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世界市場紀行 ワールド・バザール21 いまどき報告 ブラジル 4月号―7月号
今年の4月からブエノスにお住まいの相川知子さんの紹介〈推薦?〉により穴吹工務店提供のWORD BAZAAR21 各国いまどき報告 BRASIL編を担当させて頂くことになり毎月原稿と写真を送っています。ホームページ、画像掲示板、BLOGと色々書いていますが唯一原稿料を頂いているのがこの企画で1回5千円、年間6万円頂くことになり96歳で大阪の茨木市に住む親父の養育費の2カ月分になり助かっています。ブラジルでは地理的に少し南部に偏っているのではないかともおもいますが、出来るだけ満遍なく色々な視点からブラジルを紹介して行きたいと願っています。オリジナリテイーが要請されるとのことで出来るだけ写真は自分が撮ったものを使用することに努めています。今回は、4月から8月までの5か月分を纏めて収録して置きます。写真は100枚近く掲載されており1枚だけとなるとどの写真を選べばよいか迷いますが、全ての始まりともいえるあるぜんちな丸第12次航の船上のご機嫌の1枚を使用しました。尚、オリジナルは下記URLでご覧頂けます。www.e384.com/imadoki/index.htm


プロフィール:1962年3月31日、神戸港を移民船『あるぜんちな丸』(第12次航)で発ち、ブラジルへ。2002年、着伯40年の5月に初めての同船者会を開き、ホームページ『私たちの40年!!』を開設し、6年弱の3月14日に80万回のアクセスを記録している。 ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビアに入植した同船者681名の移住先国での定着の過程を戦後日本移民史の一部として書き残して置きたいとの気持ちで継続。 日本移民100周年の2008年中に100万回のアクセス達成を目指す。

あるぜんちな丸とポルトアレグレ 2008.4.7 update
プロフィールにありますように、1962年5月11日サントス港着のあるぜんちな丸第12次航で681人の同船者仲間と共にブラジルにやってきました。東京都の農業移住者として10万2千円の渡航費の貸付を受けた雇用農の扱いでしたが、実はまだ早稲田大学の政経学部に在学中の“もぐり移住者”。大学の卒業の為に1964年、東京オリンピックの年に一時帰国、無事大学卒業と共に1965年に再移住しました。以来、今年(2008年)で在伯46年のマカコ・ヴェリオ(年寄りの猿。日本で云うところの「古狸」をブラジルではこう呼ぶ)です。

今回、お隣のアルゼンチンのヴェテラン特派員の相川知子さんのご紹介で「各国いまどき報告ブラジル」を担当させて頂くことになりました。ブラジルに置ける日本移民100周年の年でもあり、その関連記事も含め私の46年に渡るブラジル生活の中から、一移住者の目線でブラジルのいまどきを報告させて頂ければと張り切っておりますのでお付き合い下さい。

その第1回目にあたりますので、やはり自己紹介的な部分から入って行きたいと思います。私の住んでいるのは、もう一つのブラジルと言われるドイツ移民、イタリア移民が多いブラジル南部地方で、アルゼンチン、ウルグアイと国境を接するリオグランデドスール州(南大河州)の州都ポルトアレグレ(「愉快な港」の意)に40年近く住んでおります。

現在68歳ですが、ささやかな「さわやか商会」というファミリー会社を女房、娘3人、義妹の女性5人の出資者とやっており、現役で働いています。

現在、私が嵌まり込んでいるのが、着伯40年に始めた『私たちの40年!!』と云うホームページの管理運営、画像掲示板、関連BLOG等の更新作業です。ブラジル、アルゼンチン、ボリビアに入植した同船者仲間681人の移住受け入れ先国への定着の過程を通じて、戦後移住の歴史の一部を書き残そうとの趣旨で継続していますが、この3月13日に何と80万回のアクセスを記録、移民100周年の今年中に100万回アクセスが予定されています。

さて、ブラジルで最初に紹介する町は、矢張り我町、ポルトアレグレを選ばせて頂きます。南大河州の州都ポルトアレグレは、人口150万弱、近郊を含めたメトロポリタン圏では300万人に達する南部地域最大の都市、経済圏を形成しています。

南大河州は1千万人の人口を抱え、その30%がポルトアレグレ圏に住んでいます。ドイツ移民、イタリア移民を中心としたヨーロッパの影響を受け、ブラジルらしくないブラジルと言われており、ウルグアイ、アルゼンチンと国境を接し愛国心、独立心が強く、遠い昔にはブラジル中央帝政政府から1835年から1845年まで10年間リオグランデ共和国として独立していた時期がある。ブラジルに置ける歴史の中でもガウショーと呼ばれる州民は、特異な存在として新しい時代を切り開く転換期に大きく貢献してきました。

町のシンボルとして親しまれているラッサドールと呼ばれるカーボイは、最近立体交差の道路工事のため場所を700メーター移動させましたが、ポルトアレグレの町の入り口に鎮座しており、グアイーバ河に落ちる夕日と共に多くの訪問者に喜ばれている。

また、ポルトアレグレの飛行場に降り立つ時に車窓から見える景色は、丁度ニューヨークに良く似ているとの事で小マンハッタンとも呼ばれている。グアイーバ河に掛かるエレベータ式の橋も名物の一つです。

ブラジルの南の玄関と云おうか、お勝手口としてメルコスールの首都としての役割を果たし、近年その重要性をましている一方、ポルトアレグレ総領事館は、一昨年(2006年)閉鎖されク、リチーバの総領事館の出張駐在官事務所に格下げされた。州内の在留邦人は、1,194名、2世・3世の日系人が2,012名、内432名が日本で就労しているとの2007年11月の調査結果が最近発表されている。

それでも移民100周年の記念行事は、ポルトアレグレでも時期をずらして9月27日〜28日に行われる予定になっているので、改めて紹介しましょう。

画像上右:1962年、あるぜんちな丸第12次航でブラジルに
画像上左:あるぜんちな丸
画像中右:リオグランデドスール州(南大河州)の州都ポルトアレグレ
画像中左:町のシンボルとして親しまれているラッサドールと呼ばれるカーボイ
画像下右上:グアイーバ河に落ちる夕日
画像下左上:グアイーバ河に掛かるエレベータ式の橋
画像下右下:あるぜんちな丸第12次航同船者仲間と記念撮影


笠戸丸とブラジル日本移住100周年 2008.5.13 update
前回は、あるぜんちな丸でしたが、今回は今年一番の話題船、笠戸丸(かさどまる)とブラジル日本移住100周年と題して報告させて頂きます。

2008年は笠戸丸が神戸の港を出航して丁度100年にあたり、日伯交流年として年間を通じて日本とブラジルで各種行事が行われます。東京では4月24日(木)に政府主催の式典が、天皇皇后両陛下が出席なさりホテルオークラで開かれました。日本からブラジルへの最初の集団移住者を乗せた「笠戸丸」が兵庫県神戸港を出港して100年になる4月28日(月)、同市内で「日本伯交流年」日本側名誉総裁の皇太子殿下が出席なさり記念式典と祝賀会が開かれました。

一方、ブラジルでは笠戸丸がサントス港に到着した6月18日にブラジリアで移民100周年記念式典が名誉総裁の皇太子殿下をお迎えして開催され、21日のサンパウロにおける記念式典を始めパラナ州、リオ州、ミナス州等でも盛大に開催される予定となっています。

1978年の「移民の日」に今上天皇皇后両陛下(当時、皇太子殿下ご夫妻)をお迎えして日本移民70周年記念式典をパカエンブ競技場でガイゼル大統領が主催して8万人の参加者を数えました。1988年には礼宮様をお迎えしサルネイ大統領のもとに日本移民80周年が開催されました。今回は、サンボドロモと呼ばれるカーニバルのサンバ大会の特設会場で皇太子殿下をお迎えして盛大に行われます。サンパウロだけでなしにパラナ州、リオ州、ミナス州でも趣向をこらした行事が予定されています。

1998年の日本移民90周年記念事業の一つとして笠戸丸が到着したサントスの海浜ゴンザカに日本移民上陸記念碑が建立されており、これに呼応して神戸に2001年4月28日に移住者「希望の船出」の碑が建立されている。神戸の船出の記念碑は、出発を象徴し海に向かって建てられており、サントスの記念碑は、ブラジル奥地を目指した移住者が海を背に立っています。何れも移住者親子に子供が一人の家族像です。

今年(2008年)は、日本と日本人の存在感をブラジル社会に大きくアピールする年として位置付けられており、100周年記念行事にあわせ、ブラジル全国に日本庭園、桜の植樹、鳥居、記念碑、記念塔、果てはお城の建設まで計画されています。また、日本文化の紹介として毎日書道展、生花、茶の湯、日本舞踊、早慶戦、サッカーの交流試合、各種展覧会、五木ひろしをはじめとする歌手の来伯も予定されており、ブラジル社会に住みついている我々戦後移住者も胸を張って参加出来る喜びをかみしめております。

4月28日の神戸における行事の一つとして、旧神戸移住センターの永久保存策として9億6千万円の改修事業費を掛けて我々移住者が日本を離れる前に数日過ごした日々を追体験できる「移住ミュージアム」に生まれ変わらせる改修工事着工を宣言する式典も行われました。

ブラジルから寄贈した大きな花崗岩の「ブラジル移民発祥の地」が5月には黄色い花を付けるブラジル国花イッペーとともに永久保存される事は、これまでにこの移住センターから旅立っていった移住者25万人の永遠の故郷として残されて行く事は嬉しい限りです。

最初の日本人移民158家族781名を乗せて100年前にサントスに到着した、あまりにも有名になった笠戸丸の写真を紹介しておきたいと思います。サントスの港の第14号倉庫の近くにある珈琲博物館に飾られていた笠戸丸とメリケン波止場の「希望の船出」記念碑の傍にあった笠戸丸の勇姿です。

笠戸丸に付いてはHP『私たちの40年!!』にも幾つか掲載していますが、笠戸丸は《ロシア船として日本軍に、そして日本船としてソ連軍に沈められた“イギリス船”》という実に数奇な運命を辿りました(*)。最後は蟹工船として小樽を拠点に働きましたが、演歌「石狩挽歌」(作詞:なかにし礼/作曲:浜圭介/歌:北原ミレイ/1975年)にもその名を残しています。♪沖を通るは笠戸丸 わたしゃ涙で にしん曇りの空を見る♪

(*):イギリスの貨客船であったが、ロシアに売却。日露戦争の時、ロシアの病院船として旅順港で被弾沈座し、日本海軍が捕獲。前述のように移民船として活躍後、売却される。1945年、漁業工船として操業中にソ連軍によって沈められた(らしい)。

画像上右:日本ブラジル交流年のポスター
画像上左:笠戸丸が到着したサントスの海浜ゴンザカに日本移民上陸記念碑が建立されている
画像中右:日本移民上陸記念碑に呼応して、神戸に2001年4月28日に移住者「希望の船出」の碑が建立されている
画像中左:大きな花崗岩の「ブラジル移民発祥の地」の碑(旧神戸移住センター)
画像下右:最初の日本移民158家族781名を乗せて100年前にサントスに到着した、あまりにも有名になった笠戸丸の写真
画像下左:笠戸丸の勇姿


日本におけるブラジル日本移住100周年式典に参加しました 2008.6.3 update
今年のブラジルは、日本移住100周年の年に当たり年間を通じて日伯交流年として位置付けており、「いまどきブラジル報告」もしばらくこの旬な話題を続けて行きたいと思います。

今年は、100年前に笠戸丸が神戸を出港した4月28日に神戸で、先立つ4月24日には東京で100周年記念式典が開催され、ブラジルからも関係者が多数この式典に参加されました。

私は、4月の新年度が始まりにあわせて、毎年その年の業務打ち合わせで訪日しておりますので、東京は日本ブラジル交流協会のブラジル南部地方理事としてエントリー、神戸ではヴィッセル神戸を通じて同行していた伴侶と共にエントリーして式典に参加することができました。

神戸は、私の生まれ育った街であり、あるぜんちな丸第12次航の仲間681名と共に日本を離れた最後の町でもあります。神戸移住センターの永久保存が決まり、本当に幸せを感じました。

4月24日の東京の式典では、異例の、天皇・皇后両陛下に皇太子殿下が一堂に会し、日本の三権(立法・行政・司法)代表が参列され、ブラジルからも次期大統領候補の一人ジウマ・ロウセフ大統領府官房長官が参加するという物々しい式典となり、事前チェックが厳しくてカメラの持ち込みも許されず、新聞、テレビを通じての映像しか取得できませんでした。

4月28日の神戸での式典は、民間の日伯交流年兵庫県実行委員会主催で皇太子殿下が参列されましたが、東京ほど厳重なチェック体制は敷かれず、デジタルカメラの没収もなく、式場での『撮影はご遠慮下さい』との注意は受けましたが、皇太子殿下退場後は記念写真等もほぼ自由になり、皆さんが記念写真を撮っておられました。招待客も関西周辺に住む日系ブラジル人も多く参加しており、女性の姿も多く見られ、雰囲気がブラジル式で華やぎ、アットホームの感じがしたのは事実でした。

午前中に旧神戸移住センターの屋上で採火された「友情の灯」をブラジルに送りだす儀式があり、元ブラジル丸船長の川島裕さんが会場から地球儀をかたどった蓄電器に蓄えられた「友情の灯」を担ぎ出し、神戸港のメリケンパークにおいてブラジルサントス港に送るため「出港用意、よーそろー」と号令をかけた。100年前の笠戸丸の出港時間と同じ午後5時55分には、神戸港内に停泊していたすべての船が一斉に汽笛を鳴らした。この汽笛が式場にも流れて感激の一瞬でした。

私も着伯46年になりますが、この日本移住100年の歴史の半分近くをブラジルで暮らしており、戦後移住者の一人として今年の日伯交流年の日本での式典に参加させて頂いたことは大きな喜びとなりました。神戸から送られた「友情の灯」が灯される6月21日のサンパウロの式典にも是非参加したいと願っています。

4今回の訪日は3週間弱でしたが、通常の業務に加え、東京と神戸の式典に参加できたこと以外にも、ブラジル兵庫県人会長兼ブラジル猛虎会会長の尾西貞夫さんと新装なった甲子園に、宮崎恒彰・阪神オーナーの招待で巨人戦を観戦に出かけたのも忘れられません。初めての甲子園で六甲颪を歌ったことと好調阪神の優勝を感じ取ることができ幸せでした。

最後に、東京の外務省主催の公式式典にブラジリアからトカンチンス州のカンポス元州知事を案内して参加された河野賢二さんの『私たちの40年!! 』メーリングリストへの書き込みを紹介させて下さい。

「ホテル・オークラでは陛下のお言葉で『同胞』と言われた時と、子供たちのAquarela do Brasilの合唱には涙があふれて止まりませんでした。隣に座っていた80歳のカンポス知事が『お前、50年間苦労したんだろうな・・・』と背中をさすってくれ、『日本恋しや・・・』と口ずさみながらブラジリアで没したオヤジを思い出しもっと泣けました」

画像上右/上左/中右:ブラジル移住100周年記念レセプションにて
画像中左:「友情の灯」をブラジルに送りだす儀式
画像下右:「友情の灯」をのせた船がサンパウロに向けて出港
画像下左:ブラジル猛虎会会長の尾西貞夫さんと甲子園で巨人戦を観戦


ブラジルにおける100周年記念式典は、皇太子殿下旋風を起こす 2008.7.8 update
毎回、日本移住100周年記念関連ニュースが続いていますが、もう一度だけお付き合い下さい。日本では笠戸丸が神戸を出港した4月28日前後に式典が続きましたが、ブラジルでは、笠戸丸がサントスに到着した6月18日を『移民の日』と設定しており、皇太子殿下をお迎えして首都ブラジリアで盛大な式典が行われました。

さらに皇太子殿下は6月21日にはサンパウロでカーニバルに使用するサンボドロモでの式典、22日のパラナ州では何と7万5千人を集めたローランジャの式典、23日にはベロオリゾンテの町での式典、最後にリオデジャネイロにもお立ち寄りになり、24日にお元気に政府専用機でリオから帰国の途につかれました。

公式の式典の他にサンパウロではイビラプエーラ公園内の開拓先没者慰霊碑に御参りになられ、日本庭園を見学されました。カルモ公園のブラジルと日本の石をあしらった巨大モニュメントのイナグラソン、サンパウロ大学訪問、州立広島学校にも立ち寄られました。

また、日系コロニアの殿堂として皇室訪問の際には必ずお訪ねになっているサンパウロ日本文化協会にもお立ち寄りになり、同館の9万点におよぶ史料のデータベース化プロジェクトへのご支援のため天皇皇后両陛下から預かられた「御下賜金(ごかしきん)」のご寄付を行われました。直接手渡された文協の上原幸啓会長は「両陛下の志に沿うように一生懸命に努力致します」と述べ、深い感謝の意を示した。その後、日伯の小旗を打ち振る沿道の大観衆に車のなかから手を振っておられました。

パラナ州では、ロンドリーナ市に開設された、笠戸丸移民最後の中川トミさんの名前をとった公園を見て回られ、夜になってマリンガ市にもお立ち寄りになられた。行く先々で沢山の方を接見、特にお年寄りの一世移住者の一人一人にご挨拶され、どれだけ多くの移住者の皆さんを感激させたことでしょうか。コロニアを代表する著名人以外にも、サンボドロモでローランジアの会場でどれ程多くの一般移住者の方を喜ばせたことでしょう。

今回の100周年記念祭は、これらの古参一世の人達を喜ばせましたが、現在6世まで続いている日系ブラジル人、一般ブラジル人に皇太子殿が与えた印象は、日本の皇室を通じての日本の文化、伝統をブラジル社会に理解して貰える機会を作ったことでしょう。まさに皇太子殿下旋風を巻き起こしたといえます。

皇太子殿下来伯は、ローマ法王ヨハネスパウロの来伯時を思い出させるに十分な官民を挙げての各地での大歓迎でした。日本移住が今年100年を迎えることを知らないブラジル人はいないのではないかと思います。それほど日伯のマスコミに取り上げられ、『私たちの40年!!』メーリングリストでもBLOGでも連日皆さんにお伝えする機会があり大変誇らしく思いました。

皇太子殿下はブラジリアの議会において下記御言葉を述べられました。「ブラジル国民、日系社会のみなさまが迎えてくれたことに感謝申し上げます。日本人移住者を温かく迎え入れてきたブラジル政府およびブラジル社会のご好意があったことを忘れることはできません」と述べ、4月に行われた東京、神戸での移民百周年式典についてお話になられた。「ブラジルの発展に溶け込んでいることをうれしく思います。100年のときを経て日本とブラジルが強固な関係になっています」と述べられた。

最後に先月号で紹介したブラジリアにお住まいの河野賢二さんが、ブラジリアでのルーラ大統領主催晩餐会の前に500発の歓迎花火を月夜のブラジリアで打ち上げるという快挙を実現させました。6歳の時に移住して来た河野さんの男気、心意気を高く評価したいと思います。月が昇るプラナルト宮に弾ける花火とお友達のルーラ大統領と撮られた晴れ姿もご披露して置きましょう。

画像上右:サンパウロ・サンボドロモ(Sambodromo:サンバ・ドーム)のパレード
画像上左:画像上左:皇太子殿下はサンパウロ大学訪問、州立広島学校にも立ち寄られました。
画像中右:サンパウロで皇太子さまを待つラジオ体操協会の皆さん
画像中左:4時間も待ち草臥れた歓迎の子供たち(パラナ州マリンガ市)
画像下右:ブラジリアのプラナルト宮に打ち上げられた花火
画像下左:ルーラ大統領のお友達、河野賢二さんの晴れ姿



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