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浅草ロック座ブラジル親善公演【平成13年3月17日ポルトアレグレ公演】
浅草ロック座(斎藤千恵子会長主宰)は、伝統文化国際交流研究所の尽力によりブラジル親善公演を実施されポルトアレグレにおいても16日夜と17日午後2度に渡る熱演を繰り広げ江戸の伝統と東京のモダン浅草大衆芸能を堪能させて呉れました。浅草ロック座に同行しておられたノンフィクション作家の神山典士さんよりブラジル公演に付いて書かれた新聞記事(毎日新聞と週間実話)を送って戴きましたので掲載して置きます。写真は、ブラジル親善公演に寄せる斎藤千恵子会長のご挨拶文です。


神山 典士(こうやまのりお)一九六〇年、埼玉県生まれ。信州大学人文学部卒。これまでに明治の柔道家「前田光世」、小室哲也、前田日明等様々な人物を描き出して来た気鋭のノンフィクション作家。愛情のこもった眼差しながら、人間を鋭く洞察していく。主な著書に『ライオンの夢 コンデ・コマ=前田光世』(小学館)第3回「週間ポスト」「SAPIO」21世紀国際ノンフィクション大賞受賞、『小室哲也 深層の美意識』(講談社)、『アウトロー』(情報センター出版局)などがある。

「お前たち、あの夜流した涙を忘れるんじゃないよ。意地を持って踊って
よ!」
 アマゾンの湿った大気に、浅草ロック座会長、通称ママと呼ばれる斎藤智恵
子(74歳)の大声が吸い込まれていく。ステージの上では、八人の踊り子たち
が着物にかつら姿から次々と早変わりを繰り返して日舞、洋舞、沖縄民謡、
アップテンポの民謡等を汗だくで踊っている。
 ここはブラジル、アマゾン川河口の街ベレン。外では滝のような大雨が降り
続き、熱帯の雨期特有のじめっとした空気が身体にまとわりついてくる。
 それにしても何故ロック座の踊り子たちがアマゾンなのか。何故ブラジル公
演なのか。何より、何故僕はここに来ているのか。熱気で頭がボーッとしてし
まい、一瞬目の前の光景が信じられなくなる。それでも舞台裏や会場入り口を
駆け回り、「開演三時十分予定でよろしいですか」「駄目よ、それじゃ化粧が
間に合わないでしょう」「でもお客さんが凄くたくさん待ってくださっている
んです」「じゃ、三時十五分に何とか間に合わせるわよ」と時間に追われなが
ら踊り子やママとのやりとりを繰り返えす。いつもならペンとノートをもって
取材していればいいのだけれど、人手不足の中、急造舞台監督を命ぜられてし
まった。不惑の年を迎えて、ロック座の舞台監督もどきをやるとは。しかもブ
ラジルで! 何とも奇妙な旅が始まったものだ。
        ※
 そもそものきっかけは、ママとの忘年会の席だった。「アマゾンはいいです
よ」と何かの拍子に僕が言ったら、「あらそう。じゃ、私も行きたいわ」とマ
マが身を乗りだした。「じゃ、一緒に旅行にでも行きますか」「いやそれよ
り、踊り子たちも連れてチャリティー公演でもやりましょうよ」「ええっ、そ
んなことできますかぁ。お金もかかりますよ」「いいわよ、心配しないで」。
74歳とは思えないママの好奇心から、話しは始まったのだ。
 現在ブラジルには百三十万人と言われる日系人社会がある。斎藤がすぐに
「日系人へのチャリティー公演」を思いついたのは、彼女の別荘と稽古場のあ
るラスベガスで現地の日系人との交流の体験があったからだ。異国に生活する
日本人たちに、ロック座の踊りをプレゼントしたい。長い間日本を離れ異国に
暮らす日系人たちの喜ぶ姿が斎藤には見えていたに違いない。
 そしてもう一つ、斎藤にはロック座所属の踊り子たちへの思いもあった。普
段彼女たちは全国の舞台に散り散りになり、一緒に旅をすることができない。
「自分の娘」と広言して憚らない踊り子たちと、自分が元気なうちに旅をして
おきたい。異国でステージを作り上げる中で、踊り子たちの誇りや自信も植え
つけたい。そんな思いもあったのだ。
 とにかくノリノリで話が弾み、わずか2カ月たらずでサンパウロ、ベレン、
そして南部のポルトアレグレの3都市5公演のスケジュールが決まった。3月
7日、成田空港には8人の踊り子と着付け、床山、照明、音響、ビデオク
ルー、カメラマン等、18名のメンバーと総重量約1トンの荷物が集まった。中
身は着物が約60枚、かつら18個、無数の小道具、そしてママがお土産用に用意
した梅干しやお茶、真っ赤な招き猫等々。踊り子のメンバーは、4代目東八千
代、沙羅、東夏美、倍宝美々、梓めぐみ、浅霧えりな、そして斎藤が経営する
戸倉上山田温泉の芸者置屋「参見番」から豆千代とミクの二人。浅草の舞台で
も十分通用する完璧なメンバーと舞台衣装だ。
 とはいえ目指すは英語も通じないアウェーの地、ブラジルだ。24時間以上も
飛行機に乗り続ける地球の反対側の国だ。はたして踊り子たちは踊りきれるの
だろうか。お客さんは集まってくれるのだろうか。ママも不安な気持ちで一杯
だった。そして不幸な事に、最初の公演地、サンパウロで、その不安が的中し
てしまったのだ。
        ※
「お前たち、何でママに恥をかかせるのよ。お前たちにやる気がないなら、こ
のままゴメンナサイして日本に帰ろうか。どうなのよ」
 到着二日後。客がひけた深夜の劇場の客席で、涙まじりの斎藤の声が響い
た。その前で踊り子たちは化粧も落とさずに首をうなだれている。この日の公
演は舞台のあるカラオケスナックで行われ、客席は満員だった。途中の芸者遊
びや記念撮影の場面では大いに盛り上がり、拍手や歓声も絶えなかった。とこ
ろが斎藤には早変わりや幕間の繋ぎがギクシャクしたのが気に入らなかった。
踊りも一部がマスターできておらず、隣の踊り子を見ながら踊る場面も見られ
た。
 それにしてもこの日は条件が悪過ぎた。何より楽屋が狭く3畳ほどしかな
い。つい立を立てて仮設の楽屋も造ったが、8人が二時間で14曲踊り、一人
7、8回の早変わりを繰り返すステージを作るにはあまりに狭すぎた。照明も
容量が足りず、思ったような灯が作れない。踊り子たちも、日本での練習時間
が2、3日しかなかったこともあり、自分たちの準備不足は最初からわかって
いた。
 そもそも今回のブラジル公演は、彼女たちには普段の舞台とは異質のチャレ
ンジングな試みだった。彼女たちは普段は裸で勝負している。お客さんもそれ
を楽しみにしているから、最後は脱げば舞台を終える事が出来る。
 ところがブラジルの日系社会は、モラルが昭和初期で止まっている。今でも
天皇の写真を居間に飾っている人も少なくない程だから、予め「若い女性の裸
は受け付けにくい」と言われていた。だから斎藤は踊り子を脱がせずに、二時
間の舞台を踊りのバリエーションとテンポ、そして艶やかな衣装やかつらと早
変わりで勝負しようと振り付けをしてきた。この夜はその演出に、踊り子たち
がいま一つついていけなかったのだ。
「ママ、ごめんなさい。私たち明日からは頑張りますから、やらせてくださ
い」
 全員を代表して東夏美が涙声で言う。僕らスタッフは為す術なく立ち尽くす
のみだ。それにしても日頃から斎藤ファミリーと言われるロック座の結束は固
い。思わずこちらも涙ぐんでしまうシーンだ。
「よし、明日は頑張って、朝から練習だよ」 長いミーティングの後、機嫌を
直したママがそう言ったのは深夜3時だった。翌日は午後3時から、千二百人
収用の大劇場での公演が待っている。到着2日後は、ちょうど時差ボケもきつ
いところだが、翌朝は8時集合ですぐにリハーサル開始となった。踊り子とス
タッフ全員「何がなんでも公演を成功させなければ」と気持ちが高まってい
く。
 冒頭に書いた「あの夜の涙を」というママの発言は、この時のことを指して
いる。サンパウロの次のベレンでもポルトアレグレでも、斎藤は舞台のリハの
時に鋭くそう叫んで、踊り子たちの集中力を高めていた。
 今から振り返ってみると、あの夜があったから今回の旅と公演は成功したの
だと思える。あのハプニングは、踊り子の気合を入れて気持ちを結束させるた
めのママの作戦だったのだろうか。
 結局、サンパウロは千二百人収用の会場に千六百人集まった。チケットは二
週間で売り切れ、新聞に「満員御礼」の広告を出したほどだったという。ベレ
ンでは、当初四百席を並べていたのを途中から急遽二百席追加した。関係者か
らは、こんなに日系人が集まったのは5年ぶりだと言う声も聞こえてきた。中
には8時間かけてバスでやってきた人もいる。400キロの距離を車を飛ばし
て来た人もいた。ポルトアレグレではブラジル人対象の公演も行われた。観客
を舞台にあげて着物とかつらの着付けをすると、見事に現れた白い肌の芸者姿
に、本人も会場も大喜びだった。
 どこの会場も終演後は踊り子と観客が一つになって、「ありがとうね」「寿
命が延びたわ」「また来てね」「綺麗だったわよ」と、涙涙の抱擁が繰り返さ
れた。ママも持参した手拭いにサインしたり、会場で梅干しを配ったりの大
サービスだ。
 ブラジルの大地で、踊り子たちは失敗や悪条件を乗り越えて見事なステージ
を作った。今回の旅で、自分たちの踊りに誇りを持てたことは間違いない。超
満員の観客と大きな拍手、そして暖かい声援。いづれも日本では体験できない
素晴らしいものだった。
 二週間の旅を通して、斎藤の思いが踊り子にも伝わったのだ。
        ※
「私、アマゾンに移住してもいいな」
 アマゾン川クルーズの途中、褐色の水面を見ながら美々が笑った。途中船が
川に浮かぶ島に寄り踊り子たちが上陸すると、驚いていたのは原住民たちだっ
た。タンクトップ、ノーブラにTシャツ、厚底サンダル、豹柄のポシェット、
ミニスカート姿の一団がジャングルに入ってきたのだから無理もない。
「ブラジルのお母さんがね、私たちにまた来てって言ってくれるんですよ」
 ベレンで体験したホームステイの様子を嬉しそうに話してくれたのは夏美
だった。踊り子たちは二人づつに分かれ、3泊のホームステイを体験した。普
段はヘビースモーカーな彼女たちもここではおしとやかになり、新しいお父さ
んとお母さん、兄弟姉妹たちと暖かい時間を体験した。
「最初は来るのは嫌だったけれどサ、こんな旅はめったにできないよね」
 四代目も途中からいい表情になってきた。隣で沙羅が、ヘソ出し姿で笑って
いる。
 驚くのは、上山田の芸者二人だ。途中の歓迎会でブラジル人青年にナンパさ
れ、その夜朝まで踊っていたのはわかる。けれど翌日は自分たちからその青年
に電話をかけて、二日連続で朝帰りだった。いったいどうやってポルトガル語
の会話をしたのだろう。さすが接待のプロだ。
 15日間の旅を終え、21日、18名と荷物は奇跡的に無事に帰国した。浅草に帰
り「お疲れ」のビールを飲むと、ドッと疲れが出てくる。
 ところがここでも一番元気なのはママだった。
「さ、明後日からまた舞台よ」
 踊り子たちは、再び多くのファンが待つ劇場に散っていく。凱旋公演は4月
1日から15日まで戸倉上山田ロック座にて。ブラジルを体験した踊り子たち
が、一皮むけた踊りを披露してくれるはずだ。
 今度は僕も舞台裏からではなく客席から、彼女たちの踊りを楽しみたいと
思っている。


「嫁に行け行けと言われて来て良かった」(五十代男性、日系人)「涙がポロ
ポロ出ました。とても素敵な舞台でした」(四十代女性日系人)「小さい頃か
ら興味のあった日本文化に触れることができました。ありがとうございまし
た」(四十代女性、ブラジル人)。
 二時間の舞台が終わりロビーに出てみると、そこは汗と涙で化粧がはげた踊
り子と、サインや握手をねだる観客たちとの見事な交歓の場になっていた。
 ここはサンパウロ。雨期とはいえ、熱い夏の日差しがふり注いでいる。よも
やこの街に、浅草ロック座の踊り子八人と共に来る事になるとは。年末の忘年
会で話がはずみ、斎藤智恵子会長(七十四歳)の「日系の人たちに踊りをプレ
ゼントしよう」のひと言で、三月中旬、総勢十八人、着物かつら小道具の総重
量約一トンの大ツアーとなった。
 訪れたのはサンパウロ、アマゾン川河口の街ベレン、そして南部のポルトア
レグレ。三都市五公演、ブラジル国内だけでも約一万キロの移動だ。
 しかも今回、人手が足りずに僕は「舞台監督」を仰せつかった。楽屋や舞台
裏を駆け回って踊り子の世話をする。「そろそろ出番です」「まだ化粧ができ
てないよ」「でももうお客さんがロビーに溢れてるんです。病人が出そうなん
ですぅ」。
 旅立ち前は、はたしてお客さんが集まるのか不安だった。ところが蓋を開け
てみると、サンパウロではチケットは二週間で売り切れ、千二百席の会場に千
六百人がつめかけた。ベレンではバスで八時間かけてやってきた団体や、四百
キロの距離を車を飛ばしてきた人もいる。老人ホームへの慰問も行い、百歳の
移民一世のお婆あちゃんが喜んでくれた。ポルトアレグレではブラジル人対象
の公演も行った。舞台でブラジル人女性に着物を着せかつらをつけて、白い肌
の芸者を誕生させたら会場はヤンヤの喝采に包まれた。二時間のステージで全
十四曲。踊り子たちは汗だくだ。
「最初は来るのは嫌だなと思っていたけれど、こんなにお客さんが喜んでくれ
て来て良かったな」
 旅の途中で、四代目東八千代が言った。今回踊り子たちの課題は「裸」では
なく踊りで勝負することにあった。日系人たちは、今でも昭和天皇の写真を居
間に飾っている人が少なくない。モラルが昭和初期で止まっている。しかも会
場には子どもも来る。
「若い女性の裸は抵抗が強いので、踊りだけで魅せてください」
 現地のプロデューサーにそう言われ、斎藤は踊りのバリエーションと衣装の
豪華さ、そして早変わりで舞台を創ってきた。旅の前に斎藤は言っていた。
「踊り子たちにもいい経験だと思いますよ。ロック座に来るお客さんとは違う
熱気があるはずですから。普段やっている踊りと今回のために振り付けた踊り
を混ぜて、お客さんを二時間楽しませる事が出来たら自信になりますね」
 斎藤は三十五歳の時に文字通り裸一貫で舞台に立ち、そこから全国八館の
ロック座チェーンを築いてきた苦労人だ。ところが何年かに一度、出費を覚悟
で異文化に出る旅を繰り返している。昭和四十二年には踊り子五人でヨーロッ
パ公演を行った。パリを皮切りにイタリアやドイツにも足を伸ばし、約半年間
各地のナイトクラブ等で踊ってきた。ここ十年ほどはラスベガスにダンスの稽
古場を持ち、現地の日系人のお祭りに花魁や芸者踊りで参加している。
「やっぱり海外に出ると鍛えられますね。それに成功したら踊り子のプライド
になるでしょう。どんな仕事でも誇りは大切ですから」
 今回の旅も、まず言葉が通じない。照明も音響も十分ではない。中には八人
の衣装を置くにはあまりに狭い楽屋もあった。しかも舞台監督は素人だ。一
度、踊りに見とれてピンスポットを消し忘れてしまった。暗転になるはずの舞
台でいつまでも灯が消えないから、踊り子は舞台から降りられない。何やって
んのよ! と後で怒られた。
けれどそういう中で浴びる拍手は格別だ。日本人が不得手のアウェーで、立
派に舞台を創ってきた。
「私、この街なら住んでもいいと思うな」
 アマゾンクルーズの途中で倍宝美々が笑う。ベレンではホームステイも体験
し、踊り子にはブラジルの両親もできた。最後の日はカラオケで盛り上がり、
空港では別れを惜しんで泣きじゃくった。
 二週間の旅。僕は体重が三キロ減った。旅の後半はあれこれ日本食が頭に浮
かんで困った。ところが一番元気なのはやっぱり斎藤だった。帰国早々、五月
に浅草でプロデュースする「橘菊太郎劇団」の製作に取りかかっている。
 あのパワー、見習わなきゃな。南米の巨大な積乱雲と共に、アレコレ思い出
深い旅だった。






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