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【三笠宮様、マチュピチュを語る】富田眞三さんのアメリカ便りより
早稲田大学の海外移住研究会の富田眞三先輩のBLOGに掲題の【三笠宮様、マチュピチュを語る】と云うもう50年以上前の話が昨日の出来事のように再現されている。『懐かしき早稲田青春劇場の一コマである。』との結びの言葉の通り早稲田に学んだ者でこの早稲田青春劇場と云う言葉はそれぞれが過ごし演じた熱い青春の日々を思い出させる言葉で大好きな言葉です。
私はこの三笠宮様の早稲田講演の年には、大隈講堂の裏にある早稲田ゼミナールと云う予備校に通っていました。富田先輩より断片的に聞かせて頂いていた話題を今回懐かしい諸先輩の各役割等も明らかにした皆さんの動きを知り数年の時差は有るが同じ時代に同じ思いを抱いて早稲田の杜で青春を過ごした者として大変嬉しい寄稿を収録出来ることに感謝しています。
写真は、早稲田祭 Cafe de Waseda 左から細井君、森田君、小島君、村井君、山本君、筆者との説明が付いていますが、最初の3人の先輩は直接存じ挙げていませんが、サンパウロの村井先輩、サンチャゴの山本先輩、筆者の富田先輩とは懇意にさせて頂いています。


先日、岸総理講演会について書いた際、早大海外移住研が三笠宮様の講演会も主催したことに触れた。
その後、ブログの読者から三笠宮様の講演会についても知りたいと言うご要望が相次いだ。
そこで、「早大海外移住研究会のHP」に投稿した私の2005年11月5日のレポートに手を加えて、お届けすることにする。
なお、当時移住研の幹事長だった山本雅俊君(チリー在住)の「遠い昔の思い出の記」は、私の忘れていたことを思い出させてくれ、大変参考になったことを記して、感謝の意を表したい。
なお、当時の写真も同君の提供によるものである。

三笠宮様、マチュピチュを語る
今日の新聞(05年11月5日)に今年度の文化勲章受章者、文化功労者を皇居宮殿に招いたお茶会が4日開かれ、天皇、皇后両陛下と共に三笠宮様も出席された、と報じられていた。
お元気そうな宮様の写真を拝見して、47年前の早稲田祭を思い出した。

昭和33年(1958年)の早稲田祭開催に当たり、移住研は、すでに恒例となっていた展示会の他に、三笠宮様をお招きして「インカ帝国遺跡マチュピツについて」と題する講演会を開催した。
これは移住研の部長をお願いしていた滝口宏教授(人類学)が当時東京女子大講師だった三笠宮さまとお近づきであったことが幸いして、実現したものだった。

三笠宮殿下、日本人ブラジル移住50年祭にご臨席昭和33年7月、ブラジルで「日本人ブラジル移住50周年記念祭」が開催された。
式典には日本から天皇陛下のご名代として三笠宮及び同妃殿下がご臨席された。
戦後、ブラジルの日本人は「勝ち組、負け組」に分裂し、抗争問題に発展していた。
移住50周年記念祭を開く際も、勝ち組は非協力的であったが、三笠宮様が出席すると分かると、事態は一変、双方の協力体制がひかれ、以後和解に進んだ経緯があった。

「岸総理講演会の真実」でも触れたが、当時南米の情報に飢えていた我々、移住研のメンバーは帰国されたばかりの、三笠宮様に講演の依頼を行ったのである。
すると、宮様は『ブラジル移住について、講演するほどの知識も資料もない』とおっしゃったが、宮様は帰途、ペルーに立ち寄られていたので、それではマチュピチュの遺跡についてお話頂けないでしょうかと再度お願いし、お引き受け頂いたのである。

宮様講演会の発端はこうだった。早稲田祭の企画会議をしたとき、展示会とCafé de Wasedaの他に何か「大きいこと」をやりたいという話になった。そして、ブラジル移住50年祭に参列された三笠宮様をお招きして、南米の話をして頂こう、と計画したのである。

早稲田祭(1958年)海外移住研の展示会場の宮様。宮様の右は西野入、滝口両教授

宮様との最初のコンタクトは東京女子大への電話だった。電話口に出た宮様の女性秘書は、「宮様にお伺いしますから、一週間後再度電話して下さい」と医院の予約受け付けのように淡々と応対したらしい。
その後、先述した滝口教授の口添えはあったが、三笠宮講演会はすんなり実現の運びとなった。それにしても、当時は全てがノンビリしていたのである。高貴な方は「人を疑うということが無い」と言われるが、宮様は「見も知らずの学生の電話だけで講演会を引き受けて下さったのだ。将にNoble(高潔、気高い)そのもののお人柄なのである。

しかしそれからが大変だった。何せ学生のこと、当日どのように宮様に応対したら良いのか、全く分からなかったのだ。しかし、数ヶ月前ブラジル二世のタムラ連邦議員が早稲田を訪問した際、後藤君、村井君、富田の三人は、大浜総長とタムラ氏の通訳を務めた縁で、総長と面識があったことが幸いして、大浜総長は全面的に協力して下さったのである。
やがて、その日となった。

宮様の秘書が、「宮様は大隈講堂の前で落合いましょうと仰っています」とのことだったので、当日我々は講堂前でお待ちしていたところ、三笠宮様は女性秘書運転のダットサン・ブルーバードで到着された。
大浜総長も学生と共に宮様を出迎えて下さったそうであるが、私には全く記憶がない。

講演会の準備と当日の進行は幹事長だった山本君等、三年生が担当したが、我々4年生にも役割が分担された。覚えているのは、後藤薫君(サンパウロ在住)が好評封切中の吉永小百合の主演映画を借りてきて、講演終了後上映したことだ。
映画終了後、後藤君は次の上映館にタクシーに乗ってフィルムを届けに行ったものだ。
私は滝口教授のご指名で、宮様のご案内役を仰せ付かった。その際、教授から宮様を「三笠先生」とお呼びするよう指示されたことを記憶している。

さて、会場は超満員となり、三笠先生は当時日本人は誰も知らなかった、マチュピチュをカラースライドを駆使して紹介、解説され、聴衆を魅了して下さった。スライドの映写は山本君が担当した。
そして講演会は無事成功裡に終了出来た。

三笠先生、漫画展をご見物講演の後、三笠先生は移住研の展示場に足を運んで下さって、一通り展示内容をご覧になり、我らが「Café de Waseda」のコーヒーもご気軽に試飲して下さった。コーヒーはブラジル・コーヒー院東京支局が寄贈して呉れた特級品だった。

続いて我々は三笠先生の「もう一つだけ展示会を見たい」とのご要望を入れて、早稲田祭の一番人気の「漫画展」にご案内した。
当時の漫画展は4コマ漫画を実物大の人形を使って展示する方法を取っていて、実に面白かった。それもその筈、後年日本の漫画界をリードする、東海林さだお、園山俊二、福地泡介等の俊才たちが作品を展示していたのだ。
ところが、三笠先生は漫画の意味するところがさっぱりご理解出来ないのだ。例えば、「鮨詰めの満員電車のシーン」をご覧になっても「満員電車」にお乗りになったことがないので、「満員電車とは何ぞや」から説明しなければならなかった。
後藤君、佐藤喬君、村井修君(サンパウロ在住)山之内良隆君(故人)山本君等々の諸君が私を助けて、三笠先生に説明してくれたことを良く覚えている。
その時、先生は実に悲しそうな顔をなさって、「我々皇族は一種の片輪ですね。国民の皆さんのことを何も知らないのですから」と仰って今にも泣き出しそうな顔をなさったのが印象的だった。
三笠先生と連れ小便さて、三笠先生に辛い思いをさせて仕舞った、漫画展会場の商学部校舎4階へは、階段を歩いて登り降りして頂いたのだから、我々も相当非常識だった。エレベーターが無いため、止むを得なかったのだが。
一階に下りると、トイレに行きたいとおっしゃる三笠先生をご案内した序で、私は三笠先生と連れ小便をしたのである。二人並んで放尿していると、宮様からご下問があった。
「富田君、この『我が国の将来は、今君の手に握られている』とは何のことかね?」
運悪く、宮様の便器の前の壁にその落書きがあったのだ。漫画展の続きのような展開に、弱冠22歳の小生がどうその場面を切り抜けたのか、覚えていないが、あれは将に冷や汗ものの経験であった。

このハップニングで少々怯んだが、私は思い切って、自己紹介をしたのである。
「宮様、実は私は宮中の御用掛を務めていた、歯医者の加藤の孫です」と。
すると、三笠先生は「加藤は元気か? 加藤には世話になった」と祖父を覚えていて下さったのである。
「祖父は去年亡くなりました」と告げると、祖父の思い出話を語って下さった。
三笠宮様は小さい頃から祖父の良いお得意様だったのである。調子に乗った私は、「三笠先生のおたあさま(お母様)の貞明皇后様は時々、かりん糖を3,4本、御ひねりにして祖父に託して送って下さったものです」と語ったのである。すると、宮様はかりん糖はおたあさまの大好物だった、と懐かしそうに語って下さった。トイレの外の立ち話だった。

やがて、山本君から謝礼の金一封を受け取って、三笠先生は滝口教授以下、移住研メンバーの見送りの中ご機嫌よく御帰りになった。
懐かしき早稲田青春劇場の一コマである。



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