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ウチナーンチュの美談  赤嶺 尚由
『私たちの40年!!』HPにも何度か寄稿して下さりお馴染みの赤嶺尚由さんがこんなお便りと共に掲題の原稿を送って呉れました。
『去る19日(土曜)のサンパウロ新聞に<ウチナーンチュの美談>と題した拙文を掲載していただきました。敢えて、<ウチナーンチュの美談>と限定せずとも、笠戸丸からちょうど100年の歴史の風雪が流れたことにより、ごく普通の日系人が一般ブラジル人に遠慮せずともここまで「モノを教えることが出来る程度に溶け込んだのか。」翻って移住というものが定着するまで、そこまで長い年月が必要だったのか>という感慨から、日本移民100年の歴史のもう一つの側面に少しでも迫りたいという想いも少なからず込められています。』
写真も赤嶺さんが送って呉れたものです。


「手紙は、後からシムサ、ジンカニ(銭金)からドゥサチ(先)」ヤサ」(手紙を出すのは、後からでもいいぞ。先に銭金から送ってくれよ)といった悲痛な励ましの言葉に背中を押された総勢三二五人の笠戸丸第一回目沖縄移民がブラジルのサントス港十四埠頭に上陸したのは、今からちょうど百年前の一九0八年六月十八日のことだった。ただ、この笠戸丸組に関する限り、彼の地に行けば、コーヒーという木に成る金が獲れる云々の民間の移住計画関係者らのただ美味しそうな美辞麗句に釣られ、結果的に惨々とした運命を辿ってしまった。言葉は、勿論のこと、西も東も判らず、文字通り徒手空拳のまま、果てしない大地にただ放りだされるように移り住んだだけの県人たちの多くが案の上、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦を舐めさせられたのである。語るも涙、聞くも涙の笠戸丸哀史であった。
 しかし、優れた独自の文化を共有する民族は、滅びにくいという鉄則通り、あれから正確に百年の歴史の風雪をかい潜ってきた今日でも、我が沖縄笠戸丸の先人たちに続く末裔の多くは、後退することなく、いや、それどころか、前進を重ねて得て逆に約十五万人の集団を形成してきている。単に数が多いだけではない。笠戸丸の先人たちがウチナーンチュの方言を始め、琉球音楽、琉球舞踊、琉球料理など、それこそ独特の文化を可能な限り色濃く自分たちの子や孫に伝えてくれていたために、それが県系人を呼び集める強い求心力みたいになって、サンパウロ市でも、遠くカンポグランで市でも、県人会組織を中心に、互いの団結の絆が一段と固く、真っ先にものを言う経済的な繁栄も、それ相応に築いてきている。
 移り済んだ先の人々がスペイン系と異なり、平和をより好み血を流すような事態を忌み嫌うポルトガル系であったことも、同じく平和志向の根強いウチナーンチュたちには、大いに幸いした。余談になるが、アメリカ人も、南北戦争の後、相当数がブラジルに移住して来ているが、独断偏見を許していただいて、琉球文化に似た独自のものを持たなかったこと、好戦的とまでは言わないにしても、周りと仲良くする術(すべ)を余り持たなかったために、次第に埋没してしまい、今では姓名の形跡だけがわずかに残っている様子である。
その点、ウチナーンチュとブラジル人は、いささか異なる。お互いに平和を愛する者同士が百年間一緒に交わって仲良く生活してくれれば、庶民同士の間によく浸透して馴染んだ美談も数限りなく生まれるようになる。例えば、サンパウロ市のほぼ東方部に位置し、ビラ カロン区と共に、沖縄県人の一大集団地であるサン マテウス区に住んでいる上江田清一さん(八一歳、那覇市宇栄原出身 七一年渡伯)と褐色の肌合いと偉丈夫といっても良い素晴らしい体格の持ち主であるジャネトン マリアーノ ダ シルバ消防士(四一歳 純粋のブラジル人)の約二年に亘る師弟関係も、典型的なその交流の美談の一つである。
沖縄県人会の常任理事を長く務めた上江田さんには、元々、正義感と義侠心が横溢している。義を見てせざるは、勇気無きなりを実行するあのタイプだ。これまで、ブラジルに住む同僚の抱える問題を解決してやるために、わざわざ東京にある県出身の国会議員の事務所まで出かけて行って、陳情に及んだ件など、数えれば枚挙の暇もない。妻の他に、伸び盛りの三人の子供を抱え、夜警として、七百レアルの月給しか貰えず、家計がいつも火の車みたいなジャネトンさんの生活向上のために、上江田さんが考えてあげたことは、先ず簡単な数学を教えてやることからだった。
足し算と引き算に掛け算と割り算程度の数学さえ覚えることさえ出来れば、小学卒の夜警のジャネトンさんがずっとそれまで夢として温めてきた公務員の消防士に受験できる資格を身に付けられるからである。勉強は、上江田さんが健康維持にと朝早く欠かさない数キロのウオーキングの途中で立ち寄る同県人の経営するパン屋と、そこで夜警としてのジャネトンさんの仕事が終わるタイミングを見計らい、二年がかりで、息長く忍耐強く続けられた。上江田さんにも、予期せぬ有り難い副産物があった。苦手だったここの言葉の会話を彼から交換式に教えて貰ったのである。お陰で、1世の上江田さんのポル語の会話力が飛躍的に伸び、ブラジル人のウオーキング仲間からも、親指を立てて賞賛されるまでになった。
ジャネトンさんが念願としていたサンパウロ市の消防士の公務員試験に見事合格したのは、昨年五月のことである。彼は、これで「この世に新しく生まれ変わってくることが出来たよう気持ちだ。これまで付き合って貰って、ムイト オブリガード、上江田さん」と言って、大男の頭を下げた。それも無理はない。夜警として月収七百レアル程度では、ここの社会の底辺に近い生活を余儀なくされるばかりだった彼の生活が飛躍的に向上した。消防士としての月収約千二百レアルを加えると、これまでのEやDといった社会階層から一気にCクラスまで上昇できる。物価がまだそう高くない当地では、一家四人揃って、ひとまず不自由のない生活を送れるようになったのである。
この美談には、もう少しの続きがある。晴れて消防士になったジャネトンさんは、それでも夜警としての仕事を止めようとしないし、上江田清一先生との2人3脚による勉強を続け、これからは日本語も本格的に学びたいそうだ。その熱意に背中を押されるように、上江田さんは、移住してきて以来、苦労を共にしてきた糟糠の妻、フミさん(八十)を今年の一月に不治の病で亡くした悲しみも、充分に癒えない内から、早朝の個人授業に再び汗を流し始めている。写真は、サンパウロ市の公務員である消防市の公募試験に見事合格して、初出勤の日に制服を着用したジャネトンさんの晴れ姿。(筆者はソールナッセンテ人材銀行代表)



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