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杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP ニッケイ新聞より転載。
2008年には、笠戸丸のサントス到着日を記念して日本移民100周年の盛大な各種行事が計画されており式典には皇太子殿下も来伯される予定であり各地でその準備が進められているが、笠戸丸第1回移民のブラジル到着を見ずにブラジルで他界した日本帝国の3代目公使としてブラジル移民導入に大きな功績を残した杉村濬の足跡、史実発掘を記録映画製作所(FDP)が追っている。FDPの野崎文男プロジューサーには、『私たちの40年!!』の寄稿集にもお便りを寄せて頂いており今回ニッケイ新聞の連載記事を転載させて頂きました。
尚、サンパウロ人文科学研究所HPから物故先駆社列伝第4回に杉村濬が紹介されていましたので一緒に掲載して置きます。
写真は、杉村公使の陰影が郷里の盛岡タイムスWEB NEWSに掲載されていましたのでお借りしました。古武士のような帝国外交官だったようですね。


ニッケイ新聞 2007年11月15日付け
杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(上)=日本移民導入に尽力=笠戸丸を見ずに他界
 移民賛成論を唱えて、ブラジル日本移民の端緒を開いた人、杉村濬(すぎむらふかし、一八四八―一九〇六)。駐ブラジル三代目日本公使として滞伯し、移民導入に尽力した。一回目(笠戸丸)の移民を待たずして、ブラジルで骨を埋めた人――。来年、日本移民百周年を迎えるにあたり、各地、各団体で歴史資料の整理や史実を見直す作業が進められつつある。杉村も対象の一人だ。記録映画製作所(FDP)は、杉村の足跡を追う中で、その子孫から未公開の写真や当時の絵葉書、数少ない杉村の資料を入手。岩手県人会(千田昿暁会長)でも、盛岡市出身である杉村の業績を称えて、墓石を再整備する話が着々と進んでいる。新たに見つかった写真とともに、ブラジルへの移民導入に懸けた杉村濬の生涯をふり返る。
 青い空にキリスト像が白く浮かび上がるようにそびえている。その真下には、横たわるようにボタフォゴ海岸の全景が、右手には、杉村が埋葬されたサン・ジョアン・バチスタ墓地がある。
 今年の三月二十九日、FDPの野崎文男プロジューサーと佐藤嘉一カメラマンは、リオ州日伯文化体育連盟の鹿田明義理事長の案内で、杉村の墓を訪れた。「かなり大掛かりな葬式だったみたいですよ」と野崎さん。
 真っ白な大理石に刻まれた「Fukashi Sugimura」の文字。世界的有名歌手カルメン・ミランダや飛行機の発明家サントス・ヅモンなどブラジルの有名人も多く眠る同墓地に、杉村も横たわる。
 一九〇五年四月十九日の着任からちょうど一年一カ月後の、〇六年五月十九日、脳溢血で倒れた。妻・ヨシと三人の娘を異国に残し、五十九歳でこの世を去った。国賓として扱われた杉村は、公館のあったペトロポリスから鉄道の特別列車でリオまで運ばれ、陸軍の礼砲とともに葬られた。
 一九〇六年五月二十二日付の「コレイオ・ダ・マニャン」紙は葬儀の様子を細かく伝えている。
 「各界の代表並びに多数の庶民、遺体安置所に集ひ(中略)大掛りなる葬列の通過予定地たる市内各所は黒色の人だかりにて杉村濬氏の遺体に対しこぞりて敬意を表せり」「此馬車は一等馬車にして四頭の美麗なる純血種の馬にひかれ、羽飾り並びに黒リボンにて豪華に飾り附けられおりたり。(中略)カナリア、すみれ、菊の花輪一個あり。その奥に日本国旗見ゆ。此の見事なる花輪は共和国大統領ロドリゲス・アルベス閣下より供へられしものなり」(訳・国際協力事業団「移住研究No,20」より)。
 当時、ブラジルに火葬施設はなく、遺灰を日本に持ち帰ることは不可能。ヨシ夫人は杉村の遺髪と爪のみを手に、三人の娘とブラジルを後にした。
   ▽   ▽
 FDPが杉村について調査を始めたのは、約一年半前にさかのぼる。〇六年三月三十日、社団法人農林放送事業団からの委託で、笠戸丸移民の生活を追う一端として杉村のことを調べていた。
 その子孫と連絡がつくことを知り、同年五月二十四日、野崎さんと佐藤さんは日本に飛ぶ。杉村の次男の長男にあたる杉村新さん(84)に会い、未公開の写真など提供を受けた。
 杉村に関する資料はこれまであまり見つかっていない。同氏が、移民導入を進めたきっかけは何だったのだろうか――。つづく

ニッケイ新聞 2007年11月17日付け
杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(中)=カナダでの日本人冷遇に悲観=ブラジルへの傾斜強める
 杉村を南米移民促進に駆り立てたものは何であったか――。「岩手の先人とカナダ」(菊地孝育著)には第三話でバンクーバー初代領事を務めた杉村についてページを割き、さきの問いを解くための「鍵の一端を在バンクーバー帝国領事館初代領事の頃に見ることができる」としている。
 一八八九年五月、杉村はカナダにおける日本人の増加にともなって新設された同地領事館に赴任した。同書によれば、「濬が海外移民(植民政策)に高い関心を持っていたことが決め手となったと考えられる」とある。カナダ事情に詳しいわけでも、英語が堪能というわけでもなかったが、杉村が「将来の日本人海外植民の候補地として、南北アメリカ大陸を構想していたのは間違いない」。
 当時のバンクーバーとその近郊に生活する日本人は約三百人いた。「言語不適、風俗不案内、先導者ナシ、テンデバラバラニ渡航シテ職ヲ探スが困難」(杉村の報告より)という移民の様子を見て、杉村はなんとかしようと働いた。
 菊地は、一八九〇年以降のカナダにおける日本人移民の発展は、同氏に負うところが「大なのである」とその活躍を称えている。
 また、日本政府に対しては、移住地としてのカナダの有望さを説いて、移民政策のあり方を提言。移民者としての適格性、海外移住規則の制定、居住民の教育の向上、定住のための現地農業会社の設立、そのための土地購入補助制度を設けることなどを求めていた。
 が、時代は、カナダで日本人排斥運動が勃興しつつあり、中国人に続き日本人も制限すべきとの声が聞かれ始めたころ。杉村は一八九一年、二年四カ月間の任務を終え、忸怩たる思いで帰国した。
 「日英同盟のさなか、イギリスの伝統を色濃く残す地域で日本人がこれほど冷遇されつつあること」に失望。これ以後、「濬の移民政策は、北米カナダから南米ブラジルへと傾斜して」いった。
 杉村が渡伯したのは、一九〇五年四月。移住に対する思いを新たに、自らサンパウロ、ミナス・ジェライスの諸州を旅行し、視察を行った。自身が筆をとって「伯剌西爾移民事情附貿易状況」「南米伯剌西爾国サンパウロ州移民状況視察復命書」などの長文の報告書を書く。「ブラジルは移住に適したところである」。
 初代、二代目公使の悲観的な報告書とは打って変わって移民導入を強く推奨する内容。外務省が広く配布したこともあって、杉村の報告書は大いに識者の注意を引いた。日本政府に政策転換を行わせ、水野龍や鈴木貞次郎らをブラジルにひきつけたのだった。
 当時のブラジル政府は、コーヒーの需給事情を警戒したヨーロッパ移民の減少に悩んでいた時だけに、日本移民実現への杉村の努力を高く評価した。そのために、杉村の葬儀は国賓としての盛大なものとなったのである。
  ▽   ▽
 杉村は一八四八年二月十六日、南部藩土杉村で生まれた。幼名は順八。剣道や漢学和算にすぐれ、藩校の頃から頭角を現していた。
 一八七〇年、藩が盛岡県となったのにともない、教学内容が洋学中心に移行。職を失った杉村は、二十三歳で上京し、塾長や横浜毎日新聞の論説記者をしたのち、外務省書記生として、一八八二年、朝鮮京城詰の命を受けた。
 八九年ごろまで、日本と朝鮮との間を行き来し、両国間の難問題を処理するために尽力した、という。
 一八九〇年には、閔妃殺害事件関与で投獄された経歴もある(翌年免訴)。つづく

ニッケイ新聞 2007年11月20日付け
杉村濬の史実発掘――足跡追ったFDP=連載(下)=ペトロポリスで100年前想起=公使館跡地はいま住宅
 杉村の足跡を残し、その功績を称えようとする活動は、有志らによって進められている。その一つが歴史資料の収集と検証だ。
 FDPは、日本で孫の新さんから入手した資料をもとに、今年三月、リオ・デ・ジャネイロから約七十キロのペトロポリスを訪れた。同地に設置されていた初代在ブラジル日本公使館跡の現状を見るためだ。
 杉村が日本へ送った絵葉書は、公使館向い側の山腹から撮影されたもので、公使館の位置について杉村の解説が付されている。
 「朱点ノ下ハ帝国公使館ナリ白ク細ク高キ建物ハ◆◆ノ◆◆寺院ナリ公使館ハ林木ニカクレテ見エズ」(◆は解読不能文字)。
 野崎さん、佐藤さんは、ペトロポリス在住で郷土史を研究している安見清、道子夫妻の案内で跡地へ向かった。夫妻は、新さんと連絡をとりながら跡地を探り当てることに、二年の歳月を費やしてきている。
 「こんな異国の地で三人の娘を抱えて、夫に先立たれたヨシ夫人がかわいそうで。どんな思いだったか」と道子さんは、研究への思いを話した。
 公使館跡は、現在は住宅。四人は、起伏のある街中を上り、好天の下歩き回った。その後、絵葉書と同じ(場所の)映像を撮影しようと、再び山中の散策へ。「雑草、草木がすごくて。ナタを持って行かなかったから、草を掻き分けて進んだよ」と佐藤さんは振り返った。
 リオに比べて、海抜八百四十メートルと比較的涼しい場所にあるペトロポリス。当時のリオは黄熱病が猛威を振るっていたことと、帝政時代、夏の暑い時期は皇帝、政府高官らがペトロポリスで政治を執っていたために、日本はじめ十九カ国の大使館、公使館が同地にあった。
 「(公館跡を訪ねたことで)映像が残るし、資料も結構集めて読んだよ」。野崎さんらが撮影した映像は、笠戸丸移民の子孫らを追ったものとともに、移民史を語る一本の作品になる。
 そして、もう一つ。杉村の足跡を辿る活動で進んでいるのは、現在もリオに残る同氏の墓碑改修計画だ。
 盛岡出身の同氏を称え、岩手県人会が、来年の日本移民百周年、県人会創立五十周年の記念事業として、数年前に案を出した。
 九八年に鹿田明義リオ日伯文化体育連盟理事長が、個人で改修費を支出して、大きくひび割れていた墓石を改築し、いつも綺麗に掃除されているが、「今のは後壁もないので名前もわかりにくいし、公使のお墓にしては淋しいでしょう」と千田昿暁会長。
 遺族の了解をとって、現在の低い墓石を高くし、後壁をつける。ポルトガル語と日本語で墓碑銘を彫り、杉村の顔写真を飾る。「彫るのに六カ月かかるっていうんですよ。準備していかないと」と、千田会長は、計画が進んでいることを嬉しそうに話した。
 「日本の(杉村の)家族も親戚に呼びかけて協力してくれるようで、こっち側でもこれからですよ」。
 杉村がこの世を去って、すでに百年以上が経過している。日本移民百周年を迎える日系社会から、同氏の功績にようやく、再び光が当てられだした。おわり


サンパウロ人文科学研究所HP掲載の 物故先駆者列伝 第4回より
駐伯三代目の公使杉村濬氏によつて、初めてブラジル移民誘入の端緒が作られた。杉村氏は岩手県盛岡の出身、剣道に秀れた腕前を持ち東京に来てからは漢学にも精進した。
外務省に入つたのは明治13年(1880)10月で、朝鮮、釜山浦の領事館勤務が振り出しであつた。彼が再度韓国に赴任し、日本公使館の主席書記官として勤務中の明治28年(1895)10月、有名な王妃殺害事件が起り、その容疑者として、三浦梧楼公使外10名と共に3カ月間、広島の監獄に投じられた。獄中で「在韓苦心録」を著した。

 王妃殺害事件の容疑者達は、何れも証拠不十分で、全員免訴から放免となつたが、杉村氏は、一時外交界から離脱させられ、台湾総督府へ出向した。その後再び外務省に返り咲いて、通商局長となつた。その後、弁理公使に任じられ、ブラジル駐在を仰せつけられたのは、明治37年(1904)11月で、リオ・デ・ジヤネイロに着任したのは、翌年の4月19日であつた。

 ブラジルは日本移民に不適の地と報告した、大越成徳公使帰朝のあと、来任した杉村公使は、着任早々、フランス語に堪能な堀口九萬一書記官を伴つて、移民導入の見地から、ミナス・ジェライス州、次いでサンパウロ州を視察した。また、次の問題に対するサンパウロ州農務長官の確答を求めている。

1、 移民に対し家族連れの制限を励行するのもいいが、当州にして現行法の家族連れでなければ旅費を償給しないと固守すれば、日本移民は難しいかも知れぬ、臨機な考案はないか。
2、 サンパウロ政府は移民費も幾許まで償給し得る見込みか、政府償給の外に、雇主より償給の道はないか。
3、 右旅費は、後日返済の要なきや。

 これに対する農務長官の回答は
1、 日本移民に限り、最初は特別法を設け、独身者でも旅費を償給する。
2、 日本は遠いから、1人7ポンド位は政府として給与する見込。
3、 後日返済しなくてもよろし。

 杉村公使は、また小村外務大臣に「サンパウロ州旅行中伯国官民歓迎の模様報告」を送り、サンパウロ、リベロン・プレツト、タウバテー等に於ける官民の歓迎振りを詳報、日露開戦以来、皇軍の連戦連勝が、深く外国人の敬慕を招いたことを強調している。また「ブラジル移民事情附貿易状況」「南米ブラジル国ミナス・ジェライス州視察復命書」「南米ブラジル国サンパウロ州移民状況視察復命書」等の、有益かつ適確なる長文の報告書を本省に送つたので、前駐伯大越公使の「伊国(イタリア)移民三十万伯国(ブラジル)に於ける惨状報告」は、このために忘却の彼方におかれた。

 サンパウロ州のごときは、実に天与の楽郷福土にして、ただ移民のためのみならず、鉄道附近の地価極めて廉価なるが故に資本家、企業家にも好適の所であると、ブラジルの利点を詳述した杉村公使の報告書を外務省で印刷に附して、広く配布したので、大いに識者の注意をひいた。新聞もこれを取り上げて掲載したので、ブラジル移民促進の機運が、大いに醸成された。

 第一回移民の引率者となつた水野龍氏が、移民契約のため、明治38年(1905)12月、東京を発つてブラジルに赴いたのも、杉村氏の報告書に刺激されたからであつた。だから水野氏は、ブラジルに着くや否や、まず第一着に杉村公使を訪問して、「御説に従って、日本移民の誘入を始めるつもりで、遥々(はるばる)やつて来たのだからサンパウロ州当局へ斡旋を願いたい」と単刀直入に申入れた。

 その水野氏の申出に杉村公使は大いに喜び、早速三浦通訳官をつけて、サンパウロへ赴かせた。水野氏は4月15日、三浦通訳官と共にペトロポリスを出発し、サンパウロで、移民及び植民会社々長ベント・ブエノ氏(前サンパウロ州内務長官)を初め、州統領や農務長官と会い州内の主な耕地を視察した。

 そして水野氏が一旦、ペトロポリスに引上げようとした直前のこと、杉村公使は郊外散歩中、急性脳出血のために卒倒し、重態に陥つて病床に伏した。水野氏はまるで看病のためにかけつけたような格好で、公使の臨終まで手厚く看護した。

 「病床に侍して投薬すること七昼夜、しかも遂にその効なく、19日(明治39年5月)午後4時30分を以て、公使は遂に永眠せられぬ。吁(ああ)、悲哉、痛哉」とは、水野氏が杉村公使を悼む告別の辞であつた。

 杉村氏の葬儀は、ブラジル外務省が、公使夫人や館員などと相談して、手厚く取り計らってくれた。日本人の感情からすれば、遺骸は火葬に附し、遺骨を故国に持ち帰りたいところだつたが、火葬のないブラジルのこととてそれは許されず、リオのサンジョアン・バチスタ霊園の、墓区第1332号に葬られた。

 日露戦争直後の社会思想を反映する流行歌は「赤い夕陽の満州に」であつた。この唄は、茫漠たる海外の大陸へ、海外万里の沃野への憧憬であつた。出征して、世の果までつづく満州の曠野を見た兵隊たちに、日本の狭さ、せせこましさ、貧しさが、ハツキリ印象づけられた満州でのこの感覚が、ブラジル渡航という現実に化成された多くの移住者が、30年後、40年後の今日、成功者として悠々自適している。

 台湾へ、樺太へ、朝鮮へ、満州へ、南洋へ、南米へと、日露戦争で勝利を得たという事実が、若い日本の国の人々に大きな世界を見る目を与えたということ、そして、杉村公使の幾多の報告書がいい時機をとらえてなされたことが、南米ブラジル移住という、世紀的な役割をするに至つたということを忘れてはならない。

 杉村公使の報告書に感奮して渡伯した先達移住者の中には、隈部三郎、明穂梅吉、鈴木貞次郎、安田良一、松下正彦の諸氏の名も挙げられている。移民導入の端緒を開いた、杉村氏がブラジルの土となり、その英霊が、永遠にブラジルにとどまつて、同胞発展の経過を見守っているのも、深い縁というべきであろう。 

 なお、イタリアやフランスの大使をつとめた杉村陽太郎氏(正三位勲一等1939年56才で歿)は杉村公使の子息である。



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