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【都市小説・なつメロ合唱の集い】(前篇) 丸木 英朗さんの第18回堺市「都市文学賞」応募作品一挙公開
丸木さんが70歳の時に書きおろした掲題の【都市小説・なつメロ合唱の集い】を以前送って頂き読ませて貰いましたが、都市文学賞応募作品との事で入選しなかった場合には『私たちの40年!!』HPで公開することになっていましたが今回、丸木さんが来年2月のサンパウロに置ける老人会のなつメロ合唱の集いに参加する為に5年振りに来伯予定があり多くの関係者が集う計画が進められており関係者がこの小説に仮名で紹介されており御本人からの依頼もあり2回に分けて全文を公開することになりました。とにかく『面白い』是非読んで見て下さい。この『私たちの40年!!』メーリングリストのメンバも登場するし各エピソードは「あああの人?、あの事件?」と直ぐに分かる親しみを感じる。
写真は、シニアーの水泳大会で幾つものメダルを取得した時に撮った奥さんとの得意のポーズを使用しました。


都市小説・なつメロ合唱の集い

 サンパウロ空港で待つワイの前に、下駄履きで飛行機のタラップから降りてきたのは、当時テレビの新番組11PMで売り出し中のベルンハルト藤崎。革のサンダルがけで空港に出迎えたワイは学生時代の同級生・柳生三太郎。

「それ、なんじゃい?  藤やん、下駄履いて来たんか」、「そや、おんどれの手紙には下駄履いて来いと書いてある」。「遠い所へ行くと思わんで、気楽に下駄履きのつもりで来い云うこっちゃ」、「へ〜、さよかワイは、また、靴履いて来たら水虫にでも、なるんか思てな」。「相変わらず、そそっかしい奴やなあ、そやけど、こんな地球の裏まで、よう来た、まあ一杯いこか」。

 ホテルのバーで、まずい酒飲みながら級友に取材先手配を頼まれたけど、ワイは未だ新米の移民で何の役にも立たんと断った。
いやもう、あの頃の酒の、まずかったこと。飲んだら頭が痛となるんで当時は「あたまキリン」と呼ばれてた東山農場製の「東麒麟」。それが今ではバイオテクノロジーの発達で世界一旨い酒に変身した。
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の号が東山で、東山農場と野村財閥の野村農場は日系農場では最大規模。

 ワイら移民が、ブラジル丸乗船前にオリエンテーションの為に、1週間滞在してた神戸移民収容所から電話したら「取材に行くぞ」云うといて、出帆した後で、もぬけのからの移民収容所に来やがったそそっかしい男、その藤やんが日本文壇の長老になり、先週には直木三十五の記念碑と記念博物館を大阪に建立したと伝え聞く。

藤やんはテレビ局のアレンジした商議所会頭歴20年の広田氏(伯国兼竹社長)、友協会長の宮内氏(南国銀行頭取)、南伯日報の水上社長なんかの世話で取材したらしい。ワイのほうは、と云うと、これ又さっぱり当てにならん学友で、当ての外れたブラジル生活をさっさと諦め、アメリカの新天地へ再移住してもた。
それでも、初めて住んだ外国の町・サンパウロは、ワイにとっては第2の故郷、故国日本よりも懐かしい。日本は発展し過ぎてもたんで、この頃では日本に行くより急速な発展途上の韓国や中国のほうが、日本よりも、なんとなく感触が合う。 今はやりの韓流かな?

ワイはブラジル移民のなれの果て、アメリカ勤務で定年になり、今ではカナダのトロントに、30年以上連れ添ったブラジル人の妻カルラと暮らしとります。
毎年年末年始には、カルラの里帰りに付き合うてブラジル東北の田舎に行くけど、今年は「なつメロ合唱の集い」に参加する為に、7年ぶりでサンパウロにも足を伸ばした。

レシーフェから空路3時間、サンパウロの国内空港・コンゴニアスに着いた。海兵78期の森山さんに空港から電話して銀座ホテルで会った。この方は、世にも珍しい東大機械工学科卒の移民。
ブラジルに行ったら、この海軍士官と一献傾けるのがワイの2番目の楽しみ。ほんなら第1番の楽しみは?と来るやろ。そない慌てなはんな、まあ、そろそろ、もうちょい先に出て来ますわ。

ワイは日本で極芝メデイカルに勤めてたけど、森山さんは移住してから極芝本社の現地法人に転職され、退任後も極芝の電力事業のコンサルタントをされてた。
大下産商では、後に十州石油の初代社長になった上村氏が森山さんの上司で、その方は全く会社には出勤されず、朝っぱらから柳橋の柳橋亭で酒を飲まれ仕事の決裁も、その料亭でされる豪傑。
インドネシアの大統領に日本人夫人の、御輿入れが仕事だったとか、とにかく森山節は桁外れに話がおもろい。

ワイが「あした、このホテルの裏2ブロック先にある老ク連会館での、なつメロ合唱の集いに出席し、空の神兵をリクエストして唄います」と申したところ、森山さん曰く:

「空の神兵は陸軍には勿体無いほどの名曲ですが、あれは陸軍の落下傘部隊が昭和17年2月に、パレンバン(スマトラ島)へ降りて、ロイヤル・ダッチ・シェルの精油所を無傷で占領したときの歌です。昭和18年中学3年のとき、隊員だった中尉の講演を学校で聞かされました」。まさに歴史の生き証人、更に驚くべき事実は「海軍の落下傘部隊は昭和17年1月にセレベス島メナドを攻略したもので、そのときの隊長・堀内豊秋中佐(後・大佐)は、我々78期の第1部部監事で体育の教官(彼は海軍体操の創始者)でしたが、戦後オランダ軍から戦犯として追及され、昭和23年に絞首刑になりました。占領時代の責任を問われたもので、彼は無罪です」。

森山さんの恩師は、かくも無念な死を遂げられたようですが、インドネシア独立50周年記念日に、メナド市に堀内大佐の慰霊碑が建立された。このように日本軍のお陰で、142年間続いたオランダによる搾取と弾圧の植民地支配から開放され、独立できたインドネシアの国旗は日本に謝意を表す白地に紅くデザインされている。

お互いの元気な姿を、たしかめあった後、日本人町リベルダージのメインストリート・ガルボンブエノ街を700番から13番まで歩いた。700番地が1泊する銀座ホテルで13番地は、このホテルに所有しておられるスイートを提供してくださったブラジル猛虎会会長・尾南さんの甲子園宝石店。右を見ても左を見ても懐かしさが、こみあげてくる38年前に初めて暮らした外国の街。

ホテルを出て最初の交差点には在伯日系人の総本山・友協が昔のまま、少し先の通りの左側にトナミ商会の看板が見えた。店主の富梅さんの奥さんは、丹下清子の長女で日本舞踊と和太鼓の師匠。
同じ斡旋屋の世話で同じ船で移住し、共に暮らし共に働いた真野君が丹下さんの荷物を担いで来た縁で、西も東も判らぬ入国当時には、未だ独身だった丹下さんの家に転がり込みセルベージャを飲んだもの。真野君は、散水チームに入団しブラジル球界屈指の名投手してプレーしてましたが、出稼ぎで2世の奥さんと息子を連れて日本に帰ってしまった。

3年前にアメリカで開発された新機軸のイメージガイダンス・システムを、ワイの出身母体の極芝那須工場に売り込みに行った際には、真野君が東北新幹線の駅で迎えてくれ工場まで運転してくれた。彼は那須に住み、株式会社・玄人集団の番頭として極芝やショート等地元各工場の仕事をしてる。2世半のジェルソン君は池上にある那須ラーメンの東京店長。トナミ商会には、孫も含めブラジル三世代が日本で暮らす真野君一家の写真があった。

道端のバンカ(新聞・雑誌スタンド)でニッポ・ブラジル新聞が目にとまった。初めて見る出稼ぎ新聞で日本での暮らし方や沢山の求人広告が掲載されており全文ポルトガル語。2世はともかく、3世や4世になれば日本は外国に過ぎず、このようなメデイアが必要。ワイが住んでた頃には4紙あった日刊邦字新聞も2紙になり、出稼ぎで日本人が減少の一途を辿り今では140万人。

此処まで書いたら、ブラジルから嬉しいメールが飛び込んできた。ポルトアレグレで貿易商を営む佐田さんから「早稲田ゼミナールという予備校で知り合った僚友・平空海君がコロニア天皇の職・友協会長選出馬の為に選挙事務所を開設するとのニュースがニッケイ新聞の2月26日付け記事として掲載されております。」
記事:前代未聞の事務所開設?平空海さん、友協会長選に出馬へ=1世実業家、必勝体制で・・・。ブラジルでは、日本人入植者を拓殖事業に携わるものとしてコロニアと自称。
強いて、こじつければコロニア天皇とは、日系人代表。

忘れもしない、昭和40年の秋に学移連(日本学生移住連盟)ブラジル実習生の一員として帰国報告講演会でユニークな弁舌で、カナダに行こうかブラジルに行こうか迷っていたワイに、ブラジル移住の決断させたのが平空海君。既に無くなった学移連は、存続しておれば去年が50周年。願わくは平君が友協会長に当選され、2008年には天皇皇后両陛下を迎え、日本最初のブラジル移民船・笠戸丸サントス入港記念の百年祭を完遂されたい。

今年の初め、ワイら夫婦がサンパウロからの帰りにアトランタで乗り換えの際に、東京からの便が遅れ接続便に乗れずアトランタ空港出発ロビーで夜明かしされた日系4世のタダノ・アンジェリーナさんが「笠戸丸で移住した日本人の子孫です」と申され「曾祖父が103歳で亡くなった時には、日本政府から立派な記念品が届き、チオが保管してます」。

百年祭での再会を約し別れたが「ブラジルで大学出て働いたが給料が安いので、一族全員日本へ出稼ぎで愛知県刈谷市の自動車部品工場の工員なの、毎年このように里帰りできるし、先祖の故国が繁栄してるのは有難い」。そう云えばニッポブラジル新聞の求人欄は、中部三県から静岡県の浜松に至る好景気地帯GNAグレーター名古屋エリアが大半、知多湾には24時間空港セントレアが完成した。
この現実を、103歳で亡くなられたタダノさん等の笠戸丸同船者が草葉の陰で、どう思われてるだろうか慟哭が聞こえる。

去年、新宿の歌声喫茶「ともしび」が、上野公園の水上音楽堂で50周年記念千人大合唱を開催された桜の季節に、佐田さんが「ブラジル南部に住む佐田です、トロントの柳生さんを通じて歌声喫茶「ともしび」が50周年を記念して上野のお山で大合唱を実施するとの事を、お聞きしました。

学生時代よく「ともしび」に通い皆で唄ったのを楽しく思い出します。昨年9月2日に、それこそ40年振りに場所は変わっていましたが、昔ながらの雰囲気を保つ「ともしび」にオフ会の2次会として14名の仲間(平均年齢60数歳?)で訪問しました。

初めて行く方も居りましたが、今も尚、昔を保ち新しさを吹き込む半世紀の歴史と雰囲気、誇れるものだと思います。翌日に計画されていたブラジル講演会の最後の部分に、昔「ともしび」で唄っていた歌を予行演習させていただき披露しました。
最後に、異境の地で亡くなられた多くの同船者を悼む気持ちを込めて、学生時代に新宿の歌声喫茶で覚えた反戦歌の一つ「大砲としゃれこうべ」の歌をお聞かせしましょう四番は私の気持ちを詠ったものです。

四番 ブラジルに来て 早四十年過ぎ
   夢かなわず 故郷を思う 
   しゃれこうべが ラララいうことにゃ
   祖国の土も 踏まずに死んだ

故郷を想いながら異境の地で死んで逝った多くの同船者、ブラジルの土に返る私自身の思いを込めて鎮魂の歌をお聞かせしました。」

昔は、日本を喰い詰めて海外に渡った移民の外国生まれの子孫が、日本に出稼ぎで逆流してる現状をみると、もっともっと日本人は海外雄飛し移住もしくはロングステイで外国に定住しないと、我々日本移民のルーツは消え去るかも。

一昨日の、ニッケイ新聞のコラムOLHA!に“以前ブラジルに住んでいた知人が再来伯した。「リベルダーデがさびれた感じがする」というのが最初の感想だという。そういえばオーリャ子も1年ほど日本に滞在して戻ってきたときに、同じような気持ちを抱いたことを思い出した。しかし、実際には中国、韓国系の進出はいうまでもなく、ビルや大学の建設華々しく、むしろ反対といえよう。日本人はやはり、リベルダーデに特別のな感情を持っている。
日系色が薄まってくると見れば、寂れていると云えなくもない。
今、友協ビル構想で日系社会はかまびすしいが、数十年後、「かつてここが日系社会の中心だった」ということになるのは寂しい気がする。”

ワイに言わせれば、なんら中国人や朝鮮人を排斥する理由はないし、相乗効果で日本人町が東洋人町に生まれ変わり発展してるのは結構なこと、愛国行進曲の歌詞の様に“・・・世界の人を導きて正しき平和打ち建てん・・”。同文同種、特に朝鮮語と日本語は文法も同じとか、ブラジル移民の先輩として快く受け入れましょうや。
笹川先生も言われたように「世界人類皆兄弟」いいじゃないか、大東亜共栄圏を築いたと思えば。そやけど、ワイの考えは古いかな?

古いといえば、ワイがブラジルに住んでた頃には、軍神になりそこなった捕虜第1号の海軍士官が、トヨトミ自動車の現地法人社長をしておられましたなあ。
たしか、真珠湾を攻撃した特殊潜航艇の乗組員で一人だけ生き残り、同僚九人は九軍神。それが今は、真珠湾いうてもハワイにあるのん知らん若者が多くなり、三重県にあると答える学生が居るとか。

走馬灯の如く、いろんな思い出に浸りながら日本人町を歩き、ガルボン街13番地に着いた。地下鉄リベルダーデ駅の入り口の直ぐ傍に、甲子園宝石店があった。店の前で迎えてくれた店主の尾南さんは、兵庫県人会長。本籍は大阪でもワイは甲子園生まれの甲子園育ち、れっきとした兵庫県人やけど、勤務地の長崎で移住手続したので移住事業団では長崎県出身と登録されてる。
移住前のワイは長崎営業所長で、当時ここ以西には営業所が無く、海外勤務を申し出たが却下されたので、移住してブラジル総代理店総支配人になった経緯は五百枚の大作・小説「繁田一家の残党」に詳しく描かれている。

地下鉄のサンジョアキン駅の近くから、想い出に浸りながら丁度一駅歩いたことになる。途中にあった大阪橋の大鳥居には「良くぞ日本人を、この国に受け入れ守って下さった」と思わず合掌した。
そして、かつて上海出張の際に、今も残る陸戦隊本部の建物を訪ねた途中に渡った横浜橋を偲び、ここもいずれは、つわものどもの夢の後となるのでは・・・と感無量。

今日のサンパウロ新聞によれば、「日本人村建設」構想実現へ・海外志向のシルバー対象・移住者協会が本格的な取り組みに着手。日本の定年退職者の年金では物価高の日本で暮らすには充分でなく、遥かに生活費の安い国へ同胞を招こうとブラジルはじめスペイン、オーストラリア、マレーシア、フィリピン、タイ等が競ってる。

同様の構想を、学移連OBで夢ベテランML同人の徳永さんと岸川さんが、以前から提唱され日本の年金生活者誘致活動を開始され、日本人村建設計画を支援。ちなみに、このML管理者は神奈川大出身の大塚氏で、三重大卒の徳永さんは有機コーヒー事業、兵庫農大卒の岸川さんは整体治療院を経営。 既に歴史となった学移連が平君の友協会長立候補を機に、蘇生した感がする。

阪神タイガースが18年ぶりで優勝した一昨年に、トロント猛虎会が発足したが、ブラジル猛虎会は1983年結成で2年後に阪神が優勝した際にもレストラン「とら」で祝勝会をしたとか、現在は尾南さんが会長。
甲子園宝石店の店内には、阪神タイガースの大きなカレンダーがあり、明石出身の店主と夜を徹して語り合った。「未婚の長男に赤ちゃんが生まれるので、母親になる女性のペルナンブコ州の実家に行かなければ・・・」。我妻カルラがペルナンブコ州出身と知り、気が楽になったと初めて祖父になる緊張が、ほぐれたと大喜び。「世の中狭いもんや」と大笑い。共通の郷土(兵庫県とペルナンブコ州)と判り打ち解け、阪神タイガースに、まつわる話は尽きなかった。

カルラは、ブラジル建国の父といわれるマラーノ(カトリックに改宗したユダヤ人)の子孫で、先祖はポーランド出身のオランダ人ガスパール・レーモス。ブラジルを発見したペドロ・カブラールと共に来伯し、カブラール達ポルトガル人が本国に帰った後にも居残った一族で、ブラジルの東北地方に広大な砂糖キビ畑や製糖工場とカシャッサ(砂糖黍酒)醸造所を所有。現在は政府規制で砂糖キビから採れるアルコールはガソリンに代わる自動車燃料。
サンパウロではカシャッサをピンガと呼びブラジル料理には欠かせないアペリチフになるカイピリーニャというカクテルのベース。

学移連OG(YG?)のブラジル丸スチュアデスの海添陽子さんから聞いたブラジルから甲子園に移住した鸚鵡の話:

優勝した年のメール:
“1昨年、私の商船三井スチュアデス時代の友人と、30年振りぐらいに出会った時、こんな話がありました。あの頃ブラジルからの、お土産に、よくオオムを買って帰りました。彼女の家は甲子園で田宮選手の隣。2羽買ってきてたオオムが、あの震災にも負けず、30年の歳月を生き続けてるそうです。オオムって長生きなんですね。そのオオムのしゃべる言葉が「ハンシン カッタ!」だそうです。今は亡き彼女のお父さんが教え込んだそうで・・・”

甲子園に住むブラジルから移住したオオムの、お陰で阪神タイガースが優勝しましたが・・・

優勝の翌年に受け取ったメールでは:
ところで、去年ご紹介しましたオオム、私と同じ商船三井のブラジル丸でスチュアデスをしていた友人がブラジルから買って帰って、甲子園のお家で、阪神フアンのお父さんに教えられて「ハンシン カッタ!」としゃべるオオムですが、そのオオムが亡くなったという知らせをもらいました。
“その2日前にイタチに噛まれたのが原因で9月17日の明け方に急死しました。良く太って元気に暮らしていたのに、私の不注意でこんな形で死ぬことになり、本当に残念です。

思えば主人よりも子供よりも、長い付き合いでした。とても乱暴者で攻撃的で時には腹が立ちましたが36年とは、いかにも長い時間を共有したので、居なくなった喪失感も結構重いものがあります。一匹残された「ロリート」が、しょんぼりしないように、なるだけ身近においています。”
ブラジルから日本へ移住して36年とは、立派な生涯を送った?と思いますね。後の一羽ができるだけ長生きして欲しいです。
今年は、阪神もだめですね。

このように、昨年は甲子園のオオムが「ハンシン カッタ」と叫び続けてたので阪神タイガースが優勝しましたが、今年になってイタチに噛まれて死んだそうです。
ブラジルから日本に移住して36年「阪神勝った」と叫び続けてくださり、ご苦労様でした。オオムさん有難う!
ブラジルではイタチはガンバ、どうりでJリーグでガンバが強い。野球よりも、サッカーのほうが盛んな国やから仕方ないか・・・。

サッカー王国ブラジルでワイが住んだのは、パカエンブー・サッカー場の近くバイア街329番地、広場の向かい側には日の丸の旗が掲揚されてる総領事公邸、週末に決まったように公園のベンチで岩波新書を読む初老の紳士に出会った。
ワイも学生時代には、学校の図書館にあった岩波新書を通学電車の中で読み乱視になってしもたけど、青版はじめ赤版、黄版も殆んど読み、今でも訪日の度に岩波新書の新刊を買い、帰りの飛行機で読むのが楽しみ。

その紳士はパカエンブー渓谷の反対側の高級住宅地ペルジーデスに住む錦織さん、パラナ州の海岸にロスアンジェロス宅地を造成された不動産業者で、移民風雲録にも列記されてる実業家。
ご自宅の本棚には日本語の書籍が多数あり「日本語の読める者は家に居ないから、読みたければ、いつでも来て持っていきなさい」。いつの日か、ワイも、この人の様な生活がしたいと思った。

白人のオルテンシア夫人は、あまり日本人の来訪は喜ばないそうで、パカエンブーのサッカー場を見下ろす見晴らしのいいテラスで話した。それでも、お嬢さんがたが入れ替わり立ち代り、お茶やお菓子を持ってきてくださり、美人姉妹に囲まれた歓談は楽しかった。
3人の息女は、上からルッチ、オデッチ、イベッチ、いずれ劣らぬ真っ青に澄み切った奇麗な瞳と、魅惑的で貫けるような白い肌。デンマーク人と結婚されたカスーラのイベッチ・ヨルゲンセンさんはソドレー知事の側近として州政府勤務。
上の二人は未だ独身と言われたが、鷲鼻の猛禽の様な母親を見ると、さすがのワイも手も足も出なかった。

錦織さんの青春時代には人種差別があり、夜は墓場に隠れて逢引してたとか。オルテンシア夫人は「この国はラテン系が主流を占める限り発展しない、私達北欧系が政界や経済界に進出すれば、ブラジルにも白夜が明ける」。ご主人もスカンジナビア諸国を旅行して、その考えに同意するようになられたという。「北欧人は責任感が強く、理路整然と話し、街は塵一つ無く整備され、社会保障も完備し民度は殊のほか高い」とヨーロッパ最強の空軍国・スエーデンから移住された奥さんの話。ガレージにはボルボ、サーブ、スカニアの高級車があり裕福な暮らしと、お見受けした。



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