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【ブラジルのジュート麻】 麻生 悌三さんの寄稿です。
勉強家の麻生さんが今年80周年を迎えるアマゾン移民と大きな関わりがあるジュート麻に付いて原稿を纏めて呉れました。何時もの通りアマゾンの地理的、歴史的考察から始まり統計数字を駆使、分かり易い形でアマゾンの農作物の一つ日本人の高等拓殖学校の関係者小山良太さんが始めたジュートの栽培の歴史と現状を報告して呉れています。最後に私事に渡るがとの注釈を付けて東京農業大学を卒業後アマゾンに移住した麻生さんの個人的な経験に基づく高等拓殖学校の高拓生に付いてのコメントも興味深い。
今年9月に行われるアマゾン移民90周年の式典に私も参加する積りで200人からの慶祝団(県連主催のふるさと巡り)に申し込んでおりまたトメアス移住地、べレン、マナウスでの式典に参加出来るのは嬉しい事です。
麻生さんも参加されるのでしょうか?共に祝いたいと願っています。
写真は、いつものようにGOOGLEで探したもので、天日乾燥中のジュート麻です。


―アマゾンの自然
アマゾンはとてつもなく、デカイ。総面積は700万平方キロ。豪州がすっぽり入る位の面積がある。河口のべレンから中流のマナウス迄の距離は1700km。上流のペルー領
イキトス迄の距離は3900kmある。(北海道の根室から台湾の台北までの距離)川の全長は6500kmでナイル川と略、同じ。マナウス迄、1万トン級の船がのぼり、イキトス迄は3千トン級の船が航行出来る。年平均流量は毎秒22万立方メーターで世界の淡水の20%に相当する。その熱帯雨林は世界の肺と云われ、地球上の酸素供給量の1./3を占める。アマゾンには水の増える増水期と、減る減水期がある。増水はアンデス山脈の雪融け(2月がピーク)と上流の熱帯雨林の雨季11月―3月、(4月から10月までが乾季)が重なり、増水は上流から始まり、下流に広がる。増水し、水につかる、冠水面積は、数十万平方キロに及ぶ。イキトス辺りの増水期のピークは5月頃で、増水の水位は20メーターにも達する。中流のマナウス辺りの増水のピークは6月で、水位は10メーターに達する。それより、下流のサンタレン辺りの増水のピークは7月頃で水位は6メーター位である。ジュート栽培は、この水位の増減を利用して行う。減水期の1−2月頃、種を乾いた河床に播き、増水に合せて、背丈が伸びるジュート麻を増水期(5−6月)に刈り採る。茎を水に10日―15日間漬けて、醗酵させて、樹皮を剥ぎ取り、乾燥させた繊維がジュート麻である。アマゾンは高低の少ない、大地で、マナウスの標高は80メーター、上流のイキトスの標高は106メーター。年間雨量はイキトスで4500ミリ、マナウスで1500ミリである。川幅も河口の幅は320kmあり、中洲の島マラジョー島は九州より広い。川幅が最も狭いオビドス(アマゾナス、パラー両州の州境)で1,9km。水深は100メーターでV字型の峡谷である。マナウスで川幅は17km、水深は6メーター。河と云うよりも、淡水の海で、棲息する魚類も2200種類と云われ、大西洋の魚類の種類よりも多いい。実際、淡水化した海の魚類、イルカ、サメ、エイ等も棲息している。増水期には低地の森林は水没し、水没しない森林の上部だけが、水面上に出る、水中林をつくる。草原の多くも水没し減水期までの半年間、水中にあるが、奇妙な事に、草は枯れず、青々としている。長い年月のうちに、植物が、水没しても枯れない進化を遂げている。水の下に、青々と草原が広がる光景はアマゾンだけであろう。

―ジュート麻栽培導入と高等拓殖学校(高拓)
1930年に上塚司氏(熊本県出身の衆議院議員で当選7回、南伯開拓の先駆者上塚周平氏の甥)が東京に国士舘高等拓殖学校を創設した。海外拓殖の指導者の養成を目的とし、1年間東京で学び、1年間海外で実習するものだった。入学資格は旧制中卒以上で比較的裕福な家庭の子弟が多かった。現地の受け入れ機関として、アマゾニア産業研究所がアマゾナス州パリンチンスに創設され、1931年に高拓第1回生35人が到着した。アマゾンの低湿地帯の作物には、ジュート麻が最適との研究結果から、インドより4種類のジュートの種子を導入し試験栽培を行った。然し、失敗続きだった。失敗の原因は背丈が伸びず(1,5メーター程度)また横枝が出て、水の抵抗が大きくなり、流されることだった。 1934年になり、家族移住者として入植した尾山良太氏の畑で、濁流に流されていない、2本のジュートを発見した。背丈も2,5メーター以上で横枝の出ていない、突然変異種だった。尾山氏はこの2本を丸太の柵で囲い、種子の採取を待った。結局、1本は流失したが、1本から種子が採れ、種子4−5百粒を栽培し、優良品種と判明し、このジュートをオヤマ種と名ずけた。1937年に12トンの収穫があり、1941年には3500トンを収穫し産業としての地位を固めた。それ迄のアマゾンにはゴム、パラー栗、のような、ジャングルから採集した自然採集産業しかなかった。そこに、栽培農業を導入し成功させた功績は大きい。高拓は第7回生まで続き、242人を送り出し、その配偶者(後になり配偶者と来ることが義務となった)と合わせ、392人を送り出した。南伯のコーヒー園への契約移民に比べ、高拓のアマゾン移民はかなり、戦略的であり計画性があった。尚、現在は種子採取専用のジュートは陸上で栽培する。1960年頃には栽培管理に優れた、モンテアレグレの日本人入植地に州政府が種子の生産を委託して来た。種子はゴマの種子に良く似た種子である。

ジュート麻の栽培
ジュートは黄麻(コウマ)とも呼ばれる、1年生の草木である(学名 Corchorus Capusularis)
減水期(12−2月頃に川床に播種し(増水により運ばれた有機質の堆積土壌)、増水期(
4−6月)に刈り取る。刈り取ったジュートは水の中で醗酵させる。皮を剥ぎ、乾燥させた繊維で、原産地は中国らしいが、主産地はインド、バングラデッシュ。労働は川の水の中で行われる作業が多く、上半身は熱帯の灼熱下(40度を超える)、下半身は水中で(22度C)血流が異常を来たし、神経痛、リューマチの温床となる。1950年代から、日系人は栽培から手を引き、アビアドール制(アマゾン独特の商業形態で買い付け商人は収穫までの間、栽培者に生活物資を貸し出し、収穫物で清算する)に移っている。 ジュートの栽培が敬遠される中で、マルバと云うパラー州原産の1年生の草木の麻(学名 Urena Robata)
の栽培が台頭してきた。1960年代には急速に栽培が広がり、ジュートを凌駕している。
ブラジルの統計ではジュートとマルバを一緒にしてジュートと表示している。栽培、繊維の取り出し、繊維の質も両者とも殆ど変わりない。栽培地域も略、同じであり、強いていえば、ジュートは川床地、マルバは高台である。川の中の作業で、大蛇スクリー(アナコンダ)、ピラニヤ、ワニに襲われたと云う話は聞いたことはないが、エイをふんずけて、尻尾の毒針に刺された被害は聞いた事がある。刺されると、激痛が走り、半身不随になるケースもあり、確証はないが、死亡した例もあるらしい。刈り取りはテルサードと云うブラジルの山刀でジュートの茎を刈るが、電気ウナギに接触すると、高電圧(6百ボルトとか)のショックで山刀がすっ飛ぶらしいが、気絶したとか、感電死したとか云う話は聞いたことが無い。1930年代では陸上栽培の同種の麻マルバが御膝元のアマゾンにあるとは、誰一人、知る者は無かった。パラー州で、マルバがどのように発見され、栽培作物として育成されて来たか、残念ながら、資料がない。発見はジュートの栽培成功の頃の1930年代らしい。せめて、パラー州のどこで発見されたか、場所ぐらいは調べてみたいと考えている。

―世界のジュート生産
2005年度の世界のジュート麻の生産は2,841千トン。インドが1、900千トンで、
生産量の67%、バングラデッシュが800千トンで28%、中国が68千トンで2%
ブラジルは12千トンで0,4%。(ジュートは1765トン、マルバは10,3千トンでジュートは15%、マルバが85%の比率)。生産はインドが殆どであるが、輸出はバングラデッシュが主体である。次は世界のジュートの在庫、生産、消費、輸出、等の一覧。
農年度  期首在庫   生産     消費     輸出     期末在庫
02/03 1417,1千トン 2710,1 2693 412 1026,3
03/04 1021,3 2816,3 2361,0 340,5 878,9
04/05 878,9 , 2531,8 2368,9 316,9 821,7

―ブラジルのジュートとマルバの生産
ブラジルのジュートの生産は1981年に9,5万トンを記録して以来、減少を続けている。1999 − 2002年に於ける、ジュートとマルバの生産は次の通り。    
A)マルバ      1999    2000   2001    2002
生産量     7526千トン 6539 5847 7510
栽培面積 6588 Ha 5661 4901 5325
イールド    875kg/Ha 965 838 709
B) ジュート
生産量  1417 1332 800 926
栽培面積    1277 1365 1901 1800
イールド 901 1024 2376 1943
C) マルバ、ジュート合計
生産量 8943 7871 6647 8436
栽培面積 7865 7826 6802 7125
イールド 879 1005 1023 844
ジュートとマルバの品質の差は殆ど無いが、しいて言えば、ジュートの方が繊維は軟らかく光沢もある。マルバの方が繊維は硬く、強い。色も黄色が濃い。ジュートは連作可能に対しマルバは高い台地の焼畑農業であり、転作が必要。又ジュートの方が成長も早い。

―州別の生産量(2006年)
州          生産量     栽培面積    イールド     シェアー
アマゾナス州 8640トン 5400Ha 1600kg/ha 64%
パラー州 4715 5239 900 35
マラニョン州 300 188 1600 1
アマゾナス州の主要生産地はManacapur,Itacoatiara,ParintinsでManacapurがシェアー多し。パラー州はSantarem近郊及び対岸のAlenquerが中心。マラニョン州の清算は100%マルバでジュートの生産は無い。

―ブラジルの製麻工場
1981年頃のブラジルには製麻工場が19社あり、その多くは南伯に在った。然し、生産量が右肩下がりになるにつれて、閉鎖が相次ぎ、現存の企業は下記の3社のみとなった。
工場全体の麻袋加工のキャパは年間2,3万トン(原料ベース)。国内の需要は2万トンの原料であり、不足分はバングラデッシュより輸入している。
A) CTC-Cia. de Tecelagem de Castanhal
パラー州べレン郊外のCastanhalに在り、ブラジルの麻袋生産の60%のシェアーを持つ。1950年創設の老舗で、コーヒー袋の年間生産量は約1億袋、ジャガイモ袋5千万袋の生産がある。原料は船で上流より運ばれ、麻袋に加工し、南伯の消費地にべレンより陸送される。
B) JUTAL
マナウスに在る製麻工場。生産された麻袋はフェリーでトラックごとにべレンに運び、べレンから消費地には陸送されている。
C) CATA
べレンに在る製麻工場。
ジュート袋は中の農産物の湿度を一定に保つ事に優れ(湿度12%)、倉庫に山積みした場合の荷崩れが化学繊維の袋より少ない。麻袋のブラジルの用途は次の通り。
コーヒー袋 40%、ジャガイモ袋 25%、カカオ、ピーナッツ等 10%、ジュート布(カーペット等) 15%、糸(包装用等) 10%である。

―ブラジルのジュートの在庫、生産、輸入、期末在庫
       2001   2002   2003   2004   2005    
期首在庫   4417トン   5240 4752 13254 11492
生産量 8310 14043 17206 15045 6500
輸入量 11015 3949 13786 1943 -
合計 23740 23252 36354 30242 17992
消費量 18500 19000 22000 18750 19000
期末在庫 5240 4252 14354 11492 1008
麻袋の需要は、農産物、特にコーヒーの出来高によって左右される。国内で流通しているコーヒー袋は殆ど、中古袋(数回使用可能)だが、輸出は新品が義務ずけられている
輸出の略、50%は今はバルク(20フィートコンテナーに1袋で詰める)で、新品袋詰めは50%である。08/09農年度(7月から翌年6月迄)のブラジルのコーヒーの生産量は4600万袋。(1袋 60kg)輸出は2600万袋を見込むが、半分はバルク故、新品袋は1300万袋が製麻工場の生産対象となり、1袋は500グラムゆえ、単純計算でコーヒー袋だけで、6500トンの原料ジュート(マルバ)の需要となる。

―私事に亘るが、小生がアマゾンに入ったのは、1960年8月。ジュート商社のサンタレンの辻商会の呼び寄せ移民だった。高拓生も皆、元気な頃で、第1回生のサンタレンの飯田さん、イタコアチャラの中島さん、パリンチンスの木村さんも意気軒昂だった。アマゾン開拓に燃えて、19歳そこそこで移住して、慣れない、ジュート栽培に従事し、同伴の伴侶も含め、筆舌に尽くせない、苦労を重ねて来た。(その為か、高拓生には奥方に弱い御仁が多かった)その苦労の裏話を聞いた折、ねぎらいの言葉をかけたら、こんな苦労も戦争に引っ張られ、戦死するのに比べれば、何でもありませんよ、と聞いた時、目から鱗が落ちる気がしたのを覚えている。徴兵制は明治6年(1873年)に布告され、18歳から42歳までの日本男子は兵役の義務があり、特別の事情がある限り、逃れる事は不可能だった。1931年に満州事変が始まり、日本は国際連盟を脱退し、軍国色が年々強まっていった時代である。日中戦争のは始まる1937年に高拓は廃校となる。創立時の国士館高等拓殖学校(後に国士館と別れる)であり国士館と云う右翼的イメージから、高拓生は壮士風の青年だったと、想像したに反し、質実で常識派の人が多かった。軍国調の時代とは言え、戦死のリスクは誰でも嫌であり、口には出せないが、兵役を忌避できるものなら、そうしたいのは、当然である。合法的な徴兵忌避がアマゾン移住の目的(本音)でるあった若者も、数ある高拓生の中にいても何ら不思議ではない。
以上
2009年6月1日 麻生 悌三



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