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富田 礼子さんからの画像掲示板への書き込みがありました。(続編3)
富田姉妹の事故発生当時(もう40年も前の話しですが)の邦字新聞のファイルを探し出し小山さんが当時のパウリスタ新聞(現ニッケイ新聞)の記事を写真に撮りそれをワードに叩き直して呉れています。富田さんのご同意も得て全文をそのまま皆さんにもご紹介します。時の流れと言うか健気に生き抜いて来られた富田 礼子さん、麻柄 美代恵さんご姉妹にエールを送ると共に一日も早く生まれ故郷、ご両親が奮闘された第2トメアスーの地を訪れお父さんのお墓参りが実現するように願わざるを得ません。礼子さんの『私たちの40年!!』画像掲示板への書き込みから始まった奇縁、これも何かのご縁と思います。来伯の際には何をさておいてもトメアスーまでご案内したいと思っています。
当時の残りの邦字紙サンパウロ新聞、日伯毎日新聞にも関係記事が出ていたとのことですね現在小山さんがワードに叩き替える作業をして呉れているとの事ですので楽しみに待ちましょう。
写真は、小山さんが送って呉れた40年前のパウリスタ新聞の一部に掲載されていた3兄姉妹の写真です。


『私たちの40年!!』HPにも収録して置きたいと思います。
富田礼子さん 
貴女達に関するパ記事をウリスタ新聞から抜き出して送ります。
あるぜんちな丸がサントスからアルゼンチンに行き、またサントスに戻る間貴女達は領事館職員の家庭でお世話になっていたようです。
その間の様子も新聞に載っていますので後送します。
私は新聞に載っていたことをコピ−して送りますが「私達の40年」等に公表する時、不都合なことがあったらその部分を削除して転送してください。
なお文中 パウリスタ=サンパウロ州の、またはサンパウロ州人
     ベレン=アマゾン河の河口にある大都市
     MOL=三井大阪商船Line
     レシフェ=ブラジルのアフリカ側に突き出ている辺りにある大都市
     事務長=移住船内で事務を取り扱う高級船員
また和田さんも指摘していましたが、あなたの生まれたトメアスはパラ州に在りサンパウロ州はパラ州の3千キロメートル南に在ります。

パウリスタ新聞 1967年8月17日(木曜日) から
      レシフェ沖 船から母親が投身自殺
       大揺れ「あるぜんちな丸」入港
初の企業グループや花嫁、訪日笠戸丸移住者たちを乗せたMOLあるぜんちな丸(篠田不可止船長)は、一方に一等船客の病死、国援法で帰国途中の若い母親の投身自殺と暗い話題も運んで、16日午前18時すぎサントスに入港した。同港下船者は総勢52人。再渡航者組が多かったせいか、埠頭は最近になくにぎわったが、母親の死後に残された3人の子供たちの周辺はやはり沈みがち。ベネズエラ地震当日、ラグァエラ港に寄港した同船にとって皮肉にもレシフェ沖にいたってから2船客の死という“大揺れ”がやってきたようで、港は文字通りの明暗二相の表情だった。

    国援法で帰る途中、幼児3人残したまま
生後9ヶ月の幼児をふくむ3人の子供たちを残して、あるぜんちな丸から投身自殺した富田敏子さん(25、栃木県出身)は63年8月に長男裕之ちゃん(当時満1才)を連れて第二トメ・アスー移住地の富田昭一さん(故人、25)と再婚した。
(小山註:乗船名簿には昭和38年9月2日あるぜんちな丸で昭一さん、敏子さん、裕之さんの親子3人で
     第二トメアスーに向け横浜港から出発となっています。)
 
富田さんのピメンタ栽培は順調にはこび、来年から本格的採取をはじめる予定だったが
この5月に昭一さんは肝臓病で死んでしまった。
博之ちゃんに再婚後生まれた礼子ちゃん(二つ)、美代志ちゃん(9ヶ月)(小山註:パウリスタ新聞でには日本に到着するまで美代志ちゃんとなっていました)の幼子をかかえて、途方にくれた敏子さん家族に対して、ベレン総領事館が国援法による帰国を認め、7日ベレン港から一家はあるぜんちな丸に乗った以後、敏子さんが自殺するまでの4日間を、日本から第二トメアスーに来ていて同船したという梅村トモさん(54)は、つぎのように語った。
“面識はなかったのですが、向かい同志の部屋で事情を聞いていましたから、慰める意味もあって行き来していたわけです。しかし、自殺するような気配はあまり感じられませんでした。
ただ死ぬ前夜は雑談したあと、頭痛を訴えていたようです。それに死ぬ当日の朝、のめもしないタバコやビールを求めていました。”

10日午後2時15分ごろ敏子さんは同船後部甲板の国旗掲揚場付近から上の二人の子供が見ている前で、海に飛びこんだ。
そばでシシュウをしていた船客は、敏子さんは子供たちに「こちらに来るんじゃありませんよ」といって財布を渡した光景を目撃している。
他の乗客は敏子さんがサンダルを並べて投身する現場を認めていたため大急ぎで船側に連絡。
船は航跡を残すためブイを投げながらゆっくり旋回した。

          2時間後死体引揚げる
“投身自殺現場付近に戻ってきた船が3周ほどしたころ人体が浮かび上がるのが見えました。
ただちにボートが降ろされ、彼女のもとへ向かったころ3匹の鯨が姿を現し、敏子さんの方へ突進したのです。
思わず背筋がゾクッとしましたが、どうやら引揚げに成功しました。”
数百人の見守る中で死体は2時間後に船に引揚げられましたが、ある再渡航者はそのときのもようをこう語っていた。
敏子さんの遺体はレシフェ総領事館などの手で同地に埋葬された。
    
           悲観し発作的に
遺児たちは同船者が一時引き取ってくれサントスまでスチュワーデスとともに保護してきたが、サンパウロ総領事館によると、子供はなんとしても日本に返す予定で梅村さんが保護者になってくれるという。
「発作的だったようですが、この種の事故は、海神が遺体を船に返してくれないといわれるほど、救助作業が難しいものです」と篠田船長。

      関係機関の注意連絡を----森本事務長の話
また、森本事務長は 「国援法適用者などの場合、関係機関からもう少しくわしい連絡事項でもあったら、
特別注意していたでしょう。自分たちも初めての経験ですが残念でなりません」と表情をくもらせた。

筒井信弘・事業団横浜センター職員とともに引率員をつとめた中山栄助・アスシオン支部職員も「事故以後、移住者たちに与えたショックは大きかったようで、二日ばかり、船内は静まりかえっていた」と語った。
なお敏子さんが自殺した当日の午前、アルゼンチンからの訪日観光客、トビアス・マクロへーさん(59)も急性肺炎のため船中で死んだ。

小山さんより送って頂いた当時のパウリスタ新聞の記事のワード版です。当時礼子さん達があるぜんちな丸の船待ちの2週間お世話になったと言う当時総領事館に勤務されていた赤尾さん、奥様のキエさんも当時58歳と50歳だったとの事ですのでご健在なら98歳と90歳になって居られる勘定ですが、消息を知りたいですね。礼子さん達が来伯された時には是非赤尾さんの末息子さんのおむつを替えていた頃から16年も経っているとの記録が有りますので現在56歳前後で当時の赤尾さんの年齢になりますのでお元気にブラジルにお住いであればお礼を申し上げると良いですね。
当時の残りの邦字紙サンパウロ新聞、日伯毎日新聞にも関係記事が出ていたとのことですね現在小山さんがワードに叩き替える作業をして呉れているとの事ですので楽しみに待ちましょう。遠い昔の覚えていなかった事実が少しずつ浮き上がって来るのには、ご当人達は勿論でしょうが私たちもワクワクして来ます。コロニア社会は捨てたものではないとの当時の記者が語っていますが、昔も今もブラジルにおける日系コロニアは基本的には明るくて親切、捨てたものではないと云える社会で有りたいですね。

富田礼子さん
ご無沙汰しました。
その後の記事を見ますと、貴女たちは暫くの間サンパウロ領事館員の赤尾さん宅でお世話になっていたようです。
その間の出来事と日本着の記事がありましたので送ります。
サンパウロ新聞、日伯毎日新聞の記事も見つかりましたので後から送ります。
                                            小山

パウリスタ新聞  1967年8月15日
今度のあるぜんちな丸は色んな意味でツイていなかったよう。ラグヮイラ入港にしても、ちょうど地震の日の当日。沖合いから双眼鏡で“偵察”してから、おもむろに入港したというが、以後、病死や事故死でサントスへは予定よりも5日も遅れた。こんな遅延はかつて無かったとか。

パウリスタ新聞  1967年8月18日
不幸な投身自殺
あるぜんちな丸 大荒れ

C  こんどのあるぜんちな丸では“投身自殺”がいちばんショックな出来事だった。
A  富田さんは結局ノイローゼだったのか
C  ああ、そういうことになろうが、多分に発作傾向もあったようだ。
E  関係者の話では、仮に富田さんがノイローゼであったとしてもそれに気付なかったとのことだ。
B  究極原因は日本での生活に対する不安か。
E  実父や妹からは手紙で“何も心配することはないから早く帰ってきなさい”とあったそうだ。
C  ところが富田さんは所持金二千クルゼイロ・ノーボばかりを、日本に帰ったあと一日幾ら使えば
何日暮らせるか、などと計算していたらしい。
A  しかし、そんなことをしているくらいなら冷静だ。
D  その辺が理解できないところだ。遺書もないので“発作的”説が出てきているのだが、
投身寸前に子供たちに対しては、やはりかなり穏やかに話していたそうだ。
B  そうすると以前から覚悟は決めていた?だから見破られぬようカムフラージュしていた。
C  しかし、その説は遺書があれば裏づけられるが、少しムリな点もある。
計画的なものだったら子供たちの処置について少しは考えていたと思う。
E  海がヤケにきれいだったそうだね。
A  つい見ほれて飛び込んだ。一理はあるね。
C  仏さまには失礼だが引き揚げ作業はかなりスリリングだったようだ。
D  鯨の件か。危なかったらしいな。乗員もヒヤヒヤしたという。
B  それで子供たちは日本に返すのか。
C  総領事館の島田さん、赤尾さんが船に来ていたが、船では富田さんと親しくしていた梅村さんという女性ね、
この人に話しをつけたあとで船側に聞いたら梅村さんが日本まで親がわりをつとめてくれることになったそうだ。
E  人の好さそうな感じだし、安心して依頼できるタイプのようだ。
A  可哀そうなことをしたものだが、そのほかにアルゼンチンの老人も急死したね。
C  あの人は元ボクサーだったそうで、しきりにプールに飛び込んだり、きつい運動をしていたという。
船側でも“大丈夫かな”と心配していた矢先に倒れたらしい。
D  こうした事故が重なってレシフェに緊急入港。事務長たちも“ついていない航海”だったといっていた。

パウリスタ新聞  1967年8月19日
“育てたい”と殺到
−飛び込み自殺の3遺児−
日本の祖父が引き取る
【既報】国援法適用を受け帰国する途中の“あるぜんちな丸”船上から投身自殺した富田敏子さん(25・栃木)の遺児3人を「引き取って育てたい」という愛の申し出が相次いだ。
宏之ちゃん(5)礼子ちゃん(2)美代志ちゃん(9ヶ月)の遺児3人は16日“あるぜんちな丸”がサントス入港以来、サンパウロ総領事館の赤尾館員が自宅に引き取って保護している。
ところが、敏子さんの不幸が報道されると、赤尾館員の自宅や総領事館へ各地から、「家へ引き取り、わが子同様に育てたい」という旧移住者、戦後移住者、二世夫婦など十数件も申込みがあった。

こうしたことから、総領事館では、外務省を通じ栃木県に住む敏子さんの父に“愛の申し出”の数々えを伝え、親権者としての意志をたずねたが、昨日18日午前、外務省から折り返し、 孫はやはり引き取り、日本で育てたい。
という返電が届いたため当初の予定通り、“あるぜんちな丸”で祖父のもとへ送り届けることになった。
なお、総領事館では、同船で帰国する梅村トモさん(栃木・旅行者として1ヵ年ベレンに滞在した)のほか、二、三人の人に遺児三人の船中での保護を依頼する。

パウリスタ新聞  1967年8月22日
あるぜんちな丸から投身自殺した富田敏子さんの遺児3人。帰国までの一とき赤尾総領事館々員夫妻の愛情に守られて過しているが、同じビラ・モラエスに住む後藤さんや同じ境遇だったという新来青年のタクシー運転手がお菓子をとどけるなどコロニアの誰れ彼れも温かく包んでいる。 

パウリスタ新聞  1967年8月26日
総領事館の赤尾館員が保護している投身自殺した冨田敏子さんの遺児3人。
9月1日サントス出港の船で帰国の途につくが、総領事夫人の呼びかけで、船中費用の“愛のカンパ”がきのう館内で……。館員すべてが喜んで応じたほか、来訪者も伝え聞いてそれぞれに協力という近ごろ嬉しい風景。

パウリスタ新聞  1967年8月29日
総領事館の赤尾館員が乗船までのひとときを保護している幼児3人のため総領事夫人の呼びかけで行われた“愛のカンパ”。先週金曜日の午後、わずかな時間に館内で行ったものだが、120新クルゼイロが集まるという好成績。
きのうは赤尾さんが遺児達に代わって各協力者へ頭を下げて回るという風景も……。
パウリスタ新聞  1967年9月1日
         親なきあとの親心
三遺児きょう船で帰国
元気で仲良く幸せに
国援法適用を受け帰国する船上から投身自殺した富田敏子さん(25、栃木)の遺児三人が今日一日午後六時サントス出港の“あるぜんちな丸”で祖父の待つ日本に向かう。
裕之ちゃん(5)礼子ちゃん(2)美代志ちゃん(9ヶ月)の遺児3人は母が身を投げた“あるぜんちな丸”がサントス入港後、総領事館の赤尾竜三館員(58)の申し出で、同船がアルゼンチンから復航して来るまでの間、引き取られていた。
その後遺児三人は、赤尾さんと妻・キエさん(50)一家の愛情に包まれ、さる五月、トメアスー移住地で父(昭一さん=当時25)を失い、さらに母まで失った不幸を忘れて過してきた。
遺児を家に伴ってきた日からの赤尾さん夫妻は末っ子を育ててのち忘れていた“おむつ”のしかえや、授乳に16年ぶりのてんてこ舞いだったようだ。
赤尾さんは、今日の遺児たちの出発を前に31日夜、自宅で 「あるぜんちな丸がサントス停泊中に、一度所用で子供たちを連れて行きましたが、“おじちゃん、おうちえ帰ろう”といわれたときは泣けました。
礼子ちゃんが夜中に起きて「おじちゃん、おかあちゃんは。いつ帰ってくるの」と聞いたとき、しっかり者のお兄ちゃんが「バカ、お母ちゃんは死んだんだぞ」おしえたときも泣かされましたが…..。
3人のうちの一人だけ連れて出ようとすると、よそにやられるのではないかと心配する始末だし、いまでは孫のような気がして帰す気になれません。しかし親権者の祖父が引き取るというのですからどうすることも…..。
明日の別れがつらいです。」と述懐する。
一方、夜中に起き、母の懐を恋しがってか、むずかしがる美代志ちゃんのためこのところ睡眠時間二,三時間というキエさんは別れを思って早くも涙ぐみ、「わたしには船まで見送る勇気がありません、無事な船旅を家で祈っています…..。」と声をとぎらせていた。

なお、遺児たちが赤尾さん宅に引き取られたのちはコロニアの各方面から「引き取って育てたい」という申し出が殺到、それが叶えられぬとわかったあと、お菓子や衣類など愛の贈り物が絶えず、世知辛い世に愛の灯の絶えないことを示した。
遺児達三人の世話は、船側の人たちと共に、同船で帰国する梅村朋さん(54・栃木、旅行者として1ヵ年ベレンに滞在した)らが総領事館の委嘱で保護することになっている。
(写真は出発を前に赤尾夫婦に甘えてはしゃぐ遺児たち)

パウリスタ新聞  1967年9月27日
三遺児が無事日本へ
特例でロスから空路
【既報】国援法で帰国する途中、レシフェ沖で母親が投身自殺した三遺児宏之ちゃん(5)、礼子ちゃん(2)、美代志ちゃん(10ヶ月)は今月1日サントス出港の“あるぜんちな丸”で帰国の途についたが、きのう16日空路無事日本に着き叔父のもとに引き取られた。
祐之ちゃんら三遺児は、コロニアから多くの愛情が寄せられ“引き取って育てたい”という人も三十数組にのぼるほどだったが、日本の叔父が引き取るということから、一時総領事館の赤尾館員宅で過ごし、一日、日本向け出発したものだった。
ところが三遺児とも幼いところから船中生活を苦しみ、日本までの船旅はむずかしいので日本政府に実情を報告、特例としてロスアンジェルスから同船客の梅村朋さんが付き添って、飛行機で帰国することになったもので、きのう26日、羽田空港に到着した。
不幸な遺児たちも、温かい人たちのリレーですっかり元気になり、大はしゃぎだったという。

パウリスタ新聞  1967年9月29日
悲話の中に救い
遺児をめぐる愛の灯
A  国援法の適用を受けて帰国する途中船上から投身自殺した富田さんの話は、救われぬものだったが、
残された三人の幼児に対するコロニアの思いやりで明るかった。
D  総領事館の赤尾さんが、船が日本向け出発するまでの二週間あまり引き取り、親身になって保護した話ね、
C  赤尾さんが自宅に引き取ったあとも「家の子として育てたい」という申し出も数多くあった。
B  子供たちのために、お菓子やオモチャ、衣類などを名を告げずに届けて帰った人も多かったそうだ。
A  総領事館でも、総領事夫人の発意で帰国船での小づかいのためにカンパをやったが、午後のわずかな時間、
箱を回しただけで、120クルゼイロス・ノーボス集まった。
C  あのカンパには館外の来訪者も進んで応じていたが、見ていて気持ちよかったというか、
コロニアの道義地に落ちず---といった感を深くしたな。
E  総領事館といえば自殺した富田さんを乗船させたベレン総領事館は船側に“神経衰弱気味”ともなんとも連絡せず、
その後の態度も冷たかった---と怒っていた人も居た。

その後、富田さん達と同じあるぜんちな丸でベレンからサントスまで同船者としてお近くの部屋でご一緒に過ごされた工業移民のご主人と新婚旅行?中の花嫁移住者の渡辺千代子さんからも下記お便りを頂きました。
富田 礼子 様 皆さん
また富田さんと同じあるぜんちな丸第27次航でベレンからお母さんと隣の部屋でご一緒だった若夫婦の渡辺千代子さんから下記お便りを頂きました。今電話でお話させて頂きましたが、礼子さん達の電話番号等連絡先が判れば当時の薄れつつある記憶を辿り当時の事情をお知らせしたいとの親切なお話をしておられました。
このMLにも参加頂きましたので直接このMLに投稿すると渡辺さんにも届くと思います。尚、渡辺さんは、現在サンパウロ市の郊外サントアンドレと言う町に住んで居られるとのことです。

9月11日発行のニッケイ新聞の記事を見てとてもびっくりしました。(3遺児 日本で健在)
私は67年7月2日、あるぜんちな丸乗船移住者で主人23才、私20才。工業移住者として秦野の学校を出て、たまたまアマゾンに寄る船に乗ったのです。
敏子さんと話をしたのは私が最後と思います。
船内で隣の部屋に入ったのが彼女と三人の子供たち。毎日夜子供たちが泣いていました、話を聞くと暑い所から冷房の効いたへやに入り、子供たちが寒くて眠れないないと言って部屋から暖かい通路に出て、赤ちゃんに食事など上げていました。
そのとき二三回彼女と色々話をしましたご主人が病気で亡くなったこと、日本へ帰るために何回か領事館に頼みに行き、ようやっとこの船に乗れたと喜んでいました。
一日の仕事は、下から水を汲んで来るだけとか。これからサンパウロ、アルゼンチンへ寄ってから日本へ行くので、60日位掛かると嘆いていました。
船の中での、皆の、見る目が冷たいと、身に沁みて居たようです。
赤ちゃんのおしめの洗濯をするように案内したり、子供たち二人は船の中の幼稚園へ行くように言ったりしましたが、黙って下を向いていました、二人の子供たちも母親にしがみ付くようにしていました。
最後に話をしたのはあの日、4時頃船の一番後ろで女性と一緒に本を読んでいたのですが、へやに帰る時、すれ違ったのです。その時又、子供たちに幼稚園に行くように言ったのですが、彼女は、子供たちに”着いてくるな、着いてくるな"と始めて大きな声を出していました。
へやに帰り、しばらくすると船のエンジンが止まり、どおしたのかと思ったら私がいままで本を読んで居た所から彼女が飛び込んだと女性が言って、敏子さんの履いていた草履が綺麗に並べてありました。
最初に彼女の部屋に入ったのも、船員さんと私でした。
たった一つのバックかコーりか忘れましたがベットの下に、日本からの手紙(二三通あったと思います)だけ白く後は皆茶色で古い新聞も入っていました。
手紙には日本へ帰ってくるように。。。冷房の入り口にはタオルが被せてありました。
あの時の赤ちゃんが40才に。。。そおですよね。。。私も60才になり、サンパウロに住んでいます。
渡辺 千代子

和田様 皆様
渡辺千代子様 初めまして。
去る9月11日のニッケイ新聞の見出しはすごい反響だそうですね。まさか又 私達のこと、母のことを存じ上げている方が現れるなんて本当に世の中広いようで狭いですね。
わざわざ連絡を取って頂いてとても嬉しく思います。
これも和田様、小山様のお蔭だと感謝いたします。
遠い地球の裏側から本当に温かい気持ちを大勢の方々から寄せて頂きまして何と御礼を申し上げたらよいのかわかりませんが本当に有り難うございます。
来年、姉妹揃ってブラジルにいかれたら是非、渡辺さまにも40年ぶりの再会を果たしたいですね。
渡辺様 有り難うございました。

「私たちの40年!」の皆様こんばんは。
または(おはようございます) 麻柄美代恵です
渡辺様、初めまして
あの時の9ヶ月の 赤ん坊です。はい、 お陰様で40歳になりました。
このMLに レスして 当時の詳細をお伝えしようとして下さる お気持ち とても 嬉しく思いました。
一文を拝読し 船上の出来事が目に浮かぶようでした。
以前山添様という女性ともご縁がもて、又母の事を知って おられるお方が現れるとは母は よっぽど 私たち 兄姉妹に 生きてきた証を 伝えたかったのでしょう‥
胸に抱きしめ愛情を 注いだ 事実を 伝えたかったのでしょう‥
渡辺千代子様
又 お話を伺う機会が あると思います、その時は 宜しくお願いします。
有り難うございました

和田さま 岡村さま
皆さん
こんにちは。
和田様、ご無沙汰を致しております。
岡村さんには本当にお忙しい時間を割いて頂きビデオを鑑賞できる機会がもてそうです、感謝に尽きます。
アマゾンのビデオ上映会は本当に楽しみです、また大分県の桐井さんのメールを拝見しました、岡村さんも申しておりましたがアマゾンのトメアスに眠る日本移民の方の共同墓地の実情は見せるに見せられないような悲惨なもので心が痛むとお話しをしておられました
先日はブラジルのトメアスに住む亡くなった母の従兄弟が父の墓の写真をご丁寧にも送って下さり、立派な白いお墓にびっくりいたしました、ずっと40年もの月日を墓守りしていてくれたようです
父の魂がずっとここに眠っていたのかと思うとそれを知らずに今まで生きてきてしまったことが申し訳なくて涙が止まりませんでした
本当に本当に40年目にしてやっと父の魂に会えたような気持ちになりました。
沢山の夢を抱きながらも途中で果たす事なく逝ってしまった両親の分まで長生きをしていきたいと思います。
富田 礼子



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