HOME  HOME ExpoBrazil - Agaricus, herbs, propolis for health and beauty.  Nikkeybrasil  編集委員会  寄稿集目次  寄稿集目次  通信欄  通信欄  写真集  リンク集  準会員申込  em portugues




【東京裁判私観】古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その3)
2回に渡りBATEPAPOに掲載された古谷さんの【東京裁判私観】を『私たちの40年!!』HPにも収録させて頂きましたが、色々コメントが寄せられております。これらの関連コメント集として(その3)及び(その4)を収録して置きたいと思います。赤嶺さん、桜井さんのコメントに対し返信を出しておられ『私たちの40年!!』のML上にも麻生さん、丸木さん、井川さんのコメントが寄せられそれに対して古谷さんが返信を出しておられます。
使用ソフトの関係上1万語までとなっており字数をCHKしてみたら2万語を越えており(その4)として追加すると共にコメント集の一部を(その2)に移す事にしました。何とか全文を4回で終了させたいと思います。
写真は、古谷さんが送られた原稿に添付されていた1938年の水浸しの写真です。


古谷:前編の続きです。
1) 中国が一国の総理総裁が公式にお参りすることにこれほど猛烈に反対しているのは、あの処刑という極刑に処せられたあの1級戦犯の軍人たちが生前、支那事変の拡大に強くかかわったからということからでしょうか。何かほかに理由がありますか。
   =その通りです。絞首刑に書せられた戦犯の霊を靖国神社に合祀した事に抗議しており、其処に首相が参拝する事を非難しているものです。
2) それまで客観性を貫いてきていた古谷さんが中国の考えにも耳を傾けなければならないとの立場に立てば、靖国神社への合祀(ということは、別に宗教法人を作って1級戦犯だけとを祀る施設を造る必要がるという風に考えていらっしゃる、と理解してもよろしいのでしょうか。
   =拙文の論旨は、特に靖国神社参拝問題とは結び付けて居りません。私が申し上げているのは、以下の通りです。日本は、特に大戦末期、米空軍より大都市中心に無差別空爆を受け、多数の死傷者が出ました。留めは、広島・長崎への原爆投下です。
東京裁判は、勝者が敗者を裁いた裁判で、勝者の残虐行為を裁いておりません。その点に関して、大多数の日本人は不満を持っている筈です。その不満をどこかにぶつけたい、戦勝国の国民に分って欲しいと望めば望むほど、同時に、日本軍が中国で行った非人道的行為に依る民間の犠牲者の事にも理解を示すべきでないかと言っているだけです。満員電車の中で、隣のヤローに嫌と言う程足を踏んづけられ、涙が出るほど痛かった経験があれば、逆に、自分が他人の足を踏んづけた時、その人の痛みを理解すべきだし、理解できる筈だと言っているのです。私は東京裁判をその様に理解しています。繰り返しますが、私は親中派でも、媚中派でもありません。
3) 靖国神社でのA級戦犯の合祀問題
   =東京裁判は、連合国側の判事が、日本の軍人・政治家の被告を裁いた裁判であって、日本の裁判所が国内法で裁いた裁判ではありません。1951年09月のSF講和条約締結で、日本の主権が回復してから、戦友会・遺族会から戦没者の靖国神社への合祀を急ぎ行うべしとの機運が高まり、祭神の選考に当り、準拠法として「援護法」「恩給法」が定められました。厚生省は、両法に基づき、該当する候補者の選考を行い、それを受けて、靖国神社で合祀者の選定を行っております。講和条約締結後、日本政府は処刑された戦犯は、国内法上の犯罪人とは認定して居りません(つまり、刑死ではなく、法務死と認定)ので、靖国神社はBC級戦犯を1959年に、A級戦犯を1978年に合祀しました。
軍人の罪を裁く裁判に軍法会議がありますが、此れは軍人が軍人を裁く裁判で、政府が軍人を裁く裁判ではありません。第二次大戦で、日本国民が筆舌に尽くし難い苦しみを舐めたのに、政府が戦争を指導した軍首脳を裁く法律が無かったため、それを裁判に訴える術は無かったのです。終戦内閣が裁判を起こそうとした動きがあった様ですが、連合軍が東京裁判を行うと決めたので、ウヤムヤになったと仄聞しています。当時、国際司法裁判所にはそれ程の力は無かったと思います。
中国(及び韓国)がA級戦犯の合祀を問題にしているのは、東京裁判の判決に基づいての事ですが、靖国神社の選定基準は東京裁判とは関係ありません。又、靖国神社は一宗教法人で、政教分離の基準に照らして、政府は宗教法人の決定に介入は出来ません。従い、日本人からすれば、中国・韓国のA級戦犯合祀に抗議するのは、内政干渉と言って言えなくはないと思います。
小泉元首相が毎年欠かさず、参拝を行った事で、日中間の外交・通商関係に影響が出たのは頭の痛い事だったと思いますが、中曽根・橋本元首相の如く、中国からクレームを受けて、参拝を中断したのに較べれば、己の信念を貫いた点は立派だったと思っています。
余談ですが、日本人には誰しも、多かれ少なかれ、「相手が謝れば許す」心情があります。先祖代々からのDNAか、生まれ育った精神的風土の所為でしょうか。親鸞の歎異抄に「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と言う教えがあります。友人から聞いた話ですが、中国人の場合は全くの逆、悪人は死んでも悪人、成仏など望むべくもないとの事。悪人(罪人)の墓は、一般の人の墓より一段低い場所に置かれ、他の参拝者は墓に唾棄、投石したり、足蹴にしたりするそうです。つまり、石川五右衛門は何処まで行っても石川五右衛門です。思うに、この両国の宗教観の差が、A級戦犯の合祀問題に蔭を落としているのではないかと考えております。
因みに、ものの書で読みましたが、靖国神社の説明では、合祀とは二百数十柱の御霊が一つに合体された状態にあり、一つの御霊だけを抜き出す事は不可能だとの事。仮に神社を分社して、御霊群を二分しても、中身は一緒。東条英機の御霊も二分されて、Part−Aは靖国に、Part−Bは分社の方に付いて行くので、意味が無いとの事でした。
中曽根元首相は靖国神社に分社の可能性を打診して断られたそうです。

桜井:東京裁判をめぐる格調高い議論で盛り上がっていますが、少し、違った観点から一言。
正月に北京の郊外の盧溝橋に行ってきました。例の戦争の原因になった橋です。
古典的な立派な橋でしたが、そのすぐ近くに中国人民抗日戦争記念館というすごく大きな博物館があります。中国がいかに日本と戦い、勝利をおさめたかということを写真を中心として、残された遺品等が展示してありました。もちろん南京事件等の日本軍の残虐な写真,映像もたくさんありますが、毛沢東,朱徳、周恩来等の英雄が主人公になっている感じでした。蒋介石などはほとんど無視されていました。
韓国のソウルと大田の間に独立記念館というこれまた巨大な博物館があります。
ここには、古代から現代までいかに日本人が悪いことをしたかを強く訴える内容です。
白村江の戦い、秀吉の朝鮮遠征、日本の日韓併合、第二次世界大戦等々です。
北京の博物館と比較し、ジオラマが多く、デイスプレイ的には相当優れています。
ここでも、これでもかこれでもかというように、閔氏暗殺シーンや日本軍による拷問シーンが出てきます。見学に来た韓国人は、固唾を呑んで見ており、おそらく日本人はいかに悪いかということを記憶にきざんでいくことになるのでしょう。
またソウル市内に戦争博物館があります。ここでも、秀吉や日韓併合、朝鮮戦争が出てきます。
これら一連の博物館を見ていますと、いくつかのことがわかります。
1)自分たちの国がいかに強くて立派かを国民に訴える
2)英雄を浮かび上がらせ称える(特に中国の場合)
3)日本がいかに残虐かつ悪い国かを誇張して訴え、国民の共感を得る
日本人としては、中国人や韓国人が日本をどのように見ているか、政府は、国民に日本をどのように見させたいのかということを理解することが必要だと思います。

古谷:ご無沙汰しています。お元気のご様子、大慶に存じます。
今、日本では高校の歴史の教科書で、終戦直前、沖縄での軍による民間人自決強要があったか、無かったかで、検定が揺れ動いている問題が生じています。
歴史の教科書の編集では、自国の都合の悪い史実を書きたがらないのは多かれ、少なかれ、各国に共通した現象と思います。先般、お送りした「東京裁判私観」で述べました、支那事変で、日本軍が関わった中国民間人の犠牲者の数が数百万人にのぼるとは、殆どの日本人は知らないと思います。
同様に、40年前の文化大革命で数百万人とも数千万人とも言われる犠牲者が出た事が中国の教科書には一言も記載されてないと言う話です。
処が、いつぞやTVで見た話ですが、数世紀に亘り、戦争・小競り合いを繰り返して来た独・仏両国が、後世に正しい歴史を教える為に、双方より歴史学者、教育学者の代表が集まって、両国に跨る史実一つ一つを、夫々の認識を披瀝しながら、共通の理解を取り纏め、教科書を編集しようとした動きがありました。結果はどうなったか知りませんが、この作業こそ、歴史教科書作成に必要な事は論をまちません。日・中・韓でこんな作業がやれるのはいつ
の事やらと思います。

赤嶺:前略 大変に残念ながら、本日(11日)の午前中から、会議所の新年昼食会に出て、都合で帰路大いに道草をくったため、帰りが遅くなったこと、これからやるべき雑事がまだ残っていますので、貴信にCompativel(相応しい)な返信を書く余裕が無いことを残念に思いますが、東京におられるかつての仲間 桜井悌司さん辺りからも、貴信をお読みになっての嬉しい(小生にとっても)読後感と私も知りたいと思っていた桜井さん自身のご近況も寄せられましたので、労作がこれで文字通り傑作という形で無事完結したと表現しても、決して大げさではない、と考えているところです。又、火付け役として、我が事のように喜び、安堵しております。今になって、古谷さんの不眠不休の作業振りの形跡もあわせて読み取ることが出来ました。又、小生からお願いしました<紅白雑感>にも間をおかずに呼応してくださり、勉強させていただきました。今後とも、一番頭の運動になるとお医者さんあたりから勧められています(特に小生の場合のですが)この仲間同士で物を書き合う娯楽にどうかご参加を続けて行ってください。良い方を仲間の一人に巻き込んだことを喜んでいる次第です。
最後の最後に重箱の隅を突くような所作になりますが、古谷さん、貴信のファイナル部分に出てくる<分社>という語彙は、関係者を祀る神社を別に建てるという意味でしょうか、それとも<分祀>の間違いでしょうか。何はともあれ、老爺心ながら、今週末は、ごゆっくりとお過ごし下さい。今後の健筆を期待しております。

古谷:<分社>という語彙は、関係者を祀る神社を別に建てるという意味でしょうか、それとも<分祀>の間違いでしょうか。
=分社と書いたのは、A級戦犯七名の御霊を祀る為の別の社を建てる、と言う意味でした。合祀に対し分祀、靖国神社に対し分社と言う意味で書きました。

古谷:私の拙文「東京裁判私観」を貴誌に載せて戴き、誠に光栄に存じます。何と御礼を申し上げるべきか言葉が見当たりません。その上、過分なお言葉を頂戴し、只管恐縮しております。尚、拙文を読まれた方々のご批判、ご叱責などを、是非お聞かせ願いたいと存じます。今後の励みと致します。
ご参考までに、以下を追記しておきます。
法理論に照らして、東京裁判が如何に不法で、不合理であるかは、多くの司法関係者が批判、糾明している通りで、此の点に就いては、素人の私が立ち入る積りは毛頭ありませんでした。
私が「東京裁判私観」を書く気になった理由は、二つあります。
1) ニュルンベルグ裁判では、ナチ軍人が八名絞首刑に処せられています。600万人ものユダヤ人を理由も無く、毒(ガス)殺しているのですから、当然だろうと思います。東京裁判では七名が処刑されています。数合わせではありませんが、東京裁判でも、600万人のユダヤ人虐殺に相当する、多数の民間人虐殺が無ければおかしい、否、ある筈だとの疑問を持
ったことが一つです。
2) 拙文で、東京裁判の訴追の範囲は、満州事変・支那事変・大東亜戦争1931-1945年の15年であると述べました。満州は、元々清朝の本家、満民族の版図で、漢民族の土地ではなかったのです。孫文など、満州の土地を日本に売りに出した程です。辛亥革命は、ある意味では、満民族を化外の土地(長城の外)へ放り出した様なものでした。満州事変で、関東軍が相手にした張学良軍団は、中国の正規軍ではなく、一地方の軍閥に過ぎませんでした。場所も、ど田舎なら、戦った相手も私兵の集団、言葉を慎まずに申せば、満州事変は、日本ダービーならぬ、田舎の草競馬みたいな戦いでした。
唯、幸いな事に、軍人・民間人共に多くの死傷者が出なかったのです。15千人対250千人の戦いです。正面からぶつかれば、関東軍が負けています。石原莞爾の奇策・機略で張軍団を追い出したから、犠牲者が殆ど出なかったのです。
他方、支那事変と大東亜戦争は、日中も日米も正規軍が死力を尽くした戦いでした。支那事変の主役は陸軍、大東亜戦争の主役は海軍でした。大東亜戦争でも、比島、蘭印、英領マレー・星港で、現地の民間人に犠牲者が出ました。しかし、その数は支那事変に較べると、それ程多くはありませんし、その咎はBC級戦犯として現地で処理されております。
東京裁判で、死刑の判決を受けた七名の戦犯は、一名の文官を除けば残り全ては陸軍の将官(大将・中将)で、海軍将官が一人も含まれて居なかった点に疑問を持った事が二つ目の理由です。
以上が、ご参考になれば幸いです。

和田:古谷さんの【東京裁判私観】を『私たちの40年!!』に収録させて頂けてこちらこそ喜んでいます。 古谷さんのコメントは、(その2)の後に収録するか、(その3)として皆さんのコメントを纏めて収録させて頂くことにします。作業に少し時間がかかると思いますが皆さんとのやり取り及び今後出てくるコメントと共に収録して置きます。
また纏まった話題があればご同意頂けるものは収録して行きたいと思いますので宜しくお願いします。
私たちの40年!! HPのアクセス数は現在76万回ちょっとですが今年中には必ず100万回アクセスを記録することになると思います。古谷さんの寄稿がそれに拍車を掛けて呉れるのではないかと願っています。
今月は既に91ヶ国からのアクセスがあり上位30位までにHONDURAS、LATVIA、SATELLITE PROVIDERとかがランクされています。
今後とも宜しくお願いします。

和田:古谷さんの【東京裁判私観】を読まれた『私たちの40年!!』MLのメンバーの下記のお二人からコメントが届いておりますのでこの欄を借りてご紹介して置きます。尚、皆さんのコメントは(その3)としてHPに一緒に収録する積もりです。
1)サンパウロに御住みの元三菱商事の食料部長をしておられた麻生悌三さんのコメントです。
古谷様
大東亜戦争の遠因たる、支那事変より掘り起こし、綿密な調査と、歴史的背景の推移を記述された、卓越した私観を拝読させて頂きました。
浅学の小生が口を挟むのは僭越ですが、下記、私観を述べさせて頂きます。
ー南京大虐殺(日本軍による大量虐殺はあったか?)
1937年7月に支那事変が勃発しました。松井石根中将摩下の中支方面軍(兵力6個師団,約7万2千)は同年12月に蒋介石と国民党幹部が兵力15万が立てこもる、当時の首都、南京を包囲しました。蒋介石一党は12月7日に密かに、南京を脱出し逃避しました。又、後を託された、支那軍司令官も後に脱出。
12月9日に南京城を包囲し、降伏を勧告しましたが、拒否され、翌日10日に日本軍は総攻撃を開始し、13日に南京城を攻略しました。その後、6週間に亘り、城内,外、の掃討作戦が行われ、残存兵、便衣隊(ゲリラ)との小規模戦闘が続きました。支那軍15万の内、戦死5万、捕虜3万をだし、民間人犠牲者は2万と推定されています。当時の南京の人口は20万、その1割が犠牲となったものと思われます。中国の反日愛国教育は事あるごとに、南京大虐殺を宣伝し、民族意識の鼓舞を行って来ました。南京に在る南京大虐殺記念館では30万人が虐殺されたと発表しています.今日では、40万人が殺されたと言い出しており、年を追う毎にその数は増える傾向にあります。軍民合わせて、35万人で30万人も殺せる訳がありません。当時の南京では宣教師、外国人記者も多数、在住しておりました。その中でもアメリカ人牧師のマギーという御仁がとりわけ反日宣伝に熱心で、日本軍兵士による、殺戮、強姦等を、見てきたが如く、マスコミに宣伝しました。殺戮が全く無かったとは思いません、あったでしょう、でも、その数は2−3万位と推定されています。松井石根大将は南京事件の罪をおっかぶされ、東京裁判で絞首刑にされています。アメリカは何としても、日本軍の悪逆非道ぶりをブチ上げて,アメリカがやってきた大量殺戮の罪を日本に転嫁させんとする力が働いています。1945年3月の夜間の東京大空襲では300機のB−29から1660トンの焼夷弾が居住区に投下され2時間半の間に10万人の都民が焼死しています。B-29による日本本土のじゅうたん爆撃は56主要都市を焦土とし、犠牲者の数は、80万人にも上ります(大東亜戦争の戦闘での犠牲者数78万人を上回ります)。広島の原爆では、一瞬に市民24万人が吹っ飛びました。どだい、大量虐殺、殺戮などは,騎馬民族の専売特許で、温厚な農耕民族には、その発想もありません。最近はドイツまでアウシュビッツを棚に上げて、南京事件を宣伝しています。アメリカは日本人の残虐非道ぶりを何としても,デッチ上げて、世に広め、白人のみの、正義と道理を示したかったのが真相だと思います。
ー東京裁判で海軍の将官のA級戦犯の死刑が無かった理由。
A級戦犯の海軍将官は、永野終身軍令部総長、嶋田繁太郎海相、岡敬純軍令部長の3名が指名されています。御前会議のリーダー永野元帥は巣鴨で病死.他の2名は終身刑に服しています。永野元帥が若し、病死していなかったら,同じく,病死した松岡洋介外相と両名は絞首刑は間違い無かったでしょう。
真珠湾攻撃の立案者の山本五十六元帥はブーゲンビルで撃墜され戦死を遂げています。海軍よりも、殆ど陸軍によって行われた戦争指導は報復裁判のターゲットは陸軍に集中されました。
麻生

2)トロントに御住みの丸木英朗さん(ブラジルに移住されその後USAに転住、現在トロントにお住まいで奥様はイタマラチのトロントブラジル領事館勤務中)のコメントです。

丸木で〜す
古谷さんの書き込みは、今までで最も読み応えがありました。
浅学非才の僕に批評する資格は御座いませんが、僕の住むトロントで悲しむべきと言うか腹立たしい日中紛争が起こりかけております。
十年ぐらい前にベストセラーになった張純如(IRIS CHANG)著のThe Rape of Nanking(南京大虐殺)の映画が世界に先駆け去年の11月にトロントで封切りされ、自殺した著者の両親と主演女優が挨拶されました。トロントでは演劇化もされ来月から上演されます。映画の解説書(205ページ)を読んだ感想文を僕は地元の邦字紙に寄稿し、学移連(日本学生移住連盟)のMLにも書き込みました。
当時人口20万人の南京で30万人も日本軍が虐殺したと主張する中国側に対抗し、南京大虐殺は無かったとする日本人グループが組織されたとも聞き及びます。
僕のような一匹狼の遠吠えに耳を傾ける方は居ないかもしれませんが、日本の侵略戦争は悪かったかもしれないが、他に選択肢のなかった歴史の必然であり、敵国に裁かれるべきことではなかったと、悔しさがこみあげるのを禁じ得ません。
僕等は学校で「出て来いニミッツ、マッカーサー、地獄の底へ突き落とせ!」と歌わされて育ちました。「愛国行進曲」や「空の神兵」も歌いました。
郊外も含め全市がチャイナタウンのようになったトロントで、本件がどのように進展するか見守り、今後逐次書き込む所存です。

古谷:麻生さんと丸木さんのメッセージをお送り戴きまして、有難うございました。率直なご意見を頂戴し喜んでおります。
お二方にお礼を兼ねて返事を差し上げたいのですが、Batepapoのメンバーでなければ、どの様にして返事をお送りすれば宜しいかご指示願いたいと存じます。

和田:お二方へのご返事がいただけるのであればこのBATEPAPO欄で送って頂いても結構です。私のほうで『私たちの40年!!』ML(現在252名が参加)に転載させて頂きます。また関係書き込みは(その3)としてHPにも収録予定にしております。 宜しくお願いします。

古谷:お言葉に甘え、麻生さん・丸木さんご両人に対する私の返事を以下の如く取り纏めましたので、夫々お二方に宜しくお伝え願います。
麻生 様
図らずも、幣「東京裁判私観」に対し、ご高見を賜り厚く御礼を申し上げます。史実に対する観方は人(ひと)様々であり、史実に興味を持つ者として、観方の違った意見に接するのは、視野を広げる一助になると考えております。今後とも、宜しくご高見をお聞かせ願いたいと存じます。
南京虐殺事件、これほど種々雑多な情報が入り乱れ、真相の把握を難しくさせている史実は他に例を見ません。70年も経った今となっては、実態の把握は、先ず不可能ではないかと懸念しておりますが、微力ながら、真相に一歩でも迫る努力は今後も続けて行きたいと思っております。
私が、南京事件で不思議に思う事が二つあります。
1) 南京事件では日本軍の投入戦力は120千人。中国軍は100千人で、城内で守っていましたので、戦力配分の常識から見て、負ける筈がなかったのですが、結果は、中国軍は南京城を放棄して撤退しました。戦死者は日本軍が二千人以下、中国側は156千人と、投入兵力より多くなっております。何故か?第二次上海事件での中国軍の投入兵力は、600千人で、戦死者は200千人程度でした。10月26日に上海が陥落した後、残存兵は南京に向けて全面壊走しております。12月12日夜に、唐生智司令官は南京城からの撤退命令を出しましたが、徹底せず、督戦隊が撤退兵を逃亡兵と誤認して射殺するなど城内で混乱が生じました。其処に、上海からの敗残兵が殺到したので、余計混乱に拍車がかかりました。しかし、大部分の南京兵は撤退命令で退却しており、又、日本軍の開城勧告で、民間人も殆どは退避している筈です。日本軍の戦死者が少なかった事から、南京では日中間で激しい戦闘があったとは思われず、156千人の遺体の大部分は督戦隊に射殺された上海の敗残兵であると見るのが自然ではないかと思っております。
2) 戦闘終了後、通常遺体は捕虜が収容、埋葬するのが一般的ですが、南京事件では、日本軍が現地の宗教団体・慈善事業団体にその作業を委託しています。何故、埋葬作業を行う捕虜が居なかったのか、此れが二つ目の不思議です。日本軍の南京攻略時、実は松井軍司令官は、蘇州で病床に臥せっておりましたが、南京陥落を聞き、17日に入城式を行う様準備方各師団長に指示しました。掃討作戦上、17日では早すぎるとして師団長達は延期を申し入れますが、司令官は聞きません。止む無く、師団長達は期日に間に合わせる為に、掃討作業を強行しますが、その際に、暴行など無法な行動があった様でした。元々、軍紀に非常に厳しい松井大将は、南京城攻撃に際し、戦闘後の投降兵及び非戦闘員に対しては規律を以て臨む様注意を喚起したに拘らず、不祥事が生じた事に、涙ながらに師団長・参謀達を厳しく叱責したと言われております。
東京裁判では、松井大将は、一連の暴行事件は承知しているが、虐殺事件は承知せずと弁明しましたが、通らなかった様です。訴因第55号「数万の捕虜に対する戦争法規違反」だけの罪状で死刑の判決を受けました。
松井大将は、孫文や蒋介石とは知己の間柄であり、蒋介石の北伐を応援した程の関係でした。事変前は退役していましたが、一番の中国通であったので、現役復帰し、上海派遣軍司令官に親補され、出役しました。中国・中国人をこよなく慈しんだ性格からして、身に覚えの無い罪状を着せられ、刑場に散った無念さは想像を絶するものがあったと思われます。七名の戦犯では一番残酷な判決でした。



アクセス数 7493849 Copyright 2002-2004 私たちの40年!! All rights reserved
Desenvolvido e mantido por AbraOn.
pagina gerada em 0.0176 segundos.