の名刺には、「世界徒歩旅行家 岡田芳太郎」と書かれている。
   ▽  ▼  ▽
 この取材のきっかけは、サンパウロ人文科学研究所(本山省三理事長)が今年一月に立ち上げたHPwww.100nen.com.br/ja/jinmonken/)の一コーナー「ブラジル移民史こぼれ話」に鈴木正威同研究所理事が寄稿した「レジストロに客死した世界旅行家―岡田芳太郎」を見たことからだった。">ihttp://www.100nen.com.br/ja/jinmonken/)の一コーナー「ブラジル移民史こぼれ話」に鈴木正威同研究所理事が寄稿した「レジストロに客死した世界旅行家―岡田芳太郎」を見たことからだった。
 鈴木理事は、サンパウロ総合大学日本文化研究所の初代所長だった鈴木悌一の評伝を書く目的で、悌一がポルト・アレグレの神学校でポルトガル語を学んでいたころの青春日誌「山庵実録」を読み、ある記述に目が止まったという。
 「一九三二年七月二十八日 夜、世界徒歩旅行家岡田芳太郎を訪問する。汚い陰惨なホテルの一室に暗い電灯を掲げて、老いたる旅行家はマテ茶をすひながら語る。
 とにかく彼の忍従には一目おく。三十一年****年来を、足にまかして歩いて、彼は果たして何の感慨をや。
 ああ彼に吾人らの教養と活眼さへあるならば、もっと飄々のみち、絢爛たる旅行の思ひ出にふけり得たろうが」(一部略)
 鈴木理事は悌一の青年期特有の客気に満ちた精神状態を指摘しながら、驚きをもって続ける。
 「なんとかれは二〇世紀の始めから徒歩旅行をしている勘定になる」――。
   ▽  ▽  ▼   ブラジル日本移民史料館に七七年、レジストロ文化体育協会から寄贈された岡田の日記が八冊ある。
 アラスカ、カナダなどの北米、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパ諸国を始め、中南米各国を歩いた岡田は、ブラジルにはポルトガルのリスボンから、船に乗っている。
 「BRAZILの首府リオデハ子には上陸したのが慥か千九百六年明治三十九年の九月であった。人口八十万の首府に日本人は居ない九月であったが却***」(日記は原文ママ、****は解読不能の文字数)
 海外に旅行すること自体が一般的ではなかった時代に三十年もの長きにわたり世界を歩いた明治人、岡田芳太郎は、笠戸丸の二年前にブラジルに入国していた。(つづく)

2007年5月18日付け ニッケイ新聞WEB版より
〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(中)=新聞が伝える孤高の死=レジストロ邦人の温情
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 パウリスタ新聞七九年九月二十八日付けに、セイロン島(現スリランカ)から茶種をレジストロに持ち込んだ岡本寅蔵氏が、岡田との邂逅についての一文を寄せている。
 移民を迎えるため、サントスに赴いた岡本氏は立寄った潮旅館の玄関先で岡田と会っている。
―旅の支度もいかめしく、背には背のうを背負い、足にはゲートルを巻いての珍しい旅姿―
 「世界の珍しい記事を朝日新聞に送り、その原稿料で旅を続けている」と自己紹介した岡田に対し、岡本氏はレジストロでの再会を約した。
 約十日後、ジュキアの土井ホテルで熱病に罹っていた岡田を同伴し、小松旅館まで連れてきたという知人の話から、早速駆けつけるが、岡田はすでに事切れていた。
 「とにかく怖かったことだけは覚えている」。
 当時七歳だった小松エミアさんは、父敬一郎さんから七十四年前に聞いた記憶を辿る――午後八時ごろ、岡本氏の知人に付き添われて小松旅館に着いた岡田は、スープを飲んだ後就寝した。翌朝、ドアを叩いても出てこないので中に入ったところ、亡くなっており、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。「心臓発作ではないか」と皆が話していた――。
 三三年二月七日、享年五十七歳。
   ▽  ▼  ▽
 岡田の葬儀を終えた小松氏が日伯新聞社を訪問した記事が三三年四月二十九日付けに掲載されている。
 ―去二月七日レヂストロの小松旅館で客死した世界徒歩旅行家岡田芳太郎氏の遺骸は同植民地同胞によって手厚く葬られたが其後小松氏は跡始末の為サントスサンパウロに二回も足を運んで奔走此程ようやく片付いた由――
 記事によれば、岡田は日英西三国語よる遺言状を携えていた。
 一、致命の災難叉は頓死などにより遺言をなすべき余裕なき時の用意に書き記す
 一、着用の下股引きの内側に縫込みある米貨紙幣〇〇弗は余の死骸取方づけの費用(即ち葬式費並に墓場料)として〇〇弗、残余〇〇弗は立会の牧師或は僧侶の謝礼に使用されたし、かかる場合に遭遇したるとき色々手数を煩はしたる当人(人種を問はず)へ対し些か謝恩の印までに其当時携帯したる金員並に物品は悉皆贈与するものなり、但し各国にて苦心蒐集したる各種の金貨のみは東京上野博物館に寄贈せらるべきこと
 一、余の旅行券並に戸籍謄本及び総ての書類は之の地駐拶箚帝国大公使館叉は領事館迄お届けあらんことを乞ふ
 世界徒歩旅行家岡田芳太郎
   ▽  ▽  ▼   前出の岡本氏の投稿記事によれば、「ブラジル最初の日本人植民地に最後辿りついたのは不幸中の幸い」とレジストロの邦人たちは岡田をねんごろに弔った。
 「若しこの死者が壮健であったなら、植民の苦境を代弁して、日本政府に交渉してくれたかも知れぬ」と墓碑の建立を思い立ち、時の内山岩太郎総領事に訴え、四コント五百ミルレースが下付されたが、それでは足りず、〃貧者の一灯〃を寄せ集めた。
 「立派なと迄はゆかなくても、墓らしき墓を築き、故人も満足に眠られたことと思う」。そして盆には花を供えていたという。
 五四年には「墓がかたむいた為、すっかり組み立て替え」た、と記事は続き、老いのため、歩行がかなわなくなったことから、墓参ができないことを嘆く。
 「サントスの玄関先で貰い受けた岡田の写真を眺めては、冥福を祈り、老骨に涙している」(つづく)
    (堀江剛史記者)

2007年5月19日付け ニッケイ新聞WEB版より。
〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(下)=日記が伝える30年の彷徨=死の五日前、謎の絶筆=小松さん「家族に遺品渡したい」
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 ブラジルに最初の日本移民船、笠戸丸が到着した一九〇八年、岡田はすでに南米各地を旅行している。
 同年三月の日記によれば、―首府ASUNCIONに上陸した。之のパラグアイ共和国に日本人として足跡を残したのは私が最初では―としており、六月にはボリビアに入国。
 その後、十二年九月には再度ボリビアに入り、リベラルタを訪れ、出合った邦人の名前、日本の住所などを書き留めている。
 ブラジル移民史料館が所蔵する岡田の日記は八冊。日々雑記のようなものから、各地の地理、農産物の生産量なども書かれている。
 ウルグアイの国内情報が多岐かつ詳細に書き込まれている一冊もあり、一旅行者の興味の範疇を超える内容といえるだろう。
 ペドロ・バーロス、イタリリ、アレクリンなどの日系植民地も訪れ、日本人学校、日本人会の役員の名前を記しているものもあり、各地で移民たちと接触していたようだ。
 岡田が亡くなったのは、三十三年二月七日。同月二日が最後の日記と見られるが、乱れた文面から体調不良が読み取れる。
 ―フェリタ・ブラボ(一種の腫物)之も之も矢張りジュキ線一帯に亘って**して居る主に脚部を犯されるものである。酷い時は脚部から流出す膿は恰も瀧のやうだ(中略)少々悪くとも是非**は出発する云う意気込みで**支度を支えた(中略)プライニアから終点ジュキア迄*******からレジストロへ河蒸機で下り(中略)一応診断して貰った方が得策であらうと考えたからである―
 日記は泊まっているホテルの食事が「食欲の乏しい病人には無理である」と続き、―三四日前**事務所から出荷の命令電報が来た。大*氏カマラダを新たに雇ふて四百―で終わっている。(日記は原文ママ、****は解読不能の文字数)
 病気で医者の診療を急ぐ旅人の岡田に命令電報とは何のことだろうか。精神に何らかの変調をきたしたのか、謎の絶筆と言うほかない。 
▽  ▼  ▽
 日伯新聞三三年二月十六日付けによると、岡田が旅行に出た理由は次のようなものであったという。
―氏は広島懸生れ、明治三十四年(一九〇一年)七月苦学を志して布哇(ハワイ)に渡り次いで加州(カリフォルニア)に入ったが、時あたかも日露戦争当時でアメリカ人の侮日甚だしく為に東部に出たが最初に受けた民族的屈辱に対する義憤抑ふるに由なく、遂に学業を抛ち一切の物質欲を去って世界徒歩旅行に志した―()は記者注
 エミアさんが保管している岡田の遺品のなかに岡田の名刺があるのだが、 大阪市 の住所が記されている。岡田は本当に広島県出身だったのだろうか。
 県知事が外務省に旅券を願い出る下付表(広島県立文書館所蔵)によると、布哇に渡ったとある一九〇一年(明治三四)年を挟んだ明治二十八年から三十五年のものに、岡田の名前はない。
 渡米時に本籍が変わっていたか、他人の名前を使うケースもあったという〃密航〃ハワイ自由移民であったのか。
▽  ▽  ▼
 ―遺品は海興の中野氏立会の上、夫々遺言通りに処分し、旅券其他の書類は領事館に、三十八ヶ国の金貨は領事館を介して上野博物館に送って貰ひ、私に遺された品物や各国紙幣(一八カ国)は既に陳列棚を設けて記念として納めておくことにしました。墓石も御影石を選び碑文は内山総領事が引き受けてくれました。未だサントスの潮旅館にカバン其他があるので、これ丈は未だ片付いていませんが先づ大体を終えやっと重荷が下りた気がします。レヂストロへ来たら記念品を見て行って下さい、云々―
(三三年四月二十九日付け日伯新聞)
 レジストロ在住の村澤ペドロさん(63)は、小松旅館に展示されていた岡田の遺品を「子供の頃、よく見ていた」と懐かしがる。しかし、岡田の存在、そして同胞に対し、最高の礼を以って接したコロニアの温情を知る人は地元でも少ない。
 「『岡田さんを自分の家族だと思って、墓を守りなさい』とよく言っていました」。エミアさんは父敬一郎さんの言葉を振り返る。
 後年、展示されていた岡田の服や小刀を墓に収めたエリザベッチさんは、「墓をこれからも守り、遺品はご家族に渡せるまで大事にとっておきたい」と祖父の意思を継ぐ考えだ。
 〃世紀の旅行家〃岡田芳太郎は、どのような思いを胸に三十年もの間、徒歩旅行を続けたのであろうか。
 日記には、「私のモットー」が記されている。
 「一時の快楽は永久の苦痛の種を蒔くものなり」
       (おわり)    (堀江剛史記者)



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