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チェ・ゲバラの夢と現(うつつ)〜革命に生きたフィデルの盟友  JETRO渡邉所長の書き下し原稿
JETROサンパウロの渡邉所長より掲題の原稿を写真と共に送って頂きました。ペルー駐在中の2003年に大学時代から一度は訪問したいと思っていたチェ縁の地を訪ねられた時の思いでを語ってくれています。
キューバ革命が起きた1959年に早稲田に入学、60年安保闘争に明け暮れた当時を思うとカストロ、チェは当時の学生の憧れの人物であった。政治への挫折、移住と言う人生の選択を選んだ私の人生にも影を落とした英雄の最後を知る事が出来再度ボリビアに出向く機会があれば行って見たい場所となった。
写真は、若い頃の英雄2人の写真、チェの遺体も送って頂いているのですが敢えてこの欄では渡邉さんの旅の写真の一枚を使わせて頂きました。


「撃つなー!オレを殺すより生捕りにした方が君らにはずっと価値があるぞ!」・・・・・・・・・。
これはTVドラマの台詞ではない。東西冷戦下の1967年10月8日、世界に名を馳せた一人の革命家の短い人生が終わろうとしていた。南米ボリビアで共産主義革命を目指すゲリラ戦を指揮するチェ・ゲバラ(39才)が政府軍に包囲され降伏した時に叫んだ言葉である。
生き延びるための懇願であった。その翌未明、イゲラ村に連行されたチェは3発の銃弾を浴びて絶命した。遺体は70キロ離れたバジェ・グランデ市に移送され全世界に公開された。
1959年のキューバ革命、60年コンゴ動乱からその後ボリビアへと半生を革命のロマンに賭けた英雄の最期は聴くと哀れを誘う。「チェは痩せて顔面蒼白、とても悲しそうに見え殆どしゃべらなかった」と当時、まだ16才の娘だったという村のカルメンが証言する。政府軍兵士に頼まれパン、卵、コーヒーの食事をチェに運んだ、とも言う。どんなに意志強固な革命家も人は死を目前にして不安と孤独に襲われて普通の人間に還る。

ペルー駐在中の2003年4月、私は人生で一度は見たいと思っていたチェゆかりの地を訪ねた。ボリビア東部低地の大都市サンタクルス市から車で300km南のバジェ・グランデに入る。更に泥でぬかる雨季の山道を四駆で3時間超、悪戦苦闘し緑に覆われた寒村イゲラに着く。海抜2,000mにあるこの小さな村は人気は少なく、誰が建てたのか広場の大きなチェの彫像と十字架が目立った。チェが処刑されたという小屋に入るとチェが縛られて座った椅子の傍に一輪の花が添えてある。チェをこの目で見た、という証人カルメンの生々しい話は私の強い好奇心をそそった。早くしないと日が暮れる、と言う案内役フアンの先導でチェ降伏の地点に向かった。チェが包囲された地点は村から更に徒歩で道なき道を2時間以上も行った、「エル・チューロ」と呼ばれる深い谷の底にあった。水量は少ないが抜けるように透き通る水が流れるきれいな谷だった。36年前のあの日、戦闘で負傷して谷底を敗走するチェの姿を想像しながら谷を上流へと進むと忽然と眼前に空間が広がる。そこにある大きな岩には「英雄チェ・ゲバラ戦没30周年……」の白いペンキ文字が見える。

政府軍がチェの遺体を公開したバジェ・グランデのマルタ病院の洗濯場も当時の面影をそのまま残す。遺体が置かれた長方形のコンクリート製の洗濯槽は私が学生時代に報道写真で見た、そのものだった。洗濯場の壁にはチェの死後、世界中から訪れた人々のチェを称える無数の落書きが連綿と続き、チェの人気には今だ想像を超えるものがある。

共産主義勢力によるチェの偶像化を恐れた当時のボリビア軍事政権はチェとそのゲリラ兵士の遺体を市営墓地近くの空地に夜陰に紛れて密かに葬り長く行方が知れなかった。冷戦崩壊後の1997年、時のバンセル政権が軍の情報をたよりに何とか遺骨を発掘し、チェは30年振りに家族と盟友フィデル・カストロが待つハバナに帰った。しかし21世紀の世界は東西冷戦が終わり旧社会主義圏が競って市場経済に参入し、自滅するはずだった資本主義体制は地球規模の繁栄を謳歌する時代へと変貌した。チェが目の当たりにした30年後の世界はその夢とは裏腹の現実であった。 (ジェトロ・サンパウロ 渡邉裕司)



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