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丸木 英朗さんの【ポルトガル紀行】前篇
トロントにお住みの丸木 英朗さんが結婚35周年記念を祝す目的でポルトガルからカナダに移住したジィアス夫妻に招かれて2週間ポルトガルを訪問されました。ポルトガル南半分を4人で美味しいワインと新鮮な魚を堪能しながらの旅を9回に分けて沢山の写真と共に書き送って呉れました。使用ソフトの関係で1度に掲載出来ない為2度に分けて寄稿集に収録して置くことにします。
ユーモアとこれまでの世界の街との比較、思いで等も関連させての紀行文、写真は各BLOGで見て頂けるようにリンクを張って置きますのでそちらでご覧下さい。
【ポルトガル紀行】前篇は、リスボンの町から聖地ファチマまでです。寄稿集に使用する写真は矢張り旅の道ずれ丸木夫妻にディアス夫妻の4人の写真を使用させて頂きました。


ポルトガル紀行 (第1話)
聖母マリアの現れたファチマ神社で僕達夫婦の 結婚35周年アニバーサリーを祝うため、ポルトガルに行ってきました。ポルトガルからカナダに移住し50年間1日も休ます働き、故郷に錦を飾られたディアス夫妻に招かれての旅でした。夫妻はトロントを一望できるレークショアのデラックスコンドに暮らし、リスボン郊外のセトゥーバルと南欧随一のリゾートであるアルガルベに大西洋を見下ろすペントハウスを持ち、毎年数回両国往復される優雅な生活。ポルトガルはかつてブラジルの宗主国でもあり、ブラジル人の妻リーナが1度は訪れてみたい国でした。僅か2週間の滞在でしたが、ポルトガルの南半分をドライブし安くて美味しいワインと新鮮な魚を堪能しました。西欧ではピレネー山脈の西側は文明に取り残され遅れておりヨーロッパではないとか、ブラジルのピアーダ(ジョーク)で人伝に聞いていたポルトガルのプロフィールはかんばしくなかったのですが、聞くと見るとは大違い、歴史の重みの漂う伝統ある立派な国家でした。空港からセトゥーバルに向う際に渡った超モダンなヴァスコダガマ橋は、着陸の前に飛行機の中から巨大な全容が見えていたが世界に誇る近代橋梁技術の結晶と見受けられた。橋を渡り5〜6分走ると、ハイウエーの左側には新空港の広大な敷地地が整地途上。街に入る手前に大きなショッピングセンターとショッピングモール(その名もジャンボ)が見え、その裏の丘陵地に建つ新しいアパートのペントハウスがディアス氏の新居。屋上のテラスは四方にあり、前方には市街地と大西洋の入り江が見渡され美しいトロイア半島が広がる。反対側にはスペイン統治時代のサンフェリッペ城やパルメラ城の夜景がきらびやか。広いテラスの食卓には僕の大好物の鯛の丸焼きが用意されていた。取って置きの本場のワインが供されたのは云うまでもない。翌日、ディアス氏は所要で市役所に行きローザ夫人と僕達は市内の散策に出かけた。港町の玄関にはフランシスコ・ザビエルの像があり日本にも足跡を残したと刻字されている。ランチタイムにレストランで待ち合わせ、この地方の名物料理ショコフリッタ(カブトイカのフライ)に舌鼓を打った。生ビールが飲みたくなりブラジル語でショッピと注文したが通じない。ポルトガルでは生ビールはインペリアル、皇帝の飲み物なのかな。投資家のディアス氏は市内にオフィスがあり、カナダに行っている間には錠前がかかっていた筈のガレージの中のポルシェが破壊されていた。落書きが残されており、土地のならず者の仕業と見受けられた。どこの国でも金持ちは妬まれるもの。美しい並木道十月五日通りの中ほどにあるオフィスの裏側の小さなプラザにあるタベルナの前では鰯を炭火で焼いていた。ポルトガルは日本と同じく焼き魚を食べる。アメリカでは葬儀場で遺体を焼くにおいに似てると焼き魚を嫌うが、ここでは店に大きな文字で「炭火焼き」の看板が出ている。信心深いリーナの目的はカトリック大聖堂での礼拝だが、食いしん坊の僕の目的は鰯の塩焼きを食うこと。ギリシャにもタベルナは居酒屋のことだが、ポルトガルでは飲むだけでなく食事の後でポーカーをやるところ(即ち賭博場も兼ねている)、スペインではタベルナは確か「飲む打つ買う」ところとか。こりゃ食べるなと言われても食べたくなりますわ。
アパートノ裏山を登りつめたところがパルメラの街、両側はオリーブの林とゆうより、ポルトガル全土がオリーブと葡萄畠、それにワインボトルに使うコルクの木がいたるところにあり、コルクの生産量は世界最大。パルメラ城から眺める街並みはオレンジカラーの屋根瓦が美しく新しい家の様に見えた。帰りに街の中に入ると車が通れないぐらい道路が狭く中世の古い家屋だった。ポルトガルは城が多く、殆んどの城では民宿を営んでいるから城主になったつもりで滞在するのも乙なもの。(続く)
写真:パルメラ城の眼下に広がるセトゥーバルの街並、パルメラ城にて右からディアス夫妻と僕達夫婦、リスボン中心街の地下鉄入り口にてテルシオ・ディアスと僕
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41664137.html
(コメント集)
丸木 さん
愈々始まりましたね。楽しみにしていた『ポルトガル紀行』です。私も一度は行って見たいと思っている国ですので大いに勉強させて頂き触発されて近い将来に出かけて見ます。
続きを楽しみにしています。又『私たちの40年!!』ホームページにも収録させて頂きます。写真は沢山あるようですし。。。


ポルトガル紀行(第2話)
三日目に電車でリスボンに出かけた。駅で切符を買い郊外列車に乗車したが検札はなかった。たまには車掌の検札があるので薩摩の守はやらないほうが無難とのこと。半時間ぐらいで4月25日橋(旧サラザール橋)に差し掛かり、橋桁の近くにリオのコルコバードを真似たキリスト像が立っている。橋の右側には世界一周のキューナード豪華客船が停泊しており、反対側にベレンの塔が見える。この塔はリスボンのシンボルで大航海時代の守護神的存在。地下鉄との乗換駅で下車し、地下鉄の切符自販機で買おうとしたが良く解らなかった。駅員の説明では地下鉄も含まれてるので、自販機で交換券を受け取るように教えてくれた。帰りにも往復券が必要だから失わないようにと親切だった。地下鉄は駅構内も車両もトロントよりモダンで快適。ポンバル侯爵広場で降車し地上に出たら、ブラジル銀行の真ん前でした。近代ポルトガル建国の父と称されるポンバル首相の銅像を中心に円形スロープの広場は息を飲む絶景。ここから市街に伸びるリベルダーデ通りは広々とした並木道。両側には多国籍企業や銀行、高級ホテルやブチックがあり、パリのシャンゼリゼーの趣き。日本文化を欧米に紹介した外交官作家モラエスの生家に通ずるケーブルカーが故障しており、テルシオと僕は徒歩で辿り着き、日本語で書かれた表札を見てきました。モラエスの物語「サウダーデ(郷愁)」は新田次郎が新聞連載していたので訪日の度に読んでいたが、著者の死により未完のまま。最近になって子息の藤原正彦教授(お茶の水大学)が続編を執筆されると聞き及ぶ。完成すれば是非読んでみたい。ローザとリーナは並木道のベンチで寛いでいた筈が見当たらず、テルシオが慌てて近辺のブチックや宝石店を探し回った。すると、僕の携帯が鳴り、なんのことはない直ぐ傍にあるブラジルの駄菓子屋でガラナを飲んでいた。坂道を登ったり降りたり足が棒の様になったので、炭酸の効いたガラナのうまいことうまいこと。スペイン大使館を過ぎた辺りから政府関係の庁舎が多くなり、さすがは一国の首都らしく威厳と伝統の大都会の様相、マドリードと共にリスボンは中南米の諸国の首都の原型と見た。アベニーダ・リベルダーデは独立記念塔のあるレスタウラドーレス広場まで。ここからは庶民的な街角となりヨーロッパ大陸の終着駅ロシオ。下関からフェリーで釜山に行き汽車でシベリア鉄道か、シンガポールからバンコック経由オリエント急行でヨーロッパに来れば此処が終点。
目の前に現れた光景にあっと驚いたのが、駅前にあるドナマリアII世国立劇場の先にあるドン・ペドロ4世広場の敷石のデザイン。ブラジルはリオデジャネイロのコパカバーナ海岸の歩道と全く同じ。さてはコパカバーナの真似したな、デザイン盗用かと怪しんだら、事実は逆でポルトガル人がリオの海岸に母国の文化を伝えたのが真相。
模倣の本家の日本では大阪の心斎橋筋に同じそっくりのデザインがあったが一体どちらのを盗用したのかな。この広場の両側にはニコラとスイスいう有名なカフェーがありテラスのテーブルでワイングラスを傾けてる人々はシックな服装で賑わっていた。
リスボンの目抜き通りを歩いて、そろそろ腹の虫が収まらなくなり歩行者天国アウグスタ通りにテーブルを出してるレストランに入った。テルシオの行きつけらしくマスターが愛想よく迎えてくれた。馬鹿野郎!の言葉が行き交う客とギャルソン、一体何事かと思ったら鱈料理専門店。ポルトガル語で鱈はバカリャウ。ちなみに馬鹿野郎をポルトガル語ではサカナと云う。ほんなら大阪弁やったら「あほんだら???」かなと一人感心しながら食べたバカリョアーダのうまいことうまいこと、白ワインを5リットルぐらい飲んだかな。隣のテーブルの客がブラジル人で、早速リーナの話し相手になりブラジル訛りのポルトガル語が延々と続く。ポルトガルの昼食時間は長い。
(続く)
写真:スペインからの独立記念レスタウラドーレス広場に立つ僕、同じ広場のオペラハウス前のリーナ、独立記念オベリスク、ヨーロッパの終着駅ロシオ駅前でポーズするリーナ、ロシオ広場の国立劇場前で玉転がしに興ずるローザと僕(テルシオが加勢に駆けつけても動くはずがない)。
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41685162.html


ポルトガル紀行(第3話)
ドイツ人ゲーテの「イタリヤ紀行」には、ドイツでは珍しい黒髪の女の礼賛がいたるところに出てきます。イベリア半島はアラブに征服された歴史があり混血してるので、ポルトガルでも時々はっとするような美しい女性を見かけます。フランスでもアルルの女が美しいようにアラビア軍の通過した地方には美人が多いですね。アルルの女に見とれてた時も、リーナが僕の耳を引っ張り現実の世界に戻されるので、弁当を持ってレストランに入ったような旅は良し悪しです。5年前にテルシオは鮮魚輸入会社をパートナーに譲りリタイヤーし、同じ年にトロント大学を定年退職したローザと結婚され、僕達夫婦が仲人的役割を果たしました。30年以上の付き合いだから今更新婚でもないと思いましたが、やはり正式に結婚された気分は新鮮なのか僕達はあてられどうし。1935年生まれの僕より3才年上のテルシオは、母の故郷ポルトガルの小さな漁村リベイラ・デ・レイリーヤで生まれ6歳の頃から父の故郷エストレーラ・ダ・セラ連峰の山育ち、テルシオより15歳年下のローザは北大西洋に浮かぶアソーレス島の出身。僕達夫婦が訪問販売の行商をしてた頃に立ち寄った旅行代理店の店員がローザで、大学の給料が安いのでアルバイトをしてました。彼女は週末にはパン屋でも働いてました。ポルトガルからカナダに移住した頃は、英語が解らず専門用語のタイプには苦労したそうです。僕がアメリカの多国籍企業ボシュロムに職を得てから、リーナはローザの仕事を手伝い始め仲良くなり無二の親友となったのです。ボシュロム本社のあるロチェスターでのピクニックにも、旅行代理店の店主と共に国境を越えて参加したり、我が家の裏庭でのバーベキューにも来てましたがテルシオがいつも一緒でした。彼にはに大きな息子達が居ましたが、夫人との仲がうまくいかなかったようです。ローザは中米のコスタリカやカリブ海の島々にもテルシオと行ってたらしく、密会先からの電話では誰と行ってるのか何しに行ってるのか不明でした。
晴れて結婚できるまで30年以上かかったのですから長かった春とも云えます。結婚式には息子も孫も別れた夫人も出席してませんでした。大学の退職式は盛大で立食パーティーも愉快でした。日系三世の娘の退職に二世の母親も来ており日本語で話しかけられましたが、九州弁でした。僕は6年も九州で暮らしたので直ぐに打ち解け、その方は帰加二世の福岡県人会長で浮羽郡育ち。テルシオが主任教授やスタッフ達を招待し、大学近くの高級レストランで晩餐会を催しローザとの婚約を公表したので、退職と婚約のダブル乾杯をしました。日本と違い西洋では定年退職は目出度いお祝いなのです。話をリスボンのレストランに戻し、バカリャウを食べながらの会話はテルシオ家の移民話。父親はブラジルに2回、アメリカに2回移住された。アマゾン河畔のマナオスで電車の運転手をしたとか、デトロイトのフォード工場内のベツレヘムスチールでクレーンマンだったが、世界大恐慌を機にポルトガルに帰り結婚されたとか。やはり、本人にも父親の血が流れてるのか兄弟こぞってアメリカとカナダに移住された。一方、ローザは末っ子で親兄姉すべて海外移住し、カナダをはじめアメリカのカリフォルニアとフィラデルフィア、バミューダ、スエーデン、スイス等々に住む。
写真:心斎橋筋に居る気分の僕、ロシオ広場で新婚気分のテルシオとローザ、 ロシオ広場のカフェー・スイス、リスボンのホテル街、コパカバーナに居る気分のリーナ
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41699302.html


ポルトガル紀行(第4話)
長いアルモッソ(昼食)の後は、ほろ酔い気分でアウグスタ通りを大航海時代の起点テージョ河に向って歩いた。巨大なアーチの手前に何か得たいの知れないシルエットが見えてきた。遠くからは銅像に見えたが、人だかりしてる近くに行くと男と女のよう。泥か蝋を裸体に塗った若い男女で全く動かない。リーナが傍まで行き握手しようとしても不動の姿勢。アーチを抜けると河に面した広大なコメルシオ広場に出た。この辺りには主要官庁があり、15世紀までは世界最強の海軍国だった面影を残す海軍省前の広場はアーチを中心に荘重そのもの。残念なことに、大規模な工事中で水族館模様の壁面の魚の顔の部分の穴から顔を出し写真をとるような工夫が凝らされていた。それでも、市電や市バスのターミナルでもあるので人の行き来が賑やか。歩いて坂道の古風な商店街を少し北上、テルシオが仕立て屋の看板を指差し、昔は弟の店だったと懐かしそう。その上のほうにあるアルファマ地区に、リーナが行きたいといっていたサント・アントニオ教会にも参拝した。丁度十年前に、バチカンで銀婚式をあげる途中に立ち寄ったイタリアのパドヴァでサント・アントニオのミイラを拝観したことがあり、その生地がこの教会の場所でもあるのだった。はからずも、僕達夫婦の結婚25周年と35周年に縁結びの聖人サント・アントニオ所縁の地を踏んだのでした。十年前には、フランスののトゥルーズでレンタカーを借り、南フランスと北イタリアを一ヶ月間ドライブしローマで車をドロップオフしたのでした。ベニスの近くのパドゥアの街の想い出ほど悔しいことは御座いません。夜ともなれば大勢の夜の女が街角とゆう街角に素っ裸で手を振ってるとリーナが云うのですが、運転に集中していた僕には見ることが出来なかったのです。
他にも、リスボンには古い街並みやエンターテインメント地区等いろいろ観る所はあるのですが、又の機会ということにして、地下鉄の駅と思しきMサインの階段を下り、ホームに入って来た電車に乗り込んだのは良かったものの、反対方向に乗っていたのでユーターンしてポンバル侯爵広場で乗り換え郊外列車の駅に向いました。駅にはポルトガル最南端アルガルベ州の首都ファーロ行き特急が停車中で、この旅の最終目的地に思いを馳せた。(続く)
写真:サンジョルジュ城を背景にローザと僕、同じ背景の僕とリーナ、バカリャウ満腹でご機嫌の僕(アウグスタ通りにて)、魔女?が僕の後を・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41727559.html


ポルトガル紀行(第5話)
この旅行の主目的地であるファチマ神社に到着。オリーブ林に聖母マリアが現れ、そのお告げに従い、この地に神社を建てたと云われるカトリックの聖地。キリスト教を回教に例えるのはいかがなものかとは思いますが、バチカンがメッカとすれば、ここはメジナに当り世界中からの巡礼者が引きもきらない街です。バジリカ前の巨大な広場はバチカンよりも広く、ワシントンの議事堂からリンカーン記念堂までのモールよりも大きい印象を受けました。これより巨大な広場は北京の天安門広場ぐらいでしょう。敬虔なカトリック教徒のリーナやローザ達は、多くの巡礼者と共に聖母の出現した辺りに蝋燭を灯し祈りを捧げてました。
過度の水泳トレーニングで左肘腱に痛みのある僕は、売店で蝋細工の左腕を買い求めお供えしました。参拝者が自分の治してほしい部分を買って供えるという、人間の身体のパーツも売られてるのです。バジリカのミサで僕の頭に去来したのは聖母マリアではなく、高校時代に通っていた教会でのバイブルクラスの想い出でした。僕はクリスチャンでもないのに、同級生で隣に座っていた可愛子ちゃんが毎週木曜の夜にバイブルクラスに出席するので、ついて行ってたのです。牧師は国際基督教大学学長にもなられた故リチャード・リンディーで会話は全て英語でした。僕は終戦後にパンパンガールの斡旋なんかしてたので英語がしゃべれたので楽でした。神聖な聖堂で不遜な物思いに耽ってた異教徒の僕は、ビールの飲みすぎで小便が近くなり退座しトイレに入って驚いたのなんの!ポルトガル人が一物をしごき、巨根較べをしていたのです。僕はポルトガル語も解るので何を喋っているか解りましたが、ここに記述するにははばかられます。小柄なポルトガル男のマラが巨大とはブラジルのピアーダ(ジョーク)にもなってるので凡その見当はついてましたが実物を見て仰天しました。欧州歴訪から斬髪して帰国し、お咎めを免れないことを承知の、初代首相になる伊藤博文の一行は小柄なポルトガル人になりすまして日本に入国したとか。話が横道にそれてしまいましたが、幻想は誰でも見るもので、聖母マリアが子供達に話し掛けたと云いますが、幻想におののき幻聴もあり得るので、異教徒の僕には信じられないことですが、これだけの施設には圧倒され世界最大の宗教の威力には感心しました。信教の自由、鰯の頭も信心から、何を信じようと人の勝手でしょうが坊主丸儲けとはこのことでしょう。
それでも、僕は賛美歌を歌うのは好きで、特にベートーベンの第九なんかを朗々と歌うと心が洗われます。ちなみに、高校時代の可愛子ちゃんは芸名・絵沢萌子、古希を越えた今でも映画に出演しテレビドラマでも毎日どこかのチャンネルに必ず出てるほどの人気女優だそうですが、60年ぶりで彼女と一緒に賛美歌を歌いたいものです。大伽藍の礼拝堂にひれ伏してると、神父の説教を聴くより他の妄想が浮かぶのです。自分が今どうしてヨーロッパの果てに居るのか、大航海時代にポルトガルが日本を征服しておれば当時の日本は?現在の日本は?やはり太閤様がキリシタン伴天連の宣教師達を殺害し追放したから日
本はフィリッピンや他のアジア諸国の様に欧州列強の植民地にならなくて良かったとか・・・。(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada/41751367.html




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