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〔テロと臣連の関係について 醍醐 麻沙夫〕外山 脩氏への質問状 サンパウロWEB版より。
2007年度のコロニア文芸賞を受賞した外山 脩さんの『百年の水流』とその授賞式での外山さんの臣道連盟関係の発言に付き醍醐 麻沙夫さんがサンパウロ新聞の紙上を通じて公開質問状を掲載しておられそれに対しての外山さんの回答、更に醍醐さんの再質問と外山さんの回答とこれまで十分に検討されずにコロニア70年史の記述の一人歩きと新しい史実とその解釈等避けて通れない大事な問題に付き両氏ががっぷり組んで高いレベルでのサンパウロ新聞紙上での論争を繰り広げておりこの問題はまだまだ語り考えて行くべき問題でありこれまでの紙上論争の内容をサンパウロ新聞からお借りして掲載して置きます。
この欄では既に外山さんの『百年の水流』を何度も取り上げ紹介しており外山さんの写真も掲載済ですのでサンパウロの石田さんのPC教室でお会いした時に撮らせて頂いた醍醐麻沙夫さんの写真を掲載して置きます。醍醐さんは、コロニアの各種文献、写真をデジタル化して誰でもが自由にアクセス出来るデジタル資料館を立ち上げるべく作業を続けておられる。その大事業が公開されるのを楽しみにしています。


外山脩氏への質問状 サンパウロ新聞WEBより
〔テロと臣連の関係について 醍醐 麻沙夫〕

 このたびは「コロニア文芸賞」の受賞、おめでとうございます。

 「百年の水流」は歴史を水のながれに見立てた着想といい、丹念な取材といい、まれにみる労作で、私もいろいろと教えられております。

 ところで貴兄は著書の中で「臣連とテロは無関係だ」と書かれ、また先日の授賞式の挨拶でも、そのことに触れておりました。

 たしかに貴兄もいわれるように、従来は「臣連がテロをやった」というだけの単純な見方で、戦後のゴタゴタを記述したものが多かったのは事実です。

 これには二つの原因があって、一つは戦後いち早くでたパウリスタ新聞社の「戦後十年史」を鵜呑みにして、のちの人がくわしい検証をせずに、そのまま書いていること。

 当時のパウリスタ新聞はいわば認識派の新聞なので、勝ち組と敵対関係にあり、勝ち組からは直接に取材できなかった。それで噂や憶測の部分もかなり混じっている。真実と噂をより分ける作業をしないで書いている人がおおいのです。(まあ、噂の方が事実より面白い、ということもあるけど)

 もう一つは、いままでコロニアの歴史を書いたのは、かって認識派だった人たちばかりなので、勝ち組の視点が欠落して、いわば一面だけの歴史におちいる欠点が、ややもすれば、見受けられたことです。

この点については、私の印象では「移民70年史」あたりまでは認識派の視点オンリーだったけど、「移民80年史」あたりになるとずっと客観的になっていると思います。

 ところで本題の質問です。

 貴著のなかにもあるように、外山さんが押岩さん(テロにかかわった人物)を取材したとき「テロは臣連とは関係ありません。べつの団体がやった」といわれて驚いた。ほかの人の取材でも同じようなことを言われた。このことが貴著の主張の底流になっています。

 ところが貴著のなかでは「別の団体」なるものが明らかにされていません。団体にしろグループにしろ、ある程度の組織がないと、サンパウロに行ったこともない、あちこちの地方の若者たちをあつめ、訓練し、実行にこぎつけるのは不可能ですが、その点について外山さんはどう解釈しておられるのでしょうか?ぜひ外山さんの解釈をうかがいたいと思います。

 なお、私はテロと「組織としての臣連」とは密接な関係があったと思っています。

 (2007年11月27日)

醍醐麻沙夫氏の質問に答えて
《テロ事件への新しい考察に敬意 ―――外山  脩》
 サンパウロ新聞(十一月二十七日)に掲載された、醍醐麻沙夫氏から筆者への質問状を拝見しました。
 醍醐さんが、終戦直後起きた連続テロ事件に関し、六十年間コロニアに広く深く強く根付いてきた「テロは臣道連盟の特攻隊がやった」という通説に、新しい考察を加えておられることに敬意を表します。
 醍醐さんは、その考察の対象を筆者の説(「テロと臣連は関係なし。特攻隊は特行隊の間違い」という要旨)にも広げ、さらに自身の説も用意されている様子です。
 どうやら、望ましい展開になりそうです。
 思うに歴史というものには、幾通りもの見方があるべきで、それが比較研究されている内に、より真実に接近して行くものでしょう。

 さて、醍醐さんは以下の如く筆者に質問しております。
1) 外山は、押岩さん(テロ事件関係者)を取材したとき「テロは臣連とは関係ありません。別の団体がやった」と言われて驚いた。ほかの人の取材でも同じことを言われた。このことが外山の主張の底流になっている。
2) ところが「別の団体」なるものを明らかにしていない。ある程度の組織がないと、サンパウロに行ったこともない若者たちをあつめ、訓練し、実行にこぎつけるのは不可能だが、その点どう解釈しているか?
3) なお、私(醍醐氏のこと)はテロと「組織としての臣連」は密接な関係があった、と思っている。
 以下、筆者の回答です。
 〔百年の水流〕の三四〇頁に記してありますが、押岩さんは「テロは、臣連の特攻隊がやった」という通説を否定、「特攻隊ではなく(特別行動隊の略の)特行隊である。臣連の下部組織でもない。全く別の団体である。(テロ事件の内、最も重要ケースとみられる)サンパウロ事件は、我々の特行隊がやった。臣連は関係ない」と証言しております。
 これで判るように「別の団体」とは、特行隊のことです。
 ただ、その特行隊という名乗りがテロ参加者全員に伝わっていたかどうかは疑問です。これも〔百年の水流〕の三五五頁に記してあります。
 パウリスタ延長線から出聖した事件参加者には、同志の根回しにより、幾人もの協力者が現れております。その協力者がサンパウロでの、彼らの寄留先を世話し、外出時の道案内を務め、情報蒐集をしております。
 しかし「訓練」に関しては、筆者が参加者の一部から聞いた処では「誰からも受けなかった」そうです。その結果かもしれませんが、成功率は五〇パーセントにとどまっております。
 事件直後、オールデン・ポリチカ=DОPS=は、この事件を臣連の組織的テロである」と断定、連盟の本支部の役員、主要会員、本部職員を大量に逮捕、一部を国外追放の行政処分に付すことを、州政府を通じて大統領に申請、その裁可を得ています。
 これが本稿の始めの方で記したコロニアの通説を生んでいるわけです。
 しかし、オールデン・ポリチカは、結局、前記の連盟員は起訴できず、国外追放の大統領令も、後に取り消されております。これはオールデン・ポリチカの敗北を意味します。
 つまり法的にも行政的にも「臣連はシロ」という結論が出ているのです。
 筆者は、当時の状況や関係者の証言も検討しましたが、やはり臣連はシロであった、と判断しております。
 2007年12月6日


外山脩氏の回答に対して サンパウロ新聞WEB版より

テロ計画の立案遂行は臣連情報部  醍醐 麻沙夫
 私たちは歴史から多くのことを学ぶけど、そのためには歴史の記述が正確でなければなりません。私が臣連のことを書くのは、まだ不明の部分があるからです。
 ところで外山さんからご回答をいただきました。それによると、通説「テロは臣連がやった」、押岩説「テロは臣連とは無関係の団体がやった」となります。
 一見、矛盾しているようですが、そうでもなく、事実はその中間あたりにあると思います。
 例として不適切だけど分かりやすいので挙げますが、文協のドミンゴコンサートに出演したグループが「自分たちは文協とは関係ない」と言っても、それはそれで正しいでしょう。
しかし、会場を用意し、パンフレットやプログラムを作ったのは誰か?という話になれば、それは主催者は文協ということになる。しかしそれだけではまだ正確ではない。
 文協の理事や会員のほとんどはドミンゴコンサートとは関係ない。文協の中の音楽委員会の努力で、あのようなコンサートが開催されるのです(こんな例につかってすみません)。
 臣連テロの場合は、臣連の情報部が計画の立案者であり、計画の遂行者です。
 だから情報部以外の臣連関係者は、テロに直接の関係はない。ただし情報部の心理操作に乗っかって負け組との対立をあおり、支部名で「天誅」などというビラを送りつけたりして、心理的にテロ容認の雰囲気をつくりだした罪は自覚してもらわないと困る。
 情報部理事の渡真利(とまり)成一が事件の首謀者だったことは、すでに戦後いちはやく言われ、近年の「日本は降伏していない」や「移民八十年史」などにくわしいので、ここでは繰り返しません。
 ただ八十年史が書かれてすでに二十年がたっていて、あたらしい資料も複数でたので、現在のわたしたちが八十年史以上のことを知っていても当然です。
 最近わかったことは、渡真利は戦時中にマリリアで過激派の赤誠会を旗揚げしたときから、行動の規範は「軍事探偵」で、徹底した秘密保持に留意した。これは戦後もかわっていない。だからテロ計画も臣連がかかわっていることが絶対に外部にもれないように注意しています。
 やりかたとしては、彼が臣連情報部理事に就任したときからテロの目標をさだめ、情報部通信をつかって各支部に負け組との対立をあおり、テロ志願者の一本釣りをする腹心の人物を地方においた。それからサンパウロで志願者をうけいれる人たちを決めた。これが大体の構図です。
 それから、押岩さんのいわれる「特攻隊ではなく特行隊だ」という名称の問題についても、押岩さんの証言に矛盾はないと思います。テロ要員としてサンパウロに集まった全体は一般には「特攻隊」と称されていた。その特攻隊のなかで、四月一日の、いざ実行というときに、五人ずつの二隊にわけ、その一隊が「特行隊」となのり、もう一隊は「決死隊」となのったことが、押岩さんの証言で明らかになったのです。日本の神風特攻隊も、全体はそう呼ばれていたが、出撃の隊にはそれぞれ「桜隊」などというような名称があった。それとおなじではないかと思います。
 それから臣連について、私は三つにわけて考えています(区別するまえは私にも混乱があった。区別してから考えを整理しやすくなった)。
 一つは戦中の興道社→臣連。これは在郷軍人を中心とした集まりで、「戦時下、祖国に忠誠をつくす」という軍人としてはあたりまえの主張で、ちゃんとした判断力もある人たちが中心の会だった。
 二つ目は、終戦後、軍人たちがそれぞれの事情で臣連を去ったあとに、寄付金で豊かになった民間人の臣連。あたらしく理事たちが選出されたが、渡真利自身が日記に「間宮の軽率さには困惑する。はたして理事に値するだろうか」と書いているくらいで、ほとんど人材はいなかった。ただ会そのものは爆発的におおきくなった。
 第三は渡真利が率いる旧赤誠会です。これが秘密主義の過激派だった。日本にもブラジルにも「絞め殺しの木」というのがある。親木に寄生して、ついにはその木を絞め殺してしまう種類の木ですが、旧赤誠会はまさにその木だった。臣連に寄生しておおきくなり、テロをおこして、ついには臣連を絞め殺してしまった。
 以上が、私が外山さんの文章をよんでの感想です。「百年の水流」で綿密な取材をされて新しい情報を提供されたことを、読者の一人として感謝しています。
 なお渡真利については来伯時の家族構成や穏やかな晩年にいたるまで、かなりのことが分かりましたが、釈放されてからは一般人なのでプライバシーの面から公表しません。ただ、晩年にいたるまで、夢想的な性格の持ち主だったことくらいは書いてもいいかと思います。
 臣連の悲劇は、人材がいないのに会だけが大きくなったことではないでしょうか。
 2007年12月15日付

醍醐氏の二度目の寄稿文への所感
《押岩嵩雄氏について ―――外山  脩》

 醍醐麻沙夫氏の二度目の寄稿文(十二月十五日)を読ませていただきました。

 その中で押岩嵩雄氏の「特行隊」に関する証言を取り上げている部分に、新鮮さを感じました。

(その他の部分は、しばらく措くとします……)

 押岩さんは、今年(二〇〇七年)三月、九十七歳で亡くなりましたが、六十年前の事件以来、真実が広く世に認識される日が来る事を待ち続けていました。そのために、自分の説が公の場で──例えば邦字新聞の紙面で──公平に、本格的に検討されることを期待しておりました。しかし長く、その機会はありませんでした。

 今回の醍醐さんの寄稿文では、「特行隊」が存在したことが事実として認められております。押岩さんにとっては、一歩前進でしょう。

 無論「特行隊」云々は、押岩さんの願った「真実」への入り口に過ぎません。本題は、これからです。

 そこで、押岩さんを知らぬ人のため、ここで同氏のあらましを記しておきます。(拙著〔百年の水流〕を読まれた方には重複することになり、恐縮です)

 押岩さんは、広島県人で、戦前移民。村役場で働いた後、夫婦して移住してきたそうです。

 日本の開戦の頃はパウリスタ延長線キンターナで綿づくりをしていました。

 が、奥さんが産後の肥立ちが悪く亡くなり、幼児が居ったため、農業を続けることができず、町へ出て臨時の仕事をしていたそうです。

 そういう家庭環境の中で、終戦直後に起きたサンパウロ事件に関与しております。

 サンパウロ事件とは、一九四六年四月一日に起きた古谷重綱元アルゼンチン公使及び野村忠三郎元文教普及会事務長の襲撃事件、六月二日の脇山甚作大佐襲撃事件、四七年一月六日のオールデン・ポリチカ通訳・森田芳一襲撃事件の総称です。

 当時起きた多数のテロの内、最重要ケースと見做される事件です。

(その他、地方で起きた事件については、別の機会に譲ることにします)

 サンパウロ事件では、パウリスタ延長線のキンターナ、ツッパン、ポンペイアから、二度に別けて、押岩さんの同志十数人が出聖していますが、押岩さんは一人、地元に残っております。

 これは「同志の家族の世話をみる」、「後続の同志を養成する」という目的のためでした。しかし同志たちが、押岩さんの五歳の子供が母親無しで残されることを考慮した点、また自分たちの真の姿や心を後の世に伝える役目を託した点も、当然あったでしょう。

 押岩さんは、サンパウロへ向かう同志の中のキンターナ組に「決死報国、特行隊」と墨書した日章旗を渡しております。

 彼らの目的は「敗戦認識運動を軽率な方法で始め、コロニアの混乱、堕落を招きながら、それを収拾できず放置してしまっている指導者たちに覚醒を促す」ことにあった、と言います。

 コロニアの混乱とは、勝ち組・負け組みの対立が険悪化、血を見ないと収まらない……と危惧されるほどの雰囲気になっていたことを指します。

 堕落とは日本や皇室・国旗を冒涜する言動が多くなっていたことを言っております。

 なお、この内、国旗冒涜がブラジル人の警察官にまで広まったことが、決起へのキッカケになっています。

 四七年一月の事件の後、押岩さんはオールデン・ポリチカ(DОPS)に逮捕され、サンパウロで五年の拘置所生活を送った後、釈放されております。

 従って、直接的には襲撃には参加しておりません。

 その後、広島県人会の事務所を預かり、戦後移住の青年たちの世話をよく焼き、彼らから喜寿や米寿の祝いをして貰っています。

 筆者は四十年来の知己でしたが、シンの強い反面、温厚で無欲な人でした。

 その押岩さんは、前記の事件に関して、コロニアに根付いてしまった同志に対する誤った見方は、堪えがたいものがあり、自分が正さねばならない、それが自分の任務であると思っていたようです。

 誤った見方とは「日本の戦勝を頑迷に信ずる愚かな狂人たち、つまり臣道連盟の特攻隊が、賢明な敗戦認識派の指導者の口を封ずるために殺した」といった類の説です。

 押岩さんは「ワシは、日本が負けたとは思わなかったが、勝ったと鵜呑みしてもいかん、と皆に言っていた。当時の我々には、正確には、勝ったか負けたかは判らなかったのであり、そういう類のことを(決起の)動機にする筈はない」とすら言っておりました。

 次に、このサンパウロ事件に臣道連盟が関係していたかどうか……という点ですが、それについて話を進める上で、醍醐さんの二回にわたる寄稿文に判りにくい点がありますので、質問します。

 例えば、まず一回目の末尾に「私はテロと組織としての臣連とは密接な関係があった、と思っています」と書かれております。「組織としての……」という表現である以上「臣連の理事長、理事会の意思として……」という意味になります。

 しかし二回目の寄稿の中の数カ所の記述からすると、「臣連の情報部と担当理事の極秘行動であった(理事長も他の理事も知らなかった)」という意味にもとれます。

 この点を明確にしていただくと、話しが進め易くなります。

 2007年12月27日



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