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【東京裁判私観】古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その2)
古谷 敬治さんの【東京裁判私観】(その2)です。古谷さんの近影、略歴をご披露しようと思いお願いしたのですが、御本人からは掲載には同意するが写真、略歴等はご遠慮させて欲しいとのことでした。古谷さんは、商社に38年勤務、1997年に定年退職され最後の4年間はブラジルの現地会社に出向されその間、最愛の奥様を亡くされ現在もそのままブラジルに残られたとの事で現在70歳になられる方です。勉強家でどのような話題にも真摯に取り組み文献を紐解き纏めておられます。
今回の【東京裁判私観】にも渾身の力を込められ小さな字句の訂正を三回に渡り送って頂きました。
写真は本文に掲載されていた下記説明がある写真を使用させて頂きました。
日本軍の爆撃を受けた重慶の市街地=1941年8月23日付け『大阪朝日新聞』夕刊1面=「日本空軍が軍事施設を狙った猛爆の跡はまさに地獄絵図である。家屋は爆撃で消滅し、引きつづく猛炎で余すところなくやけくずれてしまった。爆撃がやむと避難壕(ごう)から市民の大群が潮(うしお)のように飛び出してくる。市民達は最早や焼土を復興させようといふ気力さえ失せたように見えた」と記している。


5)第二次上海事件
投入戦力は、日本側が250千人、中国側600千人。08月09日に、上海で海軍陸戦隊の大山中尉が紅橋飛行場の近くで、警邏巡回中に射殺される事件が起こりました。第二次上海事件の発端です。戦火が北支から中支に飛び、日中の全面戦争に広がりました。元々、在留邦人保護の目的で、陸戦隊2,500人が配置されていましたが、それを援護する為に、揚子江に駐留していた第三艦隊の巡洋艦、駆逐艦、砲艦など数隻が、上海沖に集結した事が、南京政府を強く刺激しました。その中で、大山中尉射殺事件が起こりました。

08月14日、政府は二個師団(上海派遣軍―松井石根司令官)を上海に派遣する事を決定。07月に中国が12万人の正規軍を上海へ集中させておりました。中国が華中に主戦場を求めたのは、蒋介石の戦略であったと言われておりますが、それには次の様な経緯がありました。1927年の反共クーデター以降、ソ連との関係を毀損した国民党は独逸へ接近しました。ヴェルサイユ条約で軍備を制限された独逸にとって、中国は極めて魅力的な武器輸出市場でした。軍事顧問団を中国に送り込み、大量の武器、軍事物資を中国に供給する事で、軍事産業の成長を図れたからです。

独軍時顧問団は、国民党軍に武器体系の構築、用兵、錬兵、要塞構築、戦略の立案などを徹底的に指導しました。第五次剿共作戦も顧問団が作戦を立案しました。対日戦略は、鉄道の輸送設備が整ってない、河北での衝突を避け、上海と南京で迎撃することに決め、更に日本軍の戦力を消耗させる為に、衝突を繰り返しては、後退する戦法をとり、且つ退路の都市・農村の資源を持ち去るか、破損する焦土作戦を行う事で、日本軍を奥地に引きずり込もうとしました。運河の町上海の防衛に、顧問団はクリークの背面に鉄条網や塹壕、トーチカからなる陣地を構築して、銃撃戦に備えさせました。これにより、日本の第三師団が大苦戦を強いられたため、急遽編成された援軍第10軍が、杭州湾に上陸して北上、黄哺江で中国軍の背後を突き、松井軍と挟み撃ちにしたので、二ヵ月半の攻防の末、やっと上海を攻略出来ました。分厚い防御態勢の所為で、日本軍は四万人余の死傷者(中国側は27万人)を出しました。一作戦としては、日露戦争の旅順攻略に次ぐ消耗でした。余談乍ら、子供の頃、散々聞かされた「肉弾三勇士」はこの上海事件の出来事です。今日の中東の自爆テロの元祖です。

独逸と蒋介石政権は、武器の売買、軍事指導等で親密な関係にある一方、日本とは1936年11月に日独防共協定を結んだ間柄でもあり、支那事変が激化するのはソ連を利するだけで、ドイツにとって頭の痛い問題でありました。この問題を解決する為に、独逸は、日本政府に和平交渉の仲介を行う旨打診してきたので、11月02日に広田外相はデイルクセン駐日独大使に日本案を提示、トラウトマン中華独大使を通じて蒋介石に提示されました。しかし、蒋介石は、24日よりベルギーで行われる九カ国条約会議(日本は不参加)で、日本に対する制裁決議を期待していたので、日本に対する回答を保留しました。会議では制裁を決議しなかったため、蒋介石は日本案を検討し、12月02日に受諾する旨回答しましたが(蒋介石も二股かけました)、蒋の回答が遅すぎたのと、目前にせまった南京陥落を期待して日本は和平条件を嵩上げしたため、交渉が決裂しました。

6) 南京虐殺事件
投入戦力は、日本側が120千人、中国側が100千人。12月09日に日本軍は中国軍に開城勧告を出しましたが、回答が無かったので、10日攻撃を開始、上海同様中国軍の抵抗は凄まじかったのですが、12日城門の一つを奪取したため、13日より中国軍は退却を開始、四日間の攻防で日本軍は南京城を攻略しました。当時、参謀本部の多田駿次長など不拡大派は、蒋介石の面子を立てる為に、南京(蒋政権の本拠地)攻略前にトラウトマン工作を受けるべきだと強く主張しましたが、現地軍が勝ち戦の勢いで、参謀本部の制止を聞かず、南京攻撃に走った経緯がありました。

第二次上海事件が、二ヶ月以上も続いた大激戦であったのに較べれば、南京攻防は僅か四日で終了し、日本の戦死者は二千人と非常に少なかったに反し、中国側に150−160千人も死者(民間人含む)が出たのは異常でした。南京も上海同様、城外に塹壕線を敷いていましたが、日本側の戦死者数からみて、激しい戦闘があったとは思えず、異常に死者が多いのが不可解でした。

陥落前日の12日夜に、唐生智司令官が、全軍に撤退命令を出していますが、命令が的確でなく、全軍に徹底しなかった処に、上海からの敗残兵が紛れ込んだため、城内は大変な混乱を来たしたと言われております。督戦隊(後述)が、撤退する兵士を逃亡兵と間違えて射殺する、或いは、逃亡兵が、便衣兵に化ける為に、民間人から衣服を奪う際、抵抗されて射殺した事で、遺体が多く遺棄される結果となりました。戦闘が終ってから、日本軍が捕虜なり、逃げ遅れた民間人を手にかけた事もあったと思いますが、後述する如く、日本軍は一般的に捕虜をとる事は余り無かった様なのと、与えるべき食料が無かったため、止む無く殺害した模様です。考えてみれば、投降兵は武装を解除して、釈放すればよく、民間人も訳を説いて、食べ物を自分で探す様解放すれば済む事で、無理に殺害する要はなく、日本の指揮官全部が全部殺害を命じたとは到底思えません。又、死者を便衣兵か民間人かをどう識別するか難しかった筈で、便衣兵を民間人としてカウントされたケースは多々あったと思われます。又、松井司令官が攻撃前日に行った勧告を聞けば、常識的に考えて、民間人は殆ど逃げ出した筈で、逃げ遅れた者は、国際委員会(ラーベジーメンス支配人)が作った安全区で保護されていたと言われています。

日本軍の要請で、放置された遺体の埋葬作業を行った宗教団体・慈善事業団体が、遺体の数を156千体と報告したと言われていますが、此れが正しいとすれば、想像の域を出ないものの、上述の推測から、日本軍が手をかけた捕虜・民間人の死者の数は半分以下でなかったかと思います。田原総一郎は「日本の戦争」で、「私は何度も説明を受けた秦郁彦日大教授の{四万人説}にレアリテイを覚える」と述べています。

中国軍は、城内で戦闘する場合、各部隊の背後に督戦隊を置き、後退する兵士を射殺するのみならず、陣地の出口を施錠して退却を禁じる措置を採ったと言われ、同士討ちが多かったと言われたのは此れを指すものと思われます。又、中国兵には、軍服を脱いで、私服に着替えて交戦する所謂便衣隊と称するゲリラが多くおりました。南京攻防で、脱ぎ捨てられた軍服が多くあったと言うのは此れを物語っており、応戦する日本兵にとって、相手が便衣兵か民間人か区別が付かぬ苦労がありました。

日本側にも問題がありました。東條陸相が定めた「戦陣訓・・・・生きて虜囚の辱めを受けず・・・・」です。大東亜戦争で、アッツ島、プレリュー島から沖縄島戦にかけて、投降を拒んで、戦死していった兵士が一体幾ら居たのでしょうか。南京攻略の場合、この裏返しの考え、つまり、自分も捕虜にならない代りに、相手の捕虜も受け付けずと言う考えがあったと思います。「捕虜にはせぬ方針」を指示した師団長が居たとの説があります。

もう一つ、日本陸軍の悪弊と申すべきものに、兵站軽視の伝統がありました。輜重科の将校には陸大受験の資格が無かったと言われたほど、兵站を軽んじました。日本軍は支那戦線でも、食料は現地徴発主義でした。「戦い済んで、日が暮れる」前に食料を徴発する事は、下士官・兵の重要な課業でした。インパール作戦では、糧秣を兵が運び、駄馬に運ばせ、牛にも運ばせ、尽きれば、牛を殺して食しました(太平洋戦争の歴史―黒羽清隆著)。牛も糧秣の一部でした。南京防衛隊(10万人)は、唐生智指令官以下退却時、城内に火を放ち、施設を壊し、食料を持って逃げました。南京城を攻略した日本軍兵士が、居残った住民に食料品を求める余り、暴行を働いた(なかには殺害した)事は十分想像されます。

7) 徐州会戦
北京・南京の鉄道を打通する為に、津浦(天津-蘇州-浦口)線を確保する要がありました。1938・03・15−5・19間日本側240千人、中国側600千人を投入して行われた戦いです。中国軍の抵抗・反撃で、日本軍は苦戦しますが、最終的に05月19日日本軍が徐州を占領して終りました。唯、中国軍は撤退に際し、河南省花園口付近で、黄河の堤防を爆破、決壊させ、河南省東部より、安徽省西北部にかけて、200平方キロを冠水させた結果、日本軍の南進と漢口への進撃が阻止され、戦線が膠着する事となりまました。此れに依る死者が320千人、離村者が630千人出たと言われています。

8)武漢作戦
蒋介石が南京を逃れて、一時遷都した揚子江中流にある人口150万人都市。1938・08・22−11・11にかけて、日本軍350千人、中国軍1,100千人を投入した支那事変最大の戦闘でした。支那事変の長期化に伴う動員増、戦費支出増に対応する為に、05月に国家総動員法が施行されました。

第二次上海事件、徐州作戦で、日本軍は大苦戦を強いられたと同様、武漢作戦でも、独軍事顧問団が作戦指導していたので、日本政府がヒトラー政権に顧問団の引き上げ、武器供給の中止を強硬に要求しました。その結果、顧問団が引き上げ、武器も新規の契約不実行の了解は取り付けたものの、引渡し済みの独兵器、別途購入の米英新兵器、チェコ機関銃等で、日本軍は苦戦を強いられました。漸く、武漢三鎮(武昌、漢陽、漢口)を攻略したものの、蒋介石に奥地の重慶に逃げられました。

9) 重慶無差別空爆
流石に、重慶は遠すぎたのと、途中に山脈と急流があって、歩兵部隊では追撃出来ず、とうとう蒋介石を取り逃がしてしまいます。地上部隊に代わり、1938・02・18−1943・08・23間、陸・海軍の爆撃機が重慶を無差別に爆撃し、町を大きく破壊しますが、蒋介石政権は存続します。五年余に亘る空爆で、12千人の市民が殺害されたと言われています。

10) 揚子江流域封鎖
日本軍は上海攻略後、租界を除く上海地域を占領しました。占領地域の支配を脅かす英仏租界の機能を抑制すべく、揚子江下流域を封鎖し、租界への物資流入の抑制を図って行きました。日本軍の占領で、周辺各地から避難する住民が、多く流れ込んだため、租界の人口が1937年の170万人が一年後には450万人に急増しました。更に、日本軍の物資移動制限措置で、米穀も日本軍の統制管理下に置かれたため、人口増によるインフレの昂進、失業率のアップが起こり、特に低所得者階層の生活は極度に逼迫し、遂に餓死者が多数出るに到りました。道路のあちこちに凍・餓死者の遺体が散乱していたと言われるほどで、仮に、租界人口の一割としても大変な数字になります。

日本軍が海上封鎖したのは、揚子江流域のみならず、香港と広州を結ぶ珠江及び天津も封鎖しました。これ等の地域は19世紀より英国の支配圏であったため、特に英国に大きな影響を与えました。ただ、英国は第二次大戦の勃発で、極東まで構う余裕が無かったので、代わって、米国が日本に対して対決姿勢を強めて行きます。1939年07月に日米通商航海条約の破棄を通告して来ました。半年後に、失効した後、対日経済封鎖を徐々に強めて行きました。第二次大戦への胎動の始まりです。留めは、1941・08・02の対日石油全面禁輸でした。此れで、海軍の重い腰も上がり、開戦への気運が急速に高まって行きました。


以上、ざっと支那事変を中心に主だった史実を見てまいりました。この他にも、平頂山事件とか、731石井細菌部隊に依る生体実験とか、民間人を暴行・虐殺した事件が多々あるものと思われますが、私の非力ではとても追い切れません。此の点は、何卒ご寛容願いたいと存じます。

俗に、支那事変と申すのは、日本が中国に宣戦布告せずに交戦した状態・期間(1937−1941)を指しております。中国は、大戦開戦後、日本に宣戦を布告しておりますので、1941年(12月)以降は、日中戦争(第二次世界大戦とだぶる)と呼ぶべきであると私は考えております。

民間人多数の犠牲を伴った戦闘に就いては、満州事変では無かったと申しました。又、大戦勃発後も、戦線が膠着し、部隊が南方に引き抜かれた事があって、重慶空爆以外、民間の犠牲者を伴った激戦はありません。民間人を巻き添えにした激戦があったのは、支那事変で、それも上海事件(第二次)、南京事件、武漢攻撃の1937−38の二年間に集中しています。

軍人・民間人の犠牲者数を示した別表(棒線グラフ)は、第二次大戦を対象としておりますが、数の多さから言って、日中関係では、当然、支那事変を含めるべきと考えております。 民間の犠牲者は、日中間の交戦だけでなく、中国人同士の軍閥抗争、国共抗争でも発生しており、当然、計算上此の点を考慮されねばなりません。軍閥抗争、国共抗争は、期間も長く、地域も広かったので、犠牲者総数一千万人弱の中で、中国人同士の戦いに依る犠牲者は、半数以上、つまり、支那事変・日中戦争による犠牲者は半数以下であったと思いますが、反面、上述した史実からみても、百万人や二百万人以下ではなかったであろうと思っております。それ以上に正確な事は、資料が手に入らないので、全く分りません。中国でも、対日抗戦に限った民間の犠牲者数は、把握できないのではないかと思います。

仮に、200万人以上、500万人以下と随分大雑把に見ても、これは大変な数字です。日本の支那事変での戦死者が40万人、第二次大戦での戦死者が230万人、併せて270万人。中国の民間の犠牲者は此れを越えるのではないか、或いは、日本の大戦での民間の犠牲者80万人を加えた350万人をも上回るかも知れないのです。ナチ独逸が手にかけたユダヤ人は凡そ600万人と言われています。中国人の場合、それに及ばぬとしても、日本の軍民合わせた戦没者の数を上回るとすれば、恐るべき数字としか言い様が無い訳で、東京裁判としては、とても此れを見逃す訳には行かなかったものと思います。

準拠すべき法律が無いから、審議は無効であるとするのは、数百万人の民間人殺害と言う事実に対し、余りにも法概念に捉われすぎた考え方ではないかと思います。これは、人道上の問題であり、倫理的に見て、看過・放置出来る問題ではありません。裁判と言う形式をとる以上、準拠すべき法律が必要ですが、第二次大戦前に、非戦闘員(民間人)が戦火に巻き込まれ、これ程大量の犠牲者が出るなどと、何人(なにびと)が予想し得た事でしょうか。東京裁判の審理要領を「法の不訴求性」を以て、難じるならば、第一次大戦後の、反戦ムードに酔いしいれ、戦時国際法の整備を怠った点こそ責められるべきです。

東京裁判に対する世の識者の論評はややもすれば、大戦開戦動機の謀議性に向けられ勝ちですが、私は寧ろ、判決を見て、数百万人の民間人が犠牲になった事実、この神をも恐れぬ悪行を、準拠すべき法が無いからと言って見逃す訳には行かない、無ければ、事後法で以てでも、裁くべきだ、此処にマッカーサー連合軍の裁判に於ける強い意志があったと理解しています。更に申せば、これは、法理念・法規範を超えた人道上の問題ですが、それを利用して、連合国対枢軸国の戦いに明確に終止符を打った事を全世界に示した連合軍の意思表示でありました。なればこそ、何人(なにびと)をも怖れず、正々堂々と、事後法で処理した、つまり、「泥棒を見て縄を綯った」訳だと解しています。

支那事変を途中で収束しておけば、第二次大戦(太平洋戦争)は起こらなかったのです。大戦中・大戦後に日本国民が蒙った悲惨・悲嘆・悲劇を思えば、支那事変は途中で収束すべきでした。ましてや、上に述べた中国民間人の犠牲を考えれば、尚更やるべきでなかったと思います。出来得れば、華北分離工作を取りやめるか、然もなくば、トラウトマン工作を受けるかして、蒋介石と和平を結んで置けば、米国から経済封鎖を受ける事もなかったし、日本が資源を求めに南方に武力侵攻する必要もなかった訳です。支那事変の戦争目的は何だったのか、仮に蒋介石を倒しても、その後、あのどでかい大陸をどうする積りだったのか、未だに私には分りません。蒋介石が、日本を北支から中支へ引きずり込んだ(引っ張り出した)と言う説がありますが、或いはそうかも知れません。

1937年に入ってから、中国は幣制の改革が奏功して、財政構造が改善され、徐々に予算管理が行える様になって行きました。第二次国共合作で、戦力が統一され、米国の経済・軍事支援で軍事力が強化された上に、独逸から兵器の提供と戦術指導を受け、且つスターリンの後押しも受けました。此れで、蒋介石が、積年の恨みを晴らそうと抗日姿勢を強めるのは当然です。日本vs中米蘇独では戦闘に勝っても戦争には勝てません。日本の戦争指導部がこの構図を読めなかったのが、日本の針路を違える結果となりました。太平洋戦争の結末と日本軍が中国人に犯した残虐行為を思えば、支那事変は大変罪の重い戦争でありました。

空軍に依る無差別空爆は、第二次世界大戦で初めて行われました。Battle of Britain (1940-41)で独空軍がロンドンを誤爆したのが始まりで、英空軍がお返しにドレスデンを空爆したことから広まって行きました。日本の陸・海軍航空隊(戦前日本には空軍は無かった)が重慶を攻撃しました。米空軍は、太平洋に空軍基地(サイパン、テニアン - B-29)を確保してから、日本の大都市(東京、大阪、名古屋)を無差別攻撃し出しました。極め付きは、広島と長崎への原爆投下です。

石原莞爾が、1946年07月、東京飯田橋の逓信病院に入院中に、東京裁判の米人検事より受けた質問に対し、「今次大戦で、最も責任の重い戦犯は、トルーマン大統領である」と答え、検事を驚かせた一幕があったそうです。東京裁判は、勝者の残虐行為の責任を問う形になって居ない点に敗者の不満が残ります。私は、親米派でも媚中派でもありませんが、日本人が、米軍が日本に行った無差別空爆の残虐性を非難するなら、同様に日本軍が中国で行った非人道的行為に関する中国の非難にも素直に耳を傾けるべきであると言いたいのです。


参考資料:
・地ひらく 石原莞爾と昭和の夢  福田 和也
・日本の戦争              田原総一郎
・近代史 日本とアジア 上/下   古川万太郎
・太平洋戦争の歴史          黒羽 清隆
・満州帝国 1−3            児島 襄
・実録満鉄調査部 上/下       草柳大蔵

コメント集(その3)の一部
赤嶺: 古谷さん 昨年末に在サンパウロ日本総領事館内で行われた高名な岡本行夫氏の講演をお聞きになった後の感想文を是非とも書いていただきたいとお願いしたのは、小生でした。あれから、半分仕事半分急用の旅行に出かけ、帰ってって来てPCに向かったら、調子がよくありませんでした。その間溜まってしまって、未開封の貴信の数々が70通ほどでした。土、日曜には、きっと貴信にも目を通せるものと楽しみにしているところです。
<東京裁判私観>を読んだ後で。
イヤー、在サンパウロ日本総領事館における岡本行夫氏のとても興味あるお話を聞いて後、立ち話程度で「どうですか?古谷さん、講演をお聞きになった感想でも私たちのBate-Papoにでも書いてみてくださいよ」と火を付けた小生でしたが、今回の貴信を一通り読破しての感想は、予想を遥かに上回るほどの力作、労作、そして、最後に傑作の域にまで既にたっしていると、敢えて物識りみたいな高所に立った生意気な評価もさせていただきます。先ずは、しかし、苦言から呈させていただくことを何卒ご海容下さい。折角の力作ですが、そして、死児の歳を数えるような詮無い所作にもなりかねませんが、何しろ、Bate-Papoという大変ご多忙中の方々を相手にしている関係上、願わくば、もう少し短めに、さもなければ、毎日、10回くらいに亘って連載の形を取っていただきたいと思いました。余談になりますが、割と根気強い愚妻(岡本氏の講演にご一緒させていただきました)は、一気に読破したと言っていました。
 しかし、苦情を相殺するほど多くの事柄(史実)も知識として得ることが出来ました。その一つは、1943年当時、満州が中国全体で締める工業生産の内、鉄鋼の95%を占めるまでにいたったこととか非常に興味深い記述に出会いました。何しろ膨大な貴信でしたので、忘れない内に書かなくてはいけないなという急いた気持ちの方がつい持ち上がってきますが、2、満州建国の項目において、「蒋介石が譲渡に譲渡を重ねて」とありましたが、あそこのところは「譲歩」ではないかと思いましたが、如何でしょうか。しかし、総じて、10ポイントの小さ目の文字をお使いになっている割には、誤字脱字の類(たぐい)が殆ど見られず、推敲を重ねられた形跡も、同時に窺えました。これも、あの悲運な国の運命に巻き込まれ、翻弄された先人たちに対する敬意の一種の表れに違いないと解釈、理解しました。
 <Ps> 最後に古谷さんにごく素人的な質問をさせていただきます。中国が一級戦犯を合祀してある靖国神社に一国の総理総裁が公式にお参りすることにこれほど猛烈に反対しているのは、あの処刑という極刑に処せられた1級戦犯の軍人たちが生前、支那事変の拡大に強くかかわった理由だけからでしょうか。それとも何かほかに理由がありますか。又、最後の最後で、それまで客観性を貫いてきていた古谷さんが(歴史認識という面で?)中国の考えにも耳を傾けなければならない、と意味合いのことを記してあるように記憶していますが、正にその立場に立てば、靖国神社への合祀(ということは、別に宗教法人を作って1級戦犯だけを分祀する施設を造る必要がるという風に考えていらっしゃる、と理解してもよろしいのでしょうか。もう時間的に遅いので、校正を割愛させていただきます。
 
古谷:赤嶺さんの読後のご感想をいつお聞かせ願えるかと一日千秋の思いでお待ちしておりました。
戦火に巻き込まれた中国民間の犠牲者が主題でしたので、あれも、これもと欲張ってしまい文章の長さよりも、お約束した手前、一日でも早くと、時間にせかされた作業でした。唯、史実を採り上げましたので、他の資料で検証せねばならず、これが思いのほか時間を費やしました。又、根が表現力に乏しいものですから、安物のラブレター宜しく、書いては消し、書いては消しの繰り返しで、猶時間が延引しました。連日深夜まで作業をしましたが、とても追いつかず、年内にお送りしなければと思い、最後は見切り発車しました結果、二回も誤字を訂正しなければならない羽目になりました。汗顔の至りです。
大戦後、極東赤軍、紅軍、国民党軍が三つ巴で満州を争奪しようとしました。紅軍が機先を制し、満州を押さえました。「満州を制した者が、中国を制した」結果となりました。1945年04月、延安での中国共産党七全大会で、毛沢東は「若し我々が全ての根拠地を失っても、東北(満州)さえあれば、其処で中国革命の基礎を築く事が出来る」と述べたと言われております。満州はそれ程「宝の山」であったのです。
さて、お尋ねのA級戦犯(刑死した)の靖国神社での合祀問題ですが、これに就きましては、ご忠告に沿い、別信します。
ご質問に以下の通り、お答えします




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