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【日米両国政府と地方分権】  カリフォルニアにお住みの村松 義夫さんの寄稿です。
『私たちの40年!!』メーリングリストの論客東京農大卒の麻生悌三さんが北米在住の農大65年拓殖学科卒業の村松義夫さんが農大NET諸君に書かれた文章を転送して呉れました。内容がしっかりしており大変参考になる日米の比較論に興味を感じて読ませて頂きました。麻生さんを通じて村松さんに『私たちの40年!!』寄稿集に収録させて頂きたいとお願いした所、快く数葉の写真と共に簡単な自己紹介も兼ねた文を送って呉れました。村松さんの北米でのこれまでの活躍は目を見張るもので一貫して日米の農業関係に従事、2004年には回想録を限定自費出版したそうです。「島から大陸をめざしてー農業拓殖活動家の回想ー」との題で農大出版会から出版されているそうです。
写真は村松さんの近影を使わせて頂き残りの写真は『私たちの40年!!』関連BLOG2に掲載させて頂きます。


農大NET諸君              村松義夫(北米在住、65’拓卒)

今年は日米で民主党のリーダーによる政権交代がおきました。昨年9月米国発のリーマン・ショックは瞬く間に世界中に大不況をもたらしました、米国では金融・投資関連企業が相次いで倒産したり、大幅な不良債権を抱え政府の支援を受ける事体が発生した、そして大手企業の自動車メイカーの破綻や困難な資金繰りを受け、多くの関連産業に大きな打撃を与え倒産件数が増加するに、政府も企業支援に乗り出した、失業者が増加し、住宅ローンの返済不能が多発し、個人消費の大幅な落ち込みで一挙に不況に突入してしまった年でした。

最近になって株価の上昇が始まり、ドル安が影響して海外からの資本投入が増加し、輸出が増え、低金利で金融関連も持ち直してきたかに見える、しかし相変わらず失業率も10%と多く、カリフォルニア州では12%、自動車産業のミシガン州では4人に一人失業者だといわれている。今年の冬は消費も伸びず、流通業界にとっても厳しい年越しとなる。

輸出立国の経済構造を打ち立て、規制緩和でよりグローバル経済を促進させてきた日本にとっては、あのバブル崩壊からやっと抜け出したと思ったら化石燃料に依存するエネルギー価格の高騰で製造業は途上国に製造拠点を移さざるを得ず、国内の空洞化にも繋がり、一層の失業者を出してしまった、そのことが回復に歯止めがかかっていた矢先のリーマン・ショックは、更なる大きな問題に発展し、どこよりも大変な経済不況に繋がってしまった。

民主党政権がかかる不況下に発足、不況による税収の落ち込みから大幅な削減が必修となり、「仕分け作業」が活動し、削減に努めているが官僚の抵抗も強力である、そして早くも国債の発行に頼らざるを得ないという結論に達している、今でも国民一人当250万円の借金があるといわれている上にまた加算されるのである、我々団塊以上の世代は観念しているが、少子高齢化のすすむ若い世代はどうなるのであろうか?


仕分け作業で手の付けられない莫大な分野がある、これをやれば10兆円は簡単に浮上してくる。それは政治家と公務員の人員削減と報酬・手当てカットである。 米国は国内のみならず海外のいたるところに軍隊を出し、物資・金融支援をしている、勿論日本も行なっているが軍隊の支出は莫大である、それでも納税率は日本より少なくてすんでいる、その根底には小さな政府と地方分権がある。 此処で日米を比較してみると:
    米国:          日本:
(1) 国会議員数:  342名           722名
  報酬を含めた経費1名当: 2,500万円       6,500万円
  総合経費:        86億円        460億円
(2) 県会議員:  州の規定で州によって異なる    国の規定で都道府県で異なる
(3) 市町村議員(例:10万市):7名(内1名市長)     26名
  報酬を含めた経費1名当:議会出席時の時間給$35.00/時間   1千万円(賞与、恩給、調査研修含)
   総合経費:    600万円       3億円(出張費、恩給、議会費)
(4) 公務員:  公務員資格なし民間と同じ仕事基準  国家公務員、地方公務員資格
  報酬、手当て : 時間給(助役、管理職だけ年間契約) 公務員報酬規定、ボーナス、恩給
           いつでも解雇あり       手厚い規定、解雇なし

やっと友人の議員から調べてもらった日本の議員情報であるが、納税者には彼らの報酬体系は発表されない、議会で議員が承認するだけで決まり一般公開はない、調べても解らない。このように国会も含め議員、公務員報酬手当て、内容は議員自らが議会で決めており、納税者が入り込む隙間は全く無い、あの「仕分け人」も議員であり、自分たちの報酬・手当ては堅く守られ一言も口に出さないようになっている。ましてこの10年民間企業サラリーマンの給料は毎年下がり、合計1名当り平均100万円減収とのこと、しかし議員、公務員報酬だけは毎年上昇しているのである。米国はインターネットで大統領を初め、議員、公務に勤務する管理職の報酬は簡単に検索できる、一般職は時間給である。

私は訪日時に故郷の地方議会をよく傍聴することにしている、サンフランシスコ郊外に住む私の町と比較してみた。
日本(10万都市): 
議会は定例、2月、6月、9月、12月の4回で1回4-5日、臨時、2月、5月、7月、10月で1回2-3日で年間30-35日間位である。議場には21名の議員が並ぶ、こんな少ない議員の中でも会派がある?、向かって中央の真ん中に議長席がある、その左右に市長初め三役が並ぶ、その後列に各部署の部、課長がずらりと並ぶ、そして議会開催が議長によって宣言され始まる。 質問者(議員)はあらかじめ決まっており、質問内容(通常3-4項目、で10-15分程度)も決まっていて印刷され、全員に配布されている、これを延々と読み上げるだけ。質問が終わると、答弁者、これもあらかじめ決まった人で市長が最も多い、部門の説明が必要なときは部、課長が読み上げる、学校の教科書を読む授業と同じ、また答弁は抽象的な言葉で終わるため、イエス、ノーが解らない。質問者の数、答弁者の数が事前に解るので議会の終了時間もおのずとわかる。臨時議会は時折議員が自らの言葉で質問する、それに市長や職員が答える形式もあり、1-2日で終了する。傍聴する市民からの質問は一切受け付けないで。そして不思議なことに、月給やボーナスまで貰い、30-35日程度の議会であとの残り日時は個別会議が少々あり、あとは自分の仕事でまた給料をとり、研修名目の旅行(海外)もある、全て個人の持ち出しなしである、これでは「金バッジ」ははずせないはずである。

米国(8万都市):
議会は毎週火曜日午後7時から開催、時間はその日の議題と議事進行状況で変わるが平均3-5時間である。
議題は1週間前に市の広報誌、地方新聞、地方テレビで発表する、これを見て関心を抱く市民が傍聴に出席する。議場では受付があり、質問、主張等を言いたい人は、受付の用紙に名前を書き、身分証明を提示し、どの議題に質問するかを書き込む。議場は市長を中心に左右に6名が弓状に座る、その前横に助役(City Manager)、職員の弁護士、記録係2名が座る(議題によっては職員の会計士、警察署長、福祉部長等が出席することがある)。そして市民傍聴者が座る椅子が100名ほど用意されていて、そこに市民が座る。一番前列にマイクロホンが用意されている。市長の開催の言葉で議会が始まると、議題に入り、議員から説明が行なわれる、終了すると今度は市民で事前に届けてある人が前列のマイクロホンに歩み寄り、議題について自分の考えや質問をする、それにまた議員が答える、このやり取りで議題が討議されていく、その中に各種の条例や許認可が決定されていく、勿論年末は収支発表、余剰、不足等の経理を議事の中にあり、大勢の市民の関心があるため議場は溢れる、そして余剰が出ると大喝采が生まれる、これは次年度に回り、市民税軽減に繋がる。また年明けは年度予算の発表でこれまた人気がある議会となる。即ち議員と市民の対話形式で実に現実的で民主主義議会だと感じる。

このように小さな行政が各地で行なわれ、これは地域に居住する納税者によって常に変化しながら運営されているのである、予算はできる限り節約し次年度に回し、納税者負担を軽減する。日本では全て消化し翌年もそれ以上計上するやり方では税の軽減はない。また日本は議員や公務員が特別職扱いされ、彼らによる独自の議会、行政が行なわれ市民はそれに逆らわず従うことになっていて、時代が全く変わっていないように感じる。

2009年の終わりに、日米の違いを記しましたが、決してどちらが悪いということではなく、地域に住み納税している人々が如何に自分の意見を待ちの行政に伝えることができるかの違いだと思っている。この厳しい不況の中で如何に経費削減をはかり、生き残りができるか企業は必死です、政治を司る人たちこそ自らが裸になって削減しないと納税者負担、国のあり方は変わらないでしょう。

新年も皆さんからいろいろな課題で投稿を期待しています、特に現役の諸君には学校の様子や、クラブ活動、己の将来等、寄稿して欲しいと願い、期待しています。
南半球は残暑厳しい折と思います、北は寒さが到来しています、中国やブラジルの力は凄いですね、世界同時不況も影響しない大国で頼もしい限りです。 −皆さお元気でー


麻生兄へ:

写真ですがまともな物がありませんが以前とったものを送ります。
(1)カリフォルニア州庁舎(3,800万人口)、(2)州庁舎の町サクラメントの1800年代歴史村、(3)Pleasant Hill 市(私の町)、(4)San Francisco の猟師町、(5)Golden Gate Bridge、(6)本人

麻生さんには私の仕事をお知らせしていませんでしたが、この機会にお伝えさせていただき、今後とも親しく交信させて頂ければ幸いと存じています。
小生は農友会の農業実習生で学生時代1年をこのカリフォルニアで過ごしました、卒業後パラガイに移住する予定でしたが農友会の現地指導員として手伝え(本田さんの手伝)との依頼でこちらに派遣されてきました、10年間実習生(日本、韓国、中国、ブラジル、アルゼンチン)の世話をしました、1970年代後半は日米の貿易摩擦が始まり、日本からの実習生も1年間同じ場所での実習より幅広い実習と研修を目指すべしとの主張が受け入れられず、後輩に仕事を渡し、1978年日米農業問題研究所(World-wide Ag Services)を開設しました。
貿易摩擦(自動車、電化製品、半導体等)は更に深刻化し、米国は日本政府に対して農産物の自由化を強力に主張しだしました。10年間の農業実習生事業を通してアメリカの各州を回り農業をつぶさに見てきた私にとって、アメリカの求める農産物自由化は日本農業の壊滅的破壊に繋がると確信し、日本の農業関係者がこの農産物戦争相手国の米国、カナダの農業を見て「喧嘩相手」を知ることが大切と考えました。
北海道から九州までの農協を5年計画で回り、「米国農業を視察せよ」と訴え、その仕事を続けました。反響は大きく1985年にはサンフランシスコ本社とし、ロスアンジェルス、ニューヨーク、バンクーバーそして東京と支店を置き総勢60名のスタッフで全国のJAを初め政府の農業関係、都道府県、市町村まで北米(カナダ含む)農業視察を呼びかけました。同時にこちらの農業関係者も日本に連れて行き、各地を視察してもらい日米が競争するのではなく、互いに協力し農畜産物を交換するべきことを理解していただきました。日本も政府におんぶに抱っこ、そして米主体の農政から脱却し、経営感覚を重視し生産から加工そして流通まで独自に行い、安全、安心、新鮮で高品質を守れば自由化は怖くないことを解っていただくようお手伝いをしてきました。
この間日米共に農業は大きく変化しました、日本農業も後継者不足等の問題はありますが、独自の経営重視の高度な農業をしている農業者には若い人たちが大勢いますそして彼らは経営者として農業に誇りを持ち、高所得を確立しています、北米視察はこのように経営重視の農業を学ぶのに最高の機会であったと確信しています。そして日本農業と直接競合しない農畜産物の自由化は日本の消費者にとって大きくエンゲル係数の減少に繋がっていったと思います。
この仕事も2000年に近づくと共に大きく変化しました、バブル崩壊、インターネットの普及、農業人口減少、農産物の更なる自由化、後継者の大幅な減少、JA組織は金融、保険主体となり営農事業衰退、市場流通から産直流通への変化、これらが北米への農業視察関心の減少を余儀なくさせて行きました。この間、一番大きな援護射撃は実習や視察に来た大潟村の農村青年たちのグループ化でした、食糧庁、秋田県を相手に訴訟を起こし、例のヤミ米運動の始まりです、米国の米政策を学び、「生産する自由」、「販売する自由」を数年かけ血と汗を流して勝ち取った事件です、彼らは本当によくこちらの米関係を勉強して帰り、私もよく大潟村を訪れました、彼らが農民への政府関与を排除したのです、その後大潟のヤミ米は日本中に飛び火し、販売の自由を勝ち取り、独立した形態で米による生計を立派に確立した事件でした。
そして2001年9月11日の同時多発テロ事件勃発、この日我社の視察関係は13団体が米国、2団体がカナダに滞在していました、制空権発令で団体は動けず、1週間寝るまもなく世話を続け全員無事帰国させたときは、「もうこの仕事も終わりにしよう」と決断しました、それでも1ヵ年は社員の要請で続けましたが米国旅行は危険との国の方針が出て、訪問者はなく収入も殆どなく、1年間支出のみで、資産の全てを売却し2002年10月会社を閉鎖しました、1978年ゼロから初めた事業、2002年ゼロで終了することとなりました。
仕事、・・、出張、・・ばかりで自分の時間を持てませんでしたが、リタイアーの生活が始まり、読書、インターネット、ブログ(日本)、ゴルフ(シングルになりました)、水泳(YMCA通い)と楽しんでいます、2004年には回想録を限定自費出版しました「島から大陸をめざしてー農業拓殖活動家の回想ー」です、その後農大出版会から出版要請があり、恥ずかしいけれど出版許可を出しました、現在サンパウロの農大会館にも1冊あるとの事です、お暇の折にでも見てくだされば光栄です)。35年間日米の農業関係の仕事に明け暮れてきましたので、日本にも関係者が多く、いまだに個人的に視察を依頼されることがあり、時折農村地帯へ出かけています、またこの間姉妹都市も私の町も含め10市町村つくる手伝いをしました、そんな関係で日米の市町村での行政、議会、組織の違いを姉妹都市同士が理解しあい互いの優れた方法を取り入れることの手伝をしてきました。
2010年9月「農大パンアメリカ大会」がべノスアイレスで開催される予定です、同期の三村君が現地で世話をしているようですので訪問する予定です、その後サンパウロで杉野先生の墓参りを計画しています、五期は現在、星(Atibaia)、北沢(Santa Catarina)、須貝( Brasilia )、長坂、伊藤(Belem)が居ます、秋山(Atibaia)、堀江(Sao Paulo)、岸(Monte Alegure)は他界しました。
私も3回ブラジルの仲間を訪ねています、実習生の卒業生も多く、Sao Paulo 在住のNelson 斉藤(Ibiuna出身のSaito 養鶏)とは親しく付き合っています。次回お目にかかれますれば嬉しいことと存じています。   村松義夫




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