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【ブラジル見聞録】 内田 昌吾さんのBLOGより転載(その1)
1979末からブラジルのサンパウロにお仕事で6ヶ月程滞在され、その後2年前にも国連の温暖化防止関連のコンサルタントとしてブラジルを訪問された内田 昌吾さん(現在70歳)が最近開設されたBLOGに掲題の【ブラジル見聞録】として面白い話題を11回に分けて掲載しておられます。
『私たちの40年!!』のホームページのお問い合わせ(連絡欄)より連絡を頂きお近づきになりましたが、今回内田さんの了解の基に【ブラジル見聞録】を2回に分けて掲載させて頂くことになりました。国土が広大で多岐多様に渡るブラジルを少ない紙数で語るのは難しいですが、内田さんらしいブラジルに昭和初期に移住された農業移民の女性加奈子さんの生涯をベースにした長編伝記も書き上げておられます。全文15万語以上の大作ですが、何らかの形で皆さんにも紹介出来ればと願っていますが先ずはこの【ブラジル見聞録】から始めました。
写真は、(その4)に掲載の内田さんがサンパウロ滞在時の80年に独立の雄叫び像がるイピランガの帝政博物館の前で撮られた物をお借りしました。
尚、内田さんのBLOGのURLは、下記です。blogs.yahoo.co.jp/tctbx135/folder/1664991.html


ブラジル見聞録 
(その1 ブラジルへ)
横浜に生れ育った私は、子供のころから外国人に接する機会も多かった。多くの農業移民を受け入れてくれた南米、特にブラジルは小さい頃から行ってみたい国だった。仕事で中東・欧州・東南アジア・北米に出張することは多かったが、南米大陸へ行くチャンスはなかなか巡ってこなかった。
たまたま特殊な分野の知識があったため、コンサルタントとして、1979年12月から6ヶ月間サンパウロに単身赴任(当時42才)することになった。
東京羽田からリオデジャネイロまで、ロスアンゼルス、リマを経由するので、30時間以上の長旅である。さらに国内線4発ターボプロップのロッキード「エレクトラ」に乗り換えてサンパウロまで1時間かかった。世界一優美な機体と云われ、一度乗って見たかった旅客機である。ロッキードが民間航空機として開発したが、就航時には民間機はジェット機の時代を迎えていたという時代錯誤の機体で、座席数も150名程度と少ないやめ世界のローカル線にまわされたイワクつきの機体である。ターボプロップ機はジェット機に比べ、速度は遅いが航続時間が長く、この機体は対潜哨戒機P3Cとして現在も利用されている。
下宿先は20階建てのアパートで、サンパウロでも近代的な超高層のオフイスビルが立ち並ぶパウリスタ大通りとブリガデロ・ルイス・アントニオ大通りの交差点を北東へ200mほどの一等地にある。私の部屋は10階の北側の明るい部屋(南半球のため)である。各階3所帯に区切られ、裕福な家族が住む住居専用アパートである。20階建でも、日本なら鉄骨構造になるが、地震がないので鉄筋コンクリート造りになっている。地階に専用駐車場があり、1階の入口には中年のガードマンがいた。アパートの前の道路はなだらかに傾斜しているので、中央にある駐車場の出入口と道路はほぼ同じレベルにある。
サンパウロは南回帰線の上にあり、海抜700mの高原でもあり、夏でも30℃を越えることはないので、一般家庭には冷房もない。冬でも朝は11℃程度でコートも不要だ。海岸から約70km内陸にあるが、適度な湿度があり快適である。サンパウロやその周辺は50−100mの緩やかな起伏になっている。オフイス街であるパウリスタ通りは、サンパウロ市の丘の上にある。アパートの北側は緩やかに下り傾斜になり、視界をさえぎる高層ビルもないので、10階の窓からの見晴らしは、雄大である。眼下にはリベロン・プレト通りが見下ろせ、通りの向こうに一軒のバーがあった。バーには日本ビイキのマダムがいた。イタリア系の彼女がつけてくれた私のブラジル名はフェルナンドである。その後それをペンネームにしている。大都会の真中にあるので、巨大なスーペルメルカード(supermarket)'Jumbo’はブリガデーロ大通りを渡った突き当たりにあり、その並びには商店やレストランなどが軒を並べ非常に便利な場所だ。
商業都市サンパウロは、貿易港であるサントスまで直線で70km。海岸線から約20kmのところに切り立った7-800mの断崖があり、ここから内陸に向かって約1500kmにわたって緩やかに傾斜し、大河はサントスの海に向かっているのではなく内陸に向かって流れている。この断崖は南米大陸がアフリカ大陸と分断された痕跡なのである。

ブラジル見聞録 (その2 農業)
超大農業国
ブラジルは、世界屈指の大農業国であるので、一般に知られる農産物は豊富だ。牧畜も大掛かりに行なわれているが、国産牛肉にあまり人気が無い。牧草にクローバを使うアルゼンチンから輸入した牛肉が高級だと言う。ブラジルの牧草地ではクローバが育たず、雑草が使われているため肉質や味に差が出るという。ブラジルの南部にはクローバーに適した場所もあるが限られている。2005年に渡伯した時に食べたシュハスコは、油が乗り柔らかく味も良かったが、25年前は、パサパサした油気のない堅い肉だったことを記憶している。当時は財政赤字と外貨不足で、輸入肉が手に入らなかったのである。油気が無いだけにたくさん食べられた。年のせいもあるが、今回は油が乗っているので、たくさん食べることが出来なかった。現在では輸入は自由化されているので、レストランでは、アルゼンチン産肉を使っているようだ。
コーヒー栽培での日系人の占有率は低いが、東南アジアから日本人が導入したピメンタ(コショウ)の栽培では、95%くらいを占めている。戦前に、ブラジルに農業協同組合を導入したのも日系人で、情報と価格安定に寄与する合理性がブラジル社会にも認められ、全土に広まった。日系人が独自に農業開拓を始めた時期にも一致し、拓殖銀行なども開設されていった。
ブラジルは葡萄の産地でもあり、大量のワイン輸出国であることは知られていない。殆どが欧米向けである。ビール、ブランデー、砂糖を発酵させた蒸留酒ピンガ(ラムの一種)、日本酒、焼酎、ウィスキー、ジン、ウオッカ、中国酒などなど、あらゆる種類のアルコール産地でもある。それは、全世界からの移民を受け入れたので、その母国の酒の種類だけあると考えてよい。
良質で豊富な野菜・果物は都市近郊で栽培されており、殆どが日系人の手によるものである。甘くみずみずしいメロンは絶品である。オレンジは豊富で安く、家庭では大量にジュースとして消費される。日本ではコショウを香り付けに使うが、ここでは、香りと言うよりスパイスとしてスープにスプーンですくって入れる。確かにピリッとして旨いが、コショウは興奮剤でもあり、その夜は一睡も出来なかったこともある。
ブラジルでは魚介類の消費が極端に少なく、漁業は盛んではない。今回の訪問で気付いたことは、高級レストランやホテルでは、生の魚介類が豊富に食べられている。25年前はこんなことは皆無だった。アマゾン河口で大量に寒天を栽培したり、大量に獲れるボラからカラスミを生産している。日系人が行なっており、主に日本向けに輸出している。豊富に獲れる鰻も日系人には好まれているようだか、大きくなりすぎた鰻の蒲焼は小骨が気になり、おせいじにも美味しいとは思えない。
米を食するのは、アジア人だけではなくラテン系の人も同様で、穀類の中でも米の栽培も盛んである。

コーヒーの国
サンパウロの住民は「リオより濃いエスプレッソを飲んでいる」と自慢する。10時と3時に小さなカップにはいった濃厚で砂糖がたっぷり入ったエスプレッソが運ばれてくる。あまり眠い時は、食堂の脇に大量に作り置きしてあるエスプレッソを更に飲みに行くこともある。勿論コーヒーの国であるから無料である。最初は濃すぎて胃がおかしくなるのではと心配したが、すぐにエスプレッソ無しではいられなくなり、コーヒー中毒になる。肉料理にはコーヒーが合うようで一日に3・4杯は呑む。順応してしまうと、エスプレッソを飲んでも眠気から開放されなくなる。最初は夜コーヒーを飲むと眠れなくなると思っていたが、毎日何杯も飲んでいると睡眠には関係なくなってしまう。外国からも多数のエンジニアが参加しており、濃すぎるエスプレッソを嫌って、自ら電気コーヒーメーカーを持ち込み、楽しんでいる英国人が一人いた。帰国する際に、私のアサヒペンタックス一眼レフカメラが欲しいというので、買値の3割引で譲ったが、英国ではとても考えられない安さだと言う。
サンパウロから一歩郊外に出ると、広大なコーヒー農園やぶどう園が広がっている。サントスとして知られるコーヒーの産地は、モンスーン地帯である南緯20度から25度にあるが、南米大陸でも異常気象で十数年ごとに霜の被害がある。ブラジル産コーヒーの生産量は世界の約半分を占めるので、霜害ニュースは世界のコーヒー相場を上昇させる。霜が二三日続くと地上部分が枯れてしまうが、地下茎は生きているので、直ぐ発芽する。しかし、成木に戻るまでに五年かかるという。勿論、収穫したコーヒー豆を直ぐに輸出するのではなく、長期間、風通しのよい室に寝かせることによりマイルドな味になるので、貯蔵を兼ねて戦略的な備蓄もなされている。その年の収穫量は落ち込むが、直接輸出量が減るわけではないようだ。

ブラジル見聞録 (その3 退屈な毎日)
現地のエンジニアは残業することも無いので、定時に仕事は終わる。公共交通機関の利用は危険である。会社が用意した車でアパートとの間を朝夕往復する退屈な毎日だ。私なら2時間で終わってしまう仕事を現地のエンジニアは1週間もかける。彼らの仕事が無くなってしまうので、実務に手を出すのは止め、6名のブラジル人エンジニアの技術を監理することだけに徹した。実際にはほとんどすることが無いので、毎日退屈でたまらない。午後は特に眠くてしようがない。ガスタービン圧縮機の打合せに来たフランス人は、パリからリオまで超音速旅客機コンコルドを使い4時間で来たと自慢していた。私がコンコルドを見たのは7年後にロンドンに駐在していた時で、仕事が終わった5時過ぎにアパートの上空をオーストラリアに向けて爆音を轟かせながら飛び立って行くのを目にした。
ブラジルはラテン系民族とその混血とアフリカ系黒人が中心で、特に女性は魅力的でもある。街を歩いてわかることは、北欧と違い日本人の背丈とほぼ同じくらいなので、親しみ易い。体形も豊かで、女性の胸やお尻の大きいのにそそられる。冬の二三ヶ月間を除いて暖かいので薄着である。肌にぴったりのニットシャツの上から乳首がわかる。親しい女性に聞いたところ、薄いメリヤスのブラジャーをつけているという。バスに乗ると目の前に座った女性の広く開いた胸元が気になる。
最初は会社のレストランで昼食を食べたが、英国人たちと通りの向こう側にあるバーで、焼肉サンドとビールで済ませることが多くなった。ある昼食時、バーでサンドウィッチをほお張っていた時、悲鳴のような急ブレーキが聞こえた。皆が振り返ると、フォルクスワーゲンのカブトムシ型の車が止まり、片方の前輪が外れ坂を転がって行くのが見えた。運転手が慌てて追いかけて行く姿が滑稽だったので、皆大笑い。車検など整備する金も無い文無しのブラジル人は、ろくに整備もしない。ブレーキランプの点かない車も多く追突事故も多い。古い車も多いのでハイウエイの路肩でエンジンを冷やすためにボンネット開けて休んでいる車も多い。
週末にはゴルフをし、暇つぶしに街をぶらぶらする。パウリスタ大通りに面した超高層ビル群はオフイスになっており、休日にはレストランや売店も閉まる。街中では英語が通じない。店が開いていても上手く話が通じない。公園などで知らない人に話し掛けることもできない。そこで週に4回ほどポルトガル語会話を習ったが、6ヶ月間では殆ど役立たなかった。事実、仕事では英語を使っているので、ポルトガル語を話すのは朝晩の挨拶くらいで、日常会話で利用する機会も殆ど無い。もっとも、ナイトクラブでホステスと話したいなどといういかがわしい動機だから真剣味もない。ナイトクラブで覚えたポルトガル語(ポルトゲース)を日本人仲間では「ヨルトゲース」ともじる。ラテン語は男女の話す言葉の語尾に変化あるので、女性相手に覚えた言葉は、直ぐにわかるという。
コーヒーブレイクで英国人が五人ほど集まって歓談していた。話を聞いてみると、二週間ほどブラジルに奥方連れで出張にきた仲間がおり、「まるでレストランにサンドウィッチをもって行くようなものだね」と冷やかされていた。
退屈な仕事なので夜に刺激を求めてナイトクラブやバーに繰り出すことも多い。言葉が出来ないうちは言葉の話せる人と一緒に行く。いつまでも他人に頼ってもいられない。700円程度の飲み物を注文すると女性を外に連れ出す権利ができる。一緒に行く人も相手が決まれば、いつの間にかいなくなる。一人になれば、度胸とほろ酔い機嫌で、片言のヨルトゲースを最大限使い、身振り手振りで話しをすることになる。職場で一緒になった英国人は、ロンドンに残してきた奥様がスペイン人であったので、スペイン語が堪能で、十分意気投合している。
彼は帰国するときに、トランペットを買うためニューヨーク経由で帰国した。質の良いトランペットはニューヨークでしか手に入らないのだそうだ。彼のトランペットを聞いたことはないが、わざわざニューヨークに立ち寄るくらいだから、よほどのマニアのようだ。
フランス語の独特の言い回しは例外だが、スペイン・イタリー・ポルトガル語のラテン系の単語は似通っているので、日常会話では異国の言語であっても互いに理解できるという。但し北欧圏ではドイツ・フランス・英語、ロシア語は、中国語・朝鮮語・日本語と同じように殆ど通じ合えない。スペイン語も習ったことがあるが、歌をうたう動機もあった。

ブラジル見聞録 (その4 大都市の治安・環境)
サンパウロなどの大都会には、農村から大量の人口が流れ込み、失業率は30%を越えており、定職を持たない人を含めると約60%以上に達する。金持ちは、ガードマンが四六時中警備している大きな高層アパートに住み、安全な生活をしている。二重扉や各々の扉に別のカギが付いている。私もアパートの住人なので、何種類もの鍵をいつも持ち歩いていた。
泥棒被害が多く、ひったくりは日常茶飯事。街を歩く時は常に気を緩めることはできない。強盗が押し入っても、警官がすぐに駆けつけることは稀である。銃の恐怖や犯人とグルになっていることもあり、事が全て終わってからやっと現れるので、警官は信用されていない。だから金持ちは一戸建てに住まない。たしかに市内には一戸建ての家は殆ど無い。郊外の一戸建て住宅地は高いフェンスに囲まれた団地を形作って、入り口にはガードマンを置いている。定職にあり付けない貧困層は、許可無く広場にバラックを建て、あちこちに部落が出来ている。道路建設など強制立ち退きを強行した市長が、ピストルで打たれ死亡した事件も少なくない。
バラックの語源はbarracaというイタリア語からきている。太平洋戦争でイタリア系米軍兵士が戦後日本に持ち込んだ言葉が訛ったのだと聞いたことがある。ポルトガル語のバラッタは女性形容詞で、「安っぽい女」という意味から、ブラジルでは「女中」や「ゴキブリ」を意味する。「安い女は台所を這い回る人または動物」を意味することから、「ゴキブリ」という言葉が派生した。
都会の治安の悪さは、教育レベルの低さと一致する。人種によっても異なるが、全般的に親が子供の教育に熱心でないことも一因である。例外として日本人・ドイツ人・中国人などは子弟の教育に熱心であるが、大多数を占めるラテン系やアフリカ系は無関心である。サンパウロだけではないと思うが、25年前は公立の小中学校は教室が不足し、午前と午後に分かれる二部授業をしていた。3・4階の小さな建物を使った学校である。義務教育制はあるのだろうが、非常に文盲率が高い。住民登録もしていないバラック住人の子弟には通学のチャンスなど無い。スクールバスの中で先生が生徒に向かって、道端で働いている日雇い労働者を指して「勉強をしないと、あのような仕事しかない」とハッパをかける。
サンパウロ市中心部を流れる河は、夕立でしばしば氾濫し、その都度交通が遮断される。ブラジルの河川が内陸へと流れ、傾斜があまりに緩やかなため、水はけが極端に悪い。下水の処理率が低いので河川の水質はひどい。今回の訪問では、河川の改修工事が大々的に行なわれていた。
サンパウロ州内には、水源を有効利用するため、ダムで堰き止めた巨大な人造湖が20もある。湖の総面積は、サンパウロ州の5%に近い。灌漑・発電・水道などに利用されている。ちなみにブラジルの発電量の90%は水力に頼っている。勿論、乾季に灌漑用水としても利用されているのだが、発電量が半分以下にもなることがあり、最悪だった2002年に30%の節電を強制され、忍耐強い民衆は従ったという。そのとき七輪と炭で炊飯もしたと、日系人ガイドが話していた。
ブラジル見聞録 (その5 ゴルフ)
ブラジルで余暇にゴルフをしたかったので、羽田を出発するときにドライバーとパターを手荷物として持ち込もうとしたら、拒否され機長預かりとなった。果たしてサンパウロに到着時、ゴルフクラブは紛失し発見されなかった。勿論、航空会社は弁償してくれた。贅沢品の関税が高くゴルフクラブは日本の二倍以上もするので、6ヶ月間の滞在中、駐在員が残していった中古クラブを借りて週末にプレーをした。
ブラジルでは、トップクラスの人は、あまりゴルフはしないという。トップクラスの人は、週末には別荘でテニス、プール、無線などを楽しんでいるそうである。ゴルフをするのは二流クラスのようだ。移住した日系人はそれほどでもないが、滞在中の日本人のゴルフ好きはブラジルでも有名で、ゴルフ場へ行くと必ず日本人に遭える。さらに、日本人は団体でコンペをやり、現地の人と交流をしないので、一流のゴルフ場から締め出される。日系の友人に誘われ、一流のゴルフ場でプレーをさせてもらったが、たしかに日本人のゴルファーは見当たらなかった。
私も運動不足を解消するため週末にはゴルフを楽しんだ。下宿の主人(日系人)に頼み一緒に、ゴルフをした。18ホールで会員が300名。会員は、ほとんどが億単位の金持ちの日系人で占められていたが、中には日本人が大好きだと云うブラジルフォード社の副社長などもおり国際色もあるクラブである。二度目にプレーをした時に、クラブハウスを改築したいので150名の会員を追加募集するとの話があった。下宿の主人の紹介で会員になることを勧誘され入会することに決めた。会員券は8万円で2万円の月賦にし、毎月の会費も要らないとの条件だった。帰国後3年過ぎて、友人から会員権を32万円で買いたい人がいるというので譲った。只でプレーをした上に、3倍になったとは。
週末の早朝7時半頃アパートの近くから送迎バスが出発し、ガルボンブエノにある日本人街を経由して郊外のクラブまで行くので、私のような車の無い外国人には好都合だった。当時は運転免許をもっていなかったので大変助かった。リッチな日系人の本当の意味でのカントリークラブで、朝のバスの中は知り合い同士でわいわいガヤガヤ。一緒にきた日焼けしたくないカミさん連中はゴルフに興味は無い。彼女等は、シャンジ(ビールとコカコーラを混ぜた飲み物)片手に、嬌声を上げながらブリッジにうち興じている。時々、旦那連中からクラブの品位を下げるのでブリッジを禁止しようではないかと言う発言も飛び出す。
日系人は「ゴルフをプレーする」とは言わず「ゴルフを投げる」と言う。ポルトガル語で「Jogar golfi」と言い、Jogarは和訳すると「楽しむ、投げる、プレーする」となり、何故か「投げる」が選択されてしまった。想像するに、最初日系人は恐る々々ゴルフ練習場に通い「ボールを打った」のではないか。それが「楽しむ」という表現より「投げる」という表現の方がぴったりしたのだろう。勿論、プレー (play) は英語であるので、ラテン語ではない。

ブラジル見聞録 (その6 格差)
サンパウロには、ダウンタウンであるガルボンブエノ地区に日本人街がある。
海外に出ると、特に日本人はグループを作りたがると言われているが、これは日本人ばかりではなく他国の人もそのような傾向はある。その好い例はチャイナタウンで、いわゆる華僑は、東南アジア、豪州、欧米などの大都市に必ずチャイナタウンがある。ロンドリーナという英国人の入植地もある。スペイン語とイタリア語は、同じラテン系のポルトガル語に似ているので大きな問題はないが、ラテン系以外の人種は、夫々集中して住んでいる地区があり、グループを作りたがるのは日本人ばかりではないようだ。特にポルトガル語という特殊な言語を使う国へ移民した人々は、自国出身者が一番の頼りである筈だ。だからグループから精神や言語で脱出できた人は、本当の意味でのブラジル人になったと言えるし、ブラジルで成功するには最低条件でもある。移民した世代はグループから中々抜け出せない人が多い。母国の思い出に共感をもとめて同国人が集まるのは、ごく自然なことだろう。しかし、ブラジル生れの二世や三世は、ブラジルで教育されポルトガル語で話し、ブラジルに同化している。このことから、移民世代と二世のような親子の間には、世代間格差以上に意志の疎通の難しさも存在している。家庭では、親は母国語で話し、子供はポルトガル語で返事をする。幼少の頃から母国語を聞いて育っているので、子供は母国語をある程度理解している。大まかな意思の疎通には問題ないが、細かいニュアンスを伝えようとすると、しばしば摩擦が起こる。これは、日系人だけの問題ではない。オーストラリアへ移民したイタリア人家族にも同じ問題があるとオーストラリアに在住するイタリア系の友人(現地で生れた一世)から聞いている。これが日本で言う三世となると、特別な教育を受けないかぎり、もはや日本語は全く話せない。
(広辞苑では、日本から移民した人を一世と呼び、現地で生れた最初の子供を二世、孫を三世と呼ぶと説明している。これはオーストラリア人に確かめたのだか、英語では一世は現地で初めて生れた世代を “First Generation”(一世)とよび、移民immigrantの孫は “Second Generation”(二世)であるという)
ブラジルでは、ほとんどがカソリック教徒である。東洋人やアラブ人も夫々の宗教を守っているが、特に宗教的な対立という問題は聞いたことがない。商業の面では、中国人・アラブ人・ユダヤ人が一目置かれているが、勤勉な日系人の評価は高い。ブラジルは米国以上に多民族国家であり、またラテン系とアフリカ系の混血の割合も高い。祖国の伝統文化の継承と子弟の教育に熱心であればプラスに働くが、出身国の国民性が教育レベルに現れ、貧富の格差にもなっているように思える。宗主国であったポルトガル系住民は、ブラジルではマイノリティーであり、母国の衰退とともに、政治・経済の重要な部分をドイツ系に渡してしまっている。白人同士の夫婦に突然黒い子供ができ、妻が浮気をしたとして離婚騒動まで起きたこともあるが、祖先を辿って行くと黒人の血が混ざっていたことが判明し、一件落着となった笑えぬ事実も多いという。
移民した日系人と仕事で駐在している日本人との間にも摩擦が起こる。日本人が日系人を見下す傾向があるようだ。それは教育レベルや所得格差や仕事に対する意識の差からくると思われる。駐在者の給与レベルは、ブラジル人社会におけるリッチな上層部に入るからである。貧富の差が余りにも大きく、リッチになりたいという欲求の強さは、我々現代日本人の中間層の観念からは、とうてい理解し難いものになっている。下層から這い上がるには、余程チャンスがなければ不可能である。農業で大成功した日系人の話をよく聞くが、ほんの一握りの人達で、ほとんどの日系人はそれほど金銭的には豊ではない。ゴルフなどを楽しめる日系人は、その中のほんの一握りの人達なのである。
裕福な家庭の子弟は質のよい私学に通わせることもできるが、ブラジルでは、一般に受けられる公立学校の質は低い。日本政府の予算で運営しているサンパウロにある施設の整った広大な運動場のある日本人学校は、日本人子弟が対象で、ブラジル国籍の日系人の子弟には入学のチャンスはない。
サンパウロから内陸に100kmほどのところに日系企業があり、50才を過ぎた副社長とゴルフをし、家庭に招かれたことがあったが、子供たちはポルトガル語を話しながら遊んでいた。彼は、日本に帰国する意志はなくブラジルに骨を埋めることにしていると言う。このようなトップのいる企業は、ほとんど成功している好例である。



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