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ここに逞しき「ハポネス」あり  サンパウロ新聞特派吉永拓哉記者の連載です。(前編)
通常は、郷里の福岡に住みサンパウロ新聞福岡支局長の資格で色々記事を書いておられますが、ちょくちょくブラジルにも出向いて来て署名入りの記事を書いている吉永拓哉記者が来年出版予定の「ぶった切り少年院」の続編の取材を兼ねて今回エクアドール、ぺルー等を回られた機会にブラジルとは違った文化風土のなかで頑張っているハポネス10人を取り上げて連載レポートをサンパウロ新聞に掲載しています。WEB版よりお借りして『私たちの40年!!』メーリングリストでもご紹介しましたが、纏めて寄稿集にも収録して置きたいと思います。
11月5日に今は無くなってしまった日本学生移住連盟の創立50周年記念式典がサンパウロで開催されましたが、今回で30回目の来伯となる吉永正義団長は、拓哉君の御尊父、初めて奥さんを同行とのことで吉永一家がサンパウロに揃いました。45年前の1963年初頭にアマゾンのトメアスー移住地で吉永さんとお会いしましたが、その当時の事を日記に書いておられたとのことでその几帳面さに感心しましたが御子息の拓哉君もそんな親父さんの血を引いているようです。来年出版予定の作家としての拓哉君の第2冊目を楽しみにしています。
写真は、逞しきハポネス第1話の上原アツ子さんの写真をサンパウロ新聞からお借りしました。


ここに逞しき「ハポネス」あり(1) サンパウロ新聞WEB版より
ブラジルの向こう、アンデス山脈を越えた太平洋側でも一世は逞しく生きている。かつてインカ帝国が栄えたペルー、エクアドルの地でスペイン語を駆使しながら奮闘する日本人たち。彼らはブラジルとはまた違った文化風土の中で、どのような人生を歩んでいるのか。本連載は在日日系ペルー人らの金融組合であるKYODAI(木本結一郎社長)の協力を得て、戦前のペルー移民ほか、戦後に自由渡航者としてペルー、エクアドルに移り住み、さまざまな分野で活躍している十人を対象にレポートしてみた。【吉永拓哉記者】

県人会長も兼ねる一世 史料館を守る上原アツ子館長

 ペルーの首都リマにある日秘文化会館の中に『日本人ペルー移住史料館』がある。こちらもブラジル日本移民史料館と同様、史料・設備ともに充実しているが、なんとペルー側の同館館長は日本人女性が務めている。

 戦後のペルー政府は日本との移民協定を結ばなかったため、後続移民が来なかった。そのためブラジルに次ぐ十万日系社会を有するペルーでは、既に世代交代を遂げており、同館の母体であるペルー日系人協会の役員もほぼ全員が日系二、三世で占めている。

 その中で一世、それも移民ではない女性が日系社会の中核を担うことは容易ではない。

 「私はただ単に日系社会のお手伝いをしているだけ。日本語が話せるとの理由で館長に任命されたまでです」と話すのは五代目館長の上原アツ子さん(六五、鹿児島県出身)。とても謙虚な女性だが、上原さんの企画・実行力はペルー日系社会きってのもの。

 年内のスケジュールを訊くとぎっしりだ。彼女が考案した史料館の各種キャンペーンだけでも七、八月は『移民ゆかりの物を史料館に残そう』を実施し、九、十月には『日系人の家系図を作ろう』を催す。また十一、十二月は一世、二世の生きた歴史証言を後世に残そうと『記録フィルムを作ろう』も企画してる。 これらキャンペーンは地元邦字紙ペルー新報やその他の会報誌に掲載し、各日系人協会には手紙で知らせ、日系人の集いにも積極的に足を運んでPRするなど、広報活動に余念がない。

 それもそのはず、上原さんがペルー日系婦人会の会長を務めた九四年、有志らとともに『若い女性会員を増やそう』とのキャンペーンを実施し、新会員になると日秘診療所の健康診断を割引くなどの特典を付けたことで企画は成功。それまで千人だった会員を千二百人に増やした実績がある。

 さらに現在に至っては、史料館館長と平行してペルー鹿児島県人会初の女性会長も兼任している。

 同会では健康、交流、文化活動などを実施している。援護活動では、「誕生日を迎えた高齢会員の家庭に私がバースデイケーキを持参して一緒に祝福するんですよ」と、気配りも徹底している。

 ほか、自然災害などの援助活動では、昨年イカ県で起きた大型地震の被災地に救援物資を送った。

 上原さんはもともと鹿児島市内の製薬会社で働いていたごく普通のOLだったが、ペルー移民だった叔母の勧めで日系ペルー人と結婚して人生が一転。夫の国への永住を決意した。

 現在は移民史料館館長、県人会長の肩書きでペルー日系社会に貢献する傍ら、不動産業の切り盛りもする、二足草鞋ならず、三足の草鞋を履いて活躍している才女。

 「私の不動産は小さいし、日系社会での活動も私が中心ではなく、あくまでも先輩日系婦人たちの流れでお手伝いをしているだけ」だと謙遜するが、異国の地へ移り住んだ日本人女性の底力は、どの国でも変わらないようだ。(つづく)

写真:「ペルーにお越しの際はぜひ移民史料館へ」と上原さん

2008年10月23日付


ここに逞しき『ハポネス』あり(2) サンパウロ新聞WEB版より
命懸けでカムカム事業に ダイコン博士の鈴木孝幸さん

 「ビタミンCの王様」とのキャッチフレーズで、ペルー原産の果実・カムカムがここ十年程まえから日本で話題となっているが、この果物をペルーで初めてビジネスにつなげた鈴木孝幸さんの存在はあまり知られていない。

 現在、カムカム・ビジネスでリマ市とアマゾン地域を行き来しながら、多忙な日々を送る鈴木さんは東京農大出身の四十七歳。「カムカムにはビタミンCが百g中に二千八百mgも含まれてます。レモンの八十倍です。私が実際に分析したので間違いありませんよ」と胸を張る。

 ピチッとした背広に身を包んで髪を後ろに流し、肌もそれほど焼けてはおらず、農業者というよりはビジネスマン的な雰囲気が漂う人だ。

 外見はさて置き、同氏の農業技術は確かなもので、ペルー日系社会では「ダイコンの鈴木さん」とも呼ばれる。なぜカムカムではなく大根かといえば、鈴木さんが同国ラ・モリーナ農大大学院を出たあと、八七年からリマ市近郊ではじめた実験農場で、一本の重さが実に二十キロもある大根を育て、現地の新聞で大きく報じられたからだ。

 「ペルー海岸線の砂漠地帯は、塩類集積の問題さえ解決すれば野菜作りに最適なんです。だから私はペルーの大地を選びました」と渡秘した動機を語る。

 鈴木さんがペルーで実験農場を経営しながら、現地の植物を調べていくうちに、カムカムの存在を知った。その実はアマゾン地域の水辺に自生しており、「栽培は難しい」とされていたが、研究熱心な鈴木さんは同地域の中心都市イキトスにカムカムの実験農場を作り、栽培に成功した。

 その後、プカルパに移って栽培をはじめるが、アマゾン地域の一部ではマフィアの収入源となるコカの葉栽培が盛んであり、貧しい住民の多くがその栽培に携わって生計を立てていた。

 そこに目を向けた鈴木さんは、地域の貧困、雇用、環境などの問題を解決するため、カムカムをコカの代替作物にしようとNGOカムカム協会を立ち上げた。

 鈴木さんは「農業は収穫できても、売って利益が得られないと意味がない」と、収穫したカムカムの実を冷凍パルプにする一次加工場を数か所に設け、本格的なカムカム事業に乗り出した。

 コロンビア国境の町に建てた加工場付近は、「マフィア、ゲリラ、テロ組織、悪徳警官と問題だらけの場所だった。でも、そこに最もカムカムが多く自生しているので、彼らと距離を置きながらも適当に付き合っていた」という。

 下手をすると悪人から殺される可能性もあったため、ゲリラ組織などから脱退した人たちに仲介役を依頼したこともあった。まさに、カムカム事業に命がけで挑んだ。

 その甲斐あって、現在ではカムカムの冷凍パルプを年に千三百トン輸出するまでに成長し、日本の大手飲料メーカー『キリン』などと取引をしている。

 また、カムカム事業と平行して貧困に喘いでいたアマゾン地域の雇用、環境などの問題も改善され、加工場の周囲は、それまでになかった電気が通るなど、地域の発展に大きく貢献した。

 「日本では東京農大の方々が一生懸命カムカムを普及してくれてます。遠く南米にひとりでいると、農大生との絆が一番大切」と鈴木さん。年に三度も訪日し、カムカム・ビジネスを展開するとともに、母校の非常勤講師としても活動を続ける。

(つづく、吉永拓哉記者)

写真:カムカム・ビジネスで活躍中の鈴木さん


2008年10月24日付

ここに逞しき『ハポネス』あり(3) サンパウロ新聞WEB版より
『興津種』育て果樹界革命 「みかん王」福田一家最後の一世・美代子さん 

 ペルーではどの家庭でも食されている日本の温州みかん。冬の時季、こたつの上で食べていたあの種無しみかんをペルーに根付かせた日本移民がいる。

 リマ市近郊のワラルで家政婦と二人暮しをしている福田美代子さん(九〇、静岡県出身)は一九三五年、姉ますゑさんとその夫惣作さんの三人で平洋丸に乗船した。

 すでにペルーへ移住していた惣作さんの弟・勝夫さんからの呼び寄せで、美代子さんは当時、弱冠十七歳の花嫁移民だった。

 三人はペルーで育てようと柿、梨など二十種類の果物の苗木を船内に持ち込んでいた。だが、寄港したサンフランシスコで植物検疫を受けた時に、これら苗木は海に捨てられてしまう。

 そのとき美代子さんは、みかんや柿など四種類の苗木を急いで船長の所へ持って行き、「どこかに隠して下さい」と頼み込んだ。若い乙女の願いを断れなかったのか、船長は船底にある冷蔵庫の中に苗木を隠してくれた。こうして難を逃れたみかんの苗木は、その後、福田家に莫大な富を与えることになる。

 しかし、ペルーで成功を収めるまでの美代子さんの過去は苦難の連続だった。

 夫の勝夫さんは、農水大臣所有の綿畑の一角でトマトやぶどうを植えていたが、収穫物をリマ市まで売りに行っていたため、週に一度しか帰宅できなかった。美代子さんは夫不在のあいだ、畑の見張り番を任されていた。

 「寂しかったですよ。ずっと太平洋のほうを見て、早く日本に帰りたいなあ、と泣きよったです」

 綿畑では三年間貧しい生活に耐えたが、「ここでは稼げない」と判断した福田家は、無一文に近い状態でリマ市近郊のワラルに移った。

 ワラルにいた日本人にわずかな資金を借りて土地を手に入れたが、そこは砂漠地帯だった。その上、土壌は塩分を多く含んでいたので草一本生えていなかった。

 ペルー人からは「あんな砂地に住んでたら今に食えなくなるぞ」と笑われもしたが、農業に詳しい惣作さんの知恵で塩田の仕組みを応用。地下水を土地に撒いて乾燥させ、土中に含まれる塩を浮き上がらせる方法で土壌を改善した。

 そこで美代子さんらはトマト、スイカなどの栽培をはじめるとともに、日本から隠し持ってきたみかん『興津(おきつ)種』の苗木四本も植えた。塩分の問題を克服した砂地は土壌が良く、予想以上に立派なみかんが育った。

 それまでのペルーでは、皮が硬いオレンジしかなかったため、手で皮が剥ける福田家のみかんに国民が驚き、爆発的な人気を得た。

 戦後はさらに農園を拡大し、柿やメロンなどの栽培ほか、二十万羽の養鶏場をはじめるなど、国内有数の大農家へと成長していった。

 今では美代子さんの長男と甥が、それぞれ百ヘクタールのみかん農園を経営しており、『インカ』印の銘柄でペルー市場に出荷しているほか、カナダやヨーロッパ諸国にも輸出している。

 すでに苦労を分かち合った勝夫、惣作、ますゑさんは他界しており、福田家の一世は美千代さんのみとなったが、九十歳になった現在でも自宅の畑で柿を栽培しているという働き者である。

 「ペルーに来れて幸せでした。子供や孫のファミリアも幸せに暮らしてます」と、彼女を支えた多くの先人たちへの感謝の気持ちは忘れない。

(つづく、吉永拓哉記者)

写真:『みかん王』福田ファミリー最後の一世・美代子さん


ここに逞しき『ハポネス』あり(4) サンパウロ新聞WEB版より
子供大好き、ペルー大好き ペルー人の夫人とともに 幼稚園経営の大森雅人さん

 自ら「新移民」と称する大森雅人さん(四八、埼玉県出身)は現在、非日系のパトリシア夫人とともにリマ市サンイシドロ区で幼稚園『ムンド・アミーゴ』を経営している。

 今年は国内の好景気に伴ってか、同園には百二十人の子供たちが通っており、「こんなに子供が集まったのは開園して十九年以来はじめて」と笑顔を見せた。

 少年時代から野球一筋に打ち込んできた大森さんは仙台大卒業後の八七年、友人の勧めで青年海外協力隊に入り、野球コーチとしてペルーに赴任した。

 最初の一年は日系人が組織するペルー野球連盟の指示でカヤオ、リマック地区に住む貧しい子供たちに野球を教え、その後はナショナルチームのコーチを務めた。

 当時は第一次ガルシア政権下で、ハイパーインフレ、テロリストの横行など暗黒の時代。だが、好奇心旺盛な大森さんは「その頃、まだ二十代だったし、平和な日本で育った僕にしてみればペルーは刺激的だった」という。

 ペルーが気に入り、野球指導に生きがいを感じていたため、青年協力隊の任期を終えた後、いったん日本へと帰国するも少年軟式野球国際交流協会の派遣コーチとして、再びペルーに戻ってきた。

 八九年にはソフトボール女子ナショナルチームでピッチャーをしていたパトリシアさんと結婚。しかし、家庭を持つと野球コーチでは食っていけなくなった。

 そのため野球から退いた大森さんだが、「ペルーの子供たちへの教育は続けたい」と義母の会社の敷地を借りて幼稚園の経営に乗り出した。その間、パトリシア夫人との間に二女を儲けた。幸せではあったが家計は苦しく、運送業や輸出業など様々な副業をこなして家族を養った。

 九六年の日本大使公邸人質占領事件では、同公邸からわずか二ブロックの所にある大森さんの幼稚園に被害が直撃した。

 「大使公邸一帯が閉鎖されましてね、園児が来なくなったんです。僕はなんとか幼稚園を存続させるため日本へと出稼ぎに行ったんですよ」と、にがい思い出を語る。

 そのような災難に遭ってもペルーに踏み止まった理由のひとつには、娘たちの教育があった。

 「わが子を日本の受験戦争の中に入れたくなかったんです。たとえ家が貧しくてもペルーでは自分が好きなことを伸びのびとやれる。だからここで娘たちを育てようと思ったんです」

 近年、テロリストがほぼ壊滅したペルーは経済成長を遂げ、治安も回復したことで、日本からの観光客が殺到している。そこで大森さんは幼稚園を経営する傍ら、三年程まえから日本人相手の観光ガイドもはじめた。

 旅行者はとくに団塊世代が多く、ガイドをしながら世間話をすることが楽しみになった。「まさかペルーにこのような時代が到来しようとは思ってもみなかった。日本が近くなったなぁ」と大森さん。

 もう少し生活に余裕ができれば、グローブやバットをたくさん買い、幼稚園の子供たちにも野球を教えたいと意欲をみせる。

 「僕はペルーへ来てから苦労を苦にしたことはなかった。だってペルーが大好きですから」

 新移民のペルーに懸ける情熱は熱い。

(つづく、吉永拓哉記者)

写真:パトリシア夫人と仲睦まじく幼稚園を経営する大森さん

2008年10月28日付


ここに逞しき『ハポネス』あり(5) サンパウロ新聞WEB版より
テロに打ち勝ちロマンに生きる 天に近い観測所の主・石塚睦博士
 太陽神を信仰していたインカ帝国で知られるようにペルーは「太陽の国」だが、この国で初めて太陽周囲の輝き(コロナ)を観測したのはペルー人ではなく、日本人だった。
 現在、リマ市近郊のアンコンでペルー国立地球物理学研究所の顧問をしている石塚睦博士(七八)は五十一年前、京大大学院理学研究科の学生だった頃に、同大名誉教授の命を受けて、アンデス山岳部にコロナグラフ(コロナを観測するための特殊な天体望遠鏡)を用いた観測所をつくろうと、ペルーに渡った。
 太陽コロナを観測するためには、絶対条件である綺麗かつ薄い空気の高地を探さねばならなかった。
 石塚博士は当初、地磁気研究で世界的に有名なアンデス中部のワンカイヨにコロナグラフを設置したものの、都市に近かったことで空気が汚れており、うまく観測ができなかった。
 それからは毎日足を棒のようにして観測所に適した高地を探し回り、ついにワンカイヨから七十キロ離れた標高四千六百メートルのコスモス高原に行き着いた。
 ここに観測所の建設を開始したのは一九七〇年。じつに渡秘から十三年を要していた。
 その後、資金難で建設は遅れに遅れ、八年の歳月を経てようやくコスモス観測所が完成し、世界最高地の太陽コロナ観測所としても注目された。
 ところがである。様々な困難を経てようやく太陽コロナの観測をはじめた矢先のこと、「八八年にテロリストから観測所を占領され、『夜間戦闘に転用する赤外線透視装置をよこせ』と脅迫されたんです。そんな物はないと断ると、彼らは観測所を爆破してしまった…」。
 無残にも石塚博士の人生を懸けてつくり上げた観測所は一瞬にして崩れ去り、観測した資料もアンデスの塵(ちり)となって消えた。
 さらにテロリストは石塚博士にこのような宣告状を送り付けた。
 『我われの要求に応じなかったイシツカを死刑に処す』
 太陽コロナの観測は続行不能となり、「いつの日にか太陽の民自身の手で観測が再開されることを祈ろう」と泣く泣くアンデスの山を降りた。
 その後、石塚博士は九六年にリマ市で起きたペルー大使公邸人質占領事件の際にも拘束されるなど、テロリストからは散々な目に遭わされた。それでもペルーの地に踏み止まった。
 八八年の爆破事件以来、山岳地帯とはほとんど縁が切れてしまったが、京大の仲間たちからの支えもありアンコン観測所所長として、天文学と同じく石塚博士の専門分野である地磁気の観測に徹した。
 現在は同所の顧問だが、今でも現役でアンコン観測所に勤務しており、大気中に含まれる炭酸ガスの含有率の観測などを行なっている。
 息子のホセ氏は、そんな父親の背中を見てペルー唯一の電波天文学者になった。また、国立イカ大学太陽研究部とともにイカ県に太陽研究所を新設する計画が徐々に進み、石塚博士の天文学に懸ける熱意は着実にペルー人へと受け継がれている。
 世界レベルに比べると天文学や地磁気研究の知識に乏しいペルーの地で、たった一人の日本人として五十一年の長きにわたり観測・研究を続けてきた石塚博士。「今後は宇宙電波望遠鏡をつくりたい」と新たなロマンを胸に抱く。
(つづく、吉永拓哉記者)
写真:アンコン観測所から広い砂漠地帯を眺める天文学者・石塚博士


ここに逞しき『ハポネス』あり(6) サンパウロ新聞WEB版より
プレインカの染色に魅了され 民芸品店経営の早内香苗さん

 古代プレインカ時代から三千年の時を経て、アンデス地方の染物を現代の世に再現させたのは、リマ市内で日本人向け民芸品店「ポコ・ア・ポコ」と民宿を切り盛りする早内香苗さん(六〇、静岡県出身)。

 かつては日本の人気テレビ番組「徹子の部屋」で香苗さんの自然染料染めが紹介されたこともあり、また、大のペルーファンとして知られる演歌歌手の八代亜紀さんも彼女に魅了される一人である。

 年間に一万人以上の日本人客が訪れるというポコ・ア・ポコへ行くと、香苗さんは「忙しくて寝る暇がない」といつも屋内をどたばたしている。

 女子美短大を卒業して間もない一九七一年、香苗さんはペルーの大手スポーツ用品店に勤務していた早内威雄さん(島根県出身)と結ばれて同国へと渡り、リマの旧市街でミシン刺繍の仕事をはじめた。

 この頃からすでに商才があったようで、開業間もない七二年のミュンヘン・オリンピックと、七四年W杯西ドイツ大会へ出場したペルー人選手のユニフォームをそれぞれ手掛けた。

 その後、「ペルーの古代文明に携わる仕事をしたい」と夢見ていた折に、リマ市の天野博物館に展示してある古代プレインカ時代の染物を見て衝撃を受けた。

 三千年もの昔に染められた織物だが、色が鮮明な状態で保存されており、かつ色彩豊かだったからだ。

 「プレインカの素晴らしい染色品が歴史上から途絶えてしまったことを知り、残念に思った」という香苗さんは、当時ナスカの地上絵を研究していたマリア・ライヒ女史らに憧れていたこともあり、自らの手でプレインカ時代の染物を再現させようと決意した。

 アンデスの山奥に入り、インディオから話を聞いては染料となる草木を採集して染めてみるといった試行錯誤を繰り返しながら、自然染料染めは徐々に完成していった。

 だが、素材であるアルパカの毛が染まらない。また研究に研究を重ねる中で山岳高地では沸点が低いことに気付き、低地に場所を移して再び染めてみた。こうして古代の自然染料染めが現代に蘇った。

 しかし、せっかく再現した自然染料染めを続けていくためには店を構えなければならない。そこで三十年前、夫とともに「ポコ・ア・ポコ」を設立し、アルパカのセーターなど染色品の輸出をはじめた。香苗さんはペルーの民芸品を世界へと広めたパイオニアになった。

 八九年にはペルー生まれの子供ふたりを日系人学校に通わせるため、同校があるラ・ウニオン付近に自宅と店を新築した。子煩悩な母親だが、九四年に悲劇が襲った。

 次男の昇希くん(当時十三歳)が打ち上げ花火の事故に遭い、脳に重度の損傷を受けた。現在も看護士が二十四時間付ききりで、寝たきりの昇希くんを介護している。

 「この子がいるからこそ私は頑張れる。必ずいつの日にか治してあげたい。もう一度、昇希が『お母さん』と声を掛けてくれる日まで私は走り続けます」と、額に汗をにじませて深夜まで懸命に働く香苗さん。

 そんな不運に見舞われたが、夫の威雄さんと長男の大希さん(三五)がしっかりと香苗さんを支えているお陰で、ポコ・ア・ポコは常に日本人旅行者の笑顔が絶えない場として繁盛を続けている。

 家庭的な民宿も好評で、毎晩のようにウニやヒラメなどペルーの幸が振舞われ、香苗さん手作りの納豆やさつま揚げに旅行者は舌鼓を打つ。

 「料理の腕だって一流よ」と微笑む香苗さんは、とてもバイタリティ溢れる母親だった。

(つづく、吉永拓哉記者)

写真:ポコ・ア・ポコの店内で香苗さん

2008年10月30日付





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