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【雨とカーニバルそして誇り高き日本人】 石嶋 勇さんの寄稿です。
『私たちの40年!!』メーリングリストのメンバーだった(余りのメール数に根を上げて現在はWEBサイトで時々読んでおられる)サンパウロに住んでおられる石嶋 勇さんとはミク友ですが今年のカーニバル期間中に掲題の書き込みを読ませて頂きました。石嶋さんのコメントと共に纏めて寄稿集に収録させて頂く事にしました。
石嶋さんは、栃木県鹿沼市出身で現在44歳1999年からブラジルにお住みで奥さんは生粋のブラジレイラ2世のお子さん達に囲まれたビール焼け?したとご自分で仰る写真を送って呉れました。MIXIには『ただわけあって、ちょっと日本に帰りたいモードです。十年いたし、そろそろ潮時かなって感じがしてる』とも。何処に住んでも日本とブラジルの懸け橋としての存在を実践しておられる貴重な人材です。まだ44歳、春秋に富む石嶋さんの今後に期待したい。


カーニバルの日になれば必ず思い出すことがあります。
その年、2000年は私がブラジルに来てから初めてのカーニバルでした。
根が真面目なもので、全部観ようとテレビの前で頑張ってました。
当然、いつの間にかソファーに座りながら意識を失っています。
目が覚めると、まだやってます。頭がガンガンします。
諦めて、テレビを消して本格的に寝ようと試みます。
ここで電話が。
誰だろうこんな朝早くから。
会社の部下でした。
前の年にブラジルに来たばかりなのに、もう部下がいます。
しかも年上です。駐在員とはそういうものです。
日系二世で日本語も話せます。
が、ちょっと癖があるので面と向かって話をしないとわかりにくい。
そんな彼と、電話で話をします。早朝です。
「あの・・・が・・・くなったんですね」
は?
「だから・・はが・・・にました」
え?
「かあちゃんが死んじまったんです!!!!!」
頭の中が真っ白になりました。
そういえば彼の母親が病気で入退院を繰り返していたことは知っていました。
ならば、いずれこういうことがあることは予期すべきでした。
彼がこんな時間に、電話を掛けてくる。決して普通の用であるはずがない。
感情を押し殺して、一生懸命話しているのに。堪えているのに。
それを二回も三回も聞き直すなんて、なんて残酷な自分。
日系人で日本語を話すといえば、私たちの話す日本語と同じような言葉が出てくると思うかもしれません。
しかし、一世でない限りそれはあまり期待できません。
彼らは子供のうちだけ、親に習った日本語を話しています。
交友範囲が広がるに連れ、次第にポルトガル語の割合がだんだん高くなります。
だから、彼らの日本語は子供の言葉のまま成長が止まってしまうのです。
もちろん、ちゃんとした日本語も習いますが、どうしても余所行きの言葉になってしまいます。
自然に感情のまま発すると、ああいう言葉になってしまうのです。
だから私は、すごく衝撃を受けたのでした。
とは言っても、当時ブラジルで葬式がどんなものか経験したことのない私。
どうしていいかまったくわかりません。
知っている人片っ端からあっちこっち電話をかけまくって、どうすればいいか聞きまくりました。
どうも、弔電を打つとかいう習慣はないらしい。
香典の習慣もないらしい。せいぜい花輪を供えるくらいらしい。
でも、お通夜はなくその日のうちに埋めてしまうらしい。
とりあえず、花を買って墓地まで行かなくちゃ。
幸い、社長と奥さんは捕捉しました。
後は私が運転して墓地まで連れて行くだけでした。
すごい大雨が降ってました。
しかも、場所なんて聞いたこともありませんでした。
後部座席にVIPを乗せて、地図を右手にハンドルを左手に走る。
一番大切なことは、その場にいることだから。
奇跡的に、迷わずに墓地の塀までたどり着きましたた。
入り口がわからなくて一周してしまいましたが、とにかく着きました。
墓地には着いたが、さあどうする?
ちょうど目の前に人だかりがしていました。
多分あれでしょうと言って、傘を片手に小走りする私たち。
着いたら、ちょうどお坊さんがお経を上げていました。
仏式らしいです。
人だかりの先頭に、彼はいました。
雨のなか、傘もささずに背中を丸めて小さくなっていました。
白いワイシャツが濡れて透けています。
合間を見て花輪を棺の上に置きました。
程なく人が集まってきて、棺はあっという間に地下へ消えていきました。
御影石の、立派な日本式の墓石でした。
かなりの値段がしたはずです。
「○○家墓」と漢字が彫ってあったのが見えました。
でも彼は、漢字はおろかひらがなすらも書けないのです。
この墓標はいったい何のためなんでしょう。
この墓石に込められた、万感の思いを想像するだけで胸が締め付けられるような感じを覚えざるを得ません。
日本の「○○家」の大いなる歴史は、おばあちゃんと共に墓の中に封じ込められ、今ブラジルの土となりました。
でもそれと同時に、新たなる歴史が始まるのです。
その流れは、決して止められない。
カーニバルが来るたびに私は思い出すのです。
一人の平凡な日本人のおばあさんが、その喧騒の中ひっそりとあの世に旅立ったことを。
私が彼女に会ったことは一度もありません。
でも、すごく親しいような感じを勝手に抱いているのです。
息子のあのべらんめい調の言葉の中に、 その偉大な母親のぬくもりを感じるのです。


石嶋さんから頂いた彼の現在の心境を吐露した貴重な一文です。
和田様
サンパウロの石嶋と申します。かつて「私たちの40年」メーリングリストに参加しておりましたが、あまりにメール配信数が多いので読み切れず退会してしまいました。その節は大変失礼しました。
ところで先日、別のmixi関係の友人経由でロサンゼルスの野口さんと知り合う機会があり、また野口さんも「私たちの40年」に定期的に寄稿されていることを知りまして、和田様のご活躍範囲の広さに改めて感心いたしました。
また、いろんな人のリンクを辿って行きまして、さきほど「ブラ1」なるペンネームを発見し、拝見したところ和田様ご本人で、mixiにまで手をお広げになっているそのバイタリティの高さにほとんど驚愕しております。
ところで私は、1999年からブラジルに住んでおります。ブラジル人の妻を貰い2004年からこちらの会社に転職しております。いわゆる移民とは関係ないのですが、駐在員社会とも切り離され、かといって日系人社会とも接点がなく、宙ぶらりんな気持ちでいたところに発見したのが「私たちの40年」でした。
もちろん私は移民ではないのですが、異文化に飛び込んで自己実現を図ろうとしたという意味では、皆さんが大先輩ですからいろいろと参考になることも多かろうと考えました。ブラジルの移民史というとどうしても笠戸丸以来100年の戦前移民から始まると思われますが、自発的に飛び込んだという意味では、現代に生きる私たちにとってより参考になるのは戦後移民の皆さんの記録の方だと思います。
公式な移民こそなくなりましたが、私に限らずブラジルを新生活の舞台として関心を持っている人たちは若者からお年寄りまでかなりいるはずなのです。しかし、日本で流れているのはブラジルについてはサッカーとカーニバルのうわべだけの情報か、貧富の差が大きく治安が悪いという負のイメージか、どちらかに限られてしまいます。
そういうマスコミ情報の貧しさを補うものとして、「私たちの40年」のような生情報の集積は非常に価値あるものだと思います。ただ問題は、あまりに情報量が多すぎて、私たちはどこから読んだらいいかわかりません。
メーリングリストも、挨拶や思い出話(悪い意味で言っているのではありません。あくまでも「私たちの40年」であるからにはそれがメインで当たり前なのですが)で埋まってしまって大半が読まれないまま放置されてしまいます。
何とかそういう諸先輩方の記録を整理し、将来のために残せないものかと考えています。もちろん自分のためもありますけど。でないと、せっかくの日系社会の歴史が消えてしまいます。歴史が継承されなくては、日系社会も継承されず、つまりバラバラになって、ブラジル社会に溶け込んで消えてしまうでしょう。
実際の話そうなってるのかもしれません。でも私は、たとえ理念だけでもいいですから、日系人としての心のつながりみたいなものはいつまでも共有し続けることができないかと思っています。そのために何かできないかとも思っています。どうやったらそれが可能なのかはわかりませんが。
ただ、そのような意味もあって和田様のご活動は注目しておりました。このようなご活動が発展して世代を超えた日本人の結束につながればいいのにと夢想しております。
本日はただ挨拶のつもりでメッセージを書き出したのですが、つい筆の勢いで長広告をぶってしまいました。適当に読み流してください。
なお、これを機会に今後とも小生お見知りいただければ幸甚に存じます。最後になりますが、和田様のますますのご活躍を祈念いたしております。




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