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日系医師第一号は氏家正明氏 01〜07年医学部卒業生21・4%が日系人 忘れられない細江静男医師の功績 サンパウロ新聞WEB版より
笠戸丸に始まる日本移民百年を迎えた今年、ブラジル各地、各方面で日本移民百年の顕彰が行われているが、サンパウロ大学医学部でも同学部を卒業した日系医師を讃える記念誌を発行した。
『私たちの40年!!』でもお馴染みの工業移民の一人、ブラジル工業移住者協会のHPの管理運営をしておられる吉田文彦さんがこの記念誌の内容を丁寧に解説して呉れている寄稿が彼の署名入りでサンパウロ新聞に掲載されているのを見つけました。WEB版からお借りして収録して置きたいと思います。
69年前の1939年に日系最初のサンパウロ大学医学部卒業の氏家正明さんから1940年卒業のアマゾンのシュバエツアーと呼ばれた細江静男先生(ポルトアレグレのカトリック大学医学部成人病教室の森口幸雄博士の岳父)他全卒業生の14.1%に当たる1276人の日系卒業生が数えられ2001年からの最近の数字では何と21,4%が日系で占めているとの数字には驚嘆します。子弟の教育に力を入れて来た日本移民の先達の面目躍如が嬉しいですね。


サンパウロ大学医学部では日本移民百年を記念してこの学部を卒業した日系医師を讃える記念誌を発行しました。その記念誌の冒頭で医学部長のマルコス・ボウルス博士は次のように述べています。

 日本の神戸港を発った七百八十一人の日本移民は歴史的な千九百八年六月十八日にサントス港へ到着した。これは単に二つの国家の融合の始まりだけと言うのではなく、二つの文明の融合の始まりだった。日本人は五千年を超える文化の蓄積を若い国であるブラジルに持ってきてくれた。ブラジルは日本移民をなんの偏見もなく暖かく迎えたが、日本移民がブラジルでしてくれたことに対し栄誉に感じている。この百年の間この二国間で築かれた繋がりはブラジルの医学の分野には大きく貢献した。現在でも診断解析装置付きファイバー内視鏡、超音波画像装置、断層画像装置、磁気共振映像装置等、最新技術の機器を使わして貰っている。最近のデジタルTVの出現はこれからの教育分野に大きな影響を与えること間違いない。

 しかしながら、日本人の一番大きな貢献は科学、芸術、実業、政治、公安等すべての分野で頭角を現している「ヒト」だった。学部長としてこの学部で教育のためや研究や補佐に計り知れない貢献をしてくれたこの学部を卒業した日本移民の子孫や他の大学を出た日系人の業績を特別に強調したいと思う。

 また同学部の名誉教授会会長のエンリケ・ワルテル・ピノッチ博士は次のように述べています。

 子供の将来を見据えて日本移民は子供が社会で大成できるように子供の教育に真剣になって投資した。道徳と倫理の手本となること第一に考え、子供を学校へやるためどんな犠牲もいとわず死に物狂いで働いた。特に医学の分野では彼らの責任感、貢献、忍耐のおかげで今日のゆるぎない信用を築くことが出来たと言っても過言ではない。

 ここでもう一つ注目したいのは我々の医学部は社会の変革や改革に重要な役割を担ってきた。ここを卒業した日系人は一二七六人にのぼる。彼らの多くは教授として、研究者として、またはクリニカ病院での治療、そして他のブラジルの大学で手本となるような貢献をしている。まるで一つの大きな医師群が医者の労働市場に参入し、献身的に働きブラジル社会に大きく貢献しているようだ。

 名誉教授会は在伯の日本人への祝賀に協賛しそれに現実に参画できることを栄誉と感じている。

 このように二人の博士の日系医師に対する賞賛とともに注目したいのは、一九三九年から二〇〇七年までに一二七六人の日系人がこの医学部を卒業しているがこれは全卒業生に対し一四・一%になる。日系人の人口が総人口の一%に満たないことを考えるとこの学部を卒業した日系人の割合は多い。

 またクリニカ病院の山田ヘナト・ヤマダ博士は移住地で緊急出産、マラリアの伝染の時の医師不足を骨の髄まで感じた移民は少なくとも息子たちの一人は医師になって欲しいという願いを持っていたので後年一家から日系医師が一人以上生まれたのは稀ではないといっている。二世がサンパウロ大学の医学部を卒業し始めたのは一九三九年からだった。この年氏原正明医師が卒業した。

 彼は第二次世界大戦中イタリア戦線でブラジル陸軍の歩兵部隊の将校として抜きん出た活躍をし勲章を貰った。また、サンタ・クルス病院にも勤務した。また山西ルイ外科医(一九五五年卒)は細江静男医師について次のように述べている。ここで忘れてはならないのは若い日本人医師の細江静男である。彼は慶応大学出身である。かれは人間愛に燃えて移民の健康の面倒を見るためブラジルへやってきた。かれは外国人でありブラジルの大学をでていなかったので、ブラジルで医師の仕事に就くことはできなかった。

 それで六年間サンパウロ大学の医学部で勉強した。かれの勉強への熱心さは賞賛の的だった。それから短期間ではあったが細江医師はブラジル陸軍の砲兵隊に入隊した。この国で医者として働くには兵役義務を果たしておく必要があった。これ以来フルタイムでポルトガル語の分らない日本移民の診療に一九三五年に設立された同仁会で尽力した。それから日系の女医第一号は一九四四年卒業の野見山千鶴女医である。またこの年にブラジルで有名な麻酔学の権威高岡健太郎医師が卒業している。彼の父高岡専太郎医師は慶応大学医学部を卒業し、移民の医療や病院の建設に尽力した。

 医学部の学務課の記録を調べると一九三九年から二〇〇七年までに九〇六五人医師が卒業している。そのうち一二七六人が日系人である。日系人が卒業し始めた一九三九年―一九五〇年及び一九五一年―一九六〇年の間日系医師の卒業者数は少なく各々二十三人(二・三%)及び四十三人(五・一%)であった。

 これは第一世代の二世の若者たちがブラジル社会に適応し文化に同化することが難しかったと考えられる。多くは州の奥地の農村地帯から来たもので、州都や都会周辺出身者は少なかった。この次の十年から日系人の卒業者数は急速に増加した。一九六一年―一九七〇年には一二六人となった。一番最近のデータによると一九九一年―二〇〇〇年では三百二十九人(一九・〇%)、二〇〇一年―二〇〇七年には二五九人(二一・四%)であった。このように年を追う毎に日系医師の数が増加している。医師という職業に大きな関心を持ち、もう二世や三世も増えており、忘れてはならないのは混血児も増え、ブラジル社会への同化も進んでいる。

 この六八年の間サンパウロ大学医学部を卒業した日系医師の数は年々目覚しい速さで増えたがその割合を平均すると十五・〇%となりそんなに多くないかもしれない。しかしブラジル国民の福祉と健康増進のために参加し重要な役割をはたしている。

 もう一つ忘れてはならないのはサンパウロ大学医学部を卒業した日系女医である。一九三九年―一九五〇年にはわずか三名で全日系卒業生の一三・〇%であったが年を追うごとに増加し二〇〇〇年―二〇一〇年には四六・五%になると予想されており、全日系卒業生のほぼ半分になる勢いである。したがって六八年の間に卒業した日系医師一二七六人のうち三八・六%は女医である。すなわち医師は七八三人そして女医は四九三人である。このように大勢の女医が誕生した蔭には初期の女性が女は家事をしなければならないといった固定観念や経済的な必要性により、その強靭さで家事をこなし野良仕事に精を出し、一生懸命勉強し数々の障害を克服し、短期間にこれだけの数の女医が誕生したという事実によりこれらの女性たちは賞賛に値する。このような形の適応や同化は恐らくより辛かったであろう。

 しかし近代の女性解放のシンボルでもあり、ブラジルの社会に医学の分野で抜きん出た貢献をしている。

 次の日系人医師で次の方々を特記します。

氏原正明 日系医師第一号(一九三九年卒)

細江静男 日本人医師第一号(一九四〇年卒)

野見山千鶴 日系女医第一号(一九四四年卒)

奥村正之 日系助教授第一号(一九五三年卒)

ヤスヒコ・オカイ 一九九二年に日系初の正教授に任命される (一九六四年卒)

安田・鹿内マリア・アパ レシーダ 一九九七年に初の女性正教授に任命される。

續政剛セルジオ一九八九年の初の日系保健大臣(一九五八年卒)

(吉田文彦氏記)

写真:記念誌の表紙



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