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【東京裁判私観】古谷さんの東京裁判の真の意味を追求する力作(その4)
古谷さんの【東京裁判私観】には大きな反響があり『私たちの40年!!』MLの仲間からもコメントが届きそれをBATEPAPOにも転載する形で古谷さんを通じての熱い意見の交換が続きました。貴重な交信でもあり(その4)として収録して置く事にします。
東京裁判という戦後史の難しい話題に真っ正面から取り組んで纏められた古谷さんのご努力とそれをベースに高いレベルでの意見交換、これぞMLの醍醐味と言える内容でその中継ぎをさせて頂いた事に感謝したいと思います。
HPの使用ソフトの関係で最後の部分が掲載が難しくなりましたが、割愛するには忍び難いとの判断で(その3)の一部を本文の余白に移動させ、一部、部分的割愛により本文とコメント集で何とか4万字で納める事ができました。
適当な写真がなく古谷さんのオリジナルの書き込みにあった関係中国地図をお借りしました。


古谷:麻生さんへの回答。米戦略爆撃機B-29の日本本土空爆に就いて。
1) B-29が実戦配備されたのは1944年04月印度でした。同月、日本空爆部隊第20航空軍団が設立され、06月に中国成都に基地が建設されました。しかし、B-29はエンジンに多くの問題を抱え、1944年中は殆ど実戦で戦果をあげておりません。
2) 基地成都は日本からは遠いだけでなく、燃料等の補給は印度から山越えで行わねばならず(当時東南支那海は日本軍が支配していた)、作戦実行には不向きな基地であったため、代替基地の確保が急務でした。実は、1943年には、日本本土空爆の基地としてマリアナ諸島が注目されていましたが、当時は未だ日本軍支配していたため、止む無く成都を使っていた事情がありました。
3) 早速、11月に東京の中嶋航空機の工場を爆撃しましたが、相変わらずエンジントラブルに泣かされ、且つジェット気流に流され、不首尾に終っております。翌45年01月に新任指揮官ルメイ中将が着任。従来の高高度からの爆弾による軍事施設・軍需工場への攻撃に代え、低空からの焼夷弾による無差別攻撃へと方針を切り替えました。前任のハンセル指揮官の機体重量軽量化の改善が漸く実を結んだ事も手伝って、低空からの空爆は絶大なる効果を挙げました。
4) ルメイ指揮官が空爆方針を変えたのは、高高度からのピンポイント攻撃は、雲に遮られ、目標が狙い難かった事と、爆弾がジェット気流に流され目標を外す事があったからで、此れに替え、直接木造の家屋を焼夷弾で攻撃する方法で効果を挙げる事を狙った訳です。日本の迎撃機はレーダーをもたぬため、夜間の攻撃は不可能だったので、此の点に目を付けたルメイは夜間の攻撃を指示、且つ、日本の軍需工場を下支えしているのは、幾万の町中の零細・家内工業であるのを見抜き、従業員諸共これ等を攻撃すれば、軍需工場は成り立たぬとの計算から、墨田区を中心に03月始めて東京空爆を行ったのです。
5) ルメイが、墨田区の零細・家内工業を狙ったと言うのは、口実であって、一般住民を巻き込んだのは、厭戦思想を掻き立てる為ではなかったかと、私は考えておりますが、仮にそうであったとしても、日本の国民性から言って効果があったとは思えません。只、実に悲惨なジェノサイドだけを残しただけでした。
東京裁判に於ける海軍将官
幣東京裁判私観で述べました通り、マッカーサーの罪状糾弾のポイントは支那事変(捕虜・民間人殺戮)にあったとの認識を持っておりますので、永野修身軍令部総長の死刑判決はなかったのではないかと言う気がします。海軍で一番罪が重かったのは、寧ろ嶋田繁太郎ではなかったでしょうか。連合軍が、大戦開戦決議の責任を問うたとしたならば、それは軍令よりも軍政の責任者にあったと思います。又、若し、生きながらえて、死刑の判決を受けたとすれば、文官ながら、近衛文麿であったと思います。
以上ご参考になれば幸いです。
丸木 様
図らずも、幣「東京裁判私観」に対し、ご高見を賜り厚く御礼を申し上げます。多くの方々からご意見を頂戴するのは、私にとりまして、非常に参考になります。今後とも、折に触れご高見をお聞かせ戴きます様お願い申し上げます。
さて、南京虐殺事件は今から70年前に起こりました。The Rape of Nankingの著者の両親が健在との事ですが、何才くらいの方なのかお分かりになりますか?今80才として、当時は10才、今75才であれば当時は05才です。この著書は、両親が娘に語り伝えたのを著者(娘)が書いたものと思いますが、両親は1937年12月、事件の現場を実見したのか、此の点を知りたいと思っております。この種の話し、ややもすれば、他人の言い伝え、又聞きを恰も自分が見・聞きした如く、記述するケースがあるものですから、内容が内容だけに、つい疑い深くなります。
南京攻防戦での、日本軍の投入戦力は120千人、中国軍は100千人。戦死者は日本軍二千人弱、中国軍は156千人(一部民間人含むと思われる)。この数は、日本軍が宗教団体・慈善事業団体に埋葬料を支払って埋葬を委託したものですので、出鱈目な数字ではないと思っています。
日本軍は12月09日に開城勧告を行い、回答が無かったので、10日より攻撃を開始、12日に城門の一つを奪取したので、同日夜唐生智司令官は全軍に撤退命令を出しました。命令が不徹底で一部混乱があった様ですが、それでも13日に大半が退却した筈で、又日本軍の開城勧告で、民間人も殆ど退避したと思います。
日本軍の戦死者は二千人弱、中国側は156千人。どう見てもアンバランスで、激しい戦闘の結果とは思えません。10月26日に上海が陥落。600千人の中国兵の内、約200千人が戦死。残りは、南京に向けて壊走しました。従い、南京で、撤退する南京兵と、上海から逃げてきた敗残兵が入り混じって混乱を起こし、同士討ちになった結果が156千人の殆どではなかったかと想像しております。
日本軍が南京を占領したのが14日。松井司令官が蘇州より南京城へ入城したのが、17日です。各師団長は、掃討作業の都合上、入城式の延期を司令官に申し入れましたが、聞き入れられず、止む無く掃討作業を強行せざるを得ませんでした。その間に、日本軍兵士が、捕虜・民間人に暴行・殺害等の狼藉を働いた可能性はあったと思います。唐生智司令官は、撤退の際、資材・食料品は全て持ち出す様指示しましたので、食料は現地調達が原則の日本兵は、民間人に食料を強要して暴力を働くとか、捕虜は引率せぬと部下に処理を命じた将校も居たと思います。しかし、松井大将は、部下が煙たがるほど軍紀に厳しかった将軍で、17日以降は規律が整った筈です。南京郊外の掃討作戦は別にして、市内での不祥事があったとすれば14日ー16日間ですので、極端な事は出来なかったと思います。
日本軍に依って、市内の治安が回復すると、市民も続々と戻り始め、南京は元の活況を取り戻して行きました。12月24日から、01月06日まで受け付けた住民登録では、五万人の人口増加が記録されたと言われています。年末・年始を静かに南京で過ごした日本軍の将校が、故郷の母親に送った手紙も公開されており、其処には日常品に不自由しないと記されておりました。前線にも憲兵隊が付いて行っておりますので、その後は掠奪・窃盗等の悪事も先ずは無かったものと思います。
貴市では多くの中国人に囲まれ、この種の問題では随分と気苦労を余儀なくされておられると拝察します。どうか、それにめげず、ポイント毎に日本側の理解をご説明願い、彼等の誤解を解いて行かれます様念願いたします。上述しました愚見がお役に立ちますれば、誠に幸いです。

井川:古谷様  東京裁判について熱心に研究しておられるようですので、ぜひご一読をお願いしたい本を紹介させていただきます。
『世界がさばく東京裁判』ジュピター出版 平成8年
監修:佐藤和男
編集・発行:終戦五十周年国民委員会
        会長 加瀬俊一
佐藤和夫先生[法学博士]は小生の恩師で、海軍兵学校から一ツ橋で国際法を学ばれて、国連研究員。
防衛大学、拓大、青山学院大学などで教鞭を取られた先生ですが、昭和38年ごろ、小生と二人リオのアパートで暮らしてブラジルのインフレや日系合弁企業の問題点などを研究していました。そのとき、毎日のように、この東京裁判の批判論をきかせていただきました。
 論点は、大きく言ってつぎの2点です。
1.国際法から見て、東京裁判は、違法である。
2.このことは、多くのアメリカ人を含む世界の識者がみとめている。
 この本は、当時の全国会議員に国費で配られたそうです。また国会図書館にもあるはずです。ぜひご一読ください。もし入手が困難であれば、小生までご一報ください。

古谷:早々に貴メールを頂戴しながら、返事が遅れまして申し訳ありません。ご親切に本をご紹介戴きまして感謝しております。何れ機会がありましたら、是非読んでみたいと思っております。
さて、通称東京裁判「極東国際軍事裁判」が違法であったとは、多くの判事・学者・識者が異口同音に述べておりまして、私も曲りなりにそれを理解しているつもりです。
しかし、私が「東京裁判私観」で申し上げたのは、裁判の違法性に就いてではなく、マッカーサー連合軍が、違法を承知の上で、何故東京裁判を強行したのか、その「何故」に就いてでした。
中国とポーランドのみが、民間の犠牲者数が、大幅に戦死者の数を上回っておりますが、それは何故なのか?が、この疑問が「私観」を書いた動機です。中国は、支那事変、大東亜戦争以外に、中国内での軍閥抗争、国共抗争が随分と行われておりますので、それに依る民間の犠牲者も数多く生じていると思われます。日本軍が絡んだ犠牲者数は全体の半分以下と思われるものの、百万人や二百万人以下でもなかったのではないかと考えております。
世間では、The Holocaust と南京虐殺事件を比較して、東京裁判の刑罰は重すぎると批判する意見が多いのですが、南京事件の犠牲者数は、遥かにユダヤ人の犠牲者数には及びません。しかし、上海の外人租界で餓死した中国人の犠牲者数は、当然南京事件のそれを大きく上回ると思われ、且つ、第二上海事件、武漢・徐州・広東・重慶作戦等々、都市での戦闘にはどうしても民間の犠牲者が出るのは避けられません。更に、徐州作戦では、中国軍は黄河の堤防を爆破・決壊させて320千人の死者を出しております。更に此れに類する事件が他にもあるやも知れぬと考えれば、支那事変・大東亜戦争における中国の民間犠牲者数は、600万人に及ばぬにしても、数百万人の規模に達するのではないかと考えた訳です。
第二次大戦で、極東と欧州で、数百万人の民間人が殺害されるなど、誰が予想し得た事でしょうか。第一次大戦まで、無かった事で、準拠すべき法律が無いからと言って、この問題を処理せず放置する事が、当時の世界情勢から、更には人道上許された事だったでしょうか。或いは、裁判が違法であるとするなら、他にどんな解決方法があったでしょうか。
準拠すべき法律が無いから裁かないのか、否、事後法を以てでも、裁くべきだとするのか、戦死者よりも多い民間の犠牲者が出た、非情な事実をどう認識し、どう対応すべきかを問われたのが、東京裁判であり、ニュルンベルグ裁判であったと理解しております。
戦死者を遥かに上回る民間の犠牲者が多く出た事は、第二次大戦以前には経験しておりません。従い、既成の法概念・法理念では律する事が出来ない問題でありました。それを裁くには、事後法に拠るのは止むを得ないと言うのがマッカーサー連合軍(或いは米統合本部)の意志でなかったかと思います。

麻生:古谷様  懇切丁寧な御返事、深謝致します。歴史に興味を持つ物にとって、大変、勉強になります。今後とも御教示下さい。僭越ですが、下記、小生の私観を述べさせて頂きます。
1)南京事件
南京陥落後、市民が戻り、事件前より人口が増えたとの報告もあります。一般市民の犠牲者の多くは、砲撃と空爆によるものと思われます。
敗残兵が便衣となり、日本軍を悩ましたそうです。ゲリラの捕虜の処刑は公認されていますので,処刑されたケース,支那兵が市民を略奪,殺戮したケース、督戦隊と敗残兵と戦ったケース等、戦死のケースは多数あります。中国側が宣伝する日本軍の大量虐殺はデッチあげです.戦闘終了後、遺体の埋葬は宗教団体等に委託したそうです、何故、捕虜が行わなかったかは不思議です。東京裁判で松井大将は責任を被され、処刑されました。
1947年に中国が行った、南京軍事法廷では、南京攻略軍の谷第六師団長、中島第十六師団長も死刑になっています。
古来、名将は都市攻防戦は必ず避けました。一般人の犠牲者を出さない為です。(勝海舟の江戸城明け渡し、ドイツ軍侵攻に際してのパリ明け渡し等)南京の場合、オープンシテイー宣言も出さず、20万余の市民を置き去りにして、逃げた、蒋介石にも責任の一端はあります。
2)B−29による無差別爆撃
B−29とは、Super Fortress(超、空の要塞)と呼ばれた巨大爆撃機で、航続距離5200km。最大速力576km・hr、乗員10名、爆弾搭載能力最大9トン。大戦中、3960機が生産されました。1944年サイパンを始めとする、マリアナ諸島が陥落し、B−29の行動範囲に基地が建設されました。
欧州戦線の空爆で功績があった、カーチス ルーメ少将が前任のハンセル准将に代わって指揮をとります.ハンセルは高高度爆撃(9000−10000メーターの高度からピンポイント爆撃を行うも効果はジェット気流に阻まれ目標を外れた。この高度では日本軍の高射砲の射程外)を行ったが、新任のルーメは作戦を換え、
1)低空より爆撃を行い、一般居住区も目標とする。(無差別,絨毯爆撃)
2)爆撃は防空能力が脆弱な夜間行う。
3)爆弾は焼夷弾に集中する。木造家屋の日本の家屋を焼き払う。
この作戦で主要60都市が焦土化しました。このルーメは広島(ウラニューム原爆)と長崎(プラトニューム原爆)の原爆投下の直接の指揮官で、日本人にとっては、まさに、鬼畜ルーメです。戦後はマッカーサーの参謀として東京のGHQに駐在し、空軍の参謀総長にまで昇りつめ、ベトナムの北獏を指令した張本人です。又、キューバ危機には,キューバ爆撃をケネデイー大統領に進言しましたが、拒否された経緯がある殺し屋です。
この鬼畜ルーメ(日本人80万を焼殺したルーメ)にこともあろうに、日本政府は勲一等旭日大勲章(明治の元君から昭和のノーベル賞受賞者に授与される権威ある勲章)を授与します。1964年佐藤内閣の時です。推薦者は源田実参議(真珠湾攻撃の立案参戦者で,ミッドウエイの大敗にも参戦している第一航空戦隊の航空参謀、終戦間近かでは、松山に当時最新鋭の戦闘機、紫電改を集め、呉、広島に来襲する爆撃機を多数撃墜。終戦後、割腹自殺した大西滝次郎中将と源田実は特攻隊生みの父と言われている)、賛同者は当時の防衛庁長官、小泉純也(小泉潤一郎首相の父君)です。授与の理由は、航空自衛隊の創設に貢献したと言う理由ですが、源田実との間に何があったかは闇の中です。アメリカの原爆投下は建前として、日本の降伏を早め、米軍将兵の命を救ったと言われていますが、それは表向きの口実で、明らかに、対戦中に冷戦が始まった、ロシアに対する、牽制と原爆の実験です。プラトニューム原爆はネヴァダで実験済みですが.広島に落としたウラニューム原爆は、実験していませんでした。原爆の効果と人体に及ぼす放射能の影響を調べる目的でした(日本人に対する人体実験)。原爆投下前は、広島、長崎の通常爆撃は止めていて、未被害の市街の効果を確かめる理由からでした。
3)東京裁判
支那事変の戦争指導者を裁くための、復讐法廷に何故、満州事変の立役者、石原莞爾中将が戦犯に指名されなかったか不思議です。東条首相と対立し1941年に予備役編入されていますが、関東軍の大親分です.支那人、ロシア人スパイ等3千人を生体実験で殺し、細菌戦を行った石井四郎軍医中将及び731部隊の幹部は米軍細菌研究所に協力することで、戦犯に成っていません。又、南京攻略軍の指揮官で上海派遣軍司令の朝香宮も皇族から戦犯を出さないと云うマッカーサーの鶴の一声で戦犯を免れています。終戦時、服毒自殺した近衛文麿元首相も生きていたとしても、皇族を理由に処刑は免れただろうと小生の私観です。

古谷:麻生 様
26日付貴信を拝承しました。有難うございました。以下に愚見を述べます。
1) 1947年の南京軍事法廷で起訴され、死刑の判決を受けたのは、谷寿夫中将、田中軍吉大尉、向井敏明少尉、野田毅少尉で、中島今朝吾中将はは裁かれてないのではありませんか。中島中将の経歴を調べましたが、1939年に予備役に編入された後の事が分かりません。1945年10月に亡くなっていますので、南京軍事裁判で起訴されてないと思います。
2) 無防備都市宣言。仰せの通りです。日本軍の開城勧告でそれを求めたに拘らず、宣言を行わなかったのは、都市・住民を守ろうとする気の無かった蒋介石・唐生智の責任です。
   中国軍の無統制ぶりを示す以外の何物でもありません。蒋介石から後事を託された唐生智司令官も部下に清野作戦を命じ、撤退を指示しました。
   1943年01月、スターリングラードで、独第六軍司令官パウルス元帥は、ヒトラーの命令に背いて部下九万人を連れて、ソ連軍に降伏しました。1944年08月、パリ防衛軍司令官のコルテイッツ独中将は、ヒトラーに抗命して、パリ市内を爆破せず、投降しております。エライ違いです。
3) 原爆投下の目的は、ソ連への牽制と実験であったとする貴説に同感です。原爆開発に参加した科学者達は、投下実験の対象として京都市を強く主張しました。地形が緩やかな盆地になっている事、B-29の被爆が無く、町の原型を保っていた事で、被爆の効果が正確に掴めると言うのが理由でした。流石に、軍首脳は京都市の歴史を承知しており、科学者の主張を退けましたが、逆に広島・長崎の市民には、大変残酷な事でした。
4) 近衛文麿は皇族ではありません。華族(侯爵)でした。戦犯の容疑で逮捕された皇族に梨本宮守正王がおります。近衛文麿は1918年に「英米本位の平和主義を排す」と言う論文を発表し、その帝国主義・植民政策を強く批判しております。近衛は三回首相を務めました。第一次では、盧溝橋事件勃発時、北支に三個師団の派兵を閣議決定し、蒋介石を刺激しました。第二次では、石原莞爾がお膳立てした蒋介石との和平交渉を、陸軍の反対を恐れて、交渉に臨まず、石原をして「二千年にも及ぶ皇恩を辱(はずかし)うして、この危機に優柔不断では、日本を亡ぼすの者は近衛である」と言わしめています。又、トラウトマン工作を蹴り、1938年01月に、「爾後国民政府を相手にせず・・・」と悪名高い声明を発表しております。又、同年11月に閣議で「日支新関係調整方針」を決定し、翌年から、揚子江下流域、珠江、天津租界の封鎖に行って、英米を強く刺激しました。
   東京裁判で、東条英機が死刑の判決を受けたのを聞き、昭和天皇は「東条内閣で、開戦を決議したが、組閣時には大勢が決まっていた。東條には気の毒であった」と述懐されたそうです。広田弘毅が死刑になっています。近衛文麿が死刑にならない筈がありません。

麻生:小生の愚見に対して、早速の御返事有難う御座以ます。僭越ながら下記私観を述べさせて頂きます。
1)南京軍事法廷
東京で逮捕され南京で処刑された,谷中将のほかに、中島,末松中将も処刑されたと何かの文献にありましたが、貴殿が言われる如く、中島中将は1945年に病死しているのなら、1947の法廷で裁かれる訳がありません。他に処刑された方は、一般戦争犯罪のBC級で裁かれたものと思います。アジア各地47箇所で軍事法廷が開かれ、1000名の日本人(軍人、一般人)が処刑されています。
2)原爆投下
終戦真近,テニヤン島近海で日本の潜水艦がアメリカの巡洋艦インデイアノポリスを撃沈しました。この巡洋艦は本土から2発の原爆を輸送した艦です。未確認情報ですが、この巡洋艦が3発目の原爆を輸送中だった由です。もし、これが無事にテニヤンに到着していたとしたら、福岡若しくは札幌あたりが標的になったと想像します。原爆は亡命ユダヤ人のアインシュタインが建言して開発に着手したもので、マンハッタン計画の名の下に米軍の総力を挙げました。この原爆は開発中にあって、まだドイツと交戦中でありながら、投下目標は日本と決定していました。人体実験には白人をやるより、有色人種をやるほうが、罪みの意識が軽くなると考えたのでしょう。
3)近衛文麿
失礼しました、近衛文麿は皇族でなく華族(公爵)でした。A級に指名され、逮捕寸前、青酸カリで服毒自殺をしましたが、死刑になっていたかも知れません。

古谷:27日付け貴信を拝承しました。
米重巡インデイアナポリスが、日本の潜水艦伊58号に沈められたのは、07月30日未明で、テニアン島からSFに帰投する途上でした。つまり、07月16日に、原爆二発を搭載してSFを出港、同26日にテニアン島に到着。原爆を揚陸し、同島を出発した直後に、魚雷三発喰らって沈没したものです。史学愛好雀が曰く「撃沈が往路であれば、広島・長崎の被爆は無かったのに」と。誠に皮肉な事でした。
因みに、マンハッタン計画では三個の原爆しか作られませんでした。最初のプルトニウム爆弾は、ニューメキシコでテストに使用され、二個目(ウランー広島)と三個目(プルトニウムー長崎)がテニアンに運ばれました。
仰せの米重巡インデイアナポリスが(広島・長崎に次ぐ)三個目の原爆を運ぶ途中に沈められたと言うのはサスペンス小説「雷撃深度19.5」のストーリーではありませんか?広島・長崎に続く三個目(通算四個目)の原爆は実在していません。

麻生:巡洋艦インヂアナポリス雷撃撃沈の件了解しました。(昔読んだ本では、護衛の駆逐艦1隻も撃沈したらしいですね)本土から原爆を運んで帰路に撃沈とは知りませんでした。伊58は魚雷4発発射して全魚雷を命中させた訳ですかね。往路に撃沈していれば、かえすがえすも残念でした。

丸木:あの米国艦隊撃沈が伊58号が挙げた戦果とは僕も知りませんでした。
子供の頃に観た映画に「伊号47帰塔せり」がありましたが、帰港しなかった伊46号の当山艦長の未亡人と飛行機の中で乗り合わせたことがあります。遺族の恩給で世界の山登りをしてるとか云っておられましたが、ご年輩にもかかわらず顔にも手にもしわがないので、僕の妻が秘訣を訊いたら京王百貨店の6階にある化粧品を使用してるとか。説明員の話では日本人の皮膚でないと効果ないと云われオランダ系ブラジル人の妻はがっかりしてましたが、そこで阪神タイガース・グーズをたんまり買えた僕はご満悦でした。ちなみに、当山さんのご子息は練馬でメキシコ料理店「ドミンゴ」を経営してるとか・・・。

麻生:巡洋艦インヂアノポリスのデーターを調べましたら、レイテ島に航海の途中、レイテより550マイルのところで、1945年7月29日、伊58より、6発の魚雷を発射し3発命中し撃沈しました。乗員1196名の内、救助されたのは316名。後に艦長のマクベイ大佐は軍法会議にかけられます(対潜水艦警戒不注意)。証人として、伊58の艦長だった、橋本少佐は,証人として、サンフランシスコに連行されました。尚、マクベイ艦長は1960年に自殺しています。参考まで。

丸木:麻生さん、帝国海軍の戦果に関する情報有難う御座います。第一次大戦の英雄の孫として心洗われる思いがします。軍国少年として育った僕は、戦後には肩身の狭い思いをしてましたが、麻生さんの書き込みで元気が甦りました。重ねて御礼申し上げます、今後とも色々教えてください、よろしく。
レイテ沖海戦は世界の海戦史上最も壮絶で地獄そのものだったと、ペルナンブコ州オリンダでテレビの修理屋をしておられた特攻隊の生き残り篠崎さんから聞きたことがあります。篠崎さんはレシーフェに教育テレビ局建設の際の通訳でした。他の通訳はサンパウロ負け組み総裁・宮腰千葉太の子息と、日本政府に騙され不毛のドミニカからブラジルに再移住され補償問題で勝訴されたグループの代表者・山本氏の息子さんでした。

麻生:小生は勝ち組でも何でもありませんが、大東亜戦争を侵略戦争だの,謝罪要求だの,虐殺だのと戦後言っている曲学阿世の輩共に、一撃を加えたく、歴史を趣味で学んでおります。アジアの民族にとっては、今大戦は、植民地解放戦です。反日中国、韓国人、進歩的文化人と称する売国奴が戦後,営々とその教育をしてきました。
戦前の世界は、世界中が人種差別のアパルトヘイトでした。それを叩き潰した、日本。支配層であった、白人に何で裁かれるいわれがありましょうか。
今に東条さんの銅像がマラッカ海峡に建てられますよ。



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