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「アマゾンの歌」を歩く ニッケイ新聞堀江剛史記者の連載記事(その2)
2歳でトメアスー(旧アカラ移住地)に入られた現在82歳の山田元さんがアマゾン移民80周年の今年矍鑠としてトメアスー移住地で住職もしておられるとの事、是非9月のトメアスー移住地での80周年記念式典でお会いしたいと願っています。日本で出稼ぎ者の通訳としても過ごしておられこの80年の移民史を生きて来られた貴重な生き証人だと思います。サンパウロに置ける公演も大変好評だったとの報道がありますが関係ニュースもここに収録して置きたいと思います。密着取材された堀江記者の記述にもその目線がとても温かく私の好きな記者のお一人です。益々の活躍を期待したいと思います。
9月15日(火)から21日(月)まで県連主催の第32回移民の故郷巡りのアマゾン移民80周年式典 べレン、トメアスー、マナウスの旅に参加させて頂く積りにしていますが、邦字紙が報道している沢山のアマゾン移民の皆さんとも直接お会い出来る楽しみもあり私なりのアマゾンを楽しんで来たいと思います。
写真は少しサイズが小さいのが残念ですが、連載の最終回に掲載されていた山田さんの住職姿の写真を使わせて頂くことにしました。


「アマゾンの歌」を歩く=(7)=母の急死、密林での出産
 精米所で働いていた頃、元さんは結婚する。妻となったのは、今村豊江さん(〇七年に七九歳で死去)。結婚披露宴は、一九四六年五月だった。

 「かわいそうな娘じゃないか。生まれたばかりの時にブラジルに連れてこられて、身よりもない所で、みなし児になってしまった。
 なあ、元…お前の嫁にして、みんなで大事にしてやろうじゃないか。他国で生きてゆこうというのは、並大ていのことじゃない。足弱のものがあれば、だれかが手をひいて歩いていかなければ…お互い、日本人同士なんだから…」

 山田家と同郷の今村靖一、タケ子夫妻は、四一年に相次いで黒水病で亡くなった。
 両親を亡くした豊江さんは、戦時中トメアスーの支配人だったブラジル人の家で住み込みの仕事をしていた。
 元さんによれば、トメアスーで生活必需品をまとめて購入、移住者に売る仕事もしていたスエノさんー非常に社交家であったーがまとめてきた話だという。
 二歳で連れてきた息子に嫁が来ることになった。心から喜んだであろうスエノさんは婚約が決まった直後、四十八歳の若さで急死する。心臓発作だった。
 「四十五年九月十日午前五時でした。五百メートル離れたところに住んでいた医者の菊地(文雄)先生をすぐ呼びにいったんですが…」。入植以来十八年、働き詰めの人生だった。
 新婚の二人は精米所に住み、昼夜なく働いた。
 「昔は除草剤もないし、草取りも大変でした」。二十人を雇い、四六、七年には、三十町歩で一千俵を収穫した。
 当時、稲穂の波が広がっていた場所を眺めながら、イガラッペ(小川)を渡る。
 「この水を飲料水にしていたんですが…汚れましたねえ」
 水車小屋に至る道はすでにない。薄暗い森。他と変わったように見えない一本のカジューの木を見付け、「多分ここだと思います」と木をかき分け、森の中に入っていく元さん。
 かつて知った道とはいえ、八二歳とは思えないスピードで歩を進めていく。溝に架かる、朽ちた木を渡るときも速度が落ちない。何度かぬかるみに足を取られつつも、慌てて追いかける。
 当時水車小屋があった場所は、完全に木が覆い繁っている。ただ一つ、水車の軸を支える石の台座が残っていた。
 「十年も住んでいたんですけど…何の面影もないですね。長女(里子)と次男(充)は、ここで産まれたんですよ」
 身篭っていた豊江さんが産気づいた。慌てて産婆経験のある人に頼みに行ったが、水車小屋まで来ることができず、取り上げ方を教えてもらうことになる。
 「臍の緒を切って、トマ・バーニョさせて…何とか格好つけました」と屈託なく笑う。
 夕暮れ時となった十字路までの帰り道、元さんは、スエノさんの思い出を口にした。
 「水車小屋までの行き帰り、馬車の上でよく『露営の歌』などの軍歌を歌ってくれました」
 スエノさんは前夫と死別、子供を婚家に残して義一さんと再婚した。戦争を知り、出征兵士として戦地に赴くかも知れない息子をトメアスーの地で案じていたのだろう。

 ―あの子の方じゃあ、なんとも思うとらんじゃろう。遠いブラジルに来てしもうた母じゃもん。あの子にとっては死んでしもうたも同然じゃけえー。当然のことと思いながらも、ブラジルからは反対側といわれる祖国の遠さが今さらにせつなかった。

 元さんが水車小屋で仕事に精を出している頃、トメアスーには戦争の影響が及んでいた。(堀江剛史記者)


「アマゾンの歌」を歩く=(8)=戦時中は日本人収容所に
 一九四一年十二月、日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカとの戦争が始まった。伝えられる各地での日本軍の華々しい戦果。マラリアや困窮生活が長く続き、行く末への果てしない不安を抱いていたトメアスーの人々は愛国心を掻き立てられ、狂喜した。
 精米小屋にいた元さんは、戦争当時の様子をよく覚えていない。「ですが、熱心な人がいて、日本軍がどこを攻撃している、どこの都市が陥落したという情報は常に入ってきていました」。
 翌年一月の国交断絶後は、ブラジル政府は日本人三人以上の集合、日本語教育などを禁止する。
 「確かに苛められたってことなんでしょうけど。社交家だった母がブラジル人とも仲良くしていたので見つかってどうのこうのっていうのはなかったですよ。港のブタ箱に入れられた日本人もいたそうですが」
 四二年八月にベレン沖でブラジル商船がドイツ軍潜水艦に撃沈(連合軍側の陰謀とする説もある)されることでトメアスーの生活は一変する。
 怒り狂ったベレン市民の焼き討ちに遭った多くの日本人が逃れてきた。パリンチンスなどアマゾン中流域でジュート栽培(黄麻)に関わっていた高拓生らも移送された。
 山田家はベレンの二家族を受け入れた。「着の身着のままでねえ。大変だったようです。高島さんと渡部さんという家族七人でした。一年くらい仕事を手伝ってもらいました。我々も助かったんですよ」

 スエノはつと手を伸ばして元の腰のあたりをひとつたたき、はね返ってきた固い音に、二人は顔を見合わせて笑った。元はふろしきに包んだ日本語の教科書を腰にしばりつけ、その上にシャツを着てかくしているのだった。

 義一さんは教育熱心だった。禁じられていた日本語教育は各家の敷地に建てられたバラックで行なわれた。精米所で働いていた元さんにも、日本語を教えた。

 彼は夜の時間を割いて、元に日本の文字を教え、一緒に歴史の本を読んだ。日本語を理解することによって、元は日本人の精神を持つようになる―

 「戦前の子供はみな読み書きできましたよ。あの頃は一日十二時間労働。それでも『最低三十分は勉強しろ』って。マラリア蚊がいるから、蚊帳の中での勉強だけど、カンテラでやるから蚊帳が真っ黒になってねえ。『二宮尊徳を見習わんといかん』ともよく言われました」
 終戦、そしてスエノさんの突然すぎる死――。

 日本の敗戦を契機として、アカラの人々の多くは永住を決意した。元は精米所に戻り、山田は未明から耕地へ出て、山田一家はスエノの抜けた場所に深い穴のような暗さを残しながら、平常の生活に戻った。何事があろうとも、まず働かなければならない。

 「元々、永住決意で来たと思います。そのために婿をもらうよう姉を広島に置いてきたんだから。父に直接聞いたことはありませんが」
 日本軍の侵攻で戦火が広がった東南アジアで胡椒栽培が下火になり、日本の降伏とともに独立したインドネシア(当時世界第一の胡椒生産国)が食料自給政策のため、胡椒を米に転作、胡椒の国際相場が急騰する。
 これが後に、トメアスーに巨万の富をもたらす下地となっていく。
   (堀江剛史記者)


「アマゾンの歌」を歩く=(9)=〃黒いダイヤ〃ブーム到来
 マラリアが蔓延し始めた一九三三年、南拓社員の臼井牧之助(女優小山明子の実父)は、第十三回アカラ移民を引率し、神戸から、はわい丸に乗り込んだ。
 船内での死亡者を火葬にするため、シンガポールで下船したおり、胡椒の苗を二十株購入する。
 五年経っても、永年作物を見出せない植民地で試作するつもりだった。到着後、トメアスーのアサイザール試験場にそれを植えた。
 その二年後の三〇年、鐘紡は経営難が続く事業の縮小を断行する。移民らの怒号のなか、当時一万円の私財を残し、南拓社長の福原八郎はトメアスーを去った。
 閉鎖されることとなった試験場ですくすくと育ったわずか二本のピメンタを加藤友治、斎藤円治が貰い受け、自分らの畑に植えた。
 地道にピメンタを育て、その数を増やし、終戦の年には八百本になっていたという。二人は苗を配り、畑の隅で育てる人も多かった。
 トメアスーの人々が、〃福音〃としてピメンタに注目したのは、四七年にあった組合の定期総会の席だったという。
 同年九月から十一月までの事業報告で今まで雑収入でしかなかったピメンタの売上高が米と野菜に次いだのである。
 次回の報告では、ピメンタが七倍の売り上げを記録、全員が主作作物に切り替える。

 ピメンタは蔓科植物で、その栽培にはまず蔓をからませる支柱が必要である。これは腐らない、固い木でなければならない。この支柱は重く、運搬が一仕事である。一台の荷馬車には十本以上は積めない。
 山田は一度に二台の荷馬車を引くことに決めた。これで一回に二十本を運ぶことができる。朝三時から夕方七時まで、彼は二台の荷馬車をひいて黙々と炎天下を歩き通し、遂に目標の千六百本を自分の力だけで運び終えた。

 この畑は元さんがいた精米小屋の近くにあった。「アマゾンの歌」で〃アカラ一番のがんばり屋〃と書かれる父義一さんを「難しい人間であることには間違いない。無口な方ですよ。でも仲人も結構したんですよ。家の中では頑固でも、外ではニコニコしてね」と評する。
 植民地を挙げて、胡椒栽培に取り組んだ。国内の販売拡張と輸出を見越し、五〇年にはサンパウロ出張販売所を開設。
 五二年から、ピメンタの国際価格が急騰、〃黒いダイヤ〃と呼ばれたピメンタブームが起きる。五二年にキロ当たり九十三クルゼイロだった価格は、五四年には倍となった。
 当時の国内消費は千二百トンと見られていたが、トメアスーの生産量は同年、八百トンを記録。当時の組合員数七十八人の総売上高は八億三千五百円に上った。五六年には輸出も開始、まさに黄金時代が訪れる。
 二八年の渡伯前、帝国ホテルで行なわれた壮行会で福原社長は、「植民事業を五年以内に成功させる」と株主らに語った。
 鐘紡の武藤山治社長はそれを制したうえで、「二十年論」をぶった。
 武藤の先見通りの結果となったといえるが、その恩恵に浴したのは、退耕者を見送り、マラリアと敵性国民としての扱いに耐え抜いた六十三家族のみだった。(堀江剛史記者)


「アマゾンの歌」を歩く=(10)=農協理事長、市議も
 胡椒景気を迎えたトメアスーの生活は一変した。移民の多くは家を新築、それは〃ピメンタ御殿〃と呼ばれた。

 いっさい装飾を省いた長方形の総二階に、学校の寄宿舎のように同じ形の窓が等間隔に並ぶ山田の家にも、彼の質実な性格が現れていた。雨季明けの五月、開拓時代の犠牲者二百七十人の供養のため、トメアスーを訪れた浄土真宗本願寺派門主・大谷光照夫妻は、山田の新築の家に一泊した。法要の席の山田は、スエノをはじめ、トメアスーで生まれ、貧困の植民地だけで短い生涯を終わったすみれ、昭の冥福を心から祈った。

 五四年に建設したこの家に今も山田さんは住んでいる。一階にある仏壇の上には、「見照」「至誠心」と大谷氏の揮毫による額がかかる。
 「門主さんが来られたときは、二階でお説教をして頂きました。その後にも年賀状などを貰い、父は『有り難い』とよく言っていました」
 義一は五人の子持ちだった寡婦みつよさんと再婚、その後三人の子供をもうけた。元、豊江さん夫婦も六人の子供に恵まれた。「一時はこの家に十七人が住んでいたんですよ」と笑う。
 この年、義一さんは二十五年ぶりに故郷広島に錦を飾る。

 いま彼は祖国の土を踏んだが、しかしかつて夢見たように、日本に骨を埋めるためではない。親がわりの愛を注いで育ててくれた長兄・力太郎がすでに高齢に達しているので、健在のうちにブラジルでの生活を報告しておきたい―という気持ちに押されての訪日であった。

 「子供の頃、置いてきた姉を連れて、東京見物などをしたそうです。ピメンタ景気で贅沢する人もいましたが、うちで言えば、父が里帰りしたこと、増産のため土地を増やしたくらい。良かったことは、弟たちがちゃんと学校に行けたことでしょうか」

 窮乏時代に育った長男だけが小学校卒で終わったことを、彼の成績が抜群だっただけに、山田はいつまでも残念に思っていた。しかし、学歴のない元が、独学ながら日本語、ポルトガル語の読み書きを十分こなし、思慮深い性格で周囲に認められていることが、いっそう嬉しく、頼もしくもあった。

 「成績優秀というのは…角田先生が飾って書かれたんでしょう。小学校もギリギリで終ったくらいですから。組合に入る時は、履歴書に書くことがなくて困りましたよ」
 元さんは六一年、トメアスー総合協同農業組合の理事となり、七〇年から四年間、八二年にも理事長を務めた。通信技術が発達していない当時、会長、専務、秘書はベレンに勤務した。
 「日曜日から金曜日まではベレン。父からは『人のために、犠牲精神を持って仕事しろ』と言われて、一生懸命やりました。ただ、組合の仕事をやると自分の営農が疎かになるんですね」
 元さんが理事長を務めた七、八〇年代、ピメンタの盛衰は激しく、非常に厳しい時期を過ごしたという。
 市会議員も六九年に一期務めた。七人の当選者のうち最高得票。教育充実に力を入れた。
 「自分もブラジルの小学校へ行かせてもらいましたから。中学校へ行けなかった悔しい思いをしたし、務めだと思いました。ベレンから先生を呼んだり、机と椅子を百組船に乗せ、運んできたり。だけどポリチコっていうのは、嘘をつかないといけないんですよ。それが耐えられなくてね。一期で勘弁してもらいました」(堀江剛史記者)


「アマゾンの歌」を歩く=(終)=アマゾンの歌、その後
 『アマゾンの歌』の取材のため、角田房子氏がトメアスーを訪れたのは一九六五年末。―それから四十四年。トメアスーをめぐる環境は大きく変化した。
 作家が感嘆した整然と植えられたピメンタのみの畑はすでにない。
 六〇年代の病害の蔓延でピメンタ一本だった農法の見直しが図られた。続く不作、七四年の水害で受けた大打撃をきっかけに熱帯植物などの生産が増え、現在はアグロフォレストリー(森林複合栽培)のモデル地区だ。
 ジュース工場で生産するアサイーやクプアスーの加工品生産でも有名となった。
 もちろん、山田一家も大きく変わった。物語の主人公となった義一さんは、八八年に九十歳で亡くなった。
 元さんは九一年、日本にデカセギに行っていた長男旭さん、現在同居する四男亘(わたる)さんの誘いで豊江さんと訪日する。
 二歳での渡伯以来、六十二年ぶりの里帰り。二人の姉に再会することが目的だった。
 「生まれたところは藪になっていました。猫の額のような土地でね。ブラジルに来て良かったと思いました」
 その後、旭さんの働く工場に挨拶に行ったところ、日ポ両語が堪能であることを見込まれ、そのまま妻豊江さんとその会社で働くことになる。当時デカセギブームが到来、ブラジル人労働者と会社の軋轢も多かった。
 「ブラジル人、日本人両方の言いたいことが分かるでしょう。辛い時もありました」。休みの時は、書道を習った。
 「今の日本人に感じたことは、年寄りを大事にしない、物を粗末にすることでしょうか」
 通訳している姿がテレビで放映され、角田氏から連絡があった。「名古屋で会う約束をしたんですが、結局会えず仕舞。でも、著作を送って頂きました」
 その間、農園はブラジル人労働者に任せ、電話でときおり指示していた。九九年にトメアスーに戻った。
 「それがねえ…ちゃんとやっていなかったんですよ。勝手な投資をしていたりして。日本人に頼むことは出来なかった。長く働いていた十一人の従業員に退職金代わりに土地を分けて与えました。今は農業やっても深みにはまるだけ。二〇〇〇年には見切りをつけ、他の土地も売りました」
 かつて二百五十町歩を誇った山田家の土地は現在、住宅のある周辺のみとなっている。
 「原始林を開拓して畑を作ったんですから…断腸の思いでした。自分を疎かにして財産をなくした。今でも胸が痛いし、恥だと思っています。子供たちは継がなかった。ピメンタ景気のいい時に生まれて甘やかしたんでしょう。親爺が草鞋で頑張って、孫が靴はいてるわけですから…」。そう声を落とした。
 十字路近くにある『留安山 浄土真宗トメアスー本願寺』を訪れた。トメアスーの顔役的存在で、同寺の世話役を務めていた坂口陞(のぼる)さんが〇七年に亡くなったことから、元さんが後を継いだ。この土地も山田家が寄進したものだ。
 月に二回、お勤めを行なうほか、葬儀なども執り行う。今年九月にある入植八十周年慰霊法要の準備も大事な仕事だ。
 「昨年までにトメアスーで亡くなられた方は八百二十四人です」と過去帳をめくった。
 一九二九年九月二十二日、トメアスーに第一歩を刻んだ百八十九人の第一回移民で現在も健在なのはわずか二人。
 「ここは本当にいいところ。つくづくそう思いますね」。一家で築き上げてきた〃古里〃トメアスーをこれからも見つめ続ける。(堀江剛史記者)

写真=入植80周年の慰霊法要の準備に余念がない山田元さん。世話役を務めるトメアスー本願寺の前で

第一回アマゾン移民山田元さん=本紙主催講演会=『トメアスーに生きる』=200人が来場、関心高く=「貴重な話を聞けた」
 第一回アマゾン移民の山田元さん(82、広島)の講演会『トメアスーに生きる』が、二十日夜、聖市リベルダーデ区の文協貴賓室であった。立ち見が出るほどの盛況ぶりを見せ、約二百人が貴重な初期アマゾンの開拓の証言に耳を傾けた。今年のアマゾン日本人入植八十周年を記念し、広島県人会(大西博巳会長)とニッケイ新聞社(高木ラウル社長)が共催した。ベレン総領事館、文協、援協、県連、サンパウロ人文科学研究所、ブラジル・ニッポン移住者協会、コチア青年連絡協議会、ブラジルを知る会の後援、レアル銀行の協賛。

 山田さんは第一回南拓移民として、二歳のとき、両親の義一、スエノ、姉三江さん(7)の四人でトメアスー(旧アカラー)移住地に入植。第一回アマゾン移民として今でも現地に住みつづける、たった二人のうちの一人だ。
 講演前、山田一家が主人公として描かれた『アマゾンの歌〜日本人の記録』(角田房子著)のドラマ映画の一部が上映され、来場者らは真剣な眼差しで見入った。
 続いて、高木社長、木多喜八郎文協会長が開会のあいさつ。清水オリジオ・レアル銀行取締役は、「私は移民の子。父は二三年、山田さんと同じ広島から来た。映画を見て苦労がひしひしと伝わって胸が熱くなった」と感極まった様子。「遠くから来てくれて、ありがとうと言いたい」と感謝の言葉を送った。
 大きな拍手を浴びて山田さんが壇上へ。「非常に光栄で身に余る思い」。深く頭を下げる姿に再度、拍手が沸き起こった。
 トメアスーの古い写真を見ながら堀江剛史・本紙記者が質問し、山田さんが答えるという形式で講演が始まった。
 渡伯前の家族写真を見て「こうして母に抱かれて来ました」とはにかみ、「とにかく働き詰めだった母の背中にくくりつけられて育ったから、母の体に沿って自然と足が曲がってしまった」。幼少の頃の記憶はないが、山田さんの体が開拓移民の苦労を物語る。
 「家族全員が罹り、生きているのが不思議」と移住地を襲ったマラリア禍にも触れた。当時の特効薬キニーネの多量摂取による〃赤ションベン〃(黒熱病)で、「三、四〇年代半ばは、バタバタ死んだ」との証言に会場は静まり返った。
 十三歳でジャングルに入り、精米のために建てた水車小屋で十年過ごした。当時、妻豊江さんが身ごもった長男、次男を取り上げたエピソードでは、「へその緒を処理して、トマ・バーニョさせて…まあ何とか格好つけました」と会場を笑わせた。
 七、八〇年代には、トメアスー農協理事長、市議も一期務めた。ピメンタブームに沸く移住地の様子も語った。
 その記憶力とその律儀で真面目な喋り口調に来場者は、小一時間じっくりと耳を傾けた。
 講演後、大西会長と高木社長から記念プラッカが贈られた。与儀昭雄県連会長の発声で、トメアスー農協提供のグラヴィオーラで作ったバチーダで乾杯、「ブラジルを知る会」(清水裕美代表)手作り料理のカクテルパーティーが開かれた。
 真剣な表情で聞いていた村本清美さん(51)は、「苦労されたのにそんな様子を全く見せない。本当に貴重な話を聞かせてもらえた」と感慨深げ。
 戦後移民の益田照夫さん(67)は、「金の苦労はしたけど、山田さんのような生死の苦労はしてない。そんなの苦労と言えないね」と苦笑い。
 ブラジル日本交流協会生で山田さん出身の広島で育った日系三世、古賀アンドレアさん(22)は、「移民だった祖母が山田さんと同じ広島出身。胸が熱くなった」と語った。
 講演を終えた山田さんは、来場者の笑顔の輪に包まれながら、「移民して八十年、感無量の一言に尽きます。父母が苦労した歴史は継承して欲しい」と穏やかな表情で語った。



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