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【都市小説・なつメロ合唱の集い】(後篇) 丸木 英朗さんの第18回堺市「都市文学賞」応募作品一挙公開
丸木さんの書かれる小説は、とにかく『おもろい』が抜群の記憶力に基づく実体験を綴る大阪弁を駆使した語り口は、実名こそ伏せていてもブラジルに住む我々には大抵の人に想像が付くエピソードで飾られている。今回5年振りの来伯でサンパウロの2月の老ク連(ブラジルニッケイ老人クラブ連合会)主催の「なつメロ合唱の集い」に参加されるが5年前の集いの様子が詳細に記されており参考になる。来年2月の例会はさぞ歴史に残る集いになりそうで軍歌「空の神兵」で盛り上がる事、間違いない。一人でも多くの皆さんが丸木さんを囲んで大合唱になるように万障繰り上げて参加して頂きたい。
第18回堺市「都市文学賞」には入選出来なかったようですが、だからこの『私たちの40年!!』寄稿集に堂々と今回一挙公開が出来ることになり喜んでいます。余りにも多くの実体験、エピソードを羅列し過ぎて『おもろい』が焦点が絞り切れず我々と違う一般読者にとっては主題が掴めず応募作品としては、散漫な紀行集、自伝感想文的な書きものとして捉えられ小説としては評価されなかったのではないかと思います。的を絞った小説としての次回作品を期待したいと思います。
写真は、丸木さんのポルトガル旅行中の写真を使いました。


そう云えば、大学の1年先輩で、スカンジナビア植松電器・社長としてストックホルムに十年以上も駐在してた高木君も似た様な話をしてた。「もう本社に忘れられたのかな」と云ってたけど、植松で重役してたワイの従弟の話では「あの方は難しい国々で業績を上げられ、彼以上の適任者が居ないので、つい・・・」。
この先輩とはアルバイトが一緒で、大阪府庁の鳳土木出張所の管轄する採石場で重労働に処せられ働く囚人の監督をした。高木君はヨハン・シュトラウス作曲の蝙蝠が好きな垢抜けした学生やった。

ペルジーデスの丘を反対側に降り、カトリック大学を通り過ぎるとフッチボール(サッカー)の名門クラブ・パウメイラス。ここは以前にクルビ・イタリアと呼ばれていたが、第2次世界大戦でイタリアとドイツが日本と共に敵国になったので改名したまま。ちなみにクルビ・アレマーニャ(ゲルマンクラブ)も今でもピニェイロスに改名のままで、プロスポーツのない上流社交クラブ。
ピニェイロスの水泳コーチのブルーノとは不思議にうまが合い、州内各地の競技会でも一緒に飲みに行ったりした。

彼の紹介でモルンビーに新設されたクルビ・パイネーラスの水泳コーチ助手になった。ヘッドコーチはモレーノ(白人に近い混血)のサルバドールでムラータ(黒人に近い混血)の奥さんがいつも寄り添っていた。ワイの日本流儀のスパルタ式トレーニングに選手の親達から文句が出て首になった。
サルバドール夫人は、ワイのコーチで選手の記録が延びてるのにと惜しんでくれ、唇にさよならのキッスをしてくれた(両頬に口付するのが普通の習慣なのに)。黒人の厚い(熱い)唇のセクシーな感触は絶妙で身震いした。

ワイのコーチ法は、昨日より遅いラップタイムの者にはターンの度に棍棒で頭を叩く母校水泳部のやりかた。モルンビー地区の富豪の坊ちゃんや令嬢の水泳選手の頭が瘤だらけになり、クラブの役員の進退問題にまでなったとか・・・。
水泳にしろ陸上競技にしろ、そのぐらい鍛えないと強くはならんと、ワイは今でも信念は変えてない。

時は流れ、この前に最後にサンパウロに行った7年前の秋(ブラジルでは春かな)、ニナリッチの脂粉芳るゴーゴーバーは酒池肉林の極楽天国に迷い込んだ。ヒルトンホテルの裏通りには有名なキルト等々、中世の城郭そっくりのキャバレーが建ち並び、一糸纏わぬ美女の群れが助平男を待っている。
その頃に勤めてたEMCの上司であるマイケル・フラワーズ社長が、2年後のワイの定年前に南米に行ってみたいと云い出し、ワイの出張に同行した。

フラワーズ家の先祖は英国マグナカルタ起草の家柄で、社長の父親はニュージャージー州発明賞受賞回数ではエジソンを凌駕。
トーマス・エジソンはUE(ユニバーサル・エレクトロン)を創立、フランシス・フラワーズはGE(ゼネラル・エンジン)を創設。
長兄のフランシス・ジュニアが親の後を継ぎトレーラ事業、次男のマイケルは、ラトガース大学に入学した年から始まった石油危機に際し、自転車にエンジンを付けメールオーダーで大儲けをし全米に販売ネットワークを築いた。在学中に同級生の奥さんとパートナーを組み株式会社としてエンジン・モービル社発足。

原動機付自転車はホンダやヤマハのモーターサイクルに駆逐されたが、高齢者用スクーターに業種転換し業界のリーダーに成長し、YPO(若社長の会)にも入会。豪華客船クイーンエリザベスII号に乗りバミューダに向かう船上でブラジルYPOメンバーでジェット社長の東村太郎氏と知り合った。サンパウロ州ポンペイアに近代的な農機工場のあるジェット・グループは6社からなり従業員数は2600人、日系コロニアでは最大の企業。

ジェット創立者の立志伝は、日航の機内誌にも掲載され、日伯両国では広く知られているが、農機だけでなくバスやトラック部品はじめ各種車両も製造されてることは知られていない。グループ企業のボロデン社ではEMC製のスクーターと電動車椅子の輸入発売元になった。同社のサンパウロ事務所はジャルジンアメリカの米国商議所の隣、アベニーダ・ナソンエスウニードス(国連通り)。農機のショールームにアメリカ製のスクーターが展示され話題を呼んだ。この事務所の責任者のエドワルドは、子供の頃からポンペイアの工場で働き東村一族の信頼厚く、本人も生涯東村家に尽くすと明言。

ポンペイアのジェット体育館でのアルモッソ(昼食)には社員だけでなく、東村農工学校や東村幼稚園の生徒も礼儀正しく祈りを捧げ規律正しく食事していた。創業者精神が、ここまで浸透してる工場はアメリカで世界最強の企業・ユニバーサルエレクトロンに勤めたことのあるワイの目から見ても、優るとも劣らぬ立派なもの。
東村家の庭園、プールサイドでのシュハスコ(焼肉)も野性味たっぷりでマイクとカルロスも大喜び。二人とも日本人よりも寿司が好きで、前菜に出た本格的な(アメリカナイズされてない)寿司を堪能。

サンパウロはパウリスタ大通り近くにオープンしたルネッサンスホテルに泊まり、コンシェルジェー推薦の六本木寿司のあるイタインビビへとタクシーをとばした。この辺は東京で言えば、青山から表参道にかけた界隈、ナウいトレンデイーな街並み。
ブラジルナイズされた寿司は旨くなかったが、その向いにあるショッペリア(ビアホール)アルミランチ・サルジーニャ直訳すれば鰯提督、女子大生の溜り場らしくアメリカ人は羨望の的でマイクはおおもて。ボリビア人のカルロスもワイもマイクの通訳せず放っておいた。

どうやら、マイクと親米グループの男女がダンスに行くと云って出て行き、カルロスもスペイン系の女性と話がついた様子。
これは又とない絶好のチャンス、さいぜんから猫の様な緑色の眼で、こっちを見つめてウインクしてた女子大生をホテルに連れ込みキングサイズのベッドに放り投げたら、クッションの反動で反転し見事に倒立、訊けばモダン体操のブラジル・チャンピオン。
若過ぎるパートナーとのアクロバットが過ぎたのか、ワイの太腿が痙攣し硬直、相手も絶頂時に失神してしまい、一物が抜けん様になってしもた。なんでも、塗料を製造する大会社のオーナーの令嬢とか云ってたけど、その後で会社に届いた手紙に返事を出さなんだんで、それっきり。今やったらメールで交友が続いてたかも、モニカ・リッテンブルグとかゆう名前やった。それにしても、肌より淡い色の毛深い金髪に覆われても隠れない女性器が、こんなにも神々しく美しいものとは、今想い出しても生唾が出る。

翌日にはマイクもカルロスも、前日うまくいかなかったのか塞ぎ込み、夕方アラメーダ・サントス街のカフェテラスのガルソンに教えられたキルトに繰り出し、ようやく元気を取り戻しよった。
まるでヨーロッパの城のような建物に入ると、ニナリッチの香水に包まれた気分に酔った。マイクは、いきなり服を脱ぎ捨て、ステージに駆け上がりヌードダンサーと踊りだした。今度は巧くやったのかホテルの朝食には、すらりとしたモレーナを同伴し楽しそうに談笑してた。

社長の初めての南米出張ではアルゼンチンとチリも訪問、ワイとカルロスはサンチアゴで社長と別れペルー、コロンビア、ベネズエラ、メキシコにも寄り商談をまとめた。キルトでの印象が強すぎたのか、マイクは翌年にもブラジルに行きたいと云われたが、ビジネスでは社長出張の必要性がなく諦めてもらった。
カルロスが開発し、社員による製品名公募の投票で当選し、ワイが名附けたEMC社製の電動車椅子「ビーバ」は世界のベストセラー。
ワイの定年退職に日には、会社の玄関前に生ビールの大きな樽を置き、サンパウロでの成果を社員みんなに披露していたから、マイクの奴、よっぽど気持ち良かったのだろう。これで40年以上のワイのサラリーマン生活にピリオドを打ったけど、最後に6年勤めたEMCの若社長の斬新なマーケテイングの実力には感嘆した。

アメリカでは、マイクの様に学生時代に起業する若者が絶えず、経済の活性化は不況時にも、廃れない。これに反し日本では、ライブドアとフジテレビの葛藤の如く、成り上がり者を引き降ろそうとする時代遅れの者が未だに存在し経済の低迷が続く。

製造担当副社長でマイクより若い叔父のジョージは、自称SOB。即ちジョージの母親はマイクの祖母でなくBガールらしく、ジョージは産みの親を知らずに育った。SOBはブラジルではFDPかな?ニューヨークのトライベッカにある有名なデイスコテックはSOB(サウンド・オブ・ブラジル)やけど、こりゃ関係ないわな。
ジョージとは香港や台湾に部品調達に一緒に出張して、奇想天外の体験をしたから、別の機会に書いてみる。

ブラジルに行く最高の楽しみは、ペルナンブコ州の沖合いで獲れるアグーリャを食べること。この魚はブラジルでも他の地域の人は知らない。細魚(サヨリ)に似ており英語ではニードルフィッシュ。海浜で潮風に吹かれ、ショッピ(生ビール)を飲みながらアグーリャ・フリッタにライムを絞り口に入れたら、もう、まさに「人生、生きちょるだけで丸儲け」。
ワイの一番の楽しみが喰い気のほうで色気抜きやから、エキゾチックな楽しみを期待してた旦那衆には、すんまへん。

のんびりとハンモックに揺られ、海岸でアグーリャ・フリッタを堪能してから、ワイが歌を唄うだけにサンパウロまで一泊旅行すると知った義母は、あきれ果てた。
阪神フアンの猛虎会と云っても、それこそ“なんのこっちゃ?”判らんし、その会長がホテルまで提供してくれるのは、もっと解かりかねる風情。育った時期と環境のせいで、ワイの虎狂と歌狂は、馬鹿は死ななきゃ治らない?草津の湯でも治らぬ病いと同じかな。

カルラは甲子園ノボテルに泊まってタイガースの試合を見たこともあるけど、一回の裏に「もう出よう」と言い出す始末。それでも“君には君の夢がある、僕には僕の夢がある・・・”の心境やろか、ワイが一人でサンパウロに行っても、殊更文句は云いよらん。

猛虎会の尾南会長からアルモッソに行こうと電話を受けたけど、正午から始まる「なつメロ合唱の集い」に行くので丁重に断り、近くのスーパーで8レアルの「鮭弁当」を買った。同じ弁当がトロントでは8ドルやから3倍、ビールの値段もカナダの3分の1以下。
ついでに野菜や他の食べ物の物価を調べてみたら、大体4分の1ぐらい。生活必需品の価格は、日本の5分の1ぐらいかな。そうと分れば、日本や北米の年金生活者は、ブラジルに引っ越したほうが、はるかに楽な生活ができるが、問題は社会保障制度不備と悪い治安。

サンパウロでも、この物価で、ペルナンブコ州等の東北地方では、もっともっと生活費が安い。早い話マイレージで貯めた運賃は無料、ワイら夫婦が一ヶ月以上滞在して使った金は三百ドルにも満たず、殆んどがレンタカーとガソリン代。もっとも実家は農家やから牧場もあるので、水産物以外は買わなくても暮らせる。その反面、ガソリンの値段はカナダの倍以上で、日本の価格と同じぐらいで高い。

老ク連(ブラジル日系老人クラブ連合会)副会長の五十川さん等が世話人をされてる「なつメロ合唱の集い」は、1928年3歳の時に移住された田部さんの音頭で1999年7月に発足した。

田部さんは、父親が風呂の中や風呂上りにピンガ飲みながら唄う日本の歌を憶えていたので、邦字新聞で呼びかけたところ、サンパウロ州はもとより、北はバイア州から南はサンタカタリーナ州からも大勢の同好者が集まり、3ヶ月に1回の開催日だったのが2年目からは隔月になり、今では毎月第1土曜。

「ナツメロ想い出の集い」は、昔を懐かしむだけでなく、過ぎ去った青春時代の体験や大切な人生観を、少しでも次代の若者に伝え、ナツメロを唄うだけでなく、ナツメロの雰囲気によって浮かんでくる想い出を語り合うことも楽しみ。特に留意されたのは、今流行のカラオケのファナチコではなく、歌の上手下手は関係なく、蘇えってくる時代の追憶を味わっておられる方々が多い。

この会を知ったのは、ニッケイ新聞2001年3月1日付に掲載された「ナツメロ想い出の集い」。
“第九回ナツメロの集いが3月3日午前11時からレストラン・ボウルバルジ(リベルダーデ大通り156で行われる。参加無料。詳細問い合わせは・・・・。”
この記事を読んで、五十川さんと電話で話し合った結果を下記の通り「トロント歌声喫茶の会」のMLにメールしました。

“参加者の最年少は65歳、最高年齢が94歳で70歳台が最も多く、五十川さんは昭和30年に、アフリカ丸で移住された75歳の青年。毎回約50人ばかりが2世の経営するキロ食堂 (量り売り式カフェテリア)で昼食後に、昔懐かしい歌を、みんなで3時半頃まで唄うそうです。

日本語学校では小学唱歌を習ってるので2世や3世も参加される。毎回特集があり、前回は東海林太郎特集で次回は軍歌特集とか・・。やはり、ブラジルの日本人は今尚、日本が戦争に勝ったと信じてるようです。

カナダのトロントでも、昨年から歌声喫茶の会が発足したと伝えたら「そのような左翼がかった喫茶店が、日本に在ったようだな」。五十川さんは東京農大在学中にはシャンソン喫茶に入りびたりだったそうです。ところ変われば品変わるというか、何処に居ても日本人此処にありというか、故郷の懐かしさは古今東西みんな同じ。”

その後も文通が続き、田部さんの著書「架け橋」を送ってくださったり、五十川さんも「ナツメロ会報」を定期的に送付くださり、歌声喫茶の登場する数々の映画の掲載された会報には、トロント歌声喫茶の会々員一同感動。

ボウルバルジ・レストランがビンゴカジノに転業し、現在のナツメロ会場は老ク連会館。

今年元旦に70歳になり「トロント歌声喫茶の会」では最年長に近いワイも、「なつメロ合唱の集い」では最年少に近く、お兄さんお姉さん方に丁寧に挨拶させていただいた。トロントの歌声歌集には軍歌は掲載されておらず、一度でいいから大声で歌ってみたかった空の神兵をリクエストした。

皇紀2600年に国民学校(小学校)に入学したワイは、当時の誰もと同じ軍国少年として連戦連勝の軍歌を唄って育った。“紀元は二千六百年・・・”と大声張り上げ唄ったたもの。
ワイの生まれ育った家の前、今は甲子園ノボテルになってる甲陽中学(旧制)吹奏楽隊を先頭に、ゲートルを巻き戦闘帽の生徒の分列行進の通る度びに聞き覚えた数々の行進曲、時には敵国アメリカのスーザ作曲アメリカン・パトロールなんかも演奏してた。
日独伊三国同盟は最後に、鬼畜米英に負けたが、日本軍の落下傘部隊降下により独立したインドネシアの建国宣言日付は、皇紀2605年と明記され、日本に感謝の意を表わしてる。

この日のナツメロの皮切りは「同期の桜」、ソニーの巨大スクリーンに靖国神社が、いきなり映し出され貴様と俺とは同期の桜〜〜。
「なつメロ合唱の集い」では歌集は無くて、カラオケマシーンをリクエストに従い入力していく方式。知らない歌でも1番を聴き、2番を真似すれば、3番からは唄えた。

朗々と詠う白虎隊の中の詩吟を聴いていると、日本に居る錯覚を起こした。この世界最大のジャイアント・スクリーンは日本政府(JAICA)の寄付。参加者は女性のほうが多く、意外にも軍歌のリクエストは女性からが多いと五十川さんの話。
シベリア出兵に従軍された西谷松夫翁(健在なら百歳)は今回は参加されてなかったけど、田部さんのリクエストされた「戦友」は、涙なくして唄えない歌詞。

第一幕が終わると女性軍が、お膳を並べ、みんな持ち寄りの郷土料理に舌鼓を打ちながら歓談のひと時。日本に里帰りされた方は、殆んど居られなかったが、子供や孫は出身県から県人会に贈られる奨学金で日本に留学させ、子女の教育は日本式。

田部さんによれば、日本語学校で習った唱歌は情操教育に役立ち、唄いながら道徳教育になる修身科目と称えられた。
五十川さん他のリクエストされた曲では、巨大スクリーンの画面に芸者が映り、田部さんが「奥さんに言いつけるぞ〜!」と野次の応酬。世話人の塩路さんも負けては居らず「もう修身の授業は聞き飽きた、演歌だ演歌・・・。」と和気藹々。
望郷の念に取り付かれた様に、箸を振り振り「おとみさん」や「ちゃんちきおけさ」を唄う田舎のおっさんと梅干婆さんを見てると、百回以上も日本に出張したワイは涙が出て止まらなかった。

日米開戦以来は、敵国日本からの通信が途絶え軍歌の情報も入らなくなり“徐州、徐州へ軍馬は進む・・”等の支那事変までの軍歌なら、ご存知でも大東亜戦争の頃の歌は知らないそうで、現在使ってるカラオケマシーンで習ったとか。戦後は直ぐに流行歌の情報が入り「銀座の花売り娘」、「青い山脈」や「りんごの歌」に祖国復興を知り、「憧れのハワイ航路」や「有楽町で会いましょう」で日本の繁栄してる情報がもたらされた。

サンパウロ「なつメロ合唱の集い」で印象に残ったのは、セリフのある曲になると、劇団・新波(あらなみ)代表の山口小春さんの出番、曲に合わせた衣装で詠々と吟じる姿に爆笑に次ぐ爆笑。彼女の本職はスペイン舞踊とタンゴ教師、西洋の歌になると派手な衣装に着替えて、フラメンコ踊り。

毎月の会合に、よくまあ集まると感心したが引退した方が殆んどで、日本人町に出てくる楽しみを兼ねてるのかも、但し治安が悪いので昼の会にしてるそうで、強盗殺人はニュースにならない国。
ナツメロ散会後、田部さん他7人の侍(男3人女4人)が、近くのショッペリアに招待して下さり、あらためてセルベージャで乾杯、五十川さんの運転で、日本の地方都市の駅前商店街そっくりのサンパウロの日本人町リベルダージに別れを告げた。7年ぶりのサンパウロ、たった1泊しかしなかったけれど有意義な旅やった。

最年長で85歳の料理学校の先生・黒田エミリアさんからはポルトガル語で書かれた日本料理の本を2冊頂戴しましたが、移住直後に両親を亡くされ、子供の頃から幼少の弟妹を育てられた先生の生涯は「おしん」や「ハルとナツ」以上に悲惨で、田部さんはノベラのようだと申されました。
この本があれば、我妻「おカル」もブラジル式?の和食を調理できるので亭主・勘平、万々歳。勘平?ワイのことやがな。

「なつメロ合唱の集い」に参加できたのは、ワイの生涯でも感動的な一日でした。祖国日本を離れ初めて暮らしたサンパウロで、皆様と楽しく唄えたのは嬉しかったの一言に尽きます。と礼状を出した。

去年の春(ブラジルでは秋)に、田部さんと五十川さんは連名で“歌声喫茶「ともしび」50周年おめでとうございます。半世紀もの間みなさんの、いつも若々しい情熱に支えられてきたこと敬服の至りです。私達の小さなグループも、この7月に、ようやく5周年をむかえますが、合唱と親睦を車の車輪にして仲良く運営しています。
地球の反対地点にも、歌好きの、お仲間が居ることを憶えておいてください“と日本にメールされた。

歌を唄うだけの目的で3時間も飛行機に乗ってサンパウロに行き、森山さんには「柳生君は乃木大将に似てきたなあ」と云われました。レシーフェに戻り家内の実家を訪ねたら、義母から「オサマのような髭面は、けしからん!」と剃り落とされてしまいました。
まあ、ええか、これで空港のチェックインがスムーズになるやろ。

後日、サンパウロ在住の小田原さんという方から、“空の神兵は私の一番好きな軍歌です。もはや軍歌を堂々と歌える時代は、ずっと昔に過ぎ去りましたが、私が若く初々しき頃、銀座の夜のサロンに会社のおごりで行きました。

この歌を唄ったら隣の席、前、後ろの席あっちこっちからゾロゾロとジョインする人が出てきて、ついに最後には、お客全員(30人位)の肩を組んでの大合唱。唄い終わった時には、お前よくやった、よくぞ唄ってくれた!とばかり、皆に肩を叩かれるは、抱きつかれるはの大騒ぎになりました。
昭和47〜8年頃だったと想います。いずれ機会がありましたら、ご一緒に「空の神兵」を声高らかに唄わせてください。今の若い人たちには、もう軍歌への違和感は、ありませんから「楽しい歌じゃない」なんて云われるかも。”
返信したら“レス有難う御座いました。共通の時代を駆け抜けた戦友ですね。”
ところが皮肉なことに、小田原さんは仕事では、極芝とはライバル会社の月座製作所系列の現地法人のトップをされてた人物。

温度差50度以上のカナダに帰り「トロント歌声喫茶の会」冬の集いで、世話人の掛布さんが「あの空の神兵を知ってますよ、歌詞が見つかれば歌集に付け加えましょう」。大東亜戦争など遠い昔の出来事で、この曲を知る由もない若いピアニストの中原由香さんも、インターネットのテープで練習され「弾けるようになりました、伴奏OKです」。これで、発足5周年の春の会は面白くなるぞい!
www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/JASRAC/soranoshin.html

ワイがアメリカへ行った後で、遅まきながら南米の市場性に気付いた極芝メデイカルでは、ワイの2年後輩の星山君をサンパウロに駐在させ、現法設立の準備をさせた。

単身赴任の星山先生、大張り切りで帰国までの連日連夜、色とりどりのネエチャン相手にスペルマを1斗2升使い果たし、極芝メデイカル・ド・ブラジル設立後、日本に帰って肝心のときには既に品切れ。それでも満身振り絞って精進した成果か、帰国後は順風漫歩で昇進に次ぐ昇進を重ね、遂に生え抜き社員では最高位の専務まで登りつめた後、親会社の出資を得て横浜ランドマークに関連会社メッチェンを設立し、MRIやCTの再生サービスで儲けてる。 
極芝メデイカルも含め極芝グループの会社には親会社から順送りで、定年後の天下りが社長として送り込まれる。

昨日受け取った星山大先生からのメール「横浜支店勤務の頃に、君を見送った大桟橋で“俺もブラジルに行こう”と決意した。
だから君の、お陰で今の俺がある。日本一高い横浜ランドマークから、こうして大桟橋を見下ろし君を想う毎日だよ」。

顧みれば、ワイの人生は中島ミユキの「ヘッドライト・テールライト」地で行くが如し“行く先を照らすのは未だ咲かぬ見果てぬ夢、はるか後を照らすのは、あどけない夢”。ワイのプロジェクトXは、これからや・・・。元気だそうぜ、日本!





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