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【神戸の市電の思い出】 『私たちの40年!!』メーリングリストへの書き込みから抜粋。
神戸の東の端に御住みの内田さんが子供の頃に石屋川から須磨まで神戸のみどりの市電に乗って海水浴に行ったとのメーリングリストへの書き込みから神戸市民の足だった懐かしいみどりの市電の話で弾みました。掲題の通り神戸の市電に付いての思い出をメーリングリストへの書き込みから集めてみました。過ぎ去った時代を懐かしむ回顧趣味だけでなしによき時代の思い出は貴重なものだと思います。心無くも披露した淡い初恋の物語は、あや子さんの爆笑を誘い出したようですが、それがこのメーリングリストの良さとでも解釈することにします。
写真は、光田さんが見つけてくれた神戸の市電の写真と解説が掲載されているHPよりお借りしました。


ML 8323 和田さん、ありがとうございます。ご無沙汰しています。ずっと、見ています。ブラジルと日本というより、世界中からの色々な意見。楽しみにしています。
現代というか、「今」のグローバルなつながりを楽しんでいるのですが、正木さんの御稿で、現代と古典社会をつなぐ、それも世界中でつなぐということが自然に、このWata40でできていているのはなんと表現したらよいのか。わくわくします。
オランダ、ハワイ、ブラジル、日本、それにかぐや姫やたけとりの
おきな、みかど、いそのかみのまろたり、などが加わって、ことばが行き交っている。Wata40ならでは、と思います。横をグローバルというなら、この古代からの縦線は、なんなのでしょうね。タテーバルとでもしときまひょ。

ML 8341 内田 さん 皆さん
内田さんは、週末にしかご自宅のご自分のPCを開かないとのこと。
毎日開いているとお仕事にも影響するようになりそうな週末のご活躍、これから毎週末が『篤姫』と共に楽しみになりました。1週間分のコメントを宜しくお願いします。
生まれた生家から現在も会社に通っておられるとのこと本当に羨ましいです。それも六甲の山並みを眺めながら。。。
私も東京に出てから休みに神戸に帰る時には大阪を過ぎ尼崎、西宮を過ぎるとそわそわして六甲の山並みを眺めます。神戸高校のあの重厚な黒い建物が見えると直ぐ三の宮ですが、初めて新神戸駅近くの新オリエンタルホテルの建物を車窓から見た時は驚きでした。何やあれ?!と思い早速泊まりに行きました。三の宮から中山手通りまで緑の市電で加納町3丁目経由、県庁、山手教会を見ながら親和女学校前の山手8丁目までの市電の旅も懐かしいです。今は地下鉄が通っているようですね。
内田さんの書き込みを通じて神戸を偲びたいと思いますので宜しくお願いします。ではまた来週末まで。。。御元気で

ML 8427
夏こそ神戸。石屋川から市電にのり須磨海岸に泳ぎにいった。臨時電車が運転されていた。
重厚な神戸の市電は、緑の塗装色を太陽にきらめかせ、窓をいっぱいに開けて走っていました。
風が気持ちよかった。エアコンなんていらない。もう、そんな神戸を知る人もすくないですね。内田雅夫

ML 8433 内田 さん
週末にPCを開けられるとのことでしたので楽しみにしていましたが内田通信が週末に届かなかったので何処かにご出張中かと想像していましたが、続けて7通(1週間分)を書き込んで下さり安心しました。
神戸の緑の市電をこよなく愛された内田さんに共通の思い出を持つ同士のような親しみを覚えます。
山手小学校の5年生の時に香呂園の水泳教室に連れって行って貰った時に無理をしたのか耳に水が入り中耳炎に掛かり、それ以来あまり泳ぎは得意でなく今でもプールでは顔を挙げてのカエル泳ぎ程度しかできません。
兄弟揃って緑の市電で須磨の海岸まで〈確か終点だった〉よく泳ぎに行きました。大倉山、神有神戸駅、長田を過ぎて普段あまり通らない場所を走り須磨に着き、ごったかえす海浜で過ごし〈砂浜に脱衣場がある篠屋みたいなものがありそこで飲ませて呉れる生姜の効いた飴湯が美味しくてそれを飲むために行っていたような気がします。帰りは疲れて座れればこくりこくり、立ったままでも眠れるぐらいでした。山手8丁目の親和女学校前で降りてまた歩くのが辛かったことを覚えています。内田さんはまだまだ先の石屋川までこくりこくりと窓を開け放した緑の市電で帰られたのですね。加納町から先は王子公園のある原田までしか知りません。その先まで市電に乗った覚えはありませんが石屋川が終点なのでしょうね。
懐かしい緑の市電が目に浮かびます。花電車も良かったですね。

ML 8456 和田さん 夏木さん
夏木さんのカキ氷の思い出にも通じるのが私の神戸の市電。なつかしいです。
今、神戸は連日、35度前後の真夏。あのころも暑かったけれども、子供達は元気にそとで走り回っていましたね。市電の須磨行きは夏の特別電車。普段はなかった。終点石屋川から終点須磨まで、東西を走りぬける電車にのって。近所の、みっちゃん、いわおちゃん、それにりょうちゃん、ゆきちゃんたちと、確か11円だった電車賃で、泳ぎにいこいこ、と石屋川まで走っていった。おかあちゃんには言ってなかったと思う。
加納町三丁目の交差点で、山手上沢まわりと三宮栄町まわりの2ルートがありました。和田さんは、山手まわりの方の市電に乗られたのですね。私たちはどちらでも良かった。とにかく終点から終点。窓一杯に風を受け山を見ながら、走る市電。今、こんな事出来ない。ビルで山も見えない。最高の贅沢かも。
車掌さんの、”次は加納町三丁目、税関前、栄町通り、元町方面はお乗換え願います“とくると、山手周り。和田さんの停留所、下山手八丁目を過ぎ、大倉山、新開地のトンネルをくぐり、五番町2丁目を大きく90度ターンして御蔵菅原をとおり、大橋九丁目でこの二つのルートが合体します。 あと数分で須磨。住友別邸跡の須磨海岸大松林が見えてくるともううずうずしてきました。
花電車は、みなと祭。白いドレスでティアラをつけたミス神戸が花電車から手を振ってくれました。市電脇の浜線が阪神電車の西灘駅の処まで。そこから先は線路こそつながっていましたが阪神電車国道線。みなと祭の時は、神戸市が阪神電車と話しをつけ、花電車が乗り入れ、東灘区まで来ました。芦屋方面に向かう花電車を見て、今度はそれが、芦屋市との境で折り返してくるのを20分ほど待って、もう一度、5両の電車を見ました。
元町通りでは、懐古行列を見ましたね。ながくなりました。
内田雅夫

ML8459 内田 さん
まだ週末は早いのにと奇異に感じましたが、考えてみれば日本はお盆休みで帰省ラッシュに入っているようですが、生まれてから現在まで同じお宅に住んでいる内田さんには帰省する田舎がないのですよね。と言うことで失われた昔の田舎への郷愁に浸っておられるようですね。石屋川から須磨までの緑の市電の道筋、忘れていましたが懐かしい名前が出てきました。長田のみっちゃんが住んでおられる長田の五番町と言う怖い?土地もありましたね。終点に着く前に須磨の水族館前は通過するのでしたかね。須磨の水族館は、私の思い出の場所の一つです。
神戸の花電車は、乗り入れの元祖見たいなものですね。脇の浜線から阪神電車に乗り入れて走っていたのですか。確かハワイにお住いのyukiさんのお父上がこの花電車の管理運営に携わっておられたとのことを以前お聞きしました。緑の市電に纏わる思い出で賑わうと嬉しいですね。過去への帰省ラッシュでしょうか。これは渋滞がないので助かります。神戸には沢山のメンバーが居られますので緑の市電に付いての思い出を聞かせて欲しいですね。

ML8460 和田好司さん   私たちの40年のみなさん
神戸 Nagatano Micchan です

和田好司さんWrote:
長田のみっちゃんが住んでおられる長田の五番町と言う怖い?土地もありましたね。
終点に着く前に須磨の水族館前は通過するのでしたかね。

私の名前が書かれているのを見て、ひさしぶりに、しゃしゃり出てまいりました。

「須磨水族館」の停留所は、終点「須磨駅」の4つ手前でした。

    須磨水族館 → 衣掛町(きぬかけちょう) → 離宮道 

         → 天神下 → 須磨駅(終点)
           
なお、Webサイトに、むかし懐かしい神戸市電のページがありましたのでご紹介致します

http://hp1.cyberstation.ne.jp/shasou/kobe.html

ML8462 和田さま、内田さま、みなさま、こんにちは!夏木@大阪です。
内田さまWrote
今、神戸は連日、35度前後の真夏。あのころも暑かったけれども、子供達は元気にそとで走り回っていましたね。市電の須磨行きは夏の特別電車。普段はなかった。
……クーラーなどのなかった昔は、考えようによったら今よりもっと暑かったかもしれません。でも、内田さまのおっしゃるように子どもたちは今より元気だったように思います。
なにも無かったから、かえって想像力が発達して、逞しかったのでしょうか。

ML8467  光田 さん 愈々お出ましですね。
昭和37年(1962年の私が神戸港を発った年)の貴重な電車運転系統図有難うございます。
昔の神戸の緑の市電を通じての地図大変懐かしいです。内田さんが乗られた石屋川から須磨駅まで数えて見たら山手線経由で54駅、文字通り神戸を横断しての海水浴ですね。昔の子供たちはこの距離を物ともせず海水浴に出かけていたのですね。ゲームも携帯電話もない頃ですから選択肢が少なかった性でしょうかね。
須磨水族館前と言う停留所があったのですね。多分電車で出かけたのでしょう。神戸高校の頃に彼女と須磨水族館に行ったことを覚えていますが詳細〈何に乗ってどうして辿り着いたか等〉が皆目思い出せません。
同じ彼女と堺の仁徳天皇陵にデートに出かけましたが途中の電車の中では離れて座っていたので間にオバタリアン?に座られたり、周囲4キロメーターの仁徳天皇陵を二人で歩きながら交わした言葉が2回だけ。半周して『疲れた?』、『大丈夫!』歩き終わってまた『疲れた?』、『うんちょっと』。それだけしか覚えていない嘘のような本当の話です。その彼女が千葉の市川に親戚がいるとのことで早稲田まで受験の前に応援に来て呉れた写真が残っていますが、私は、現役で早稲田に合格できず浪人生活。そのまま大阪の大手商社に就職した彼女からは『夢を見ていた私は浅はかでした。しっかり勉強して早稲田に入学して下さい。さようなら!』との手紙がきてからもう49年が経過しました。神戸高校卒業50周年記念の集いが10月に神戸で行われるとのことで誘いの案内を受けていますが、応援団長、協議会副委員長、アルバム委員長、私立受験志望で進学コースから離れた運動部の連中がわんさと居る特殊学級?で活躍していた?私が初恋の彼女に寄せた思いは、何だったのだろうか?緑の市電と共に思い出した青春の一コマです。
神戸の市電は現在も広島で活躍、走っているとのこと次回広島に出かけた時には見つけて見たいと思います。緑の市電完全廃止が1971年とか。光田さんが送ってくれた懐かしい市電の写真〈色褪せており昔の緑の市電とは大分イメージが違います〉と思い出の記述をお借りしてBLOGに転載させて貰う積りです。

ML8478 和田さん 光田さん そして、夏木さん
神戸の市電。和田さんの彼女のはなし。カキ氷をイメージして。夏ですね。
初恋の人。仁徳陵のデート。書紀には仁徳天皇は百舌鳥耳原に葬る。とある仁徳天皇の御陵。当時の面影はないにしても、デートされたときはまだ、百舌鳥耳原のイメージが残っていたと思われます。そんななか、若い二人が周囲を巡っている絵は、まるで、古墳時代のようですね。
「疲れた?」 「うん、ちょっと」は、あきません。和田さん。これは、何をさせるんですか、もうやめましょう、という意ですよ。それでも付き合ってくれたのは、やはり和田さんのことが好きだったのではと思います。夢を見ていました、さようなら、は次々と仁徳陵的なデートが続き、夢が夢で現実から遊離してしまったのかな。夢をいっしょに語るようにしてあげないと女の人は、イケナイようですね。
エラソウなことをいいました。私も同じような経験があり、彼女にノーをいわれたとき、こちらもほっとしたような気がしたのをおぼえています。アカンなオレも、と思いつつ。内田雅夫

ML8479 光田さんすばらしい系統図。ありがとうございます。食い入るように見ており発見がありました。
わたしの祖父は、孫の私をよくつれて、市電で新開地へ連れて言ってくれました。
びっくりうどんを食べさせてくれました。びっくりうどんの店の前は市電が走っており、どこのあたりであったのだろうと新開地をうろうろして探しましたがブラジルから帰国後、やっと見つけました。子供のころの面影あります。
大正4年創業時の絵が掲げてありました。しかし、今はなくなり、その跡は「なか卯」になっています。これも時代の流れ。
光田さんの系統図でみると、楠公前から新開地を抜けて兵庫駅前に行く線路の際でした。
新開地本通りの直ぐ西でした。
石屋川から6番の市電にのると三宮栄町元町方面、兵庫駅前行きでした。祖父は「省線電車」
で行くことが多かったですが、孫の興を呼ぶため、石屋川まで歩いて、市電で行った
こともよくあります。映画か芝居を見てそのあとのびっくりうどんでした。
子供のころの思い出がまた確認できました。内田雅夫

ML8482 丸木で〜す
懐かしい地名が出てきましたね。来週月曜にその仁徳天皇御陵の近くにある母校・大阪府立大学に行って、水泳部員のトレーニングに参加します。僕が卒業後に入社した会社で初めてレントゲン(X線装置)の据え付けをしたのが、耳原病院でした、総評だったか共産党だったかの貧困患者向けの病院でした。
初恋ではないのですが、長崎勤務の頃にデートの約束した際に話が食い違い、お互い待てど暮らせど待ち人現れずでお互い振られたと思い込んだのでした。長崎では行くと来るが逆だそうです。

ML8497 どんな女性でしたか?
九州の北部の小倉から博多あたりにかけての女性は本当にきりっとしていて
美しい。小倉祇園太鼓は無法松の一生ですが、昨今は、女性が各町内の太鼓
をたたき、その美しさに思わず息をのみました。2年前の話し。内田雅夫

ML8505 和田さん 内田さん こんにちは 
和田さん49年まえのデートのはなしに、内田さんのコメント。
これ、最高!!!
ゲラゲラ と大笑いしました。
丸木さん、伊豆山さんのはなしが以前ありましたが、
男性側からの話、すごく面白いです。あや子。

ML8510  あや子 さん
酒の肴ならぬあや子さんのインタネットの爆笑の種を提供しているようですね。
書いている本人は、それなりにほろ苦い青春の一コマ披露と真面目なんのですが傍から見ると青臭いロマンチスム、笑いの種になってしまうようですね。
一度男性軍と女性軍で話題を決めてバーチャル座談会をすると面白いかも知れませんね。
さてあや子さんにお知らせです。私の住んでいるポルトアレグレは、ブラジル南端のリオグランデドスール州(南大河州)の州都ですが、今回RS州の女性州知事のYEDA CRUSIUSさんが州の長官5人を含む総勢13人を引き連れて貴地オランダを訪問します。日曜日にアムステルダムに到着し木曜日までオランダのハーグ、ロテルダム等を訪問し港湾施設特に港の再開発案、水路利用した運搬方式等を学びたいとの目的だそうです。もし貴地で何か反響がありニュースとして伝えられるようなことがあれば教えて下さい。
2014年のワールドカップがブラジルで開催されますがポルトアレグレでも試合が行われることから2013年までに港の再開発が計画されており古い港の倉庫をショッピングに改造したりマリナ建設、ホテル、ショッピングセンター等が建設され港(川に面している)の再開発と市民との繋がりを強調するプロジェクトが年末までに承認、予算が付く予定です。オランダから何を学んでくるかその結果を楽しみにしています。

ML8542 和田さん 今日は すみません、思わず大爆笑で。
でも娘にはこういう青年を選んでほしいと願っているんですよ。ちゃらちゃらとした男に引っかかるなとよくいっていました。
 >一度男性軍と女性軍でバーチャル座談会を開くと面白いかもね。
ということですが、私は外野席でヤジとばしているのがにあっているようです。
リオグランデドスール州より総勢13人ほどオランダにこられるとのこと。
オランダは水との戦いで出来上がった国。たくさんのことを学ばれることと思います。
アンテナを高くして何かニュースキャッチできればと思っています。
あや子

(番外)『私たちの40年!!』関連BLOGより
「神戸市電の思い出」 光田さんより送って頂いたHPより転載。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/35173201.html
瀬戸内海と六甲山系の間で東西に長く広がる神戸の街。阪急は三宮、阪神は元町、山陽は兵庫止まりで、東西を結ぶ鉄道が国鉄だけだった時代にが神戸市電の全盛期でした。
西の終点須磨駅から市電を乗り継ぎ、脇浜町(東神戸)で阪神国道線、野田で北大阪線、天六で大阪市電に乗り継げば、神戸の西から大阪の守口市まで、何時間もかけた路面電車の旅も可能でした。
神戸市電に大きな転機が訪れたのは、神戸市も出資する第三セクター神戸高速鉄道の開通でしょう。阪急三宮、阪神元町から高速神戸で合流して山陽の西代を地下で結ぶ本格的な地下鉄です。1968年4月7日の開通の2週間後から市電の廃止が本格化しました。
そんな神戸に、市電の乗車と撮影に訪れたのが1968年4月29日の天皇誕生日です。 電車の屋根上に日の丸の小旗が立っています。サクラカラーのポジフィルムは、35年が経過して退色がひどくフォトレタッチソフトでの修正にも限界があるのですが、色がおわかりいただけますか。
この一週間前に三宮阪神前から脇浜町方面ほか一部の路線が廃止になって、系統も整理されていました。この時点で大阪市電から譲渡された車両が廃車になったようですが、神戸のオリジナル車の多くはまだまだ健在で、ワンマンカーより車掌さんの乗務する電車の方が多かったように思います。
神戸市電は西鉄と同様に、一部の新しい車両と改造車を除く多くの車両のドアが、バスのような折り戸を採用しているのを珍しく思いました。
1920年代につくられた大型3扉車の500型は両端が折り戸、中央の扉のみ両開きの引き戸で、戸袋窓が丸窓の車両もありました。更新で前と中の2扉の引き戸と2段上昇窓に改造された500型は、黄色の帯を巻いてワンマンカーになっていました。市電全廃後は1100型、1150型のワンマンカーとともに広島電鉄に引き取られ、一部は30年以上を経た今でも残っています。車内の照明が幕板に取り付けられたスズラン灯で、その優美な姿は広島で冷房改造を受けるまで残っていたのではなかったでしょうか。
1930年代後半に製造された前後2扉の700型は、窓が大きく軽快な神戸市電のスタイルを確立した型式で、登場時は転換クロスシートを備えたロマンスカーだったとか。1950年ごろに750型としてほぼ同型のクロスシート車が登場していますが、両車ともこの頃にはロングシートになっています。
輸送力が逼迫した第二次大戦の前後の1940年代に登場した800型、900型、1000型は、700型を引きのばして大型3扉化した車両ですが、この頃には中央扉は埋められて前後扉となり、一部はワンマン化時に前と中扉に改造されています。
神戸市電に最後に花を咲かせたのが1950年代中頃に登場した1100型と1150型です。上段の窓がHゴムのいわゆるバス窓になり、扉は前と中の引き戸、新型の台車をはき、1150型の方は間接制御にカルダンドライブの高性能車でした。でも、その高性能を発揮できず、大阪市電の廃車の部品流用でしょうか、直接制御に板バネの旧型台車という惨めな姿になったまま、広島電鉄に引き取られていきました。
1971年に全廃されてから30年以上が経過した今でも、一部の車両が大阪や京都から移籍した車両とともに、広島に健在なのは嬉しいことです。
2003/02記

(コメント)神戸市電の写真を見せて頂き有難う御座いました。大変懐かしく見せて頂きました。
昔、JICA派遣でサンパウロに行きました。ブラジル各地の最近の情報が判って嬉しいですね。神戸市電の写真を見せて頂き有難う御座いました。大変懐かしく見せて頂きました。
昔、JICA派遣でサンパウロに行きました。ブラジル各地の最近の情報が判って嬉しいですね。

tueda67 さま プロフィルが公開されておらずお名前も不明で失礼します。BLOG訪問させて頂きました。スローライフを楽しみ絵画を嗜み羨ましい生活をしておられますね。JICA派遣でサンパウロにも来られたことがあるとのこと。今後とも宜しくお願いします。



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