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【東京裁判私観】  古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その1)
サンパウロの日本商工会議所のコンサルタント部下のメンバーの皆さんを中心としたメーリングクストBATE-PAPOの古谷 敬治さんが渾身の力を込めて書き上げられた力作。法理念・法規範を超えた人道上の問題としてマッカーサ連合軍の東京裁判に於ける強い意思、どうして大量死刑者を含む判決を下さざるを得なかったのかその歴史的な背景を克明に調べ上げた根気と博識には驚くばかりの私観です。2回に分けて収録させて頂きます。
BATE-PAPOへの書き込みに下記の通り前書きとして古谷さんご自身が書いておられるのをお借りしました。
「Batepapoの皆さん  古谷です。以下に長々と書きなぐりました拙文の内容が、最近皆さんが交信されているメールの内容から、大きくかけ離れ、ピントボケも甚だしい点に、少なからず忸怩たるものを感じ、お送りするのを随分躊躇しましたが、赤嶺さんとのお約束を違える訳にはいかず、恥を忍んでお送りする次第です。白鳥の群れに、一羽黒鳥が混じる事をお許し願いたいと存じます。」
古谷さんにご自身の近影をお願いしたのですが、本文中の適当な写真で勘弁して欲しいとのご返事で、「一面水浸しとなった農村地帯1938年」という説明のある写真です。


60年前の古い話で恐縮ですが、最近盛んに、70年前の「南京大虐殺事件」が新聞紙上を賑わせておりました。この機会に、掲題に関し日ごろ感じている考えを以下に申し述べます。大方のご批評を賜れば幸いです。

通称‘東京裁判‘、極東国際軍事裁判は、1946年05月03日より1948年11月12日にかけて行われました。55項目の訴因により、28人のA級戦犯が起訴され、03人を除き(02人は判決前に病死、01人は起訴免除)、25人全員が有罪判決を受けました。内訳は、絞首刑07人、終身禁固刑16人、有期禁固刑02人でした。

罪状である「人道に対する罪」と「平和に対する罪」は、当時の戦時国際法では、確立されていなかったため、東京裁判は「法の不遡及」を犯し、罪刑法定主義を踏み躙ったものとして、内外の多くの司法関係者の批判を浴びました。裁判官の一人であった印度のパール博士は「全員無罪」を主張した程です。

そもそも、連合軍は東京裁判を、「ナチのユダヤ人大虐殺」を裁いたニュルンベルグ裁判と同列に扱おうとしたのが、間違いであるとは多くの識者が指摘しているところですが、何故マッカーサー連合軍は敢て違法を承知の上で、東京裁判を強行したのか?その意図は何だったのか?絞首刑に処せられた07人のA級戦犯を例に挙げて、考えてみたいと思います。

七人の戦犯とは、板垣征四郎、木村兵太郎、広田弘毅、東條英機、土肥原賢二、松井石根、武藤章です。板垣/木村/東條/土肥原/松井は陸軍大将、武藤は陸軍中将、広田は文官でした。海軍軍人は一人も居りません。訴追の対象は、満州事変・支那事変・大東亜戦争、所謂1931−1945年の15年戦争の範囲でしたが、07人の顔ぶれから、マッカーサーは東京裁判で、日本軍の一連の軍事行動をどう訴追し、どう裁こうとしたのか、それを追ってみます。

戦犯夫々の略歴を簡述します。
・板垣征四郎
  満州事変に関与。平沼内閣の陸相で、支那戦線の拡大、蒋政権打倒、傀儡政権樹立を主張。その後、支那派遣軍の総参謀長に転じ、前線で作戦を指導。
・木村兵太郎
  第三次近衛内閣及び東条内閣の陸軍次官。支那戦線の拡大派。東條首相が陸相を兼任したため、実質的に陸相代行役を果たす。ビルマ戦線で作戦を誤り、「屠殺者」の異名を受ける。
・東条英機
  関東軍参謀長。察哈爾事件では板垣と共に関与。華北分離工作を促進し、支那戦線の拡大を強硬に主張する。第二次・第三次近衛内閣の陸相。近衛首相の支那からの撤兵要求を峻拒。近衛内閣倒壊の因を為す。東条内閣で、陸相・内相・軍需相を兼任。大戦開戦時の首相。
・土肥原賢二
  満州事変に関与。奉天特務機関長。土肥原・秦徳純協定(国民党軍を察哈爾省より排除)を調印。冀東政権(親日政権)樹立。第14師団長。第五軍司令官。強硬な対支政策の推進者。陸軍きっての中国通。
・松井石根
  中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官。南京攻略を主張。南京大虐殺の責任を問われた。
・武藤章
  参謀本部作戦課長、中支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衛第二師団長。第14軍参謀長。参謀本部作戦課長時代、支那戦線拡大を図るが、太平洋戦争開戦には徹頭徹尾反対した。
・広田弘毅
  駐蘭公使、駐ソ大使、斉藤内閣・岡田内閣の外相。広田内閣で軍部大臣現役武官制度を復活。「国策の基準」を制定して、陸軍の支那進出を容認。華北分離工作を国策として承認。トラウトマン和平工作に失敗。
  
上述からお分かりの如く、これ等七名のA級戦犯は夫々に支那事変の拡大に深く関わった共通点があります。

満州事変は、陸軍きっての俊才石原莞爾(関東軍作戦参謀)の実行計画の立案・指揮で行われました。14千人の関東軍が能く250千人の張学良軍を満州から駆逐し得たのは、偏に石原の智謀溢れる戦略構想に依ったものです。あまつさえ参謀本部の指示を無視して、租借地外の錦秋を空爆し、陸軍省・外務省をコケにしたばかりか、国内外に大きな波紋を与えました。

満州事変で暴走した石原が、参謀本部第一部長時代、支那事変の戦線拡大に職を賭して反対しました。が、部下であった武藤章(作戦課長)が石原の指示に逆らって、戦線拡大に走ります。其の武藤が、軍務局長時代に、大東亜戦争開戦に猛烈に反対して東條陸相に疎まれ、左遷されました。満州事変を主導した石原が起訴されず、大東亜戦争開戦に猛反対した武藤が処刑されているのは何故でしょうか?この辺に東京裁判におけるマッカーサーの意図が窺える気がします。

石原は、東條と喧嘩して、大戦前に現役を退いています。従い、予備役であったから起訴を免れたのではないかとの疑問があるやも知れませんが、開戦劈頭、比島を攻略した第14軍司令官本間雅晴中将は、バターン攻撃の失敗の責めを負い、1942年に予備役に編入されております。しかし、B級戦犯ながら、「バターンの死の行軍」の責任を問われて、1946年マニラで銃殺刑に処せられておりますので、予備役云々は理由になりません。

次のサイトは、第二次大戦における関係国の軍人/民間人の犠牲者数を記したものです。
www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/5227.html">http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/5227.html
殆どの国の犠牲者数は、軍人が民間人を上回っていますが、中国とポーランドでは逆に民間人が軍人を大きく上回っております(和蘭とチェコは数字が小さいので割愛)。ポーランドはいわずと知れたナチのユダヤ人狩りです。では中国の場合は、何に拠ったものであったのでしょうか?

歴史の流れをご理解戴く為に、支那事変を中心に、日露戦争後から大東亜戦争発端までの主要な史実を略述します。

1) 満州事変とその背景
日本が、日露戦争(1904-05)の勝利で得た領土は南樺太のみ。租借権は露国が持っていた満鉄(長春・旅順間と奉天・安東間)の経営権、炭鉱の採掘権及び旅順・大連の租借権で、租借期限は満鉄が1941年まで、遼東半島が1923年まででした。日露戦争で、日本が払った犠牲の大きさに較べれば、租借権の残余期間は余りにも短すぎるとして、租借期限の延長が大きな政治課題(大隈重信内閣)となっておりました。第一次大戦(1914-15)で、日本が山東省の独逸の租借地を占領した機を捉え、1997年迄の期限延長を盛り込んだ{対華21ケ条要求}を無理やり袁世凱に飲ませたのはそれが為でした。対華21ケ条も第四号までは、特に問題は無かったのですが、第五号の「行政・財政・軍事に日本人顧問を招聘する事」、「日本の警察官を置く事」、「兵器は日本から購入する事」、「華南に鉄道の敷設権を認める事」等が、中国の主権を侵すものとして、中国の猛反対を受けたのみならず、欧米からも非難されました。これが、猛烈な中国人の反日感情を引き起こす原因となりました。

パリ講和会議(1919年、日米英仏伊の十人会議。中国は特別参加)で、中国は、山東省の独逸の権益の日本への譲渡と対華21ケ条の要求は、中国の主権と領土を侵害するものとして、徹底して反対しますが、国際連盟創設に米国家の威信と己の政治生命を懸けていたウイルソン大統領に、日本は「日本の要求(対華21ケ条要求、但し第五号は外した)を認めないなら、国連に加盟しない」と通告。日本の要求に反対していた米国も、泣き所を突かれて、認める結果となりました(英仏伊は当初より日本を支持)。此れに反発した中国は、条約の調印を拒否します。

ワシントン会議(1921-22)で、海軍軍縮条約(米英日仏伊)、四カ国条約(日米英仏)、中国に関する九カ国条約(日米英仏中伊蘭白葡)が締結されました。此れに伴い、日本は石井・ランシング協定、日英同盟を破棄し、山東省の権益も放棄します。九カ国条約は、中国進出に出遅れた米国が先行する日本を蹴落す為に、中国がヴェルサイユ条約を調印していないのを、戦後処理が終ってないとして、同国の主権・領土保全の尊重、門戸開放、機会均等を謳って、その権益を守ろうとしたものでした。

辛亥革命(1911)で、清朝は崩壊し、中華民国が誕生しますが、孫文の力不足で、大統領職を袁世凱に譲ります。その袁世凱が1916年に死亡。翌1917年に帝政ロシアが崩壊、ソ連が誕生します。1919年、ソ連は「カラハン宣言」で帝政ロシアが清国と協定していた不平等条約や義和団事件の賠償金、その他の権益も一切放棄しましたので、孫文は対ソ関係の緊密化を図り、急速に左傾化して行きます。

1921年に、ソ連軍は白系ロシア人追撃を名目に外蒙古を侵略して「蒙古人民革命政府」を樹立させ、且つ、1924年には満州に「全満暴動委員会」を組織させて、満州一帯に共産パルチザン活動を展開させました。1920年代に入って、満蒙に共産主義思想が急速に浸透して行ったのです。

蒋介石の北京への北上(北伐)に伴い、日本軍に諭されて、北京に居た張作霖は奉天に戻りますが、途中で列車ごと爆殺されます(1928・06・04)。張作霖は、日露戦争時スパイ容疑で日本軍に処刑される寸前、田中義一大佐(後の首相)に助けられ、以後関東軍に忠節を尽くします。日本が、路線拡張の為平行線を設置すべく、張作霖に建設を命じますが、張は一旦これを受け乍ら、国益にそぐわないとして渋りだし、逆に中国に依る平行線を設置しようとした動きに出るなど、晩年の張は段々と日本側の言う事を聞かなくなってきたので、河本大作大佐が独断で爆殺しました。怒り狂った息子の張学良が、日本側の誘いを蹴り、1928年12月蒋介石に易幟(帰順)します。此れで、蒋介石は満州まで北上する事なく、同地を支配下に治める事ができました。

張学良は、父の遺志を継いで、平行線の設置を積極的に推し進め、大連の対岸葫慮島に港を開き、大連の積荷を横取りしたりして、徹底して満鉄の営業を妨害します。又、蒋介石政権の外交部長王正廷は、九カ国条約を盾に各国に対し、不平等条約の早急な改正を迫り、応じなければ条約を一方的に破棄するとの暴挙、所謂「革命外交」の挙に出ました。日本に対しては、山東省の権益回収だけで満足せず、満州での権益までも放棄する様迫ってきました。更に、万宝山事件、中村震太郎大尉虐殺事件などが起り、日本人商店に対する二重課税、営業許可制限を課すなどが重なって、満州に於ける日中間の空気が日を追って険悪になって行き、一触即発の緊張状態になったのが、満州事変勃発(1931・09・18)の原因です。唯、日ごろ、苛斂誅求な徴税に泣かされていた住民は、関東軍の攻撃の際、張軍団に与せず、傍観を決め込んだので、民間人の被害が出なかった事に加えて、関東軍は、奇襲で張軍団を追っ払ったので、多数の殺戮が出なかったのです(精々、チチハルの馬占山が激しく抵抗したくらい)。

数万人の血で購った満州の権益を、王正廷が外交手順を無視して早期返還を求めても、日本は応じられる筈もなく、鉄道新設に関して日本側との交渉に一切応じようとしなかった張学良の対応等々、日本にとって期限の切られた租借権は中途半端な権益でしかなく、所詮満州問題は武力でしか解決する術が無かったのかも知れません。

石原莞爾は、奉天(遼寧省)から錦秋(熱河省)に逃れてきた張軍団の主力を、空爆して錦秋からも追い出し(石原は1932・08関東軍を離任)、東三省(遼寧、吉林、黒竜江)に熱河を加えた四省で満州国を建設しました。更に、関内(長城の南側)に、中国の内乱の影響を避ける為に東西200km、南北100kmの非武装地帯を設けました。此れで漸く、満州事変は終結し、1933年05月に塘沽(タンクー)協定が結ばれました。

2) 満州建国
満州国は1932・03・09に、建国が宣言され、長春(新京)で溥儀の執政就任式が執り行われました。リットン調査団が02月より満州事件を調査し始め、11月に報告書を国連に提出する予定を受け、関東軍は既成事実を作って置く為に建国を急ぎました。満州国建国に就いては、石原莞爾は事変前に「満蒙領有計画」を作成して、建国の地図をえがいており、満州を対ソ防衛の戦略拠点とする構想を持っていました。又、昭和初期の世界大恐慌(米国の関税引き上げ、英連邦の経済地ブロック化)の影響で、輸出市場(生糸、綿糸布)を失った日本は不況打開の為に、代替市場を早急に求める必要に迫られていました。国策上、無資源国日本が資源を持つことは積年の宿願でもありました。

1911年10月日本政府が閣議で取りきめた「対清政策に関する件」で、{満州に於ける租借地の租借期限を延長し、鉄道に関する諸般の問題を決定し、更に進んで該地方に対する帝国の地位を確定し・・・・・}と既に謳っています。又、石原莞爾が1931年05月に公表した「満蒙問題私見」で{呼倫貝尓(ホロンバイル)、興安嶺の地帯は戦略上特に重要なる価値を有し、我国にして完全に北満地方を勢力下に置くに於いては、露国の東進は極めて困難となり、満蒙の力のみを以て之を拒止すること困難ならず・・・}{・・・・露国に対する東洋の保護者として国防を安定せしむるため、満蒙問題の解決策は満蒙を我が領土とする以外、絶対途なきことを肝銘するを要す}と述べており、日本は満州での権益を放棄する積りは全く無かったのです。

建国後、満州は、日本が人・資金・技術を惜しみなく投入した結果、一大近代重工業国家に変貌しました。手始めに、インフラの整備・強化から幣制・税制の改革を行い、民生の安定化を図りました。治安が回復し、住民の生活が向上した結果、軍閥抗争、国共抗争で塗炭の苦しみを味わった住民が、山東省・河北省から、数年で一千万人以上流れ込んで来た事からも当時の様子が窺えます。本格的な重工業開発は、1936年から産業開発五ヵ年計画に沿って行われました。25億円を投じて、鉄鋼・石炭・兵器・自動車・航空機などを重点的に育成しましたが、これは関東軍の対ソ戦略に沿った開発事業でした。国連は、満州建国を全面的には容認しませんでしたが、ソ連は張学良に与えなかった東清鉄道の長春―満州里間を満州に譲渡しています(張学良は武力で奪おうとして、失敗しています)。

予断ながら、1943年時点で、中国全体の工業生産高に占める満州のシェアーは、機械類が95%、鉄鋼91%、硫安69%、電力67%、セメント66%でした。満鉄の新線建設は1932/44年間で6,400km。大連港の拡張も行っております。大戦後、毛沢東が蒋介石を台湾に追いやれたのも、満州を兵站基地にしたからであり、朝鮮動乱で、マッカーサー総司令官がトルーマン大統領に原爆投下許可を求めたのも、満州の兵站基地を潰す為でした。大東亜戦争が後五年長らえておれば、大慶油田が満鉄の手で発見されていたかもしれなかったのです。又、満鉄調査部は、当時の世界的水準を行くシンクタンクでした。支那事変での日本の勝ち目は無し。蒋介石と和睦する以外収束の手は無し、と説いております。

3) 支那事変勃発の背景
中国は、袁世凱の死で、国内も又乱れます。袁世凱の後継者と目された段祺瑞(安徽省)が直隷派の呉佩孚と争って破れ、呉佩孚に加担した張作霖が呉佩孚と争うといった如く、1933年まで、抗争の途切れた時が無かった程です。共産主義勢力の台頭を危惧した蒋介石は、1926年に広東政府の共産分子を粛清したのを皮切りに、翌27年04月に上海クーデターを起こして、共産勢力を一掃、南京に国民政府を樹立しました。それを機に、北京まで北伐を続け、各地の軍閥を制覇して行きます。1928年06月に蒋介石は北京で北伐を終えたので、全国統一が出来たと思いきや、膨張した軍事費圧縮の為、組織を縮小しようとして、仲間割れを起こし、抗争が再燃しました。これが、1930年の中原大戦です。蒋介石は張学良の協力で、嘗ての仲間、閻錫山(山西省)、馮玉祥(陝西省)、李宗仁(広西省)を打ち破り、軍閥抗争にピリオドを打ちました。中原大戦で24−25万人の死傷者が出たと言われる戦いでした。

次に蒋介石は、日増しに跳梁跋扈する共産分子の掃討を行うべく、第一次(1931)−第六次(1936)剿共作戦を実施しました。第一次―第三次は戦力を小出しにしたため、失敗(因みに、第三次の時に満州事変が勃発)。過去の作戦の失敗を反省して、第五次作戦(1934)では、満州事変後、独逸より招聘したゼークト大将の建議を受けて、独逸より大量の武器・装備品を購入、戦力の近代化を図りました。又、戦術も単純な打撃主義を止め、紅軍の根拠地を包囲殲滅する作戦をとったため、江西のソビエト地区は完全制圧されました。この作戦で蒋介石は50万人の兵力を投入し、紅軍軍民百万人を殲滅したと言われました。この攻撃を逃れたのが、有名な大逃避行―長征(瑞金/江西―延安/陝西、1934-36、12.5千km)でした。瑞金を脱出した八万人が、延安に辿り着いたのは、僅か数千人でした。全滅を免れたのは、周恩来の暗号解読システムの活躍に依ったものでした。

第六次作戦(1936)が、有名な西安事件です。西安に督戦に来た蒋介石を、張学良が裏切って捕まえ、国共合作を強要しました。毛沢東が蒋介石を殺害しようとして、スターリンに止められ、第二次国共合作が発足する事になりました。蒋介石にすれば、「先案内後攘外」−先ず紅軍を全滅させてから、日本軍と戦うー方針の変更を余儀なくされた訳ですが、これで中国の抗日戦力が格段に強化され、第二次上海事件(米・独が中国を支援)では日本軍が大苦戦を強いられる原因となりました。

長年の軍閥抗争、相次ぐ天災、大量の銀貨流出等で、中国の財政・金融は破綻の危殆に瀕しておりました。1935年、蒋介石は財政・金融を建て直し、経済の活性化を図る為に、英国の援助で、幣制の改革に踏み切りますが、これには金融・財政両面から、国家統一を強化しようと言する含みがありました。此れに危惧を覚えた関東軍は、華北分離工作で此の動きに対抗しようとします。河北から、軍と党機関を撤退させ(梅津・何応欽協定)、察哈爾から宋哲元軍(第29軍)を撤退させた(土肥原・秦徳純協定)上、綏遠、山西、山東を合わせた五省を国民政府の統治から、分離しようとするものでした。中国の幣制改革は、満州・北支に脅威になると、日本政府が国民政府(南京)に抗議した結果、蒋介石は、日本が傀儡地方政府「冀東防共自治委員会」を通州に設立する事に同意します。国民政府も対抗上、冀察政務委員会を察哈爾に設置し、南京政府に直属しない地方政府が二つも出来る変則的な政治形態となりました。要するに、日本は満州と南京政府(蒋介石)の間に緩衝地帯の設置を目論んだ訳です。

蒋介石が、日本に譲渡に譲渡を重ねたのは、上述の通り、先安内後攘外を方針としていたためです。察哈爾、綏遠は元々蒙古の地だったのでまだしも、河北、山西、山東は漢民族の版図。其処を日本軍によって、非武装化されたのは、漢民族にとって、耐え難い事でした。それを日本側は理解しておらず、中国が国共合作を行った後の第二次上海事件では手酷い目に遭います。(下図をご参照願います)

                
4)支那事変
1937年07月07日夜、河北駐留の第一連隊第三大隊第八中隊が盧溝橋の近くで、国民党軍より発砲を受けました。明け方に再度発砲を受けたので、大隊が出動し、永定河東岸を制圧、国民党軍と交戦する事件が起こりました。盧溝橋事件です。義和団事件の後処理(北京条約)として、日本は河北に五千人の駐兵が認められておりました。当初の派兵を1,500人に留めていたのを、日本側の河北分離工作で、日中間の緊張が高まり、万全を期すため、残る3,500人を増派(盧溝橋付近に800名増派)しました。この増派で、日中間の緊張が更に高まった処に、この発砲事件が起こったのです。この発砲が因で、両軍が衝突しかねない危険を、北平(北京)領事館駐在武官今井少佐の奔走で回避、秦徳純北平市長と辛うじて停戦協定を取り纏め、事なきを得ましたが、国民党軍の正規軍四個師団が北上中との情報(後に誤報と判明)があり、三個師団の派兵を閣議決定しました。この発砲事件による増派問題で、日本では、陸軍省も参謀本部も強硬派(東條(関東軍)、武藤、田中新一軍事課長)と慎重派(石原、河辺虎四郎指導課長)で意見が対立しましたが、強硬派に押された杉山陸相と現地守備隊の手薄さを懸念した近衛首相の主張が通り、派兵が決まった訳です。中国でも、事件を重視した蒋介石が有名な「最後の関頭」を演説しています。盧溝橋事件は、停戦協定で一応収束しており、支那事変の発端ではありませんが、両国の緊張が高まっており、事変勃発の伏線になりました。北平(北京)防衛を担当していた中国軍は、察哈爾を追われた冀察第29軍(宋哲元指揮)で、猶のこと、尖鋭的な対立姿勢を示しておりました。

石原が、支那事変に反対したのは、地政学的に見て、満州を襲うものはソ連であって、中国ではないとの見方が先ずあった点に加え、満州は、鉄道・道路の交通網、電信・電話の通信網、金融・商業などのネットワークが、ロシアと日本の投資でかなり発達していたに対し、中国の場合、国土は非常に広いが、中支以南の交通事情は極めて不良で、日本軍の軍事行動に大きく掣肘を受ける懸念が予想されたためです。満州事変で、石原の作戦が成功したのは、張軍団は各地に分散していたので(本部は奉天)、交通網・通信網を遮断し、金融サービスを掌握したからですが、中国の場合、それができそうもなく、戦いは長期に亘り、唯体力を消耗するだけだと危惧されたからです。

1935年に始めた幣制改革が成功し、翌年には、経済的にも中央集権化が進み、政府予算、国軍事予算が、従来の浙江財閥(蒋介石夫人(宗美麗)の実家が浙江財閥)からの支援でなく、税収によって賄われ始めました。経済の回復で国力が急速に充実しつつある事が、諸外国で認識が広まって行きました。又、軍事面でも、国共合作で、戦力が統合されただけでなく、米・独(装備品、市街戦の戦術指導)の支援で、急速に抗戦力が強化されていきました。しかし、日本の軍部の強硬派は、この変化を直視しようとしませんでした。

盧溝橋事件は、国民党軍に潜り込んだ中共軍兵士が、日中両軍の衝突を目論んで発砲したものと言うのが今日の定説になっています。支那事変は、1937年07月の廊坊(北寧鉄道、北京・天津の中間)と広安門(北平)での日本軍(北支派遣軍)への発砲件で勃発しました。何れも、冀察軍からの発砲で、激しい銃撃戦が繰り広げられました。これで、支那事変は日本の強引な華北分離工作が大きく影響して起こったものであるとご理解願えると思います。

廊坊・広安門発砲事件で勢いを得たのが、帝国陸軍の強硬派です。07月27日に、在留邦人保護を目的に、保留されていた三個師団を北支に増派しました。又、香月北支司令官が北平・天津の駐留軍に総攻撃を命じたので、冀察軍は後退を重ね、第29軍(宗哲元司令官)は北平より撤退しました。石原参謀本部第一部長は香月司令官に作戦の範囲を限定したに拘らず、部下の武藤作戦課長は、密かに派遣軍参謀に範囲を限定せずに攻撃する様指示。参謀本部内の意志不統一が作戦の拡大に拍車をかけました。

目には目をと言う事でしょうか、今度は通州で守備隊が出払った隙に、冀察軍の保安隊二千人が在留邦人223人を暴行の上、虐殺すると言う事件が起こりました。所謂通州事件です。察哈爾を追われた冀察軍に「日本憎し」の感情が虐殺行動に走らせたものです。此れに日本の世論は激昂し、支那徴傭を叫ぶ中、石原は事態の打開には首脳会談しかないと考え、近衛・蒋会談を近衛に具申し、外務省を通じて、会談の手筈を整えたに拘らず、近衛は交渉結果に陸軍が従う旨の保障を求めたため、陸軍と調整がつかず、結局、会談は実現しませんでした。石原は「近衛は宰相の器に非ず」と非難・酷評しましたが、どうにもなりません。




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