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【ブラジル見聞録】 内田 昌吾さんのBLOGより転載(その2)
内田 昌吾さんの【ブラジル見聞録】その2ですが、内田さんが書かれている話題では7番目の『古い日本』に取り上げている日本からの移住者、特に戦前の棄民政策へのコメント更に戦後の話題では8番目に取り上げておられる『駐在員の意識』が面白い。特に移住者としてやって来た私が石川島播磨(1年)、ポルトアレグレ総領事館(5年半)、丸紅ブラジル会社(21年)と長い間日本企業で共存して来たことから側で眺めて来ただけに内田さんのコメントには共感する点が多い。
内田さんからは、『小生の独りよがりのところもあるかも知れませんので、コメントなどいただければ修正いたします。』との申し出が来ていますが、内田さんの【ブラジル見聞録】であり修正等はまっつたく必要ないと思います。
写真は、内田さんのBLOGに掲載されていたサンパウロしの中心地ZERO指標のあるセー広場の鳥瞰図的な写真で航空写真なのか近くのビルの屋上からでも撮られたのか普通でない面白いアングルからのものです。サンパウロのZERO指標もはっきり見え地下が地下鉄のメイン乗り換え点になっている広い公園です。


ブラジル見聞録(その7 古い日本)
日本から移住した世代には、明治・大正・昭和など戦前の日本の風習が色濃く残っている。律儀さもその一つで、神道の精神がまかり通り、天皇皇后の写真が壁にかかっていることも多い。かつて、ブラジルを訪問した大宅壮一が「ここには明治が残っている」と言った言葉がぴったりとあてはまることもめずらしいことではない。日本を出国した時に、日本のその時代のイメージが封印されてしまうからである。日本では、すでに死語になってしまった「せった」などという言葉とともに、その差別階層まで残っている。あまりにも前近代的な風習なので、我々現代人には戸惑いを感じることすらある。日本への帰趨本能が抜けきれないでいる移住世代と、日本をまったく知らない二世や三世との間で、摩擦や葛藤があるのは当然である。下宿先で家族同様に生活し、その日系人社会を半年間経験したので、それがどんなものか理解できた。戦前戦後を通じて、明治七年生れの祖母との付き合いが長かったので、それを理解するのに大いに役立った。
仕事などで知り合った日系人二世の顔形は柔和な日本人だが、島国育ちの日本人とは異なり、大らかなブラジル人に成りきっている。以心伝心などという日本的なあいまいさから脱却している人が多いことにも気づく。それに比べ、移民世代は、日本の地方農民の出身者が多く、農業で身を立て故郷に錦を飾るのが夢であった。現実には、成功した人も成功しなかった人も、日本に錦を飾るようなことは殆どない。親族に逢うため、観光目的で一時帰国することはあったにしても、ブラジルに根を下ろした家族と別れてまで日本に帰った人は皆無である。彼らにとっては、日本はすでに紅白歌合戦とカラオケで郷愁を感じる心の故郷になっている。貧富の差は大きいが、富める者が寄付をすることがごく自然のようで、究極的な弱者である身寄りの無い老人は、目で確かめたわけではないが、養老院で老後を過ごすことができるという話を聞いた。
特に戦前に移住した人達にとっては、日本政府から捨てられたという「棄民意識」が強いことも確かである。殆どの日系人が一時的な海外出稼ぎで財産をつくり故郷に錦を飾ることを夢見ていたので、ブラジル人に成り切る「移民」という意識も薄かった。第二次世界大戦がはじまると同時に、日本人移民を放り出して日本政府機関や大企業は突然日本へ引き上げたのである。開戦当時から戦後講和条約締結まで約十年間、日本の情報が途絶えてしまう不幸な時期があった。日本移民に対しては、集会や通信の自由を規制されたこともあり、太平洋戦争の戦況など知る由もなかった。冠婚葬祭のような集会までも禁止されたという。敗戦したのかどうかの情報も正確に伝わらなかったので、戦勝組が敗戦組へのテロや暗殺にまで発展した苦い歴史がある。臣道連盟が中心となった戦勝組は、同時にブラジル人との血の抗争にまで発展したのである。
第二次世界大戦では、ブラジルは連合国側につき、主に食料と鉱物資源の供給国としての役割を果たし輸出で潤った。戦後米国との貿易が極端に細ったため、国家間の関係まで悪化した経緯があり、未だにその尾を引きずっている。現在でも変わらないが、政治経済の中枢はドイツ人が占めていたので、ドイツと同盟国の日本という観点から、米国のような土地の収用や収容所送りにするような政策はとらなかった。当時の大統領が日本人の勤勉さや貢献度などを考慮した結果であったという。これは、日系人の棄民意識とあいまってブラジルへの帰属意識を高める一助にもなった。

ブラジル見聞録(その8 駐在員の意識)
日本人駐在員も種々な問題をかかえている。特に商社マンや製造業者は、任務にもよるが、3−5年を同一地域で勤務することになる。サラリーマンだから仕方ないが、帰国した時の椅子ことを考えて勤務せざるをえない。長年駐在していると、中には現地のペースで作業し生活することに慣れてしまい、日本への帰趨本能からはずれ「浦島太郎」になる人もいる。例えば、10年もいると子どもが日本語より現地語に慣れ、移民の一世と現地生まれの二世の関係ができあがる例もある。しかし、現地に骨を埋めるつもりで働く社員のいる日本からの進出企業は、ほとんど例外なく成功している。これは、日本の本社を向いて仕事をするか、現地を向いて事業拡大に注力するかの違いである。それでも、移民した家族に比べれば、帰国後の仕事の保証もされている差は大きい。
大都会のような場所に生活できる場合は、子弟を設備の整った日本人学校通わせることができるが、そうでない場合には単身赴任を余儀なくさせられることになる。稀ではあるが、それでも家族と暮らしたい場合は、仕方なく現地の学校に入学させるケースもある。単身赴任の場合は、どうしても女性との関係ができ、問題が起こるケースも多い。
最近は、通信の発達でNHKの衛星BS放送が受信でき、インターネットでも世界の情報はいつでも入手できるようになった。近い将来、電話回線などで日本のテレビ番組を見ることができる時代がくる。この十年で、世界の何処にいても、自国と同じニュースを同時に見聞できる時代になったが、この先十年でもっと手軽に便利になるであろう。
ある著名な会社から派遣された社員が、下宿先が決まるまで一週間ほどホテルに滞在していたが、初めての海外と言うことでノイローゼになり、下宿先に入居する前日、ホテルの窓から身投げした。何年も前から単独で駐在していた下宿仲間だったその会社の社員の話では、本人が希望し十分納得してサンパウロまでやってきたのではなかったとのことだった。幸い一命はとり止めたが、本社が人選を間違えた最悪のケースだった。事業拡大に伴い優秀な人材と認められ派遣された筈で、投身した本人は、日本に帰還したとしても将来に汚点を残したことであろう。
日本企業から派遣されている人の生活ぶりは色々ある。3年程度で帰国できる人たちは、ほんどが日本人仲間と日本にいた時と同じようなアフター5を過ごしている。情報交換といっても、日本人仲間から得られる限定した情報である。家族連れの場合は、昼間は子どもを学校に出した後、日本人の奥様同士と付き合い、日本では雇えない女中に家事をさせている。ボランティアに参加するでもなし、現地人と付き合うこともない。ほとんど現地の人と交流もせずに帰国する人も多い。
日本では係長程度の若い人が、現地では支社長の名刺を誇らしげに配る姿も多い。勿論、直ぐに外国に溶け込めるのは30才くらいまでであるので仕方ない。いくら経験者といえども海外に放り出されてビジネスを開発して行くには、40代を超えたら言葉の壁もあり困難である。これは日本人だけに限ったことではない。
戦後、新天地を夢見て渡来した人や企業からスリップアウトした日本人も多く見受けられる。単独で企業をおこせる幸運な発想力のある人は問題ない。アマゾン河口で寒天の栽培に成功した人もいれば、利用していない不動産を日本人駐在員の下宿として活用し成功した人などもいる。進出企業は、現地語に堪能で現地情報になれたこのような人を雇用しているケースも多い。問題は、能力の如何に関わらず、日本から派遣された社員と比べると待遇に大きな格差がある。実力さえあれば、好んで日本企業に雇われる必要は無いのだが、ブラジル人社会に完全に溶け込めるかどうかで差が生じるのだろう。

ブラジル見聞録(その9 食べ物と飲み物)
地元レストランでの代表的なメニューは、豚の脂身と黒豆(フェジョン)を塩味で煮込んだフェジョアーダと牛肉片をサーベルに刺して焼いたシュハスコである。フェジョアーダは、ポルトガル人がアフリカから連れてきた奴隷に重労働をさせるための安価な栄養源だった。一度だけレストランで薦められるまま食べてみたが、豚の油がどぎつく、二度と注文する気にはならなかった。
シュハスコレストランをシュラスカリーヤと呼ぶ。放牧牛の硬いパサパサの牛肉を2−3センチ幅に板状に切り、サーベルに串刺しにし、炭の上で回しながら焼く。火の通った外側の部分をナイフで削ぎ落とし、岩塩を付けて食べる。人気のあるフェジョアーダやシュハスコは、レストランで食べるとそんなに安くはない。シュラスコは、パサパサしたステーキで、私には美味しいとは思えないが、下宿の一家には楽しみにしており、月一度の団欒の機会にしている。
国産牛肉は安いが、放牧地の草の種類と質があまり良くないので赤味で硬い。アルゼンチンでは牧草地にはクローバが豊富で、肉質もやわらかく味もよい。25年前は、外貨が極端に不足していたので、高い関税のかかる輸入牛肉は高価であるので、一般庶民は国産肉を買う。輸入牛肉が高価といっても日本の5分の1程度である。
移民の国のメニューも多様である。イタリア系移民も多く、ピザの店は至るところにある。ピザの大きさも日本とは比べものにならない位に大きい。日本人の中にもピザを食べ競べし自慢する人も多く、つられて大食いしたところ、3日間食欲が無かったことがある。しかし、それに懲りずに、その後イタリア料理が好きになったことは事実だ。中国系や韓国系移民も多いので、どんな小さな町でも中華料理と韓国料理のレストランはあるが、味はピンからキリまである。サンパウロでは、数多くの日本料理レストランがあり、高級なものから家庭料理まがいのものまである。多民族の移民社会においては、レストランが一種の交流の場となる。ある程レストランのレベルも客の階層が異なるが、同国人との交流の場として活用されてきた事実も見逃せられない。日本では考えられないことであるが、食事中に突然知人に声を掛けられ、挨拶代わりに乾杯の歓声が沸きあがるのも珍しくない。
大西洋に面しているので魚は豊富であるが、日本人のように魚を食べる習慣が全く無い。ウナギは日本人が消費するが、肥大化しすぎて蒲焼にすると小骨が気になる。店にもよるが、タレの味も良くない。ボラも大量にいるが、誰も見向きもしない。カラスミにして日本に輸出しているが、量的には少ない。最近は欧米でも人気があるとのこと。アマゾン河口では、日系人が海藻から寒天を製造し日本に輸出している。
ブラジルの代表的な庶民のラム酒「ピンガ」である。砂糖きびのしぼり汁をそのまま発酵させ蒸留した酒で独特の香味があり、それが好きだという人もある。一般的な飲み方は、角切りしたカボスに似た柑橘類をつぶし、砂糖を加え、ピンガをコップに注ぎ、角氷を加える。柑橘類を加えると独特の強い香味を和らげる役目もあるようだ。
ブラジルでは、ブドウの栽培面積でも世界有数であり、ワインとブランデーが特産であることは、意外に日本では知られていない。サンパウロ近郊には広大なブドウ畑もある。大量のワインとブランデーは、欧米向けに、特にフランスに輸出されている。フランス産ワインと相当量をブレンドされ、さらにフランス産ワインとして輸出されている。雨の少ない内陸で収穫されたブドウは糖度が高いので、ワインの製造には最適で、ブラジルでは安くて美味しいワインを楽しむことができる。下宿では、収穫次期には毎週製造元の農家にガロン缶を持参して買出しにゆく。発酵を止めるプロセスを経ない生のワインが入手できる。酸化防止剤も加えておらず、早めに消費するのであるが、ビールより安い、すっきりとした上品なワインが、冷蔵庫に無造作に入っており、下宿人はいつでも好きなだけ飲めるようになっていた。
一社であるが日本酒(確かブランド名は「東キリン」だった?)も製造している。
要するに、移民した民族の数だけ料理と酒があると云うことだ。

ブラジル見聞録(その10産業)
野菜と果物
サンパウロで消費される野菜のほとんどが、近郊の日系人農家が供給している。日本で目にしている野菜のほとんどが手に入る。ブラジルでも農薬使用が問題になっており、無農薬栽培もされている。虫食いの無農薬野菜は、30分ほど水に漬けておくと、虫が水面に浮きあがってくるので、それを待ってから調理をする。
ブラジルでの楽しみの中に南国特有の豊富な果物がある。今回の旅行では、ホテルでの朝食の半分以上を果物でとり、十分満喫することができた。中でもメロンは甘くて水分がたっぷりしている。パイナップルも同様で、収穫され、すぐに店頭に並ぶ。青いパイナップルには青酸も多く含まれているので酸っぱい。時々唇が紫色になることもあるので、気を付けるようにと注意された。オレンジは中央市場に行けば、木箱ケース入りで60kg 600円から700円で年中いつでも買える。木箱を持参すれば400円位になる。オレンジは、ジュースにし冷蔵庫に保管するので、いつでも飲める。オレンジ栽培には農薬など使わないので、外皮は虫食いになっているが、ジュースにするので全く気にしない。数量は少ないようだが温州ミカンもある。ネクタリンや25年前には無かったキーウィも豊富だ。ゴルフ場のホールとホールを仕切る樹木にアボガドが植えてあることもあるが、だれも見向きもしない。リオデジャネイロでは、急峻な山肌にジャッカ(ドリアン)の大木がたくさんあり、長さ50cmもある果実が数個ずつぶら下がっていた。東南アジアで見かけるドリアンより果実は数倍大きく、果皮の突起は逆に小さい。ブラジルのドリアンは味わったことは無いが、話によれば独特の臭みを伴った香りがあり、熟れかたのタイミングが重要なところは、東南アジアのドリアンと変わらないようだ。
(*花と果樹が写っている写真の果物はドリアンではないかも知れません。正式名称、どなたかお知らせください)

一次産業の国
日系人は入植した当時、日本の農業協同組合と同じ組織をブラジルに導入した。当時は西欧の入植者たちは、夫々独立した大プランテーションを経営していたが、やがて農業組合機能の合理性が西洋人にも徐々に認められるようになった。組合組織は互助的な側面があり、生産調整・資金提供・販売・情報の面で評価され、今では組織は全土に広まりブラジル農業の発展に大いに貢献している。
ブラジルは、鉱物資源の宝庫でもある。その中心はミナス・ジェライス州である。鉄鉱石は露天掘りで、州都ベロホリゾンテ(熱い地平線)近郊で見ることができる。8-90%の高純度で、露出した結晶は、幾重にも重なった薄く鋭い板状になっており、指先を触れると切れそうである。道路の舗装は、低純度の鉄鉱石を引き詰めている。低純度といっても鉄分が50%はあるという。鉄鉱石の路盤は雨水で再結晶するので、自然と硬化する。道路表面をコンクリートやアスファルトで舗装していないので、乾季の鉄鉱石の道路はもうもうとたる赤い埃が立つので、後続車はたまらない。さびれた金鉱の町オウロプレト(黒い金)も今は観光地になっている。昔の金鉱跡や、金箔をちりばめた教会もある。道路の傍らで小さな子供が荒削りのアクアマリンなどの宝石を無造作にボール紙の箱に入れて売っていた。偽物は殆ど無いと言う。偽物を作ると返って高価になってしまうからだ。最近は日系人の農地からダイヤモンドも発見されている。
ブラジリアは、人口の集中している南部と開発を促進したいアマゾン川流域の中継基地として、中間地点に意図的に作られた政治都市である。潅木が生い茂る荒野の真っ只中に、1960年代にリオデジャネイロから首都を移転した。低地に人造湖を配し、それを扇の要にして人口30万の都市が誕生した。土地は鉄分を含んでいるので赤く見える。25年前に訪問した時は、人口は3万人と言われ、殺伐とした無味乾燥の荒野の真っ只中に不釣合いな人工都市があった。周りを数百キロの荒地に囲まれ、生活物資のすべてをトラック輸送に頼っている陸の孤島であった。国会議員は、会期中はブラジリアに暮らすが、大部分の議員は、週末には自家用機で故郷に帰ると言われていた。巨大な国会議事堂は有名だが、二度と行きたくない無味乾燥な場所でもあったが、現在は市街地の周辺に野菜や果物を生産する農業が発達し、人口は30万に膨れ上がったのである。計画的に作られた広い道路網も、今では渋滞と駐車場不足に悩まされている。特に官庁勤務の役人は、勤務時間の2時間も前に先を争って車で出勤する。役人は官庁街にはレストランが無いので弁当持参だと嘆いていた。ただ一つ救いなのは、海抜1,100mの高地で、熱帯サバンナでありながら意外と涼しいことである。

ブラジル見聞録(その11観光・物価)最終回
観光
ブラジルに6ヶ月も滞在しながら世界最大のイグアスの滝を見なかったことが心残りである。さらに後日ナイアガラの滝も、ニューヨーク州のバッファローまで行きながらトロントからの帰国にするように変更すれば見ることができたのに、残念でならない。イグアスは遠すぎて無理かも知れないが、トロントに友人がいるので、ナイアガラは、まだチャンスがあるもしれない。
リオのカーニバルは有名だが、有名過ぎてホテルは半年前から満員。おまけに見物に浮かれると財布をすられるのが落ちだ。リオのカーニバルは世界的に有名なので、日本でもテレビで放映される。ちょうど滞在中だったのでテレビで十分満喫できた。カーニバルはリオだけでなく、規模が小さいが、ブラジル中の都市では盛大に行わる。勿論、滞在していたサンパウロでもカーニバルはある。我々単身赴任組は、アルコールと女を求めて、ボアッチ(ナイトクラブ)に出かけることになる。カーニバル中でなくても、どこのボアッチも着飾った女性がサンバに熱中している。
リオは周りを500mほどの急峻な山に囲まれているので、風光明媚でもある。しかし、海岸に面した都市部は平らな土地が限られているので、ビルと住宅がびっしりと軒を並べている。地価も高いので、定職を持たない貧困層は、無許可で山肌にバラックを建て住み着いている。職を求めて農村部から都会へ流れてくる貧民層は、観光都市の治安を悪化させている。先進国では、風光明媚な高台は、見晴らしのよい高級住宅地になっているのが一般的であるが、ブラジルでは貧民窟となっている。中流階級以上の住民は、海岸近くのアパートに住んでいる。
ポルトガル人が入植してくる以前の歴史については、東北地方に友好的な少数民族がいた。入植後であっても、ポルトガル人は観光に寄与するような高度な価値ある目立った建造物は、殆んど造っていない。理由は、1828年に英国が仲介してブラジルが独立するまで、物資の収奪を目的とした植民地であったため、現地産業に寄与するような大資本が投下されるようなことなどなかった。
したがって、観光というと、南国のリオでは、海岸線に沿って高層ビルが立ち並ぶ白い砂浜、市中にそびえるコルコバード頂上からの絶景、2月のカーニバルなどである。暇とお金があれば、ゴルフ、ボアッチ(ナイトクラブ)、カジノ、サンパウロから1500kmにあるイグアスの滝の見物などがある。観光目的から多少外れるが、高速道路のドライブ、コーヒー・コショウ・ブドウなどの大農場の見学なども、その国を知る上で大きなテーマでもある。

物価
地震がないので、高層ビルでも地上から最上階まで鉄筋コンクリートで造られている。壁にはコンクリートブロックを利用し軽量化している。日本のような耐震鉄骨構造にする必要はない。もし、震度5程度の軽震でも20%くらいのビルが崩壊するだろうと推定する。一応欧州人が移住した400年の短い歴史の中では、地震の記録は無いといわれているが、その危険がまったく無いわけではない。その証拠にサンパウロの西約500kmほどのところに断層が存在しているからである。地震を無視して設計すると、労賃も安いので、建設費は日本の4分の1くらいとなる。食料価格は20%くらいなので、これで治安が良ければ、老後はブラジルで暮らしてみたいと思うのだが。
今回の旅行では、殆んどインフレを口にする人はいなかったが、1980年に駐在していた時は、年に約150%ほどだった。駐在費が現地通貨で支払われ、残った通貨は目減りしてしまうので、入金後ただちに闇市場で米ドルに替えた。外貨不足のため、正規の銀行では外貨に換金できない。当時の預金金利は年率50%だったから、預金しておくと目減りをしてしまうので、誰も預金しない。国有企業が多いので、公務員には物価に比例して給与が支払われる。中央銀行は国家予算と無関係に貨幣を増発し続けたので、その後3000%にもなる狂乱インフレとなり、遂には国家が破産宣言する事態に陥った。1990年代前半にはIMFが介入し事態の収拾に乗り出し、債務削減と同時に超緊縮財政を強行することになった。これによってブラジルの経済は、今日の健全な姿に戻ったのである。
1980年代のインフレと経済の混乱を避けるために、1000億ドル以上のマネーが闇経済のもとで海外逃避したと言われている。すなわち、金持ちは国外に外貨に変えて持ち出したのである。公式の債務額以上のマネーが逃避したと言われている。
債務不履行の状態が長く続き、極端な貿易管理をし、石油の輸入まで制限していた。砂糖から製造したアルコールをガソリンに30-40%も混入し一般の自動車に使用していたので、不完全燃焼のため街中があまい匂いに包まれていた時期があった。その後、アルコール専用車を製造したこともあったが、国際価格の高騰で砂糖を輸出に回したために、アルコール不足になるなど、外部要因にも左右されたこともあった。現在は、技術開発などにより、効率的な砂糖生産とアルコール生産により、アルコール輸出国になっている。



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