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熊野古道を旅する (2008/3/24〜26)早稲田大学海外移住研究会OBの旅紀行 (その2)
『私たちの40年!!』ホームページは、開設6年1ヶ月で今日、6月23日に90万回のアクセスを記録した。これに合わせて寄稿集も遂に1000件に到達した。記念すべき1000件は、早稲田大学海外移住研究会OB会の皆さんの旅寄稿『熊野古道を旅する』で飾りたい。現在ブラジルでは、皇太子殿下をお迎えして各地で盛大なブラジル日本移民100周年のお祝いで賑わっている。『私たちの40年!!』も1962年5月11日にサントスに到着して46年と1ヶ月を過ごし多くの同船者を亡くした。681名の同じ釜の飯を食った多くの仲間が先に逝ってしまった。鎮魂の思いでこの『私たちの40年!!』HPの更改を続けて行きたい。移住100年の2008年には、100万回アクセス(10月に達成予定)、寄稿集1000件を目標にして来たが寄稿集1000件は、90万回達成の今日、無事達成できたことは大変嬉しいことです。ご協力頂いた皆さんに感謝したい。
写真は、4月に早稲田大学海外移住研究会のOBの皆さんと撮った写真を使用しました。


「串本とトルコ」   by 眞砂 睦
 日本とトルコの友情が育まれたのは、オスマントルコ帝国の時代にさかのぼる。その友情の絆となったのが、紀州・串本の漁民たちである。
19世紀末、明治天皇をいただく大日本帝国と、アラブの盟主・オスマン帝国は、先に力をつけていたヨーロッパ列強の支配体制に切り込もうとやっきいになっていたが、壁は厚く、ともに列強に押しつけられた不平等条約に切歯扼腕していた。外交利害を共有する両帝国は接近した。オスマントルコ皇帝・アブドウルハミト2世が平等条約の締結を持ちかけて、親善使節団を東京に派遣した。明治23年6月、使節団一行609名がトルコ軍艦「エルトウール号」で横浜に入港、皇居で明治天皇に謁見した。オスマン皇帝はトルコ最高勲章を明治天皇に贈り、天皇は使節団を国賓として3ヶ月間にわたって手厚くもてなした。明治23年9月、一行は横浜を出港して帰国の途についた。
黒潮が騒ぐ熊野灘は荒れる。しかも9月は台風の季節である。不運にも、一行が大島(串本)沖にさしかかった頃、台風に遭遇した。エルトウール号はアームストロング砲を5門備えた威風堂々たる軍艦とはいえ、船齢26年になる木造船である。猛烈なしけにあおられて航行の自由を失い、大島・樫野崎の磯場に激突、沈没した。オスマン帝国軍艦の遭難を知った大島の漁民たちは荒れ狂う熊野灘に挑み、不眠不休で生存者の救助にあたった。熊野水軍の末裔たちの体をはった救助活動で、69名が命を救われた。540名が熊野灘の荒海に消えた。69名の生存者は、神戸で明治天皇が特別に差し向けた医師・看護師の手厚い介護を受けた後、イスタンブールに帰って行った。
遭難翌年に樫野崎を見下ろす高台に、地元有志が「トルコ国軍艦遭難之碑」を建立した。昭和4年、昭和天皇が樫野に行幸され、遭難者の霊を弔われた。それを知ったトルコ共和国建国者・ケマル大統領が新しい慰霊碑の建立を決定、和歌山県に設計・施工を委託して建設にかかり、昭和12年に完成した。遭難から50年を経ていた。トルコでは、熊野の漁民の体を挺しての救助支援に深甚な感謝を持ち続け、かの国の教科書に大きく取り上げられて、串本の地名は誰ひとり知らない者はいないという。歴代のトルコ共和国の駐日大使が赴任後最初に訪れるのが串本で、今も串本町民と変わらない熱い友情を育んでいる。
そのトルコ人の日本人への厚い友情のおかげで、今度は216人の日本人が救われた。
イラン・イラク戦争が勃発した1985年3月、イラクのサダム・フセイン大統領が「今から40時間を過ぎると、イランの上空を飛ぶ飛行機を全て撃ち落とす」と通告した。イラン在住の日本人はテヘラン空港に殺到したが、どの飛行機も満員で乗れない。自国民を救うためにすばやく救援機を差し向けた欧米各国と違って、危機管理能力が極端に劣る日本政府は素早い対応ができず、216人の日本人が空港に取り残されてパニックに陥った。そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着、216人の日本人を乗せて成田に向かって離陸した。当時の駐日トルコ大使が本国にかけあって、時を移さず救援機を手配したのである。
フセインが定めたタイムリミットまで、1時間15分しか残されていなかったという。
この時、命拾いをした216人の日本人は、なにゆえにトルコ航空機がかけつけてくれたのか、何も知らなかった。マスコミも事実をつかめていなかった。そうして、なんと日本政府すらも事実のひとかけらも知らなかったというのである。
後に、元駐日トルコ大使は次のように語られたという。「エルトウール号遭難の際に、日本人がしてくれた献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学校の歴史の教科書で学びました。トルコでは、子供でも串本の人々のことを知っているのです。今の日本人が知らないだけです。あの時、テヘランで日本人が困っていたので、トルコが救援機を送ったのです。私たちも串本で日本人に助けられましたから」。
 トルコ人は信義に厚い。感謝の気持ちを忘れない。そして、受けた恩義をきちんと後世に伝える。熊野の漁民も心が熱い。危機に陥った人々には、身を挺して黒光りのする腕を差し出す。自分たちが行った善行を、仰々しく口に出すわけでもない。
そして日本政府。なすすべもなく216人もの自国民を生命の危険に陥れたというのに、自らの失態をおおやけにし、国民にむかってきちんと事件の総括をしたとは聞いていない。なによりも、トルコの人々から差し伸べられた友情あふれる支援にたいして、トルコの人々や自国民の前できちんと感謝を表明したとも聞かない。誰が一体この国のなりわいに責任を持っているのか。重大極まる不手際をひた隠して、ただ沈黙を決め込むだけである。
トルコの要人が串本を訪れるというニュースを耳にするにつけ、紀州人は「この国には矜持というものが無くなってしまったのか」と寂しく思うのである。
                                     (了)

紀州旅行三題           岡部匡介

  水ぬるむ  浅瀬を行きし  瀞の舟

  古き友  訪ねし紀伊の  桜かな

  敬虔(けいけん)な  社(やしろ)参りに  春の風

                         以上

熊野回想雑感
大島幸夫

みなさんの熊野紀行、楽しく拝読しました。
黒瀬さんの詳細かつ要を得た旅行日誌は流石ですが、佐藤さん菅間さんの短歌雑感や岡部さん赤木さんの俳句もそれぞれ情感にあふれ、われらが朋輩旅行の琴線に触れる得難いメモワールになりましたね。
 とりわけ、地元の真砂おいやんご夫妻には、旅のプロローグから締めくくりの寄稿まで、至れり尽くせりの昵懇な世話に与りました。ご夫妻のあったかなホスピタリティーと見識とによって旅がどれほど充実したものになったことか。
 おいやんの熊野便りシリーズを読ませてもらって、まずはあらかじめのイメージ旅行をエンジョイし、本番の旅を味わい、さらに各様の紀行により振り返っての旅情にも浸り……と、今回の移住研OB旅行ではスタイルを変えて3回も熊野の地を歩いたような気分です。
 かく言う当方はもの書きの端くれをなりわいとしていたにもかかわらず、紺屋の白袴ならぬブン屋の筆不精、急ぎの締め切り原稿やらやぶ用の多事にかまけて、熊野雑記がすっかり遅れてしまいました。
 以下、思いつくままに。
 個人的にはあれから春なお遠い積雪期の戸隠山をクライミングに行きました。
 ご承知のとおり、信州戸隠もまた、紀伊熊野と並ぶ霊域です。タジカラオノミコトの岩戸神話(天照大神が再び天岩戸に隠れて闇世に戻らないよう天岩戸そのものを天界から投げ下ろしたところ、地上に突き刺さった岩戸が戸隠の山となったという)で知られるその霊峰は峨峨として天空を突き上げ、岩稜の至る所に修験道の痕跡があります。
それらはさしずめ熊野古道なら「王子」といったところでしょうが、いずれのポイントもまごうことなき神の憑代(よりしろ)であり、古神道の祈祷所です。
 そうした神の憑代は、時に、とんでもないクサリ場の難所にあったりする。クサリなんぞ設置されていなかったその昔、修験道の僧たちがどんないでたちで難所の岩場を攀じたものか。そこをパートナーとアンザイレン(ザイルで連結)しながらクライミングしたぼくは、かつて僧たちが命がけで取り組んだアドヴェンチャーの決意と勇気に感嘆するほかなく、改めて熊野の山岳信仰にも通じる霊気の奥行きに思いを馳せたのでした。
 神の憑代といえば、沖縄には「ウガン」と呼ばれる拝所がありますね。多くは至って質朴な自然の一角です。例えば、里山のどうということもない木の根っこなんかに石囲いがあり、そこがイザナギイザナミを祀るサンクチュアリとなっているといった具合です。
 熊野といい、戸隠といい、沖縄といい、古代シャーマニズムの流れを汲む自然信仰の調和のなかでわれら日本人の祖型は醸成されていったのでしょう。
 熊野がなぜ世界遺産に指定されたかについてのジャーナリスティックな理由は、この際、自分で取材したわけではないので不如意にして言及すべくもありませんが、過去に遥るけく遡行する精神文化との深いかかわりが熊野にあることは確かです。
戸隠でも沖縄でも神の憑代は点在し、相似た自然信仰の玄妙を感じるわけですが、熊野には点在するだけでなく、それぞれの憑代を結ぶ線=道が幾筋も敷かれ、それらが本宮に至る参詣古道を成している。
平安の昔から人々は老若貴賎を問わず、当の参詣道を辿ることで神々と語り合う人生の感興に浸ったことでしょう。山道あり、清流あり、大小の滝あり、というその旅のプロセスがとりもなおさずヘルシーな娯楽を生み、それが時々の世相と重なる社会現象ともなったわけです。
ちなみに、熊野古道と並ぶ姉妹古道の世界遺産に、ピレネー山脈から聖地サンチャゴ・デコンポステーラに至る北スペイン巡礼街道がありますが、一歩一歩神を感じながら足を運ぶ古道のスピリチュアルな要素が、二つながらの観光地に共通する世界性として評価されたのでしょう。
いや、こうした宗教的側面だけにとどまりません。信仰はどうでもいいという不埒なぼくなんかが熊野に惹かれるのは、むしろ社会的な側面です。
みなさん、中辺路古道を本宮大社まで歩いた時の清々しさを思い起こしてください。
たたなずく山々のまどやかな遠望と木々のまぶしい新緑と。あくる日、那智の大滝を訪れた際に滝つぼまで下りて独り浴びた水しぶきも然り。ぼくにはそうした無垢の自然の息遣いこそがいとおしい。
熊野にあって粘菌科学のフィールドワークを重ね、民俗博物学、考古学のダイナミズムに分け入った世紀の巨星は南方熊楠(わが母校開成高校の畏敬する大先輩でもあって初代校長の高橋是清に英語を習ったとか)ですが、真砂おいやんのレポートにもあるごとく、南方熊楠が大自然の生態系にいち早く着目していたずらな自然破壊に警鐘を乱打し、後世のエコロジカルライフを予見したのは実に慧眼というべきでしょう。自然と共生する人類のあるべき方向性を指し示したその卓見の連続線上から、熊野のいきいきとした生態系ぐるみ世界遺産に指定される道程もまた拓かれたに相違ありません。
 「熊野では、浜からわずかに山に入っただけで、海の匂いが絶えてしまう」
 と、司馬遼太郎が『街道をゆく』で書いています。
なるほど、山に入れば、「梢にも根方にも太古の気がひそんでいる」。しかし、山間の猫の額みたいな野づらに生きる人々の暮らしを思うにつけ、ぼくが熊野の山に入って、却って感じるのは海の匂いです。猫の額から抜け出すためには、海の扉を開くほかなかったのですから。
そもそも和歌山で海外移住が盛んだったということ自体、庶民生活史の必然にほかなりませんが、その移住ぶりも至ってバラエティーに富んでいる。白蝶貝や高瀬貝、真珠貝を求めてオーストラリアに移り住んだ熊野のダイヴァーたちを描いた司馬遼太郎の『木曜島の夜会』を読むと、熊野から続く波乱万丈の海道は、遠いとつくにのなんと海の底にまで及んでいたことが分かります。
大正から昭和初年にかけて、他県の農魚村では二十歳で徴兵検査を受けて下士官を志願する若者が沢山いたそうです。しかし、「熊野の山の中の人間はとても二十歳まで待つような悠暢なことはしてられなかった」と元ダイヴァーの老人は話しています。
「動機もなにもありゃせん。われとわが身を売って行ったようなものじゃ。むこうで死のうが生きようが、金というものを掴んで帰らんことには、一家眷族どうにもならんかった」
木曜島における日本人ダイヴァーの死亡率は年10パーセントにも達したということです。
 おいやん真砂レポートは太地の鯨組を紹介していましたね。トルコ軍艦遭難で決死の救難に身を挺した串本漁民のことも。いずれも熊野海洋文化の活気と熱情を物語るヴァリエーションといってよく、実に興味深い話です。
今回の移住研OB旅行では太地の捕鯨資料館も串本のトルコ記念館も訪問出来なくて残念でしたが、台風の熊野灘で沈没したトルコ軍艦の悲劇は、やはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも取り上げられていて、串本漁民に救助されたトルコ軍艦の生存者たちを日本海軍の軍艦に載せて、秋山真之(後年、バルチック露国艦隊を迎撃する日本海海戦の参謀。兄の秋山好古、友人の正岡子規とともにこの長編小説の主人公であり、ぼくにとっては南方熊楠と同じく秋山真之、正岡子規も共に母校開成の大先輩)がトルコまで送る航海に付き添っている。
いずれ、おいやん真砂レポートが取り上げてくれるテーマでしょうが、司馬遼太郎の『歴史と風土』によると、紀州の方言には敬語がないそうですね。「敬語のない方言を使う所は日本では他にない」ということです。地元のおいやん、これ、どうなのでしょうか。
司馬遼の説ではこうです。一人の人間に統一されたことがない紀州は、一種の部族国家であり、部族の連合体にあっては一種デモクラティックな平等主義がある。だから、敬語が発達しなかった……と。
司馬遼の作品にいくつか触れたついでに書くと、高田屋嘉兵衛の生涯を描いた長編海洋小説『菜の花の沖』にも熊野点描の風土論があります。そのひとつに「沖乗り」による鰹漁と乾燻法による「木のように堅い鰹節」の開発がありますが、ひときわぼくが興味をそそられたのは少年期の嘉兵衛が自我を形成してゆく過程でくぐりぬけた「若衆宿」のくだりです。
小説にある若衆宿の舞台は淡路島の一漁村ですが、同じような若衆宿の習俗は南紀の農魚村にも瑞瑞しく根付いていて、司馬遼は『街道をゆく』においても何度となく熊野の若衆宿と若衆組の精気について論及しています。
ここはそうした論をいちいち引用する場ではないし、そのための紙幅もありえないのですが、思うに、熊野の若衆宿、若衆組にみる自律的な平等主義は南紀部族連合にみるそれとも重なり合う。
 時代変わって、今や習俗としての若衆宿、若衆組はとうに消えてしまったかにみえます。
でも、どうでしょう。形はまるで違うようでも、内実において昔とどこか相通じる若衆宿、若衆組が今日も残っていないとは言い切れません。
 早い話、われらが移住研OB会はどうか。
すでに往時茫茫。とはいえ、顧みれば、かつて大学時代の若き日、青い夢を語り昂然の気を共有したあの青春グラフィティーは若衆組のそれに、頭でっかちで気ままだったかの遊説合宿とやらの旅の自律も若衆宿のそれに、なにやらオーバーラップしてみえます。
 だとすれば、今回の熊野の旅も、その実、いささかトウが立ったジジババ組とはいいながら、心の内なるフィルムは大いなる巻戻し。忘帰洞の温泉宿で盛り上がった懇親の宴なんぞも、年まで忘れる移住研若衆組OB会の図と化した――。と、さような趣に相成りませんか。

関係メール交換集
大島様

正にわが意を得たりの一文です。我等が青春思い出させてくれました。黒瀬さんが鋭意纏めて来たこの移住研のHPは何時も吉村君が口角泡飛ばして力説するように後世に残したいものです。

菅間 (2008/5/1)
大島様      (写) 移住研若衆組OB/OG各位

すばらしい熊野雑感を頂き、ありがとうございました。
今回の熊野詣の体験のあと、若衆組諸先輩から吹き出るようにみずみずしい旅行日記・

短歌・俳句・エッセーが寄せられました。日頃熊野の神秘の力を吹いている私でありますが、
今度ばかりは諸先輩のジジ力に圧倒されております。やはり熊野の霊気は、枯れ進む木々

にも生気をよみがえらせる力があるのだ、といえばお叱りをうけるでしょうか。
熊野びとの私としては、「蘇り」の霊域、熊野の霊験あらたかであったと思いたいのであります。

司馬遼太郎がそんなにたくさん熊野のことを書いていたとは、不覚にも知りませんでした。
これはじっくり読まなければいけませんが、「熊野回想雑感」がみごとにそのエッセンスを
取り出してくれているように思えます。

山に入ればどんぐりを食わないと生きていけず、カニが横ばいするほどのスペースもない
海べりしかない土地に生まれた者にとっては、学校が終わるのをまちかねて、海に乗り出すか、
他国に出て行くほか道はありません。
私も例外でなく、広い世界に出たい、という焦がれるような思いにせかされて、東京に。

都に出て、驚いたことが二つ。東京には山がない。今でこそ都庁のてっぺんに登れば遠く富士山も見え
ますが、当時の安下宿の窓からは、密集した家々と空以外見えるものがない。山がないのです。
若い熊野びとは、日本にもこんな広い平地があったのかと仰天したのであります。
それともう一つ。紀州言葉に「敬語」がないことを、都に出て初めて知った。山がないのはやがて
慣れましたが、都の人々が微妙な立場の違いに応じて軽やかに「敬語」とやらを使い分けている
のに慣れることはありませんでした。今になっても意識をすればするほど舌が滑らかに動いてくれず、
とうとうこのままゴールインとなりそうです。紀州に「敬語」が定着するのは無理でしょう。
なぜ敬語がないのか、おもしろい研究課題だと思いますが、司馬遼が言う「一人の人間に統一
されたことがない紀州は、一種の部族国家であった」というのはまぎれもない事実です。

長年続いた徳川ですら、土着の人間からみればどこかよそ者の、ただのお飾りという感がある。紀州には、相手が豊臣だろうが徳川だろうが、「お上をうやまう」という土壌ができなかったように思えます。それはつまり、太古の昔から海と山と格闘しながら生きていかなければならなかった土着の紀州人にとって、一時しのぎの、しかも他国者が作った権威などというものを、頭から認めていなかったということでしょうか。従って、「敬語」などという社会の上澄みの文化が育まれるような土壌がなかった。いや、今でもない。そう思えるのであります。連絡が遅れ、失礼しました。
眞砂 睦 (2008/5/5)

菅間様、真砂様

拙文に呼応して、菅間、真砂両君が早速それぞれに熱気のこもった返信を寄せてくれたことに感じ入っています。
山国南紀の郷関を出でて関東平野の東京に移り住んだ時の真砂君の第一印象は、東京生まれの下町っ子で「平らな街」しか知らなかった(のち新聞社の支局赴任で信州の起伏に富んだ山国を実感するのですが)ぼくには、とても新鮮に響きます。
真砂君の懐旧談に、ふと、漱石『三四郎』の一節が思い浮かびました。九州から大学入学のために初めて上京する三四郎が列車で乗り合わせた男、広田先生にこう言われるくだりです。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より頭の中の方が広い」
セピア色の古い記憶を手掛かりに書架から漱石全集の一巻を取り出し、当該箇所を確かめてみると、広田先生の言辞は続いて「囚われちゃ駄目だ」とある。
この『三四郎』の時代背景は日露戦争直後でした。以後一世紀余り。菅間、真砂両君をはじめW大移住研OB会同人の多くは、それぞれ出自の地方よりも「広い日本」はもちろん、「より広い外国世界」を各人各様に体験踏破して年輪を重ね、国内外の居住を問わず、さらなる「頭の中の広さ」をも縦横に生きています。
 頭の中は、生き方に応じて、狭くもなれば広くもなるものでしょうが、その広さは無限にして自由。移住研OB諸兄との「囚われない」交流をいとおしみたいと思います。
大島 (2008/5/8)

熊野詣 ― 裏話(実現までのみちのり) 横内 正毅       
                                   
2泊3日の熊野詣の旅は日数の短さに比べ、実現までにかけた日数は意外に長かった。
スタートは1年半も前にさかのぼる。実現に至るまでの道のりをふりかえって見よう。

平成18年9月
「夏の集い」の場での一言。「真砂がブラジルから帰って来たんだし、もう一度熊野めぐりをしようよ」佐藤会長が何気なく発した言葉が今回の旅行の発端である。即座に賛同の声が集まり、その場で菅間さんが真砂君に電話。
「ただいま会長の想いに皆さんが賛同して来年の旅行は熊野詣に決まったから頼むぞ!」
その場ですぐ実行に移す菅間さんの行動力はいつも素晴らしい。
「紀州に来て頂くのは大歓迎、是非来て下さい」この時点から真砂君の熊野詣の準備がスタート、旅行にかける熱い想いに拍車がかかった。
平成19年1月
岡部さんをして移住研らしからぬ格調高いと言わしめた盛大な新年会、冒頭の挨拶の中で今年の目玉として「熊野詣」を是非実現したい、と佐藤会長が熱い想いを吐露。
平成19年5月
参考の為、前回(平成14年9月)実施の東北旅行の準備状況をチェックしたところ、三浦君からの相談メール、電話が半年前にスタートしていた事に気づき、真砂君とのメール連絡を開始、旅行の時期、日程、費用等の大まかな概要の作成を依頼。
平成19年9月
真砂君の試案を基に幹事会を開催、時期を11月中旬とする事とし、その旨真砂君に連絡。
真砂君の準備にエンジンがかかり、詳細な日程、費用の見積り、見どころ等の情報が頻繁に寄せられた。同時に宿泊の仮予約のため、凡その参加者を15名位として仮予約。
平成19年10月
10月初、吉村世話人緊急入院。10月末ごろ手術とのこと。緊急幹事会を開催、旅行の延期と翌年3月実施が了承された。真砂君に連絡。直ちに宿泊、バスの予約をキャンセル。
平成19年12月
シーズン期であり、早めの予約が必要との事。参加人数を15名と推定し、仮予約。日程、費用等の詳細を会員に連絡し、参加の確認を要請したが、確認のあった参加者は11名のみ。
平成20年1月
新年会の場で詳細説明、参加を呼びかける。3名が参加の可能性を示唆し計14名となる。
平成20年2月
シーズン最盛期の為、航空運賃の割引適用が無い事が判明。当初見積りの旅行費用が大幅増となり、急遽、新幹線ルートに切替る。参加者に早めのチケット購入(一ヶ月前)を要請。
1名の参加連絡があり、目標の参加者15名を達成。ホット胸をなでおろす。                                    
平成20年3月
旅行日3日前、全員のチケット購入済を確認、更に参加者2名が追加。合計17名となる。
平成20年3月24日
午前11:00紀伊田辺駅に全員無事集合。その後の顛末は黒瀬さんの旅行記録をご覧あれ。

思えば、移住研OB会の旅行は不思議に佐藤会長の何気ない一言からスタートしている。
1.東北旅行(平成14年)「移住研で鳴子温泉に行ったよなー、また行ってみるか」の一言。
2.南米旅行(平成16年)「移住研のブラジルの仲間と交流会をするか」の一言。
3.水戸偕楽園と「鮟鱇鍋を囲む会」(平成20年2月)
  「水戸の梅見物をかねて、大洗の鮟鱇料理でも食いに行くか」の一言。
4.熊野詣(平成20年3月) 既に述べた通り。
さて、次はどんな一言がでるでしょうか。

雑感:
熊野旅行の調査、企画、立案、手配、ガイドと私設の旅行会社の如き獅子奮迅の働きであった真砂夫妻には本当に感謝の気持で一杯であり、心からご苦労様と申し上げたい。
実際に古道の事前調査も1度や2度ではなかった筈である。夫妻の絶妙な連携プレーの様子が随所に見られ、お国自慢の熱弁振りも気持ち良かった。愛国心が希薄となり、郷土や地域への関心が薄れ、離れて行く世情の中にあって、郷土にとどまり、田辺市を背負って立つ気迫と郷土に寄せる熱い想いがストレートに伝わってくる。お国自慢に事実確認は必要ない。2番であろうが3番であろうが、1番と言ってしまえば良いのであり、自信たっぷり言い切ってしまう事である。郷土愛に燃える旦那様と陰で支える夫人の姿が特に印象に残ったが、拡げた風呂敷は賢夫人がきちんとたたんで下さる。これぞ夫唱婦随を見せて頂いた。いつの日かまた訪れる時にはお国自慢がどれだけ増えているか、楽しみである。



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