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アマゾンを拓く=移住80年今昔 【ベラ・ビスタ編】ニッケイ新聞連載
今年、2009年が日本人のアマゾン移民80周年の年に当たり邦字新聞でも競ってアマゾン関係の記事を掘り下げて取り上げて呉れています。ニッケイ新聞のアマゾンを拓く=移住80年今昔もその一つで『私たちの40年!!』メーリングリストにも流して紹介しています。【ベラ・ビスタ編】の書き出しは、『 「緑の地獄」といわれたアマゾンに日本人が入植してから、今年で八十年の年月を数える。一九二九年九月、トメアスー移住地に入った四十二家族百八十九人がその嚆矢だ。その圧倒的な自然を前に、欧米移民を始めとする開拓者らが屈するなか、ただ日本人だけがその類稀な勤勉さと地道な努力を両輪に、ピメンタ(胡椒)とジュート(黄麻)という二大産業を生み出した。地獄を天国に変えたその苦闘の歴史を振り返りながら、歩み続ける現地コロニアの将来を探る。』と成っている。
9月15日からべレン、トメアスー、マナウスのアマゾン移住80年祭に参加する県連の慶祝団に加わってアマゾンに出向く積りにしており各種連載を寄稿集に残して置きたい。写真はマナウスで適当なものを撮る予定ですがそれまでは、ニッケイ新聞よりお借りすることにしました。


連載=アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベラ・ビスタ編】
第1回=野地忠雄さん「出るに出られん」=ペルー生まれ、米国強制収容も
 雨季もほぼ終わりの四月下旬、アマゾナス州マナウスを訪れた。ラ・ニーニャ現象の影響もあり、アマゾン流域は大増水。「百年来の大水」とのニュースが市民の話題をさらっていた。
 市対岸への船が発着する港の水位は上がり、渡された板の上を歩いて、ボートに乗り込む。けたたましいエンジン音に耳が慣れてくる頃、大都市マナウスとはうってかわり、港で魚を売り買いするのんびりした風景が視界に入ってくる。ベラ・ビスタ移住地の入り口となるカカウ・ピレラ港だ。
 この間八キロのネグロ川を結ぶバルサ(輸送船)が定期就航を始めるのは七三年。それ以前は、個人で所有する船のほか、月に二度ほど運航される州政府の船のみが交通手段だった。
 文明と切り離されたようなこの地に日本人移民が最初に入植したのは、一九五三年九月――。
     ◆
 「マナウスに石油や塩、砂糖、ピラルクーの塩漬けなんかを買い出しに行ってた。ペンソンで帰りの船を待ってね」
 当時をそう回顧するのは、第一陣で入植、現在も移住地に住む野地忠雄さん(69)。当時十三歳だが、それまでの人生が壮烈だ。
 両親はカニエテ(ペルー初期移民が入植した海岸の町)に入ったものの、奴隷同然の過酷な耕地生活から夜逃げ。「リマで散髪屋や金物屋をしていた」という。
 野地さんが生まれた一九四〇年五月、リマでは大規模な排日暴動が起き、日系社会は大打撃を蒙った。多くが帰国、残った日本人は敵性国民として扱われた。一家五人は米国テキサス州の強制収容所に送られる。
 「いい生活でした。毎日一人一リットル牛乳をくれるから、余ったら花の肥料にしてたくらい。日本映画も上映もあって、スイカなんかも配られたしね」。二年ほどの収容所生活は終戦とともに終わる。
 日本に帰国するか、アメリカに残るか、ペルーに戻るかの三者択一を迫られ、父親の竹治さんは、故郷福島に戻る道を選んだ。
 「みんなに『日本は負けてるから帰るな』って言われたのにバリバリの勝ち組だから、意地張ってねえ…。日本を選んだ人は、苦労したんですよ。僕も学校で苛められてね。戦後の食料不足で弟(秀夫、四五年生まれ)は栄養失調に。親父は商売も成功していたし、またペルーに行きたかったんだろうね」。
 ベラ・ビスタ移住地入植の募集を知った竹治さんは、地理的に〃近い〃ことから、再度、南米へ夢をかけた。
 「落ち着いたら、ペルーに行くつもりだったんだろうけど…出るに出られんもんね」
     ◆
 一九五一年、辻小太郎、上塚司らの要請を受け、ゼツリオ・バルガス大統領は、北伯地域への日本移民五千家族の入植を認めていた。
 ベラ・ビスタ移住地は一九三七年から連邦植民地として運営を開始していたが、カボクロがマンジョッカを作る程度に留まり、全く開発が進んでいなかった。
 植民地のビセンテ・デ・ランゼル支配人は、パリンチンス方面でジュート栽培を成功させていた日本人移民に目をつけ、導入を図ったが、受け入れ態勢はほぼゼロの状態だった。(つづく、堀江剛史記者)
     ◎
 本紙ではアマゾン日本人入植八十周年を記念した連載企画「アマゾンを拓く〜移住80年今昔」の掲載を始めます。

写真=(上)「もう動きませんよ」と笑う野地忠雄さん。ペルーで生まれ、アメリカに強制収容された経験をもつ/53年9月、第一陣がカカウ・ペレラ港に到着した(西部アマゾン日本人移住70年記念誌「緑」から)


アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベラ・ビスタ編】=第2回=「ここは監獄」逃げ出す移民ら=日本政府は渡航の援助のみ=〃棄民〃政策の最前線
 昼なお暗い密林のなかに伸びた道にホエザルの叫び声が響く。両側に等間隔で打ち込まれた杭だけが自分の土地の印だった。
 渡航契約時、「家もあり、伐採も済んでいる」と聞いた話とあまりに違う。幼子も連れた二十三家族は、原始林を前に立ち尽くした――。
 日本からベレンまで一カ月半の船旅後、マナウスまでアマゾン河を溯上する船に乗り換えるさい、すでに問題が起こっていた。
 パリンチンスでジュート輸出に携わっていた高村正寿氏(後の海協連マナウス支所長)は、第一陣の到着を控え、移住地に問い合わせた結果、受け入れ態勢が一向に進んでいないことを知る。
 現地に赴き、移住地関係者に準備の要請後、その足でベレンに行くが、移民らが乗り換える船も準備されていなかったという。(移住地創設三十年史)
 海協連ベレン支所長だった奥野隆男氏は、同記念史のなかで、「二ヶ月毎に数百人の移住者が相ついで到着するのに対して、受入れ準備はゼロであった。道路の不備、耕地割、伐採未完了、仮宿舎に居るものは次の移住者が来るので追い立てられ、一〇キロ近い道とも言われぬ山間の踏み分け道を家財道具を肩にて運搬し―(中略)漸くしてどうにか山を伐り稲の蒔きつけをなしたが、土地の調査、耕地割の無責任ななし方の為め砂地に耕地を割り付けられた者は、山焼稲の蒔付をなしても美しく発芽はするが、二、三日太陽が当ると稲は枯草の様になるー」(原文ママ)
 日本海外協会連合会(海協連、現JICA)の元職員で、日本政府の戦後移住政策を告発してきた若槻泰雄氏も入植当時の移住地を訪問している。
 著書『原始林のなかの日本人 南米移住地のその後』で最も強く印象に残っている移住者の言葉に触れている。
 「―何を作っても無理です。野菜一つできませんよ。私らはもう駄目だから…くににうんといいことを言ってやって、みんなをこの地獄のなかに引き込んでやろうかと思っているんですよ」
 若槻氏はただ、「一瞬暗黒の世界につき落とされたようなショックを感じ(中略)言葉もなく長い間立ち尽くしていた」と記している。
 一九五三年七月の第一陣二十三家族から、六二年までに六陣百六十五家族が入植した。しかし、一、二年のうちに約八割の百三十家族が退耕している。
 夜中に石油ランプを手に、持てるだけの荷物を背負い、いつ来るとも知れないマナウス行きの船を待つ移民らの姿がカカウ・ピレラ港で見られたという。
 第一陣の野地忠雄さんは、「余りに逃げ出す人が多いから、軍隊が港に派遣されて日本人は出してくれなかった。だからみんな南のソリモンエス川で船を雇って、夜にボートを曳航してもらって逃げていた」と記憶を辿る。
 「僕の家族は…親父も五十を超えていたし、踏み出す勇気がなかったんだろうね」
 評論家大宅壮一も著書『世界の裏街道をゆく〜南北アメリカ編』で触れている。
 「船着場が関所のようになっていて、そこにブラジルの役人が移民の出入りを監視している(中略)ブラジル政府から支給されたものは、ヤシの葉三十束、板十五枚、マサカリ二丁とランプだけだという。
 タネものや日用品を仕入れにマナウスに行くのも、全植民地を通じて一週間に三人というふうに制限されている。
 あまり出すぎるというので逮捕命令が出たものもいる。これではまるで監獄部屋ではないかと、青年たちは私たちに訴えた」
 「サンパウロの奥地の方では大勢が死んで大変だったみたいだけど、ここはマラリアがなく、死んだ人はいない」と〃不幸中の幸い〃かのように話す野地さん。
 しかし、逃げる状況にない家族のなかには、後悔と悲観のあまり、農薬を飲んだり、密林のなかに入り、首を吊る人も出ていた。
 日本政府が移住者に対して行なったのは、調査でも支援でもなく、渡航費の貸し付けのみ。
 ベラ・ビスタ移住地は、まさに〃棄民〃政策の最前線だった。(つづく、堀江剛史記者)

写真=現在のカカウ・ピレラ港の様子。入植当時、あてどなく逃げ出す移民らが落ち着かない夜を過ごした


アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベラ・ビスタ編】=第3回=石崎矩之さん「絶望だった」=4俵蒔いて、収穫7俵=〃消えた〃携行資金
 「絶望でした」――。第二陣として一九五四年六月に入植した石崎矩之さん(74、熊本)は当時の心境を回顧する。
 「何を植えてもほとんど芽が出ない。出ても数日で枯れる。そもそも技術的な指導者が誰もいない。四俵の籾を蒔いて、刈り取れるのが七俵―。食えないですよ」
 入植間もなく、四十肩のせいか、家長である父為之さんの左腕が上がらなくなり、「開拓どころではない」状況だった。
 そんなおり、評論家大宅壮一氏に随行してきた案内役の三浦さんと話す機会を得る。三十万人近かったコロニア、すでに日本人街リベルダーデがあったサンパウロの存在を知る。
 「ブラジルのことを何も知らずに移住しましたからね。『君みたいな若い人がここに埋もれていてはいけない』と赤間みちえさん(赤間学園の創立者)への紹介状も書いてくれました」
 暗闇のどん底に届いた光明だった。一家は移住地を出ることを決めた。
 同郷熊本出身で海協連マナウス支所長だった高村正寿氏も〃協力〃、「連れて逃げて欲しい」という二家族も合流、アメリカにいた親戚からの送金を待った。
 「マナウスからサントスまで二十五日かかり、停泊中は食事がでない」と聞いた船は諦め、一番安かった航空会社のリオ行き切符を握り締め、五五年十一月、一年五カ月のアマゾン滞在に別れを告げた。
     ◆
 石崎さんは今でも不思議に思うことがある。
 財産を売り払い、銀行に入金した当時数十万の携行資金は、「海協連の下請けだった辻商会(アマゾニア産業株式会社)が管理し、買出しには職員がついてきて支払っていた」という。
 「四年の契約を破って逃げたんだから、お金は引き出せないし、諦めるしかないーと思っていたんだけど、五七年頃、事業団の職員がサンパウロの家に〃借金〃の取り立てに来たんですよ。借りるどころか返してもらってもいないのに。それ一回きりでしたけどね」
 『移住地創設三十年史』のなかで、高村氏は、上塚司に会社設立の指示を受けた「辻小太郎が目をつけたのが移民が持ってくる携行資金である(中略)銀行に預金し、移住者には毎月少しずつ渡せばいいからある期間其の金は銀行に寝ているのである。辻はこの金を見せ金としてベレンの大きな商社を勧誘、(中略)アマゾニア開発株式会社が発足した」と触れている。
 「何があったか知らないがとにかくー」。石崎さんは続ける。「三浦さんには感謝してますよ。会ってなければ、ノイローゼになって死んでいたかも知れない。残った人は本当に大変だったと思いますよ」(つづく、堀江剛史記者)

写真=オンサの赤ちゃんを捕まえ、笑顔の石崎さん。入植当時の19歳、「まだ頑張ろうと燃えていた時期」だった


アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベラ・ビスタ編】=第4回=嵩む人件費、立ちはだかる川=10年間は借金だらけ=農協活動「得するのは伯人だけ」
 残った移住者らは密林を「拓」き、生きる道を「開」くことに懸命になるしかなかった。文字通りの開拓生活が続き、日本からの携行資金もやがて底をついた。
 野地さん同様、第一陣で入植した宍戸宏光さん(72、神奈川)も当初の生活を振り返る。フィリピン生まれ。
 「父(進さん)がマニラ麻をやってたから、試 したんだけど…駄目だったねえ。コーヒーは小粒のものしかできず、出来が良かったグァラナは値段が安かった」
 陸稲の収穫費という形でアマゾニア銀行から受けた短期融資を生活費に充てることになったが、生育不良が問題となった。借金も返せず、生活費もないという状況のなか、ゴムの植付けのため、新しい融資を受けることになる。
 「ゴムは八千本あったら、左うちわと聞いたけど、植えてゴムが採れるまで八年かかる。融資、融資で十年間、借金ですよ」と野地さん。
 その頃、胡椒の急騰による〃第一期黄金時代〃が訪れたパラー州トメアスー移住地に向かう脱耕者も続出した。
 残った移住者らは、そのトメアスーから持ち込んだピメンタ、マンジョカ作りなどに取り組んだ。しかし、悪路のため運搬ができず、雨季には自給自足に近い生活を送らざるを得なかった。
 白いフェイジョン・プライアの味噌、マンジョッカのしぼり汁に塩を入れ、焦がした砂糖で色をつけた代用醤油―。古里日本を懐かしみながら、地道な努力を続けた。
 海協連からトラックやトラクターが貸与され、移住者らを泣かせた悪路も改善され、生活は徐々に安定していった。
 六三年には入植十周年記念祭が行なわれ、ピメンタ(胡椒)の安定した収穫により、将来に希望が持てるようになった。後に養鶏が営農の中心となっていく。
 一九六七年、ブラジル政府はアマゾン開発の一環として、マナウスに関税免除地域(ゾーナ・フランカ)を設置する。
 移住地から、急成長を始めたマナウスへの本格的な輸送も始まった。
 しかし、そこにはネグロ川が横たわっていた。トラックに積んだ生産物を降ろして船に積み、マナウスで荷を下ろして、またトラックにー。人件費は嵩み続けた。
 「だからって市場で高い値段取れない。大変だった」。野地さんと宍戸さんは声を揃える。
 組合の問題もあった。それまで任意組合を運営してきたが、マナウスで正式に商業行為をするために法定組合に改編する動きが起こった。
 日本人だけで作る予定だったが、農地改革院(INCRA)の直轄である連邦植民地だったため、組合員の半数をブラジル人が占める必要があった。これには多くの日本人が反発した。
 「収益の割合は日本人とブラジル人じゃあ十対一なのに、飼料の値段はは同じ」「日本人が頑張って、得をするのはブラジル人だけ」―。
 結局日本人有志で六〇年代の終わりには共同で船を購入し、運搬を行なうようになる。
 「(飼料用の)ミーリョを一トン貸しても返さないブラジル人との組合活動は、アレルギーですよ」と宍戸さんが言えば、「だから自分たちでやったんだけど…大分損したね」と野地さん。
 七三年にトラックを積載できるバルサ(輸送船)が運航を始める。翌年にはINCRAから地権が交付、二十年の苦闘の末にようやく〃地主〃に。
 七五年には海外移住事業団(現JICA)の援助を受け、自治会館も建設され、文化活動も進んだ。
 宍戸さんは言う。「僕たち第一陣の同船者でアマパーやバイーアのウナに入った人は大変だったと思いますよ。(ベラ・ビスタは)発展は遅れたけど、マナウスっていう都市が近くだったから」(つづく、堀江剛史記者)

写真=(上)移住者らが共同購入した船。生産物の積み下ろしにかかる人件費に喘いだ/第1陣入植の宍戸宏光さん、妻正子さん。自宅の梁は開拓で自ら倒したものだ


アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベラ・ビスタ編】=5回=地元教育に献身、大谷三枝子さん=最高齢橋本さん「ここはいいとこ」
 ベラ・ビスタ移住地カルデロン地区には、日本人の名前をつけた公立学校がある。
 「エスコーラ・ムニシパル・ドナ・ミエコ」(一九八四年創立、生徒数四百人)だ。
 「最初は十五人くらいで始めた。寺子屋みたいなもの」と話すのは、同校の創始者、大谷三枝子さん(58、福島)。
 五三年九月、第一陣の大原勝工、ウメ夫妻の三女として三歳で移住した。厳しい開拓生活のなかで、「学校もまともに行けなかった」 が、洋裁や花作りをマナウスに習いに通うほど、向学心は旺盛だった。
 第一陣入植三十年後の八〇年代になっても、二十キロ離れた港カカウ・ピレラにしか学校がなく、雨が降ると通学バスも通らなくなる悪路に未就学児童も多かった。
 自分が十分に勉強できなかった悔しさも手伝い、子供を集め、勉強の楽しさを教えた。
 八六年、移住地を訪問したジルベルト・メストリーニョ州知事(当時)に直談判し、州の支援による校舎建設。〇六年には校舎も建て増し、多くの生徒の歓声が響く。
 地域発展協議会(Conselho de Desenvolvimento Comunitario de Caederao)の会長を務め、九七年にはハウス栽培も始める。
 それまでは、ブラジリアやサンパウロから取り寄せていたピーマンも今では移住地の重要な生産物となっている。
 〇八年には、長年の移住地発展への献身ぶりが認められ、外務大臣表彰を受けた。子供たちは独立し、現在夫の広行さん(65、富山)と静かな日々を暮らす。
 今年四月末、ハウス栽培の堆肥を生産する施設建設に対する州からの助成が決まった。
 三枝子さんが申請、受け入れ団体となる自治会の渉外役を務めていることもあり、「また忙しくなるね」と日焼けした笑顔をほころばせた。
     ◆
 「これならいいばい! って主人より自分の方がその気になってね」。 ベラ・ビスタ移住地に住む最高齢は長崎出身の橋本房枝さん(84)。
 夫博さん(九九年に死去)が働いていた炭鉱が閉山、「四十過ぎとったら、仕事がなかけんねえ」。
 就職を探す合間、花見で訪れた平戸で、移住を呼びかけるポスターに目が止まった。
 「十年で帰る」と両親を説得。家族六人で船に乗り込んだ。
 六二年十月に到着したが、入植予定だったエフィジェニオ・デ・サーレス移住地の土地の地形が悪く、耕地割りができなかったことから、ベラ・ビスタへ転耕した。
 十四年目の七六年、ブラジルで生まれた長女恵子さんを連れ、初帰国。後に博さんとの帰国も果たした。
 移住地の治安も悪くなり、最近は強盗にも入られた。何より嫌いな雷の凄まじさも日本の比ではないという。
 「だけど、日本は何かのんびりできないね。ここは日陰も涼しいし、いいところよ」。〃緑の天国〃とばかりに笑顔を見せた。(つづく、堀江剛史記者)

写真=(上)「ドナ・ミエコ学校」の前で。大谷三枝子さん/移住地最高齢の橋本房枝さん(左)と長男博美さんの妻ひとみさん、「ここは住みやすいよ」と声を揃える


アマゾンを拓く=移住80年今昔=【ベラ・ビスタ編】=第6回(終)=移民悩ませた川に架橋=橋本自治会長「ついに征服」=野地さん「もう死なんといかん」
 移住地最高齢の橋本房枝さんの長男、橋本博美さん(58)は、「父の選択はいい事だったと思いますよ」としみじみと語る。
 「ようやく英語のアルファベットを覚えた」十二歳で入植。「第一陣の人が入って十年経っていたから、そんなに苦労はなかった。先住者の人に色々教えてもらってね」と控えめに話す。
 六八年に創立された自治会の現会長を務 め、〇三年入植五十年祭も会長として式典を執り行った。子供も減少で日本語学校も閉校、自治会活動は少なくなったが、忘年会や盆踊りは移住地の楽しみとなっている。
 エフィジェニオ・デ・サーレス移住地出身の妻ひとみさん(52、福岡)と養鶏業を営み、週二日は自らハンドルを握る。マナウスまで卵の販売のため、バルサに乗るためだが、その生活もあとわずかとなるようだ。
 「川もついに征服されるね」――。
    ◆
 現在、マナウス市からベラ・ビスタ移住地に架かる橋の建設が進んでいる。外国資本による工場用地が手狭になったため、対岸に造成されることが決まった。四月中旬にはルーラ大統領も視察に訪れ、完成は二〇一〇年三月が予定されている。
 エドゥワルド・ブラーガ州知事は、世界から注目されるアマゾンの環境保護には、企業誘致が最善の方法と説く。
 「一頭の牛を飼うには一ヘクタールが必要。それだけの土地で何台のバイクが生産でき、何人の雇用ができるだろう」
 すでに他州から土地の買収に訪れる人もおり、マナウスとの大動脈となる周辺は俄かに活気づき、土地の値段も上がり始めているという。
 半世紀以上、日本人移民を悩ませ続けてきたネグロ川の向こう――時には蜃気楼にも見えたマナウスと地続きとなる。
 野地さんが「やっと橋が出来るけど、もう死なんとならん」と苦笑いすれば、宍戸さんが「マナウスに住んでる家族が週末に遊びに来るよ」と笑顔で応えた。(おわり、堀江剛史記者)

写真=(上)「川もついに征服されるね」。現在も週2回はバルサ(後方)に乗る橋本博美さん。カカウ・ピレラの港で/移民らを悩ませ続けたネグロ川の架橋工事が進む。2010年3月完成予定




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