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難難辛苦の暴風雨に耐えて! サンパウロ新聞WEB版より。
サンパウロ新聞の山口貴史記者が取材にポルトアレグレに来られ大学も冬季休暇に入り週末を利用してけい子に運転させてサンタマリアまで皆で出かけた。お世話になった山本 豊子さん、ANDORE SOARESさんとは大阪の北辰書道会のブラジル支部サンパウロの石川爽香先生のお弟子さん同士で毎月大阪に作品を送っている仲間。山本さんに直接お会いするのは今回が始めてでした。雨のサンタマリアでは近くの2億年前の木の化石の町MATAも訪問し楽しい週末を送ることが出来た。山口記者がサンタマリア移住地の50周年関係の記事を纏めて掲載しておられるので皆さんにもご紹介して置きます。
写真は、前列にしゃがんだ山口記者と左端しにANDRE SARES先生ご夫妻、山本さん親子と私達の夕食後の記念写真です。


難難辛苦の暴風雨に耐えて!サンパウロ新聞WEB版より

≪日本人の歴史を永遠に≫
≪半世紀迎えたサンタマリア移住地≫
 【サンタマリア発】「移民の歴史、私たちの事実をここに残したいから」――。ポルト・アレグレから西へ約二百八十キロ、南大河州サンタマリア市の日本人が、今年同地入植五十周年を迎え、今年四月には記念式典が行われた。同地の日本人の歴史は、一九五七年四月、アルゼンチンとの国境サン・ペドロ耕地への入植から始まる。入耕先は、耕主の経営難、契約不履行、劣悪な環境、そして相次ぐ退耕者。生活は難航を極め、サンパウロ新聞の呼びかけで日系コロニアが義援金を募るほどまでに至った。このような歴史を歩んできた移住者にとって、五十年という歳月は感慨であるに違いない。本紙に掲載された、過去の関連記事とともに振り返る。(山口貴史記者)

≪耕主と対立で死活の瀬戸際も≫
≪本紙が義援金呼びかけて支援≫
 サンタマリアの日本人の多くは、一九五七年四月リオグランデ港に着伯した「あふりか丸」の乗船者で、木村実取氏の斡旋で移住した通称「木村移民」と呼ばれる人たち。現在でも同地には十家族ほどが残っている。
 「木村移民」の日本人三十三家族は、アルゼンチンとの国境の町ウルグアイアーナのサン・ペドロ耕地へ入植。南大河州への初の集団移住として、駐亜大使、リオ警視総監を勤めた経歴を持つ耕主だったバチスタ・ルザルド氏らから華々しい出迎えを受けた。
 「ルザルト氏一族郎黨が花火を打ち上げて出迎え、耕地の門には大きなアーチもしつらえられ、―(中略)―海協連の大澤(大作)氏も感激的な報告書を本部へ送ったものだった」(本紙、五八年一月四日付け)。
 しかし、耕主の契約不履行により、一転耕地での生活は過酷を極めた。住居、給料、労働環境の問題で辛酸をなめた。
 「農年度から収穫を五分五分にするという條件なので、今までカマラーダ並みの安い賃金で齒を喰いしばつて働いてきた移住者にとっては死活の關頭に立たされたようなものである」(前同日付け)。
 一人ふたりと退耕者が出始め、入植者たちの中には日本からの所持金も使い果たし、転耕する資金さえ失った家族も現れた。
 七二年六月二十三日付、『サンタマリア入植十五周年記念特集号』には、労働賃金の状況についていくつか具体例が書かれている。
 「水田の水路工事に老若男女延べ二千二百人の移住者を動員して全長二・五キロの水路を完成したにも関わらず、―(中略)―約二百コントにのぼる支払いを拒否した」。
 「二か月間毎に毎日百人以上出勤して稲刈りをした労働賃金約合計三百コント以上の正当な支払いを拒否したうえ、食費などの法外な計上によってむしろ耕主側が移住者に貸越しである」。
 原因は、「耕地側の無計画性および耕主の對世間的な不信用に伴う資金的な無能力の二言に盡きる」(五八年一月四日付け)とある。
 生活が行き詰まりを感じ始めたサン・ペドロ耕地の入植者たちは、海協連の大澤大作支部長に転住を直訴した。
 大澤支部長は、地元の新聞、ラジオを通じて転住先探しに奔走した。結果、最初の援助の手を差し延べたのは当時のサンタマリア市長だった。市長は市議会を開き、市近郊耕地への家族受入を決定した。
 それに伴い、本紙では『同朋に訴える、皆さんの温かい心を…』(五八年二月二十八日付け)と題して義援金を呼びかけ、ブラジル全国各地の日系コロニアから義援金が集まった。
 結局、サン・ペドロ耕地に入植した三十三家族は全員退耕。その内、二十四家族はサンタマリアへ転住した。
 それから約五十年の歳月が流れた現在、サンタマリア日本人会(野田智彦会長)では、サン・ペドロ耕地から始まる自分たちの歴史を後世に残していこうという取り組みが始まった。
 ポルト・アレグレから車で約四時間、サンタマリアを訪ねてみた。
≪「五十年史」編纂に着手≫
人口約二十七万人、南大河州の「心臓」であるサンタマリアは、連邦大学を筆頭に九つの大学を要する学園都市。各地を繋ぐ鉄道の要所として発展し、現在では近隣に空軍基地をもつ。
 十九世紀初頭には、スペインとポルトガルによる領有権争いが繰り広げられた歴史から、いたるところにその名残を残す建造物も並ぶ。
 今年五十周年を迎えたサンタマリア日本人会(野田智彦会長)の会員は十七家族で、その内サン・ペドロ耕地からの入植者が現在十家族ほど。農業や市場で野菜を売る卸売業、年金などで生計を立てている。
 子弟は出稼ぎに行き、ほかの日本人会と同様、高齢化で縮小傾向が進む中、自分たちの歴史を残すために『サンタマリア入植五十周年誌』の編纂が始まった。
 サン・ペドロ耕地への入植者が多い同地では、一九五七年四月リオグランデ港着の「あふりか丸」の着伯を同地入植元年と設定。
 十五、二十五、四十周年など記念年には式典を開催してきたが、記念誌の編纂は今回が初めてとなる。
 現在、サンタマリア連邦大学歴史文化保存学部のアンドレ・ソアレス教授の協力を得て、作業が進行中だ。
 アンドレ教授は墨絵や書道をたしなむほどの日本通として地元では知られており、今回の企画を聞いて全面協力を約束した。
 すでに日本人家庭に日本語のアンケート用紙を配布し実態調査を行っているほか、一軒一軒自宅を周り聞き取り調査も進めている。
 発行は来年の二月を予定。日本語、ポルトガル語の両方の文書、そして移住した当時の写真などを盛り込んだものになるという。
 記念誌編さんのためにアンドレ教授に話を持ちかけた山本豊子さん(六十六歳、熊本県)は、十五歳のときにサン・ペドロ耕地へ入植。山本さん自身はもちろん、耕地での家族の苦しみを嫌というほど見てきた。
 「イタリア系移住者の記録はあっても、この町の日系の歴史は今までなかった。子弟に見てもらうためにも、歴史をここに残しておきたかった」。
 山本さんは、墨絵、書道という特技を生かして五日から市内のショッピングセンターで日本文化展を開催中。少しでも日本の良さを理解してもらおうと奮闘中だ。
 日本人会の野田会長(六十九歳、熊本県)もまた、サン・ペドロ耕地入植者の一人。五十周年を迎えて「長いようであっという間でした」と過去を振り返る。
 一九五八年当時に日系コロニアから集められた義援金が、サンタマリアへの転住の資金になったと今でも協力者への感謝の気持ちを忘れていない。
 今年四月二十一日には、市内近郊で日本人家族・親類、友人ら約九十人を集めて五十周年記念式典を開催した。
 「ここまで来れたのは皆様のおかげだと思っています。おかげさまで元気でやっていることをみなさんにお伝えします」。
 今後は、ブラジル全国に散らばる「あふりか丸」の同船者と友好を深めていきたいという。
 「できれば同船者の方とお互いに連絡を取り合いましょう。南大河州に来た時はぜひサンタマリアへお越し下さい」と連絡先(野田会長、電話55・3214・2131)を記者に預けた。
2007年8月9日付け



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