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「榎本殖民」 苦難越え定住 メキシコ 田頭信行 中国新聞「世界の街角」から転載。
相川さんが書いておられうる中国新聞の「世界の街角」を見ていたらメキシコの欄にこれまでも取り上げて来た世界の移民史の中で一番古いメキシコの【榎本殖民】に付いて元JICAの日系社会青年ボランティアの田頭信行さんが「榎本殖民 苦難超え定住」という文を書いておられるのを見つけました。田頭さんとは連絡を取って見たいと思いますが、中国新聞WEB版に公開されている記事でもありお借りして皆さんにもご紹介させて頂きます。
榎本移民に付いては、このホームページの「各国の移住の歴史」欄に【日本人の血】と題した作家、柊治郎さんの書かれた書き下ろし作品の中にも支倉常長の遣欧使節団と共にこの榎本移民についても言及されている。今、読み返して見て「一世として海外で日本人の意気を高らかに示しておられる人達、二世、三世、四世として、その国の人になりきりながら、その国の発展に貢献しておられる人達、そのいずれにも熱いエールを送りたい。」との柊さんの暖かい言葉に熱く込上げて来るものを感じます。


「榎本殖民」 苦難越え定住 メキシコ 田頭信行
中南米の日系人と言えば、すぐにブラジル人やペルー人が頭に浮かぶだろう。しかし、ラテンアメリカ諸国で最初の移民は、メキシコから始まったといわれる。それも単なる出稼ぎ移民としてではなく、定住型移民として、国家政策の一環として開始されたのである。

最初の移民は「榎本殖民(しょくみん)」と言われている。この「榎本」という名は、時の外務大臣「榎本武揚」の名からきている。榎本武揚といえば、函館(箱館、北海道函館市)の五稜郭で江戸幕府の海軍司令官として政府軍と戦い、結果、敗れながらも、能力を認められ、明治政府の閣僚を務めた人物だ。
 当時の日本は、人口が増大し、貧困にあえぐ人が大勢いた。日本人が今後発展していくには、狭い日本では限りがある。別の所に「殖民」しなければならないと、榎本は考えた。
 一方、メキシコもスペインから独立を果たしたものの、労働力が不足していた。そこで、榎本は国策としてチアパス州の広大な土地を購入し、日本人の小さな国のようなものをつくろうとしたのだった。まずは三十六人の日本人を選抜して現地へ送った。これが一般に「榎本殖民」と言われる人たちである。
 この三十六人が一八九七年、グアテマラ国境付近のプエルト・マデロという港に上陸し、徒歩でエスクイントラという所まで行った。ちなみに、その距離は、百キロを超えている。そこでコーヒー農園を開く予定だったが、あいにく誰もコーヒー栽培についての知識がなかった。しかも、到着した五月は既に雨期に入っており、苗を植えても、すぐ流されてしまう始末だった。
 入植地は熱帯雨林だったので、病気にもかなり悩まされたようだ。結局、この第一陣はわずか三カ月で失敗に終わった。しかしその後、共同会社を設立するなどして、第二陣、第三陣の移民がチアパス州にやってきた。
 エスクイントラから三キロ離れた所にアカコヤグア村という村がある。そこに「榎本殖民記念碑」が建っている。記念碑の表には日本語で「榎本殖民記念」、裏には「夏草や つわ者共の 夢の跡」と日本語で書かれている。メキシコの日系人が資金を集めて設立したものだ。
 現在、この地域の日系人は三世が五十歳代で、四世、五世の時代になってきているが、今も日本人の血を誇りに思って暮らしている。



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