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『ブラジルの胡椒』 麻生 悌三さんの寄稿文です。
月に1本の割合で毎月ブラジル農業界の農作物を中心に原稿を送って呉れている麻生さんの今年に入って6本目の原稿です。1月の『ブラジルの小麦』、2月には『ブラジルの養殖エビ』、3月の『ブラジルのペット(犬、猫)フード産業』4月『ブラジルの養蚕』、5月の『ブラジルのココア』、6月『ブラジルのジュート麻』そして今月は『ブラジルの胡椒』と続いており、アマゾン移民80周年記念に合わせ北伯アマゾンの産物を取り上げて呉れています。8月には『ブラジルの天然ゴム』を計画されているようです。9月にはアマゾン移民80周年記念式典にも御夫妻で参加される予定との事で若き血を燃やしたアマゾンでの開拓生活との比較で麻生さんが見られたアマゾンの今昔に付いても語って頂ければと期待しています。
写真は、GOOGLEで検索していたら『私たちの40年!!』画像掲示板に掲載した『富田礼子さんさんが夢にまで見たと云う赤い実は多分熟したピメンタの実では。。。。』の記述と共に私がトメアスー移住地で撮った写真が見つかりました。


胡椒の原産地はインドで、BC500年ぐらいから栽培されたらしい。日本に初めて胡椒が入ったのは、8世紀頃で、正倉院に見本が保存されている。本格的に入ったのは江戸時代で、オランダ船が長崎に入れた物で、うどんの薬味として使かわられたが、明治時代になり、七味唐辛子が流行し、胡椒の使用は一時、完全に消えた。一方、欧州では胡椒は、貴重品で肉の保存方法が無かった時代、塩と胡椒(半腐れの肉の臭いを消す効果)はその切り札だった。又、14世紀中期にヨーロッパの人口の3割を死亡せしめたと云われている
ぺストの大流行があった。その特効薬として香辛料特に胡椒の丸薬が薬効があると信じられ胡椒の需要が急騰した。当時は、インドから欧州に胡椒を運ぶ手段は、陸路しかなく、アラブ商人に流通を牛耳られていた。何とか、海路で胡椒を運ぶ手段を模索していたのが。コロンブスによる、エスパニョール島の発見に繋がる(インドの西側と勘違いし西インド諸島となずけた。原住民をインド人=インジオと呼んだ)西インド諸島では胡椒も金(ジバング=日本の金も探していた)も見つからなかったが、後年、砂糖栽培で脚光をあびる。コロンブスより6年遅れて、1498年ヴァスコダガマによる、東廻りのインド洋航路が見つかり、インドに進出したポルトガル人により、海路胡椒が欧州に運ばれ、それから100年間(1511−1611年)胡椒貿易により、ポルトガルは巨利を貪る。 ポルトガルの胡椒貿易の独占は17世紀、オランダ、イギリスの東インド洋地帯の進出まで続く。
―日本人移民によるアマゾンに胡椒栽培の導入
1929年に第1回アカラ(現在のトメアス)植民地の入植移民48家族及び単独移民8名合計189名が到着しました。アカラ移民の始まりは、1925年、パラー州知事と田付駐ブラジル大使の間で、100万Haの土地無償供与による日本移民による開拓の話が発端で、日本政府は鐘紡に調査を委嘱し、鐘紡の重役福原八郎氏による調査が行はれ、有望と判断し、殖民会社南米拓殖を創設し、植民地造成と移民導入を開始した。後年、鐘紡は事業より撤退するが、当時の財界の重鎮であった鐘紡社長武藤糸治氏の娘婿千葉三郎代議士(1932年、政界活動を中断し、鐘紡より派遣され、一時トメアス植民地に駐在した。1955−59年東京農大第4代学長。トメアスの経験から学長就任後、農業拓殖学科を新設した)も開拓事業に直接関わった。開拓を始めたが、主作のカカオ栽培もうまく行かず、短期作の野菜も、もとよりの消費市場べレンまで水路200kmと離れ、距離的問題もあり、適作物も見つからない内、1935年南米拓殖は殖民事業の撤退を決定した。同時にコロノ(小作)制度の撤廃、農事試験場、直営農場の閉鎖も行われました。1929年第2回移民サントス丸、1930年第3回移民ブエノスアイレス丸等移民の流入が続く中、入植者の経済的苦境は深まり、脱耕者も相次ぎ、第4回移民は入植者の悲惨な現状を聞くにおよび、入植せずに全員この地を離れました。結局1942年までに352家族2104名の入植者の内、276家族1603名が脱耕しました。経済的苦境の上に1938年の悪性マラリヤの蔓延も追い討ちをかけ、残存家族は残存率21%の76家族502名で、一部の自活出来た家族以外は、経済的ににっちもさっちも動きの取れない家族、一家の大黒柱がマラリヤで倒れ家族構成が女、子供だけで労働力がない家族、等がこの地に骨を埋める覚悟をせざるを得ませんでした。結果的に日本政府と鐘紡に緑の地獄に棄てられた、棄民だったのです。1933年に南拓社員の臼井牧之助氏(女優小山明子の御尊父)が移民監督として移民船に乗船しトメアスに赴く途中、寄港地のシンガポールで偶然、入手した胡椒の苗、20本を船中で水をやり、トメアスの農事試験場まで運ぶことに成功した。 試験場で活着したのは、2本だけだったが、この2本の苗から、挿し木を20本とり、閉鎖した試験場に代わって、2件の農家の畑に移植した。1938年には胡椒の生産が70kgとなり、15年後の1953年には850トンを記録した。アマゾンにジュート麻に次ぐ、日本移民による、新産業の勃興である。1942年のブラジルの国交断絶により、枢軸国(日、独、伊)のべレン地区の在住民はブラジル政府の監督下になり、活動の制約を受け、トメアスは収容所となり(トメアスには当時、ブラジル人117家族の他に、日本人126家族、ドイツ人13家族、イタリア人1家族合計257家族が在住していた)収容者は強制的に道路工事などに駆り出された。ドイツの潜水艦がアマゾン沖でブラジルの貨物船を撃沈したことがあり、べレン在住の日本人民家が激昂し、暴徒と化した民衆に焼き討ちにあった事件もあった。ドイツ人、イタリア人は欧州系ブラジル人と区別が難しく、一見識別はできないが、日本人は一目で区別がつき、容易に焼き討ちの標的にされた。
―胡椒景気到来
胡椒の主産地東南アジアの胡椒園が戦時に荒廃した事と、戦後の需要の回復が重なり、
1952−54年に価格が暴騰し、空前の胡椒景気が到来した。この当時トメアスの農家は200軒、世界生産の7%を占めた。残存した農家は胡椒で大儲けし、競って、豪邸を建設した。ジャングルの中の耕地の敷地に白亜の豪邸が現れる、夢の如き光景が出現した。15年前の棄民の姿から想像も出来ない、緑の天国が現れた。1957年には暴落し、毎年、国際相場の価格上下の嵐にさらされているが、適作物の無かった初期の時代に比べ、作る作物のある今日、社会的基盤はゆるぎない。胡椒景気は新たな移民を引きつけ、1953年に戦後第1回移民27家族を皮切りに、1960年までに、130家族がトメアスに新たに入植した。1962年には第二トメアス移住地が日本政府(移住事業団)により造成され、82年までの20年間に539人が新たに入植した。第二トメアス移住地20年史と題する、文献がある。実物を読んだ事はないが、それには、生活は一口に言って楽だと言う書き出しで始まっているらしい。20年間に199人が退耕し、死亡者の数は44名(70歳以上の死亡者は4名のみで大部分は働き盛りの40−50代)残ったのは、入植者の約半分である。 1974年にはフザリューム菌による根腐れ病で胡椒の生産が70%減収した。1940−50年代とは時代が違うとは云え、異域(特にアマゾンに)に移民し、家族労働だけで、開拓農業を行う事は生易しいものではない。少数の成功者(努力だけでなく、運がかなりの要素を占めるが)の結果だけ見て、外観で入植地全般を判断するのは、如何なものか。 

―1999−2003年の主要生産国の胡椒の生産量(トン)
生産国   1999  2000  2001   2002   2003  
ブラジル  22000 26385 26385  45000  35000 
インド   75000 58000 79000  80000  65000
イ、ネシア 44500 77500 59000  66000  67000
マレーシャ 21500 24000 27000  24000  22000
スリランカ  4740 10676  7800  12600  12750
ヴェトナム 30000 36000 56000  75000  85000
その他   20600 26675 33895  38712  40500
合計   218340 259186 305685 341312 327250
胡椒は年平均気温23−28度C、湿度80−88%、雨量1500−3500mm、
日照時間年2000時間を好む熱帯作物であり、蔓性で支柱に幹が張り付く。1Ha当り
約2千本の苗を植え、3年で収穫があり、15−20年間栽培可能。実を乾燥した物を
黒胡椒と云い、実を流水に10日間漬けて、表皮を剥いで乾燥した物を白胡椒と呼ぶ。
青い実を其の儘、塩水に漬け保存したグリーンペッパーもあり。
― 2002年と2003年の栽培面積(Ha)と輸出量、国内消費量(トン)
生産国   2002   輸出量    2003年   輸出量   国内消費量  
世界    448601 191498 455156  188581 
ブラジル   23101  35531  23101   34940  6000
インド   215000  24914 215000   17200 58000
イ、ネシア  84000  21020  84000   33000  6000
マレーシャ  16300  20453  16300   15474  1400
スリランカ  28500   8225  28500    7717  4800
ヴェトナム  43500  78155  48800   77500  2000
世界の主要国の生産量と輸出量は略、横ばいであるが、ヴェトナムだけが右肩上がりであ
り国内消費も僅少である。生産量の略100%が輸出向けである。インドは生産量も多い
いが、国内消費も多く、国際市場ではヴェトナムに抜かれている。又ヴェトナムのイール
ドも1Ha当たり2トンと悪くない。
―主要国の2008年及び2009年(予想)の生産量(トン)と収穫時期。
主要国       2008年      2009年予想    収穫時期
ブラジル      37000トン    37000トン    8-9月
インド       57000      60000      2−4月
ヴェトナム     99000     100000      3−6月
スリランカ     15000      15500      4−7月
マレーシャ     21000      22000      7−8月
インドネシア    23000      25000      7−9月
2008年の世界生産は約25万トンでブラジルはその約15%を占める。ヴェトナムは
その約40%を占め、他生産国を圧倒している。国際価格の動向はヴェトナムの作柄如何
に掛かっている。
―新興国ヴェトナムの台頭
1954年のフランスとの独立戦争で南北に2分されるが、1960年北は南とアメリカ
に宣戦布告しヴェトナム戦争勃発。1975年には南の首都サイゴン陥落、76年には南
北統一した。人口は約9千万、米軍相手に戦争を勝ち抜いた、強烈な民族のエネルギーと
勤勉性は卓越したものあり。労働賃金もまだ廉価で中国の農村部以下。近年、輸出農産物
の生産に注力しており、社会主義から市場原理を取り入れた資本主義をドイモイ(刷新)
政策をスローガンに取り入れており、その効果はたちまち現れ、コーヒーの生産では世界
2位(年間100万トン生産)、胡椒はダントツ、米はタイに次ぐ輸出国となった。日本政
府はODA(政府開発援助)を行っており、ヴェトナム援助国のナンバーワンの援助国
である。(援助開始の90年代から総額20億ドルぐらいの、円借款、無償援助、技術援助
を行っている)、こうした援助が間接的にヴェトナムのインフラを整備し。胡椒栽培の後押
しをしており、結果的にアマゾンの日本人移民が築いた胡椒栽培の足を引っ張る要因にも
なってている事を外務省は知るべしだ。
―ブラジルの1979−2001年の栽培面積(Ha)、生産量、イールド、価格US$
年度    栽培面積   生産量    イールドkg−Ha  価格US%−Kg
1979  15292Ha 46289トン 3027kg−Ha US% 7,04
1985  16859   34704   2058         16,39
1989  20665   60671   2271          8,00
1991  32210   75298   2267          1,73
1995  15752   27760   1759          1,78
1997   9647   17250   1911          2,22
2001  17541   14010   2503          2,56
胡椒の国際相場は実需、投機、様々な要因で上下を繰り返す。、1985年にべレンの価格が1キロ16−17ドルを付けたら、翌年は半額、6年後はその1割の価格に落ちる現実
があり、農家の栄枯盛衰も、自助努力ではなしに、国際相場によって決まる投機農業である。国際商品の単一作物栽培に依存する農業は、リスクが大きく安定性に欠ける。トメアスでは、作物の多角化を目下実行中である。
―ブラジルの胡椒の栽培地帯
過去に於いて、トメアスを中心とする、パラー州が栽培の殆どであったが、現在ではパラー州が85%、バイヤ、エスピリットサント、ロンドニヤ、ピアウイ州が15%の割合であり、他州に栽培が広がっている。次は1980、1990,2000年のトメアス及びパラー州他地域の栽培面積と生産量の関係である。
            1980      1990      2000
パラー州他地域     19480Ha   26575Ha   9345Ha
生産量         53312トン   59962トン   25796トン
トメアス栽培面積     7609Ha    5734Ha    3733Ha
生産量         22586トン    12263トン  9187トン
パラー州全体栽培面積  27089Ha    32339Ha  13078Ha
生産量合計       75898トン    72225トン  34983トン
トメアスの栽培面積の後退と他地域への栽培の移動は、胡椒の病害、根腐れ病の蔓延による減産、価格低迷による耕作放棄等の要因による。 
―胡椒の病害フザリュームの蔓延
フザリューム菌はカビの一種で1960年頃トメアスで初発病が見られた。菌自体はブラジル全域にあり、土壌線虫ネマトーダと共存関係にあるらしく、根腐れ病、胴枯れ病の根に線虫の寄生を見る。感染すると、2−3年で木は枯れる。蔓延すると感染速度も速く、胡椒園は墓標の如き、支柱だけの廃園となる。この黴は土壌にも残るが、空気伝染も起こし寄生範囲も広く、胡椒以外の作物にも被害を与える。罹ったら、汚染農場を放棄し、金の掛かる防除対策よりも非汚染地区の新開地に移った方が得策である。トメアスの胡椒栽培農家の約半数が病害と価格の低迷も加わり、耕作放棄若しくは移転を行った。90年代の日本への出稼ぎブームは若者の胡椒離れに拍車をかけた。アマゾン在住日系人12000人の15−20%が出稼ぎでアマゾンを離れた。今、トメアスの日系人口は約200家族で約1200人を数える。
―アグロフロレスタル(森林農法。永年作物を複数混植し、自然状態に近かずける栽培法)
アマゾンの土壌は森林によって守られている。原始林を伐採、開墾すると、日射と雨量により数年内に土壌の有機質が分解、流亡し、砂地同様に変わる。又、単一作物だけの栽培上の弊害(病害虫対策)もあり、ある程度、自然状態に近い、森林状態を残した混植の方が適切であり、土壌荒廃も病虫害も少ないことが判明し、原始林の伐採は全て行わず、有用樹、大木はShade Treeとして残し、胡椒、果樹、カカオを混植する半自然農法が浸透しつつある。果実を利用したトメアス産組経営のジュース工場(アサイ椰子の実のジュース、アセロラ、クップアスージュース等)も軌道に乗ってきている。、日本移民が80年間の、苦節の跡に見出した新農法に期待したい。(マレー半島等でもカカオとゴム等の混植栽培
は既に始まっている)
以上
麻生
2009年7月1日



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