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体小さき人々の小幅だが確実な歩み(その1―3)赤嶺 尚由さんのサンパウロ新聞への寄稿文です。
元邦字新聞の記者をしておられた赤嶺 尚由は、今でも邦字新聞に政治・経済論評、紀行文等を寄稿しておられ『私たちの40年!!』でもこれまでに色々掲載させて頂いております。今回は、ブラジル東北伯のレシーフェに弁護士をしておられるご子息と出掛けられ30年前に書いた一文への赤嶺さんらしい思い入れと愛情を持って表現されている【体小さき人々】への考察と30年間持ち続けた疑問符の解明を彼等に対する鎮魂歌として書き残したいとの気持ちで現地まで出掛けられて書き綴った紀行文をお借りしてご紹介させて頂きます。
写真は、各文章の最後に説明があり得難い写真を送って頂いておりますが、矢張り最後のレシーフェの町を代表するBOA VAIGEMの海浜の写真を使わせて頂きました。レシーフェは、珊瑚礁を意味しこの海浜に長く広がっている感じが良くでた写真です。


体小さき人々の小幅だが確実な歩み(その1)サンパウロ赤嶺 尚由

これまで何回か書いたこともありますが、アテネ・オリンピックの際に、マラソンのブラジル代表であるヴァンレルレイ・デ・リマ選手が精神異常者の競技妨害に遭い、もう一歩というところで、掴みかけていた金メダルを逸しながらも、少しも悪びれずに、「誰を恨むことなく、巡って来る次の機会に希望を託したい」という爽やかな発言で、世界中を感動の渦に巻き込んだ時、「こんな立派な考え方をするブラジル人と僅かな期間だけでも、一緒に同じ国で駐在員として、暮らせる自分を限りなく幸せに思う」と、これ又、いち早く温かい声援を送り、明るい話題を提供して下さったのがブラジル三菱商事中南米代表の要職に就かれていて、この国をこよなく愛していらっしゃる工藤章さんでした。
典型的なブラジル人の良さを持つヴァンレルレイ選手(パンアメリカン大会では、途中棄権)に対する賛歌の他に、ブラジル日本商工会議所(田中信現会頭)のコンサルタント部会で数年前からやっているメーリングリスト<Bate-Papo>上に、工藤さん(会議所前会頭)からは、機会ある度ごとに、仲間たちに大変示唆に富む投稿をしていただいたり、また、私が書く拙文にも、極めて有り難いコメントをしばしば寄せて下さいました。今回は、愚息に付いて行く形で、六月中旬にペルナンブーコ州を旅行し、同州を中心に東北伯地方に数多く住んでいると伝えられるアノンやアナンと呼ばれる体小さき人(小人)たちの生活に関する報告を少し書きたい旨、同欄で知らせたら、早速、工藤さんから、行っていらっしゃいのエール(応援歌)が届いたものでした。
確か今からもう三十年近くも前になると思いますが、私は、三紙あった当時の有力邦字新聞の中の一紙に<ジョン アマーロさんの教訓>という見出しで、ペルナンブーコ州のグラバタイー市辺に住むとかいうアノン(Anao=長年の栄養失調のため、慢性型の発育不全となり、それが何代も重なる内に、遺伝子として組み込まれて、大人になっても、背丈が1メートル20センチ以下にしか成長しなくなった男性の小人)である夫のジョン・アマーロさんとAna(アナン=同じような原因で背丈が大体1メートルちょっとにしか伸びなくなった女性の小人)である妻のことに就いて拙文を書き、当時、まだ彼らの存在の事実が余り広く知られていなかったせいか、ちょっとした反響を呼んだことがありました。
 アマーロさん夫妻は、当然のことに、背丈が伸びなかったため、就ける仕事も非常に限られていて、仕方なく誰もが避けたがる砂糖キビ伐り(ペルナンブーコ州は、聖州に次ぎ全伯第二位の砂糖キビ生産の中心地)に朝暗い内から、夕方の暗くなるまで、従事していました。砂糖キビの伐り取りは、一日中、立ちっぱなしで、極度に体力を消耗して脹脛(ふくらはぎ)の痙攣や炎症のために、時には一命を失うほどの重労働だと伝えられています。自分の背丈よりも高い砂糖キビを倒すという毎日の過酷な野良仕事にも拘わらず、アマーロさん夫婦の暮らしは、五、六人の子沢山のせいで、いつも貧しく、夫婦の食事は、朝のコーヒーと夜のマンジョッカの粉(フバ)とフェジョンを主体とした本当に粗末な内容のものばかりでした。
 前述しましたように、当時の私が大変に驚き、極めて関心を抱いたのは、比較的食べ物に恵まれ、時には捨て放題のようにも見えたこの国で、栄養失調の状態が親から子へと何代にも亘って続き、背丈が伸びないその原因が堆積し、蓄積されたままの状態になり、遂には一つの固い遺伝子の核として、人体に組み込まれてしまったという事情でした。食物は、広大で豊かな土地で順調に生産されていて、わりかし豊富に出回っている筈なのに、それを買うお金がない。つまり、この国の貧困のひどさや所得格差の根の深さが如実に現われた一つの側面として、私は、やがてそう理解せざるを得なくなりました。
 しかし、それよりも何よりも、新聞記者の仕事を既に離れていた私の脳裡に、非常に鮮明に印象付けられ、Cmovido(感動的)ですらあったのは、アマーロさん夫婦が自分たちは、仮令、食うや食わずのままいても、五、六人いる子供たちに「他人の持ち物には、絶対に手を出すな。他人のことをうらやんではいけない」と、最近のこの国の人々がすっかり忘れ掛けてしまっている日々の教訓をあの当時、既に自分たち家の中で教えようとしていたという事実でした。そして、三〇年近くも経ってしまった今頃、何故か、先天的な小人であるアマーロさん夫婦の事柄を急に思い出してしまったのです。
あの三十年前に書いた「アマーロさん夫婦の教訓」という拙文は、実は、ここの有力週刊誌の記事を翻訳しただけのいわばただ横のモノを縦のモノにして書いたのに過ぎず、それを目にして下さった読者からいくら底の浅さを問い詰められても、弁解の仕様のない負い目みたいなものをずっと抱いてきていました。アノンやアナンたちの写真は、すっかりインターネットの時代に入った最近、とみに肖像権の問題がうるさくなっているから、簡単に撮ることは、先ず出来ないかもしれない。しかし、自分の目で彼らの生活の一部だけでも見ておきたい。
そういった矢先、連邦政府のAGU(弁護総局)に弁護士として務めている愚息が半分仕事、半分休暇の形でペルナンブーコ州へ出かけることを知り、私も、迷わず一緒に連れて行ってくれ、と頼み込みました。自分の足腰がまだ自由に立つ内に、そして、ここの言葉も、比較的自由に話せることが出来るようになった今こそ、千載一遇のチャンスのように思えて仕方ありませんでした。余談ですが、ペルナンブーコという地名も、その名前の大型量販店が各地にあるせいか、極めて馴染み深いものになっていて、行く前から大いに親しみを感じてしまいました。
あの頃、もう五0台半ばだったに違いないアマーロさんたち夫婦は、当時の過酷な労働条件や粗末な食糧事情等の生活環境からして、多分、もうこの世に健在でいることは、よもやあるまい。であれば、尚更のこと、自分がまだ元気で旅行できる内に、約三十年振りにあの時の拙文に関連する続篇の記事を書き、先ず邦字新聞の読者とブラジル三菱商事の中南米代表である工藤章さんをはじめとする会議所のコンサルタント部会の仲間たちに報告することが自分に与えられた今のささやかな使命だと思え、同時に彼ら体小さきアマーロさんたちへのささやかな鎮魂歌にもなるような気がしてきて仕方なかったのです。
(筆者は、ソールナッセンテ人材銀行代表)
<写真は、約35年前、アノンのジョン アマーロさんとその妻がそれしかやることのなかった砂糖キビ伐り取り作業に懸命になって汗を流し、やっと一家の糊口を凌いだペルナンブーコ州の貧しい一帯。>

体小さき人々の小幅だが確実な歩み(その2)

私たちが乗った国内の民間航空業で界第二位の飛行機は、離着陸トラブルが相次ぐ状況の中で、コンゴー二アス空港から左程の遅れもなく飛び立ち、国内第五位、人口二百万人内外のペルナンブーコ州の州都で、東北伯地方の玄関口の一つであるレシーフェ市にこれ又、比較的順調に到着しました。出発前に、愚息が特別に予約して待たせて置いた車に乗り込み、殺人事件を始め、凶悪事件で名だたるこの州都に一泊もすることなく、百七十キロばかり離れた景勝の地リオ フォルモーゾ市にあるファゼンダ風のホテルに向かいました。ホテルの真ん前には、蛇行するフォルモーゾ河の淡水と大西洋の海水が合流する汽水地域があり、遥か遠くの川面と大海原まで一望の下に見渡せる素晴らしい景観に、思わず息を呑みました。
 その前に話がちょっと横道に逸れてしまうのを読者の皆さんにご海容いただいて、レシーフェ市には、これまで余り縁がなく、トランジット(通過乗り換え)程度の知識しか持ち合わていませんでした。欧米からの観光客が多い上に、本物の人食い鮫が時々出没することでも有名なボア ヴィアージェン海岸を、昼間なら危ないこともないだろうし、ゆっくり見ておきたいという気持ちがないでもなかった。しかし、何しろ、実際の統計数字でも証明されている通り、同州は、十万人あたりの年間の殺人件数が四十人内外に達していて、三五、六人どまりのサンパウロ州やリオ州を凌いで全国一と高く、流石にこういうアブナイ数字で実証されると、好奇心の旺盛な私も、二の足を踏まざるを得ませんでした。
 ペルナンブーコ州の殺人件数が東北伯地方で、ダントツに高いのは、軍事政権当時、サンパウロやリオを中心にした南部諸州で盛んに出没して、善良な庶民の生活を混乱させてばかりいた無法者の連中に闇の世界で密かに天罰を下し、正式に法の捌きを受ける一足前に自分らの手で勝手に葬ってしまうジュスチセイロ(正義の使者という意味で、市警か軍警とみられる)たちが再び暗躍し出していて、殺人を犯しそうな暴力団に勝手に制裁を加えている形跡があるためだ。彼らの手で天罰を加えられた者が今年一月から三月までに、ボア ヴィアージェン海岸を中心としたレシーフェ市内でも千七百人を越すという地元紙の報道をたまたま目にしました。
 まあ、男の子供なら、何処の家庭でも殆ど似たようなものでしょうが、連邦政府の弁護士という愚息の職業柄、私の家でも日々の仕事の内容や職場での出来事、特にプライベートな事柄には、余り余計な口出しをしないことにしていて、いや、むしろ、お互い進んで禁句に近い習慣にしています。私一人の胸算用では、目指す目的地に着いたら、彼には何らか自分の仕事に関係のあることを勝手にやらしておいて、私は、アノンとアナンたちが七、八百人ほど纏まって住むグラバター市のヴィラ メルセデスとかいうポヴォアード(村落)迄、六、七〇キロの道程を車で小一時間くらい掛けて行くつもりでいました。ところが、私の目論見は、又しても外れてしまいました。
 前述したように、同州は、全国でも、今、名だたる殺人事件の多発州であり、空港まで出迎えに来てくれた信用できる同じ車の都合がどうしても付きませんでした。又、折角の未踏の地へ来たというのに、寒かったサンパウロとの気温の変化がひどかったせいか、体全体が熱っぽくてだるく、生憎、体調を崩した様子でした。もう一つ、体小さき人々の住む集団地へ行こうという私の腰をちょっと重くしてしまった理由は、南の方では滅多に目に出来ない絶景ともいえる見事な景観のこの場所に少しでも長く滞在していたかったことと、ここに滞在していても、既に彼らの村落を見学し終えて来た観光客らからどんどん情報を聞くことが出来たのです。むしろ、情報過多の感じさえしました。
 村落と言うと、どうしても、規模の小さな集団地を思い浮かべてしまいがちですが、アノンやアナンたちがお互い協力し合って内外の観光客を相手として、繊維や陶器類の大掛かりな民芸品の生産と販売を既に手がけ、それに市の観光課の後押し等が常に有り、州や連邦政府も何かと応援してくれているとのことでした。村落の中には、ブラジル銀行の支店があり、大小のスーパーもいくつか店を構えているそうです。連邦政府は、最低賃金の収入しかない一般国民には、月95レアルまでを上限としたボウサ ファミリアという名の家庭援助資金を出していて、その恩恵を一番受けているのが東北伯地方の住民たちです。それが奏功してルーラ大統領の再選続投を実現させ、数々の不正汚職事件、航空機の墜落事故の不祥事後でも高い支持率を維持させる原動力になりました。
 しかし、ペルナンブーコ州やパライーバ州などの東北伯地方一帯に幅広く住むアノンやアンたちで、実際にこの種の援助を受けているのは、普通の屈強な体格の人たちよりも、案外少ない気がしてなりませんでした。何故なら、民芸品とかの観光資源に頼って日々の生業を立てている彼らの月収は、先ず最低賃金の水準を下回ることがなさそうだからです。現政権が社会政策上、唯一、売り物にしているボルサファミリアという一種のバラ撒き政策は、肝心の魚の釣り方から教えることなく、ただ釣ってきた魚をバラ撒くだけだと、とかく批判されがちです。しかし、それをバラ撒かないことには、五体満足の極貧層から先に死んでしまう。ただ、額に汗して働くことを厭わない体小さき人たちの収入がその救命線をとっくに越えてしまっているのです。
 東北伯地方で頻繁に使われるOs Excluidosという言葉は、経済化駆動から除外されてしまって、ボウサ ファミリア等の援助がなければ、生存覚束なくなる階層の人たちのことを指しています。これに対して、Os Incluidosというポル語は、経済活動の中に組み込まれた人たちのことを意味しています。この国では、Os Andares De Baixo(階下に住む者たち)とOs Andares De Cima(階上に住む者たち)の差、つまり所得格差が目を覆いたくなる程のひどさです。それを解決するには、今進めている政策金利の引き下げを加速させ、経済成長を促し、雇用を生み、一般国民の所得を増やすように配慮しなければなりません。この国全体が本物の経済成長を必要としていますが、最も必要としているのが東北伯地方のような気がしました。  
 体が小さいが故の悲哀も、数え切れないくらい、まだ依然として残っているようでした。国内外のサーカス団や賭博場に見世物として、人身売買同様に誘惑されたり、唆されて行って、お金を稼いでから故郷に戻ることを夢見つつ、そのまま行方不明になったケースも、少なくないそうです。その一方で、ここの一般国民と同じく七〇年代までは、出産率も高く、あのジョン アマーロさん夫婦みたいに五、六人の子沢山が珍しくなかったが、それが九0年代に入ったあたりから、産児制限がごく普通になり、出産率が全国平均に歩調をあわせるように、下がり始め、今では、一人か二人までの子持ちがごく普通になってきているとのことでした。これは、彼らに年金を優先的に当たえてる代わり、陰に陽に産児制限のための性教育を徹底したことがそろそろ奏効し始めた模様です。彼らや彼女たちの場合、三十二、三歳で年金を貰うこともできるそうですが、一最低賃金が原則になっているとのことでした。
 ところで、私は、もう一つ特別に関心があった事柄「例えば、もし、背丈が普通か、普通以上にあるポルトガル系(一五00年代に来襲)やオランダ系((一六00年代に来襲)の血筋を引く男性がアナンの若い女性に、最初は、興味本位で交際し、付き合っている間に、本当に惚れ込んでしまって、結婚したケースがあるのか、その場合、どんな背丈を持つ子供が生まれてくるのか」という質問をある事情通にしてみたところ、答えは「アノンやアナンが背の高い相手と結ばれたケースは、今迄に数え切れないくらいあります。二人の間に生まれた子供は、身長が一メートル六十センチくらいでごく普通に近かくて、遺伝の優生学上の結果が先ず現われる場合が多い気がします。」との返事が返ってきました。(筆者は、ソールナッセンテ人材銀行代表)
 <写真は、七、八百人のアノンやアナンたちが村落を造り、民芸品などを観光客に売って、五体満足の人たち以上に頑張って生活しているグラバター市の遠望です。>

体小さき人々の小幅だが確実な歩み(その3 最終回)

ツイている時というのは、やはり、あるものです。実は、レシーフェ空港に着いた当時から、密かに狙っていたアナンが一人いました。狙っていたとは、たまたまの表現であり、決して邪(よこしま)な動機でも何でもありません。ちょっと尾篭(びろう)な話になるのをに再びご海容いただいて、サンパウロから到着した時に、飛行機のタラップを降り、男性用のバンネイロ(便所を表すポル語にはいろいろあるが、最近、一番カッコよろしくて、無難なのは、トイレッチという言い方ではないでしょうか)に一目散に駆け込みました。なぜかといえば、機内のトイレッチが老若男女共用で、誰か下痢気味の乗客が乗っていたと見えて、まさに落花狼藉に似た汚し方で、悪臭も立ち込めていて、ついこちらもお漏らしそうになるのを必死に堪えていて、空港内の一番近いトイレッチへ急いで駆け込もうとしたちょうど時、何とすぐ側にある女性用のトイレッチに体小さき女性の一人がゆったりとした足取り、というよりも、テクテクとした歩幅で入って行くではありませんか。
 こういう自分の非常時でも、普段眠っていて節穴みたいな私の目が期待していた以上に何倍も早く出会い、遭遇することの出来たこのアナン嬢(或いは、様付けで呼びたいその時の私の心境でした)を見逃しませんでした。いや、追っかけて行きたい心境なのに、ただ場所柄が悪過ぎ、自分の状況も切羽詰っていました。しかし、その代わり、首から掛けたクラッシャー(名札)で以って、そのアナンの女性が私が乗ってきた航空会社の社員であることを確かめることが出来ました。ウン、それなら、うまく行けば、彼女の話も聞くことだって、出来るぞ、と久し振りに、新聞記者時代の気持ちの高ぶりを感じたものでした。
 そして、その運の良さは、まさしく実現しました。帰りの飛行手続きを済ませ、サンパウロ行きの登場口十四番ゲートの入り口に立って、手に持っていた搭乗券を取り出し、先ず長身の男性職員に簡単に見せ、次にインターネットで購入した搭乗搭乗券だったために、特別に再確認の必要ありということで、背の高い彼が手招きしたところを見ると、あろうことか、もう一人のアナン嬢が航空会社職員としてその仕事をしていました。座っていたため、身長を目測することまで、到底出来ませんでした。又、到着時のトイレット近くで見かけたあの女性であるかどうかも、確認出来ませんでしたが、その必要もないと思いました。
 そんなことよりも、先を急がなければなりませんでした。私は、愚息がインターネットで買って呉れていた搭乗券を規則通り、見せて置いて、一旦、彼女の前を通り過ぎました。約三十年前にある邦字新聞に寄稿した記事を訂正して補足する情報は、既に十分過ぎるほど、入手してあるにはあった。しかし、実際にこんな立派というか、有名というか、きちんと整った企業で働いているアナン嬢に直接話を聞いて見たいという私の例の衝動性にしつっこさをない交ぜになったものが頭をもたげてきて、兎に角、当たって砕けろだ、断わられて当たり前のつもりで、一度ぶっつかって見ようという気になりました。勤務中であることだけが唯一気に掛かるが、それは、最初にちゃんと説明して詫びればいい、としばらく思案投げ首をした後、彼女の方へ再び引返しました。
 ところが、私の心配は、文字通りの単なる杞憂に終わりました。彼女に「実は、三十年前に、ジョン アマーロさんというアノン一家のことをある週刊誌から翻訳して邦字新聞に記事を書き、それが今迄ずっと気がかりになっていて、今度、息子の用事に一緒に就いてきて、アノンやアナンたちの住む現場を見聞し、出来ればその話を聞きにやってきた」と、その理由を手っ取り早く説明したところ、「よろしいですよ。何でも聞いて結構よ。私は、何のコンプレックスも抱かずに、こうして毎日、元気で働いているんだから。ただ、それも、この航空会社の若いコンスタンチーノ社長が特に私たち身体障害者に理解の深い立派な経営者だからです。法律で以って、社員の何%まで身体障害者を雇用しなければならない、と一定の枠が決められていますが、この会社には、アノンとアナンたちがその定員以上の六人もいます。」と、こちら側が聞かない事柄まで、自分から進んで話してくれました。
 以下は、帰りの飛行機に搭乗する目前の約十五分間に亘り、一問一答形式で行った即席のインタヴューで、彼女が精一杯語った話の要点だけを抜粋して纏めたものです。で、先にそのアナン嬢の本名は、フランシスカ ネイデ デ オリヴェイラさんと名乗っていました。年齢は、四十歳になったばかりだということでした。この航空会社における彼女の給料は、各種の手当て類を含めて、約九百レアルで、サンパウロやリオで働く同僚たちと全く同じのようです。INSS(国立社会保障院)は、アノンやアナンを身体障害者扱いにし、健常者の男性が六五歳、女性六十歳でしか年金生活に入れないのに、自分たちの場合は、三二、三歳で特別に年金支給を認めているケースもあります。
 年金は、今、この会社で貰っている給料よりも、遥かに安いので、私の場合、年金生活に入ることなど、全然考えていません。第一、ここの会社と、とりわけ、ここの会社の社長の温かい人柄や考え方が気に入っています。私の場合、全部で六人兄弟で、今年六二歳になる一番上の姉が医者で、六十歳になる二番目の姉が小学校の数学の先生をしています。アノンもアナンも、昔は、仕事がなくて、殆どが砂糖キビの伐り入れの仕事に従事していましたが、今では、いろんな分野の職業で頑張っていますよ。市の観光課に勤務していたり、自分たちの町々で、繊維や瀬戸物や木材を使っての民芸品の手作りに励んでいます。そうそう、私が目測出来ずに一番問い質したかった彼女の身長ですが、ちょうど一メートル二十センチとのことでした。ここまで聞き終わった時、ちょうど、サンパウロ行きの私の乗る飛行機への搭乗アナウンスが始まりました。連休後の週末のせいで、機内が非常に混み合いそうで、既に長い行列も出来ていましたが、愚息のいるフィーラの方に向かう私の足取も、急に軽くなったような気がしてなりませんでした。
 兎にも角にも、オリヴェイラさんの話からも、現在では、この体小さき人たちが各界で盛んに活躍していることを聞いて、約三十年前に砂糖キビ畑の中で格闘して糊口を凌いでいる内に得たあの<ジョン アマーロさんの教訓>がやっと無形の「地の塩」みたいになって、実りかけているような気もしました。とりわけ、理数系に強そうなアノンの若者がペルナンブーコ連邦大学を卒業し、米国にも留学しては博士号を取り、母校に戻って教壇に立っているという話には、極めてComovido(感動的)にならざるを得ませんでした。そして、身長一メートル二十センチ程度のアノン博士を一メートル八、九十センチ級の人並み体格の優れた若い学生たちが決して見下しているのではなくて、頭(こうべ)を垂れるような恰好で、それ相当に崇めつつ、畏敬の念も払いながら、難解な数式等に就いて、議論し合っている光景を想像するなんて、真に痛快、傑作なことではありませんか。(筆者は、ソールナッセンテ人材銀行代表)
<毎年のように人食いサメも出るが、欧米から観光客が詰め掛けるレシーフェ市の美しいボア ヴィアージェン海岸。但し経済力がかなり付いたとは言え、多くのアノンやアナンたちには、まだ殆ど無縁のようでした。>




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