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【フォード、ベルテーラ・ゴム移民の今を探る】 サンパウロ新聞WEB版より
サンパウロ新聞ではアマゾン移民80周年記念連載第三弾として掲題の連載記事を一二回に渡り掲載しています。二回に分けて寄稿集に収録して置くことにしました。松本記者の下記書き出しをお借りします。
『北伯パラー州ベレンとアマゾナス州マナウスのほぼ真ん中に位置するサンタレン。同市近郊にかつては、米国の大手自動車メーカーであるフォードが作ったゴム園があった。「フォードランジア」と「ベルテーラ」の両農場には、一九五〇年代半ばに日本人移民も入植。設備が整い、画一化された広大な土地でゴムを生産管理していた。しかし、伯国の労働者保護などを理由に強制的に退去させられ、現在は同地に住んでいる日本移民は皆無となっている。アマゾン移民八十周年記念連載第三弾として、ゴム移民の辿ってきた道のりとベルテーラの現状を紹介する。(松本浩治記者)』
写真もサンパウロ新聞連載の第1回に掲載されていた『現在のベルテーラ。今も当時のゴムの樹が残っていた(08年11月撮影)』をお借りしました。


フォード、ベルテーラ・ゴム移民の今を探る(1)サンパウロ新聞WEB版より

理不尽な突然の退去命令 悲惨極めたゴム移民の運命

 北伯パラー州ベレンとアマゾナス州マナウスのほぼ真ん中に位置するサンタレン。同市近郊にかつては、米国の大手自動車メーカーであるフォードが作ったゴム園があった。「フォードランジア」と「ベルテーラ」の両農場には、一九五〇年代半ばに日本人移民も入植。設備が整い、画一化された広大な土地でゴムを生産管理していた。しかし、伯国の労働者保護などを理由に強制的に退去させられ、現在は同地に住んでいる日本移民は皆無となっている。アマゾン移民八十周年記念連載第三弾として、ゴム移民の辿ってきた道のりとベルテーラの現状を紹介する。(松本浩治記者)


 汎アマゾニア日伯協会が発行した「アマゾン日本移民六〇年記念史」によると、アメリカはイギリスのゴム栽培保護政策に対抗して、一九二三年にアマゾン地方へのゴム生産に関する調査団を派遣。調査団の報告書を読んだフォードは、ゴム栽培を目的としたアマゾン進出を計画し、二七年にパラー州側と土地の契約交渉を実現させたという。

 「フォードランジア」と名付けられたゴム園は、サンタレンからタパジョス川を遡行して約百八十五キロの地点にあった。また、フォードは、サンタレンにより近い(サンタレンから約三十キロ)場所に「ベルテーラ(きれいな土地)」と呼ばれるゴム園も造成。フォードランジアに百六十万本、ベルテーラに二百四十万本のゴムの樹がそれぞれ植え付けられたと言われている。

 その後、戦争などの影響もありフォードの事業が思わしくなくなり、四六年にフォードは両ゴム園をブラジル政府に安価で売却、伯国側に受け継がれた形となった。

 戦後のアマゾン日本人移民枠を取り付けた辻小太郎氏は、「アマゾニア経済開発会社」を設立。現地の斡旋会社として、五四年十二月にフォードランジア六家族二十七人、五五年一月ベルテーラ六十一家族三百九十人、同年四月フォードランジア十六家族百五人、ベルテーラ三十九家族二百五十三人を受け入れたという。

 しかし、五五年八月、ブラジル農務省は日本人移民による現地労働者の圧迫を主な理由に、両ゴム園に対して突然の退去命令を出した。

 なすすべが無いまま、「アマゾン経済開発会社」は日本人移民の転耕先を無理矢理探し、ベレン近郊、モンテ・アレグレ、グァマ、タイアーノ、サンタレン、アレンケール、アカラーやマナウス近郊など各地に移転させた。

 こうして、ゴム移民は自分たちの意思に関わらず、充分な情報もないまま転住を余儀なくされ、移民によってはほとんどゴム園に関わることなく、言われるがままに他のアマゾン地域に移らざるを得なかったようだ。

 転住先によって命運は分けられ、各地で辛酸をなめたアマゾン移民も数多い。

 次回からは、それぞれのゴム移民たちの半生を振り返る。(つづく)

写真:現在のベルテーラ。今も当時のゴムの樹が残っていた(08年11月撮影)

2009年2月24日付


フォード、ベルテーラ、ゴム移民の今を探る(2) サンパウロ新聞WEB版より

『農魂』理念に日本人の矜持 十字路アマゾニア病院事務長・松崎康昭さん

 現在はパラー州トメアスーに在住し、クワトロ・ボッカスの十字路アマゾニア病院事務長を務める松崎康昭さん(五八、福島県出身)。一九五五年一月、「ぶらじる丸」により両親、兄妹ら家族八人で渡伯し、ベルテーラに入った。

 父親で家長の淳三郎さんは、福島県いわき市では米作を行っていたが、国への「供出」で生活が豊かにならない時代、「ブラジルで一儲けしたい」と海を渡ってきた。

 当時、康昭さんは五歳。ベルテーラでの思い出は、教会や学校など整った施設があったこと。そのほかに「二、三キロ坂の道があって、きれいな川でフグを釣ったこと」を覚えている。

 松崎家族は結局、七、八か月ベルテーラに居ただけで、同地を追いやられた。強制退去させられた松崎家族は仕方なく、他の二十二家族と一緒にギアナ国境近くのローライマ州タイアーノ移住地に行くことにした。

 タイアーノでは、父親たちがトウモロコシなどを生産したが、ブラジル人たちはほとんど野菜を食べず、当初は売る場所も無く困惑したという。

 康昭さん自身はタイアーノに五年ほど滞在。十歳頃にカトリック教会の洗礼を受け、ボア・ビスタの郡長だったブラジル人のもとに預けられ、同地で学校生活を送ることになった。

 当時、二千人の生徒の中で日本人は康昭さん一人だけだったが、「学校のリーダーになって、毎日ケンカばかりしていた」という。

 六三年頃、松崎家族はトメアスーに転住し、ボア・ビスタに居た康昭さんも一緒に付いていくことになった。

 トメアスーではピメンタ(コショウ)栽培を行い、康昭さんは学校に通いながら家族を手伝った。二十一歳になった時に、当時のジャミック(現・JICA)に入ったが、「農業を続ける」という思いは常に持っていた。

 ジャミックでは所長の通訳業務を任せられ、州知事などと対面することも多かった。その一方で康昭さんは、トメアスーに来てからは「自分は日本人だ」との思いを強くし、「辞書で三千語を覚えよう」と暗記した。

 ボア・ビスタでは、ブラジル人学校で育った康昭さんだったが「ブラジル人相手ではポルトガル語で、日本人の顔をしている相手とは今でも反射的に日本語で話してしまう」との習慣が身に付いている。

 二十七歳で、智美さん(五七、宮崎県出身)と結婚。ジャミックには結局、九年間勤めた。

 三十歳になった時、当時、第二移住地にあった援護協会の病院事務員を引き継いだ。国語辞典同様、日本から持ってきた医学辞典をボロボロになるほど使いこなし、知識を身につけた。その辞典は今も手元に置き、大切に保管している。

 その後、現在の十字路病院が八八年に落成。両方の病院の事務長を兼任してきた。当時は第二移住地から十字路まで通っていたが、四年前に同病院の真ん前に引っ越してきた。

 病院の事務長をしながらも現在、第二移住地に約七百ヘクタールの土地を所有し、ピメンタを約三万本植えているという。

 「ブラジルの農業で成功するなら情報を持っていなくてはならない。生産物をより良く販売すること、現地の人に働いてもらうこと、銀行を上手に利用することなどが必要となる」と康昭さん。定年退職まであとわずかとなり、定年後は好きなスポーツなどしてゆっくりと楽しむことを考えている。

 「農業に対する思いがある」と話す康昭さんは、息子の伸二さん(二八、二世)が農業をやりたいと思っていることに対して、「百姓ではなく、農業をやれ」と諭している。

 「ブラジルの農業は、きちっとやればできる」というのが、康昭さんの思いだ。(つづく・松本浩治記者)

写真:十字路アマゾニア病院事務長を務める松崎康昭さん

2009年2月26日付


フォード、ベルテーラ・ゴム移民の今を探る(3) サンパウロ新聞WEB版より

好条件の宣伝は真赤な嘘 ベルテーラ入植に意欲の岩坂保さん

 九十歳を過ぎた今でも、現役で貿易業を営んでいる岩坂保さん(九一、福岡県出身)は記憶力も良く、矍鑠(かくしゃく)としている。

 中学卒業後、福岡県大牟田の海産物問屋で七年間、丁稚奉公として修行。一九四一年に兵隊として徴集され、航空通信隊に所属した。

 終戦二か月後の四五年十月に大牟田に帰還。市役所の食糧品統制係りとして二年ほど勤めた後、自ら海鮮問屋を始めた。

 丁稚奉公の頃の経験と人脈を生かし、物資の少ない時代に北海道まで汽車を乗り継いで仕入れを行なうなどし、商売は順調に伸びた。

 「本当に運が良かった。みんなに助けてもらった」と岩坂さんは、人とのつながりを今も大切にしている。

 渡伯のきっかけとなったのは、長兄の篁(たかむら)さんがブラジル行きを望んでいたことだ。兄の代りに福岡県庁へと移民募集の話を聞きに行った時、渡航条件が良かったことが岩坂さんの心を掻(か)き立てた。

 募集は、ベレン郊外のコッケイロで野菜の自営業を行うこと。義務農年も無い上に二十五町歩の土地があり、旅費は十年払いでも構わず、道にはアスファルトが通り、電気も通っているという好条件だった。

 すでに田鶴子夫人(〇五年に死去)と結婚していた岩坂さんは、母親と田鶴子さんの弟、息子二人を合せた家族六人でブラジル行きを決意。一番行きたがっていた長兄は、家族の反対で結局、行くことができなかった。

 渡伯に際して岩坂さんは、オート三輪車をはじめ、船外機、大型精米機、耕運機、脱穀機、籾摺(もみす)り機、搾油機など十五トン分の荷物を準備していた。その中には、胃薬、仁丹、キニーネや注射器などの医療品のほか、絵本や子供用の教育用品も含まれていた。

 当時、大卒の月給が八千六百円の時代、岩坂さんの店の売り上げは二万円はあったという。

 「十年間はブラジルで何もしなくても、生活できるだけの品物を持って行った」

 しかし、一九五四年十二月、神戸を出航する二日前になって移民斡旋所の職員から、コッケイロ行きが決まっていた二十家族の家長たちが呼ばれ、「コッケイロは土地も無く、家も立っていない」と説明された。

 その時、戦争仲間の学徒兵が京都で送別会を開いてくれたために、現場に居なかった岩坂さんは、代理出席した田鶴子さんから話を聞かされ、「そんなことなら、もうブラジルには行かない」と一度は渡伯を断念しかけた。

 しかし、職員からトメアスーでの三年間の義務農年と、ベルテーラでのゴム移民が一年間だけの義務農年という二つの選択条件を提示され、ベルテーラに行くことを決めた。

 他の十九家族は、ピメンタ栽培が隆盛を誇っていたトメアスーへと傾いたが、岩坂さんはベルテーラを選んだ。

 その際、周りからは「何故、トメアスーに行かないのか」と言われた。岩坂さんは「三年の義務農年では資金がなくなるぞ」と説明し、熊本県出身の四家族が、岩坂家族とともにベルテーラに行くことに変更した。

 こうして一九五四年十二月に「ぶらじる丸」で神戸を出航。翌五五年一月にベルテーラに入植した。

 ゴム移民に変更してベルテーラに入った岩坂さんだったが、結局、ゴムの採取は一日も行なったことが無かったという。他の移住者たちに自分たちの持ってきた品物を売ったりして、生活していた。

 (つづく・松本浩治記者)

写真:香料「クマルー」の実を手に持つ岩坂さん。今も現役で貿易を行なう

2009年2月27日付


フォード、ベルテーラ・ゴム移民の今を探る(4) サンパウロ新聞WEB版より

生涯現役貫く気概失わず 波乱万丈の移住人生悔い無し・岩坂さん

 五五年五月に、日本人大使がアマゾン視察と称してサンタレンを訪問した。当時、空港にはタクシーが一台しか無い時代で、日本からオート三輪車を持っていた岩坂さんに大使先導の役目が回ってきたこともあったという。

 同年八月、ゴム移民たちは強制退去を命じられた。一般的には、日本移民がブラジル人労働者の職を奪い、その保護を目的としたとされている。しかし、岩坂さんが後に、ゴム園支配人だった越智栄氏から伝え聞いた話では、同年六月頃に移住地内で発生した長野県出身の日本人兄弟による殺人事件も原因のひとつだったようだ。

 同事件は、女性問題などで日本人の弟が兄を刺し殺したというもので、移住地内の伯人間で「日本人は危ない」との噂が広まったとも言われている。

 ベルテーラを退去するに際して岩坂さんは、自分たちで運送できない移民たちの荷物を、移住地から十二キロ離れたピンドバウ港まで三輪車で何度となく運んでやり、自分たち家族は最後にベルテーラを出たという。

 「移民全家族を自分の三輪車で運んだのに、(受入責任者の)辻(小太郎)さんからは一銭の金も貰わなかった」。そのことに岩坂さんは不信感を抱いていた。

 結局、越智氏と高拓生の三家族でサンタレンの対岸にあるアレンケールに共同出資して土地を購入。幅七キロ、奥行き十三キロの土地では、請負労働者に山を伐採させた後で、米、フェジョンやタバコの紙の原料となるフロレタリアなどを植え付けた。

 しかし、十人の労働者の経費を考えると、収穫までに赤字になると計算した岩坂さんは、「マナカプルーから下ってきた」という中村金策氏という日本人に農機具などを渡して任せ、五六年二月にアレンケールの「町」に出ることにした。

 町では、三輪車を利用し、運搬業や農産物の仲買業などを始めた。大牟田でやっていた海鮮問屋の商売経験が、ブラジルでも生きた。

 その間、岩坂さんは商売に結びつくことは何でもやってきた。六四年に禁猟となるまでは、野生動物の毛皮の卸商売も行い、豹(ひょう)、鹿、猪、山猫、ジャカレイ(ワニ)、スクリュー(大蛇)など「皮」と名の付くものはすべて扱った。特に豹の毛皮は、フランスを中心に輸出。高価な品として売れた。

 野生動物・環境保護が叫ばれる現在では考えられないが、岩坂さんが所持している当時の写真には、自宅の庭で所狭しと置かれた天日干しされている豹皮の画像が写っていた。

 その他にもブチジョン・ガスの元締めをしたり、「レガトン」と呼ばれる百二十トンの商売船をベレンとイタコアチアラの間を行き来させてきた。 

 「当時は恐ろしいものは無かった」という岩坂さんだが、「今の自分があるのは、たくさんの人たちにお世話になってきたから」と感謝の意を忘れてはいない。

 アレンケールで三十七年間過ごした岩坂さんは九二年、病気が原因となりベレンへと出てきた。肩が痛くなり、薬を飲んだが、その薬が身体に合わず、無理して仕事をしていたら胃に穴が開いたという。薬で身体は完治したが、元に戻るまで一年間も療養した。

 その後、身体は完全に回復し、〇八年十一月十八日で九十一歳になった現在も、タバコの香料になる「クマルー」という実をアレンケールから船で持って来て、フランスやドイツなどに卸している。以前は代理人がやっていたが、今はすべての交渉を一人で行なっている。

 「一番残念に思うことは、お世話になってきた人たちが亡くなったこと」と話す岩坂さんは、「仕事をやっていないとダメですね」と元気の秘訣を教えてくれた。(つづく・松本浩治記者) 

写真:豹皮などを大量に扱っていた六〇年代前後(写真は岩坂さん提供)

2009年2月28日付


フォード、ベルテーラ・ゴム移民の今を探る(5) サンパウロ新聞WEB版より
情報を先取り商売の指針に 凶悪犯を震え上がらせた熱血漢・草苅武さん

 ブラジル人から「ブラーヴォ(怖い)」と恐れられ、一目置かれている日本人がベレン近郊のサンタ・イザベルに住んでいる。草苅武さん(七三)は、八〇年代後半に防犯組織の中心的存在として、日本人・日系人を付け狙う強盗団に制裁を加えてきた経験を持つ。

 草苅さんの父親・長四郎さん(一九八〇年、六十九歳で死去)は、福島県の「常磐炭鉱」で十年間働いていたが、国策として戦前、北朝鮮へと渡っていた。

 一九三五年、北朝鮮高原道の平康(へいこう)で生れた草苅さんは、四五年八月の終戦とともに家族で日本への引き揚げを余儀なくされ、父親の出身地である山形県で少年期を過ごした。

 父親には「ブラジルに行きたい」という夢があったが、当時高校を卒業していた草苅さんは、日本での勉強を続けたかった。しかし、長男でもあり構成家族を作るためにも、日本に残ることを許してくれなかった。

「母親は、教育については子供の頃から厳しくて、父親の言うことには絶対服従だったので、逆らうことはできなかった」と草苅さん。日本への未練を残しながらも、ブラジルに行かざるを得なかった。

一九五五年四月にベレンに着き、そこから約一週間かけてベルテーラに到着。草苅さん自身は昼間はゴム園の草取りなどの仕事をし、夜は園内で設備の整ったダンスホールに遊びに行ったりもしたという。

 同年八月に強制退去のため、移住地を出ることになり、草苅家族は他の二十九家族と一緒にサンタレンの対岸にあるモンテ・アレグレに行くことになった。

 モンテ・アレグレの土地は幅三百メートル、奥行き一キロ。原始林を焼き、草苅家族は食べていくために、米、トウモロコシやフェジョン豆などを植え、トマト作りも行なったという。

 五八年頃、移住振興会(現・JICA)の農事講習会に参加した草苅さんは、トメアスーやベレン近郊などを視察。このことが後に、現在のサンタ・イザベルに移るきっかけとなった。

 この頃から草苅さんは、情報を持つことが金につながることを体感。その後、ジュートの種の卸業などで儲け、六三年にサンタ・イザベルに転住した。

サンタ・イザベルでは夜の水商売なども行なったりしていたが、七五年頃に三人グループの強盗に襲われ、命を落しかけた。当時、同地では日本人ばかりを狙う強盗グループによる犯行が頻発。襲われる恐怖より正義感が勝っていた草苅さんは、地元の警察保安局長と連携して現場にパトロールに行き、強盗グループへの制裁を加え続けた。
 周りの日本人からは「ブラジル人の仕返しがあるから無茶はするな」と助言され、表立った行動はしなかった。しかし、草苅さんは自己防衛のため、友人に日本製の防弾チョッキを購入してもらい、身体には常に三丁の銃を携帯する生活を送ってきた。

 ある時は犯人の一人を木に吊るし上げ、半殺しの目に遭わせたこともある。そうしたことから、「電話で脅迫されたことは何度もあった」という。

 八七年には防犯協会が組織され、約五百家族の会員が登録するまでになった。八八年には、草苅さんの防犯活動の功績が認められ、地域から表彰されている。

 記者が取材のためサンタ・イザベルのバス停で草苅さん宅までの道順を電話で聞いた時、「タクシーの運転手に『ブラーヴォ・クサw)」・蝓戮噺世┐弌・・任眞里辰討襪茵廚函∨椰佑・藐世錣譴拭・・実匸実匸 〇三年に約五十年ぶりに日本に一時帰国した草苅さんは、強い郷愁の念にかられた。特に東京の上野駅に行った時は、北朝鮮から引き揚げて来た少年時代のことを思い出し、涙したという。

 「(引き揚げたのは)ちょうど十一月頃で、寒さでガタガタ震えていた時、一人の男の人が『ほら、食えよ』と言って温かい焼きイモをくれたんだ。それが本当に嬉しくてな」

 〇四年頃から身体の調子を崩した草苅さんだが、再び日本に行きたいと考えている。

 「戦前の教育が俺を支えてきた」と話す一方で、「今でも大学に行きたいという気持ちはあるよ」と話す草苅さん。強面(こわもて)の表情から一転、子供のような無邪気な笑顔を見せた。(つづく・松本浩治記者)

写真:強盗団に制裁を加えてきた経験を持つ草苅武さん

2009年3月3日付


フォード、ベルテーラ・ゴム移民の今を探る(6) サンパウロ新聞WEB版より

つれなかった強制退去 フォード移民貴重な生き証人・中島弘人さん

 今回取材したゴム移民の中で唯一、フォードランジア経験者の中島弘人さん(八〇、福岡県出身)に話を聞くことができた。

 中島さんは戦時中、大牟田で勤めていた化学工場が爆弾で破壊。焼夷(しょうい)弾による空襲で、自宅も完全に焼け落ちた。

 終戦後まもなく「仕事らしい仕事」がなく、生き残った友人たちと相談した結果、食糧事情が最悪だったこともあり、田舎の農家が供出した後の作物を町に運ぶことを思いついた。

 自転車を鉄工所で改良して運搬車を造り、サツマイモ、ジャガイモなど主に芋類を中心に大牟田の町の商店に卸すと、品物は飛ぶように売れたという。

 その後、統制が撤廃となり、中島さんは青果物を販売することに。午前三時に卸売り市場に仕入れに行き、自転車にリヤカーを付けて、炭鉱のあった社宅付近を回る生活を続けた。

 しばらくして、同じ商売仲間として知り合った初代さん(故人)と結婚。夫婦二人が二人三脚で力を合わせないとやっていけない、苦しい生活だった。

 少しずつ軌道に乗り始めたが、五〇年代に入ると炭鉱も不景気となり、大牟田にあった七か所の炭鉱のうち、五か所が閉山。いつ閉鎖になるかも分らない炭鉱に見切りを付ける人も少なくない中、中島さんの青果物販売は「雨でも降ろうものなら、商売にならない」状況だった。

 ある日、暇つぶしに行ったパチンコ店で、景品に換える窓口の机の上にあった新聞広告を見ると、「新天地、アマゾン雇用移民」の文字が目に入った。そこには、フォードランジアの五家族の募集が掲載されていた。

 商売替えする時期に来ていた中島さんは早速、福岡県庁に行き詳細内容を聞き込んだ。募集要項は「現地に着いた日から日給がもらえる」という話だった。

 「先行きの不安はあったが、まだ自分も若かったしね。でも、日本を出発する時は命がけの思いだったよ」

 五家族の中の一家族として、構成家族をつくるために初代夫人と実弟の中島孝義さんの三人に、幼い子供二人の五人家族で、一九五四年十月二十五日に神戸港を出航した。

 ベレンに到着したのは同年十二月三日。そこからサンタレンまで船を乗り換えて一週間かかり、ベルテーラで一晩を過ごした後、十三日目にフォードランジアに上陸している。

 当時、ベルテーラの総支配人は越智栄氏だったが、フォードランジアでは「谷さん」という日本人が農業部長として指導を行い、「日本人は手が器用だから」とゴム切りの仕方を教えてくれた。

 「谷さんは、サンタレンから会社の船で一緒にフォードランジアまで行ってくれて、『希望することがあるなら何でも言って下さい』と紳士的に扱ってくれた。本当に丁寧にしてくれて、移民というよりお客に行った感じがしたね」と中島さんは、フォードランジアに着いた時の好印象を覚えている。

 実際、フォードランジアは整った移住地だった。家は板張りで高床式になっていて涼しく、部屋は二間あり、炊事場も備え付けられていた。また川沿いには商店もあり、生活品を揃えることもできたという。

 中島さんは一か月の練習期間の後、実際にゴムを採取することになった。

 ゴム農園は山になっており、起伏も多かった。中島さんたち採取係りは、ゴムの木を一日に一人三百本割り当てられ、樹木に傷を入れて液をバケツに採り、天秤棒で担いで工場に運んだ。この仕事が月曜日から土曜日までの六日間行われ、週に千八百本分のゴム樹液を採取していた。

 キロ数とゴムの濃度によって値段が決まり、濃度が濃いほど値段が高いため、雨季よりも乾季の方が割りが良かったという。

 仕事にも慣れ、「このまま行けば何とかいける」と思っていた頃、越智氏から突然、強制退去の通知を受けた。

(つづく・松本浩治記者)

写真:フォードランジア経験者の中島さん(右)

2009年3月4日付



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