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「慶長遣欧使節の謎」 富田 眞三さんの連載(その3)
富田さんの力作「慶長遣欧使節の謎」も佳境に入りました。産みの苦しみから使節団出発、ノヴイスパン到着、支倉、ソテロ、マドリードにてスペイン国王謁見と続きます。このHPの使用粗フォトは1寄稿が1万字までとなっており続きは最終回(その4)に続きます。
関係の歴史書、文献それも原書を紐解き書き綴った遣欧使節と言う史実を通じての当時の時代考察、史実の描写には飽きずに読ませる筆力があります。ご自身も楽しみながら書かれたとのことですので連載を終わりほっとしているのではないかと思います。またどんな題材を選び書き続けて呉れるのか楽しみです。写真は、富田さん提供の瑞巌寺本堂(国宝)、宮城県松島を使用しました。


慶長遣欧使節の謎
六.慶長遣欧使節団、産みの苦しみ

サン・セヴァスティアン号出航、挫折
1612年(慶長17年)秋、三組の太平洋横断計画がそろって挫折したことは、前回述べた。ヴィスカイーノのノヴィスパンへの帰航は、予定の行動だった。しかしヴィスカイーノに置き去りにされた幕府船とソテロの太平洋横断計画は、予定外のことだった。
家康、秀忠は日本船による太平洋横断を悲願としていたが、船は建造出来ても、操船はスペイン人船員抜きには出来ない相談だった。当初の計画では、サン・セヴァスティアン号は、サン・フランシスコ二世号の僚船として太平洋を横断する計画だった。この幕府船にソテロが乗船していたのは分かるが、仙台藩の兵士が二名乗船していたのは、どう言う事情なのか。

兎に角サン・セヴァスティアン号がノヴィスパンに向かった事情は、全く謎に包まれている。
当時の政治情勢を伝える「駿府記」「当代記」「伊達家文書」にも一切記述がないのである。唯一サン・セヴァスティアン号に言及しているのは、シピオーネ・アマチの「使節記」第11章であるが、信頼性は低い。その他に、翌年(1613年)政宗がノヴィスパン副王に宛てた書状の控え(石母田文書)に、同船に関する記事がある。これ等を総合すると、以下のように推定される。
「秀忠は家康の承諾のもとに、一船(サン・セヴァスティアン号)を建造し、ヴィスカイーノが帰航する際に僚船として伴わせて、ノヴィスパンに渡らせようとした。ソテロは家康の使節として、同船に乗って渡航することになった。
ソテロは奥州でキリシタン宗門を広めたい熱望があり、政宗に太平洋を渡る船の造船を勧めたが果たせなかった。そしてソテロは幕府使節として、今回ノヴィスパンに行くにあたって、政宗の使者として家臣を派遣してもらい、かの地に着いた後は、自分の思いのままに利用しようと謀ったのではないか。
ところが、完成した船が大き過ぎて、約束が違うと、ヴィスカイーノは日本船を僚船として率いていくことを拒否、サン・フランシスコ二世号単独で出航してしまった。そこで已む無く幕府はヴィスカイーノを諦め、二週間後、サン・セヴァスティアン号に、多数の日本人と商品を載せ、ソテロとサン・フランシスコ二世号から離脱した10名ほどのスペイン人船員を頼みとして、出港させた。」
そして、二隻とも渡航が挫折したのである。

秀忠、政宗に大船の造作を命ず
サン・セヴァスティアン号の挫折後、家康、秀忠は、太平洋横断計画を諦めるどころか、、新企画を編み出した。
江戸幕府が寛政11年(1799年)、諸侯が提出した資料を基に編纂した著名な「寛政重修諸家譜」の伊
達政宗の項に、下記の記述がある。
「慶長18年(1613年)八月十五日、仰せを承りて、向井将監忠勝と計り、新たに船を造作し、江戸に在
留せし南蛮人楚(そ)天(て)呂(ろ)を送り返すにより、御具足御屏風等を、かの国に賜る。九月十五日、忠勝が配下の者、
政宗が家臣支倉六右衛門常長等、及び南蛮人、合せて百八十人余、領国牡鹿郡月ノ浦を出帆す(日付は邦歴)」とある。
即ち伊達政宗は(秀忠から)命ぜられ、御船手奉行の向井忠勝と協議して新たに船を造ったという。
家康が駿府に隠居した際、御船手奉行は二つに分かれ、向井正綱は駿府の御船手奉行となり、嫡男の忠勝が将軍秀忠の御船手奉行となっていた。従って、慶長遣欧使節の乗船サン・フアン・バウティスタ号建造は、将軍秀忠の船手奉行が担当したことになる。

秀忠が政宗にノヴィスパンへの使節派遣を命じたことは、此れまでの経過を見ると、あり得ることである。
即ち、前年サン・セヴァスティアン号が浦賀水道で座礁したこと、スペイン船が房総半島で遭難したこと、
ヴィスカイーノの船が黒潮に流されて、浦賀に入港出来なかったこと、等から浦賀港への出入港が困難であることに、幕府は気が付いたのだ。
しかも、マニラからアカプルコに就航しているスペイン船は、日本近海を黒潮に乗って北上し、牡鹿半島沖から進路を東に変え、海流と偏西風を利用してアメリカ大陸西岸に達するルートを取っていることも、この頃には、分かってきた。田中勝介一行はこのルートを航海しているのだ。
そして、家康なり秀忠が以上の諸事情を考察して、ノヴィスパン行きの船は仙台藩領牡鹿半島で建造することを決め、以前から太平洋横断に関心を持っていた伊達政宗にこれを命じたのである。この辺から船出すると、昔も今も容易に太平洋を横断出来るのである。

以上は航海技術の面から見た、政宗への船建造及び使節派遣命令が下った必然性を、検討したものである。しかし、政宗にノヴィスパン(メキシコ)への使節派遣が下命されたことは、これだけが原因ではない。この時期、幕府は南蛮諸国との通商開始を熱望しながらも、他方ではキリシタン禁制を厳重にする政策に転換していた。通商相手のスペインはキリシタンの大パトロンでもあるため、幕府は「忠ならんとすれば、孝ならず」と言う行き詰まった状態に陥っていた。
この局面を打開するために、同様の目的を有する政宗に対し、暗黙の了解を与え、その企てを支援し、これを決行させたのであった。言い換えれば、幕府の政策を政宗が継承代行したと言える。
そして、両者の間にあって陰に陽に使節派遣の実現にまい進したのが、ソテロだった。

サン・フアン・バウティスタ号完成
使節の乗船の建造は、この手の船を三隻建造した実績を持つ、幕府御船手奉行配下の公儀船大工が、設計から艤装まで全てを担当した。仙台藩はヨーロッパ型帆船建造の技術を持たなかったからだ。
和船とヨーロッパ型帆船の最大の違いは、和船の船底は平たい箱型であるのに対し、ヨーロッパ型の船底は竜骨と言う船底材を持つV字型であったことだ。また、マストを複数持つヨーロッパ型に対し、和船は一本マストで横帆を一枚掲げるシステムであった。しかも甲板を持たない和船は、屋根もない訳なので、波浪が荒い大洋の航海には不向きであった。和船では沿岸伝いにフィリッピンに行くのが限度だった。
船の建造場所は、仙台藩牡鹿半島西側の入口にある月ノ浦が選ばれた。月ノ浦を出航後、西に向う北太平
洋海流に乗り、偏西風を利用すれば、一路アメリカ西海岸に到着出来る。これこそスペイン人ウルダネッ
タが1565年に発見した太平洋東行路なのだ。
1613年4月29日、政宗は向井忠勝に船大工を派遣されたことへの礼状を送っているので、この頃船の建
造が始まっていたことが分かる。船の建造費は全額仙台藩が負担した。

さて、こうして完成した船は500トンの小型ガレオン船で、長さ35、幅10.8、主檣(しゅしょう)31.5、弥(や)帆(ほ)17.8(メートル)の大きさだった。船の用材は松と杉であり、スペイン人はサン・フアン・バウティスタ号と命名した。因みに私が見たメキシコの書物には、この船を「Matsu Maru」と呼んでいるが、「Mutsu Maru」(陸奥丸)の間違いではないかと思う。但し日本では、何故かこの船はサン・フアン・バウティスタ号で通用している。

ノヴィスパンへの使節派遣の趣旨
太平洋横断用の船は、向井忠勝配下の船大工により完成間近となった。ソテロは使節団派遣の仕掛け人として、また案内役、通訳兼交渉役として、余人をもって代えがたき人物となっていた。
ところが、この年の8月、江戸のソテロの教会の宿主、修道士ら数名がキリシタン禁令により、処刑されている。ソテロも彼の部下たちと共に入牢していたが、政宗の幕府への助命嘆願により釈放された。これにより政宗は「余人をもって代えがたきソテロ」を確保した上、彼には命の恩人として恩を売ることが出来た。

伊達政宗のノヴィスパンへの使節派遣の趣旨は、副王宛書状によると、下記の通りであった。即ち、同国との直接通商を開くこと、ノヴィスパンの精錬技術の導入、スペイン船員による操船術指導等であった。
その上、政宗は「自分はキリシタンになるつもりである」「宣教師を送って欲しい」「教会も建てさせ、種々援助する」等々と書いている。これ等の文言は、彼の信条にも幕府の政策にも反するにも係わらず、政宗は署名し花押を添えた。いかにソテロが書いたのにせよ、これは実に不可解なことである。政宗が幕府の政策に逆らい、且つ自身もキリシタンになる、と本気で宣言したならば、虚言者(うそつき)の典型と言わざるを得ない。彼にそんな気は少しもなかったからだ。それにしても無責任極まる政宗の対応であった。これは終始
「我は通商を欲し、布教は禁ず」と明言してきた家康と政宗の大きな違いであった。

しかしこの様にソテロに好き勝手なことを書かせた書状を持たせる代わりに、ソテロとスペイン人船員に乗組んで出航してもらう外なかったのであり、これを幕府に咎められた際は、このことを認めてもらえる自信があったとしか理解しようはない。この様な事情が分からないまま、未だに多くの人が謎解きに苦しみ、挙句は政宗謀反説、スペインとの軍事同盟締結説等を生む原因となった。公式文書に幕府政策に反することを記したのだから、後世の我々が誤解するのは、無理からぬことだった。しかしこの二枚舌的ソテロの手法の化けの皮が剥げるのも時間の問題だった。

ソテロ、渡航計画変更を迫る
ところが、サン・フアン・バウティスタ号が出航間近に迫ったころ、ソテロは突然渡航計画変更を仙台藩重臣でありキリシタンでもあった後藤寿庵に告げ、使節は奥南蛮(欧州)まで行くべきことを提案した。
仙台藩の記録によると、1613年10月17日、政宗はローマ教皇、スペイン国王、セヴィーヤ市長、フランシスコ会上長宛の書状を認める(したた)、とある。出航のたった11日前である。従ってソテロが計画変更を告げたのは、10月に入ってからではないのか。尚これ等の書状の内容はノヴィスパン副王宛の書状と大同小異であった。
計画変更の事情は日本側の記録には残っていないが、寿庵と親交があったイエズス会のイタリア人宣教師ジェロニモ・デ・アンジェリスがイエズス会本部総長宛の1619年の私信でこの件を報告しているので、下記に引用しよう。
「ソテロはノヴィスパンとの通商交渉は、スペイン国王ともすべきであり、同時にローマ教皇へも使節を送るべきである、と説いた。また、交渉を進展させるためには、相当の進物を贈るべきとも強調した。そしてこの条件が受付けられなければ、自分は乗船しない、と難題を吹っかけた。政宗は造船に多額の資金を投入して船を完成した後でもあり、出航を目前に控えて中止する訳にも行かず、計画変更を承認せざるを得なかった。」
ソテロは自分の野望を達成するために、是が非でもローマに行く必要があったことは、既に述べた。これを絶妙のタイミングで切り出したのである。アンジェリスの書簡は、計画変更の理由を明確に記していないが、「政宗は司教が何のことかも理解していなかった」という記述があるので、例の新司教区開設を話したと思われる。

なお、支倉がスペイン国王フェリッペ三世に提出した政宗の書状の原文書は伝わっていないが、仙台藩の奉行石母田家にその案文が残っている。この文書だけでも問題だが、その際支倉がフェリッペ三世に述べたと言われる挨拶が、とんでもない代物なのだ。これは後段で詳しく述べる。

一方家康、秀忠のノヴィスパン副王宛書簡と進物は、前年ヴィスカイーノに下付したものを、そのままソテロと伊達藩の使節が携えて行くことになった。この投げ遣りな応対から、家康・秀忠の主要目的はノヴィスパンとの通商ではなく、太平洋東行路の調査と大洋での航海術の習得にあったのではないか、と思えてくる。事実家康、秀忠は政宗の使節がノヴィスパンだけではなく、計画を変更して奥南蛮にまで行くことに、格別異議を唱えていないことも奇妙なことである。

こうして政宗の使節は奥南蛮まで足を伸ばすことになった。慶長遣欧使節の誕生である。ところで、肝心の使節支倉六右衛門はどのような経緯で任命されたのか?
次回の最終回は使節決定の経過を辿り、矛盾と謎に満ちたこの使節団の出発を見届けたい。

写真説明:サン・フアン・バウティスタ号の復元船、宮城県慶長使節館(石巻市)に展示されている。

七.いよいよ使節団出発      
何故支倉は使節に選ばれたか?
支倉六右衛門はどの様な経緯で伊達政宗の使節に選任されたのか、検証してみよう。政宗は1613年(慶長18年)5月20日、船の件で書状をソテロに送り、文中使者について「南蛮へ遣わし申候使者の事、此の以前申し付け候者共に相定め候」と言うくだりがある。要するに、「今回南蛮へ送る使者は、昨年船出し座礁した幕府船に乗船させた者たちに決めた」ということである。乗船させた者たちとは、ヴィスカイーノが伊達藩の二人の兵士がサン・セヴァスティアン号に乗船していたと、記した者たちのことであり、その二人を今回も使者として選んだ、と政宗がソテロに通知しているのだ。政宗が使者の名を明記していないことから推して、その人物が身分の低い者であることを示している。又ヴィスカイーノが「兵士」と言う語を使っていることもこの事を証明している。後で分かった様に、この二人の中の一人が支倉六右衛門だった。
支倉六右衛門とは、一般に常長と言い習わされている人物のことであり、慶長遣欧使節の使節に任じられた人物である。支倉が使節に選任された経緯は、これ又はっきりしていない。唯一この件に触れているのは、先に紹介したアンジェリスの1619年11月31日付け書簡で、下記の記述がある。
「政宗が使節に任命した六右衛門は身分の低い家来であった。彼の父親は息子の出航数ヶ月前、盗みの罪で切腹を仰せつかった。日本の習慣では、息子も知行を召し上げられ、死罪に値するところを、スペイン、ローマに使いすることで、苦痛を味うことに減刑する方が良い、と判断されて使節に任命された。おそらく航海の途中で死ぬだろうと予想し、召し上げた知行は返還された」
因みに使節に任じられた時、支倉の知行は60貫文だった。仙台藩は石高制を取らず、貫文制をとっていたため、石高にすると600石となり、藩では中級の武士だった。
尚、上記支倉の父親の切腹の件は、昭和61年、仙台博物館が発見した政宗自筆の書状によって、確認、立証されている。また、アンジェリスは、支倉はローマまで旅すると書いているが、彼が任命された5月の時点では、最初の計画通りノヴィスパンまでの旅程だったことを付け加えておく。
政宗が、自らの使節を数ある重臣のなかから選ばず、処刑人の息子を選んだことは奇怪だが、「何年か後に生きて帰ろうが死んでしまおうがどうでも良い」人物と言う基準で選んだ、と考えられる。又、政宗は南蛮要人宛書状に、幕府の政策に反する箇条を記していることを考慮すれば、将来その責任を幕府から問われた際、責任が政宗に及ばないように、故意に身分の低い家臣を選んだとも考えられる。一種の危機管理である。決して支倉に特別な才能があって選ばれた訳ではないのだ。
使節団の主席は政宗のローマ教皇、スペイン国王、ノヴィスパン副王への書状を託されたのが、支倉六右衛門であるので、彼を主席と見るのが妥当とする説がある。しかし、政宗の副王への書状の中に、「ソテロを使者とし、三名の侍を伴わせる。その内二名は奥南蛮(欧州)に行かず、ノヴィスパンから帰朝し、他の一人は奥南蛮まで赴くよう申し付けてある」と記されている。他の一人とは支倉六右衛門のことである。
これを見ると、ソテロが実質的な団長であったことは疑いないが、外交使節としては、日本人が主席でなければ、格好が付かないので、六右衛門を一応使節団長としたのだろう。又、政宗は危険度が高い奥南蛮への旅は六右衛門だけを送る予定だったことが分かり、アンジェリスの記述が正しいことを証明している。
慶長遣欧使節の船出
慶長18(1613年)年10月28日、サン・フアン・バウティスタ号は伊達政宗が派遣する慶長遣欧使節団員、宣教師、スペイン人船員及び日本商人を乗せて、無事仙台藩領内の月ノ浦港を出航した。仙台藩文書によると、乗組員、乗客は計180余人だった。内、名前が分かっている者は支倉六右衛門、今泉令史、松木忠作、田中太郎右衛門、西 九助、内藤半十郎、九左衛門、内蔵充、主殿、吉内、久次、九蔵の十二名である。尚支倉以外の者の身分は不明である。
幕府御船手奉行向井将監忠勝の家人、10名ばかり。
南蛮人、40名ばかり。この内、名前が分かっているものは、ルイス・ソテロ、ヴィスカイーノと三人のフランシスコ会宣教師、ディエゴ・イバニェス、イグナシオ・デ・ヘスス、グレゴリオ・マティアスである。
氏名不詳の南蛮人は、ヴィスカイーノ配下のスペイン人船員だった。その他商人120名、とある。商人の中には、忠勝配下の船頭、水夫、とソテロが乗り込ませた亡命志望のキリシタン信者等が紛れこんでいた。合計180余名であった。尚、正確な乗船者名簿は未だ発見されていない。
スペイン船員と日本人水夫が乗り組んだサン・フアン・バウティスタ号は92日の航海後、1614年1月28日無事ノヴィスパン、アカプルコ港に入港した。
ノヴィスパンに到着。使節団、奥南蛮組と帰国組に分かれる
使節団のアカプルコ上陸と時を同じくして、大御所徳川家康はキリシタン殲滅のために、重臣大久保忠隣を京都に派遣した。一年前の春、幕府は「南蛮の記(き)利(り)志(し)旦(たん)の法、天下停止すべし」と布告して幕府直轄領から宗門、宗徒を禁圧する方針を採ってきた。そして使節団のノヴィスパン到着と時を同じくして、この布告を全国に及ぼしたのである。この方針転換は、オランダ、イギリス両国の日本進出により、南蛮両国の対日通商独占状態が崩れたこと以上に、日本が南蛮両国の敵国と友好関係を結んだことを意味する。

矛盾と虚偽に満ちた使節団を待ち受ける厳しい現実も知らず、支倉等使節団員はスペイン王国の最大の植民地に第一歩を記した。
船の同船者だったヴィスカイーノ・スペイン大使はアカプルコに上陸するや否や、メキシコ・シティーの副王庁に駆けつけた。幕府の宗教政策がキリシタン禁圧の方針となり、殉教者が続出していることを報告するためだった。ヴィスカイーノ大使の報告は、直ちにスペイン本国に送られた。一年前家康の大使、ムニョス師は無事スペイン国王に家康の親書を提出したが、日本は「キリシタン宗門を喜ばず」と和らげた表現の翻訳が功を奏して、スペイン国王は「毎年一隻商品を満載した船を日本に送ることを許可した」ばかりだった。しかしヴィスカイーノ大使の報告は、この決定に影響を及ぼすことは必定だった。何故なら南蛮両国は「異教徒とは商取引しない政策」に固執していたからである。
ところで、使節の資格、即ち彼らは日本国を代表する使節ではなく、一領主の使節ではないか、と言う疑問、及び使節団の目的にも疑問があるとして非協力的であったノヴィスパンの高官たちに対し、ソテロは40人ほどの商人たちをメキシコ・シティーの教会で集団洗礼させると云う切札を使った。これが副王及び大司教の頑なな態度を軟化させ、ソテロはスペイン、ローマへの渡航の手掛かりをつかみ、商人たちは船で運んだ商品の販路を見出した。当地での予定を終えた使節団は二つに分かれ、支倉他約30名がソテロの引率で奥南蛮に向い、残りの100余名の日本人は一年間のノヴィスパン滞在後帰国した。
支倉、ソテロ、マドリードにてスペイン国王に謁見
そして遂に一行は1614年12月、セヴィーヤを経てマドリードに入った。この年(慶長19年、1614年)は在日宣教師の大部分がマカオとマニラに追放され、キリシタン大名の高山右近も国外追放処分を受けた。大阪冬の陣が戦われたのもこの年であり、大阪方が敗北したのは12月26日のことだった。

スペインに於いても、この使節たちの資格、目的及び幕府のキリシタン禁圧の方針を巡って、インディアス顧問会議は紛糾した。しかし年が明けて1615年1月30日、支倉使節一行はマドリードの王宮で、スペイン国王フェリペ三世に謁見を賜った。この謁見の様子はアマチの「使節記」に記載されている。この時期アマチはマドリードに滞在しており、その後支倉一行のローマでの通訳に任じられてローマに同行している。「使節記」前半の記事はソテロからの伝聞であったため信憑性に欠けるが、マドリード以降の使節に関する記事は史料的に価値がある、と松田博士も認めておられる。
さて、アマチは謁見の模様をこう描写している。
支倉はフェリペ三世に謁見した際、日本語で挨拶を述べ、通訳はソテロが務めた。六右衛門の挨拶の中に、つぎの様な件(くだり)がある。「わが君なる奥州国王(政宗)は自ら洗礼を受け、自らの臣下をことごとくキリシタンに帰依させることを欲している。さらにわが君政宗は陛下(フェリペ三世)の強大なこと、その庇護を請う者に対しては寛大なことを聞き、予を派遣し、その位とその領土を陛下に献じ、大国と親交を結ばせることにした。今後は何時にても陛下の望みに応じ、喜んでその全力を用いるであろう」
以上を支倉が日本語で話したという証拠はないが、通訳のソテロがこの様に言ったことは間違いない。
支倉の挨拶を聞いたフェリペ三世は感動し、歓喜の表情を浮かべて答辞を述べた、とアマチは記している。
支倉が述べた政宗の言葉が荒唐無稽な虚偽であることは、勿論だが、こう言う愚劣なソテロの外交交渉を黙認した政宗こそ、責任を問われるべきであった。
スペイン帝国植民地の全てを統括するインディアス顧問会議は、「政宗が日本の主権者でないことは明らかであり、キリシタン迫害が日増しに増大していることも確認した」として、この使節団は政治的には、全く相手にされなかった。
当然のことながら、スペインでも使節団が目指したことは、何一つ入手出来なかった。しかしソテロはここでも支倉ら三人の使節を、国王臨席のもとに洗礼させると言う切札を使った。又してもこれが効を奏し、スペイン国王は使節団のローマ行きを認め、旅費、滞在費を支給した。
(最終回に続く)



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