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富田 眞三さんの 【台 湾 紀 行(上)(下)】
『私たちの40年!!』のメーリングリストのメンバーのお一人早稲田大学の海外移住研究会と云う泥臭いサークル活動後、自らメキシコに移住、その後アメリカに移り現在テキサスのサンアントニオにお住みで【アメリカ便り】と云うBLOGを書いておられます。半年アメリカ、半年日本にと悠々自適の生活を楽しんでおられますが、現在東京在で台湾をクラブツーリズムのひとり旅というツーア―に参加されたのを機械に【台湾紀行】としてBLOGに2回に分けて掲載されておられますので寄稿集に収録させて頂くことにしました。
私も台北に確か2泊3日で出掛けましたが、客先の社長さんとゴルフを楽しんだのと故宮の博物館訪問と夜のカラオケの店に居た日本語の上手な綺麗な足をした店の女性位しか覚えていません。
富田さんのBLOGには興味深い写真が沢山掲載されているのですが旅の仲間の皆さんと撮られた写真をお借りする事にしました。左から4人目、真ん中に写っているのが富田さんです。尚、最後にコメント集として杉井さん、松川さんのコメント等も一緒に収録しております。


クラブツーリズムのひとり旅で、初めて台湾訪れた。参加者7人の小じんまりした良い旅だった。
台湾の第一印象は、日本車が多いことと、日本企業、ブランドの多さだった。台北駅のセブンイレブンの関東煮(おでん)の売場スペースは日本の同店の優に二倍はあり、しかも店頭を占領しているのに驚いた。おでんは暑いにも係わらず良く売れていた。

台湾の住民は国家統治の及ばない者である
さて、親日国と言われる台湾は、17世紀以降、オランダ、国姓爺と呼ばれた鄭成功、清王朝の支配下にあったが、1871年54名の宮古島島民が台湾原住民に殺害されると言う事件が起こった。
抗議をした日本政府に対して、「台湾の住民は国家統治の及ばない者である」と返答したように、清王朝は台湾が自国領との認識を持っていなかった。
14年後、清国は国防上の観点から同島の重要性を悟り、知事を派遣して、台湾省を新設した。台湾省は10年の短命に終り、1894年日清戦争に敗れた清朝は1895年、締結された下関条約によって、台湾を日本に割譲したのである。
これ以降51年間、台湾は日本の領土として、台湾総督府の統治下に置かれた。こうして台湾住民は初めて真っ当な政府を持ったのである。
日本統治に反対する、清王朝が蛮族、生蛮と呼んだ原住民は大小の反乱を繰り広げた。反乱の原因は台湾を植民地にしたことに尽きる。司馬遼太郎氏は、氏の「台湾紀行」で、「他の郷国を植民地にするということは、その地で生きているひとびとの存在としての誇りの背骨を石で砕くようなものである」と述べている。

日本は力のかぎりのことをやった
一方、台湾の総統だった李登輝氏は、「植民地というのは、トクな面がある。その本国のいちばんいい所が植民地で展開されるからだ」と現実的な見方をする。
確かに、帝国主義国家として後発国の日本は、朝鮮半島でも行ったが、台湾では多額の国家予算を投じて、大々的なインフラ整備を行った。その結果、植民地から利益を得ると言うよりは、持ち出しになっていたが、明治政府は意に介さなかった。
司馬氏はこうも書いている。「余分な富力をもたない当時の日本が、力のかぎりのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた」
一例を挙げる。山岳地帯では雨量が4000ミリも降る台湾も、平野部の雨量は半分しかない。そこで、総督府は51年間に66のダムを建設して、山間部の雨を平野に送る、灌漑用水路網及び水力発電所を築いたのだ。このダム群のうち一番有名なのが、八田与一技師が9年に亘って心血を傾けて建設した、烏山頭ダムとその水利配水工事だった。因みに、蒋介石の国民党政権が建設したダムは1つだけである。
初代から三代の台湾総督府総督は何れも短期間の勤務だったが、四代目総督、児玉源太郎(陸相、内相、文相、日露戦争の満州軍総参謀長)は8年間務め、台湾発展の基礎を築いた。児玉は明治政府の公衆衛生の専門家である、後藤新平を伴って総督府に就任した。後藤はマラリア、ペストの絶滅、アヘンの吸引の漸禁(ぜんきん)政策、上下水道の整備等を行った。台湾の上下水道整備は本国より早い時期に完成した。児玉の後任の総督になった後藤は、新渡戸稲造を招聘した。札幌農学校出身の新渡戸が台湾に導入した砂糖キビは、後年台湾の主要産物に成長した。このように台湾には、当時の日本の第一級の人物が集められていたのだ。
我々のガイドの候嘉恩(コウ・チーウン)さんは、淡江大学の日本語科出身のインテリだが、うれしいことを教えてくれた。現在の高地人、中国人によると蛮族、総督府によると、高砂族は台湾の原住民だった。彼らは14部族に分かれていて、各部族が異なった言語を持っている。そこで、彼らの共通語となったのが、「日本語」だった。総督府は台湾の隅々まで学校を建てたので、高砂族の住人は日本語が理解できたからだ。日本が去った今でも、日本語を話せる高砂族住民は多い。

日月潭へ
台北市の桃園空港に到着した我々は、高速鉄道(台湾新幹線)#661号にて、台中に向かった。列車は清潔で乗客も紀律正しく、日本と何ら変わらなかった。50分で台中着。
マイクロバスで「日月潭雲品酒店」に到着した。新築3年のホテルは台湾一高価なホテルだけあって、快適な宿だった。この付近は高砂族中最小の300人未満の高地人サオ族の居住地にあたる。
総督府は日月潭を利用してダムを建設したため、湖面はかつての4倍の大きさになり、日月潭の発電所は台湾の水力発電量の56%を供給している。因みに、潭(たん)は沼よりは大きいが湖より小さいものを指すが、現在は台湾一の湖水に変貌している。
周囲33キロの湖水の周囲には、木製の立派な遊歩道が完備している。翌朝、私は1時間散歩してきた。湖には「水草」と呼ばれる、植物を植えた小さな浮島が数多く浮かんでいる。
これはサオ族が設置したもので、水草の下に集まってくる魚を釣りあげるのだ。かつては奇力魚が良く釣れたそうだが、蒋介石が好んで食べたのを真似た住民の乱獲により、絶滅の危機に瀕している。今は鱒が釣れるようだ。

故宮博物館、台北101ビル
翌日、新幹線で台北に戻り、世界4大博物館の一つである、故宮博物館を見学する。台湾で目が付くのは、中国人観光客の多さだ。かつての最大の観光客送出国は日本で、年間100万人が来台しているが、今は中国人が年間150万人で第一位になった。若い人が多いようだ。
同博物館には、中国王朝5000年の貴重な六万点以上の宝物、芸術品が展示されている。日華事変勃発後、大陸の各地で保管されていた故宮博物館収蔵の宝物類は第二次大戦後、蒋介石の指示で台湾へ移されたところで日本人を始め、外国人の見学者も多かった。
故宮見学後、訪れた「茶楽」で「プアル痩健美茶」が動物性脂肪を分解、コレステロール、尿酸を下げると言うので、つい高いのを買ってしまった。
夕食は「丸林レストラン」で台湾料理を堪能した。
夕食後、現在世界第二位の高さ509.2メーターを誇る、101ビルに登って夜景を楽しむ。
台北華国大飯店(インペリアル・ホテル)に投宿。フロントやレストランは日本語を話す従業員が多くて、大助かりだった。
(上、終り)

台湾紀行(下)
日月潭を見下ろす高台に蒋介石の別荘がある。蒋介石はかつて台湾内に47の別荘を持っていた。スターリン、毛沢東、金正日、フィデル・カストロ級である。王侯貴族のような贅沢生活を送るのは、左翼革命の独裁者の専売特許と思っていたが、イデオロギーは関係ないようだ。独裁者の私生活は、秘密のベールに隠れて国民には分からないのだが、蒋介石の最後の10年は植物人間状態だった、と言う。1887生れの蒋介石は1975年に亡くなった。
父を継いで総統となった、息子の蒋経国は李登輝を初めとする、本省人(台
湾人)を登用して政治の台湾化を推し進めたことで評価されている。

花蓮からタロコ峡谷観光
台湾3日目の朝8時、特急列車太魯閣(タロコ)号#1091便にて台北から東海岸の花連に移動。二時間後到着。
花蓮地区は高砂族中最大のアミ族の住む地域である。15万人を数える彼らは、美男美女の部族として名高く、歌と踊り、スポーツが得意だと言う。
日本統治時代は日本からの移住者が多く住んでいた、花蓮地区は大理石の産地で、歩道は大理石の切りおとしで舗装されている。
花蓮近くに台湾最大の景勝地タロコ峡谷がある。タロコ峡谷に沿う道路は、戦後の1956〜60年にかけて、1万人の退役軍人たちがノミと金槌で完成させた、159キロの台湾東西横貫公路の一部であり、タロコ峡谷部分は23キロに及ぶ。
タロコ峡谷は数十メーターの狭い河幅部分に、深さと言うか高さ1,000メーターのV字型峡谷が続いている。しかも両岸の岩肌に白い大理石の層が散見出来て、将に絶景かなである。河岸には、タロコ族が通行した険しい小道が残されているが、ここはアミ族の居住区域でもあり、我々は彼らの店でアイスクリームを食べた。店には101才の顔に入れ墨がある老女の大きな写真が飾ってあった。
昼食は花蓮の「統帥大飯店」にて飲茶料理を満喫した。皆の一致した評価は、台湾の中華料理は「油っぽくないのが良い」だった。
午後4時、花蓮から普通列車で3時間かかって台北に着く。夕食は「聚豊園レストラン」で北京料理を食べる。日本や米国の北京ダックより遥かに大きいが、本場よりは小振りなのは止むを得ないか。しかし味は中々良かった。宿はインペリアル・ホテルに連泊。

行天宮、忠烈祠を観光
4日目に訪れた行天宮は、1976年に創建された武廟(ぶびょう)で、商売の神様と言われている。種々の供物を持って、ご利益を願う二万人以上の善男善女が連日訪れる寺院で、近くには占い師が多く出店している。続いて、英霊を祀る忠烈祠の衛兵交代式を見に行く。三軍の兵士の交代式はイギリスのバッキンガム宮殿の衛兵交代に似ているが、こちらはずっと小規模。だが、機械のような正確さで銃剣をくるくる回して行進する兵士たちは、一見の価値がある。なお、衛兵は軍のエリートであるが、月給は5,000台湾ドル(15,000円)と低い。

印象に残ったこと:免税店、オートバイ、出産率
台北市内にある、エバーリッチ(昇恒昌)免税店が興味深かった。免税店は海外旅行者向けの店舗なので、空港にあるのが普通だが、ここは市内にあるのが珍しい。免税商品の受取りは空港である。空港の免税店は売場も小さく、品ぞろえも少ないものだが、エバーリッチ免税店は、いわゆる世界のブランド品がほぼ全部出店している。おまけに値段は他国の免税店に比べて格段に安いのが驚きである。とは言っても、超高価な香水、洋酒類の品ぞろえも豊富だったのは、流石である。
日本人観光客が年間100万人、中国人観光客が150万人台湾を訪れるが、中国人の購買意欲は、貪欲以外のなにものではない。あたかもこれが最後の買物と言った気分で買って、買って、買いまくっているのは壮観だった。
次から次へと貪欲な中国人が大型バスで送りこまれてくるのは、さながら人海作戦の感があった。
台北で驚いた、もう一つは、100万台と言うオートバイ群である。人口250万の台北市に毎日150万のサラリーマンが通勤してくる。内50万人は電車、地下鉄、バスで通勤するが、100万人はオートバイで通うのである。良く見ると、二人乗りが多い。オートバイは国産は50ccが28,500台湾ドル(85,500円)、125ccが75,000台湾ドル(225,000円)位である。
YAMAHA、HONDAもあるが、もっと高い。
因みに大学新卒の初任給は22,000台湾ドル(66,000円)だから、オートバイ一台分に当る。
朝夕のラッシュ・アワー時、市の中心部の道路はあたかもオートバイ・レースの感があって、壮観である。
台湾の出産率が大変なことになっている。日本では女性の出産率が1.37に上がったと大喜びしているが、台湾は何と0.72しかない。この国の恋人たちは同棲しても結婚はしない、のだそうだ。何故なら、彼らが恐れる悪夢がある、と言う。それは、或る朝目覚めると、台湾は中国に取り込まれていた、と言うことだ。先行きに不安を感じる彼らは、とても子どもを作る気にはなれない、と言うのだ。
大体、台湾は地理的には福建省の飛び地と言う位置づけであり、国家として存続する、中華民国の首府は南京であると言う、非常に不安定な状態にあるのだ。台湾には共産中国が侵攻してくる、可能性も捨てきれない厳しい現実がある。
しかしながら、経済の面では好調である。台湾はリーマンショックで多大の影響を受けたが、過去30年の経済成長率は8%に達し、輸出工業による外貨獲得により台湾は世界4位の外貨準備を有している。台湾のビジネスは電子工業が中心である。日本等から機械、半製品、パーツを輸入して、完成品を米国、中国を始め全世界に輸出する、ビジネス・モデルが定着している。特に中国へは五万社の台湾企業が進出し、100万人が常駐している。
最早、商売の面では中国とは切っても切れない関係にあるのだ。
しかし、北京政府は台湾に、「二つの台湾、台湾の独立を主張する企業は、中国との取引を禁止する」と牽制するのだ。
人口の75%が台湾語を日常使用していることからも明らかな通り、台湾人(本省人)は「台湾人としてのアイデンティティ」を持ち、自分自身を中国人とは思っていない。彼らにとって一番望ましいことは、今のままの状態が続くことなのだ。
それにしても、アジアでは数少ない親日国の台湾を我々は大事にしたいものだ。

山地人の挿話
稿を終るに当り、司馬氏の台湾紀行に載っている、高砂族の挿話を紹介したい。
当時の日本人と高砂族(山地人)との深い繋がりをご理解出来れば、幸いである。
この話は古い。話してくれた中山了(トオル)氏は私が新聞社にいたころの同僚で、話の時代は、戦時中から敗戦にかけてのことである。
この人は土佐人で、東大経済学部に在学中に陸軍にとられ、経理将校として台湾の東部で勤務していた。
敗戦後、経理部の残務整理を終え、部下数人とともに山から下りた。
山道をくだるうち、前方の草むらが突如動いたそうである。みると、見知らぬ山地人の壮漢が、片ひざをつき、腕をのばして一椀の地酒を差し出してくれていた。
わけが分からぬまま礼を言い、すこし飲み、部下に飲ませた。
さらに下ると、べつの山地人がかがんでいて、おなじく一椀の地酒をさしだしてくれた。最初の人と同様、無言だった。
中山了氏は感激性のつよい人で、いちいち立ち止って答礼するうち、涙がこぼれた。
山地人が、こんな形で日本国の亡びを悼み、かつ分かれを告げてくれたのである。
中山氏は、いま名古屋でプロ野球の社長をつとめている。
(終り

(コメント集)
富田:私たちの40年の皆さん  先週、台湾に行ってきました。今度の旅は、観光、グルメ は勿論ですが、台湾の歴史、日本統治時代の様子、現在の社会情勢も欲張って観察してきました。
時間があったら、下記のBLOGでご笑覧下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/16020820.html
http://blogs.yahoo.co.jp/stomita2000/16058602.html

和田:富田 さん 台湾紀行読ませて頂きました。
『私たちの40年!!』寄稿集にも全文収録させて下さい。
作業が何時に成るか分かりませんが週末にでも遣ります。
適当な写真1枚お借りします。

富田:和田さん、タイガースが首位になりました。和田さんたちも鼻が高くなったいるでしょう。おめでとう。
さて、台湾紀行がお目に留まって、光栄です。
東京に帰ってきたら、こちらの方が暑いのに驚きました。
Brasilは冬ですね。風邪をひかないように。
Tokyoにて 

和田:富田 さん タイガースのニュースが目に着くように成りましたか。今年のプロ野球は面白そうですね。ドングリの背比べ何処が抜け出して優勝するのでしょうかね。阪神が頑張って呉れると嬉しいです。昨日は、中日に勝って首位を守っているようです。
今年はワールドカップは駄目でしたが、ポルトアレグレのインテルナシオナルが絶好調で日曜日にポルトアレグレダービがありますが、20数年ぶりに家族で来伯する日本ブラジル交流協会の5期生の藤井君が日曜日に遣って来るのでGRE-NALを観戦に連れて行きます。中学と高校生のお嬢さん達がご両親が青春の一時期を過ごしたブラジルのポルトアレグレの街を見に来てサッカー観戦をするので一生忘れない本場の良い試合を見せて遣りたいです。ベイラリオは2014年のワールドカップの行われるスタジアムです。久し振りにスタジアムでの観戦し訪問者にあやかる積りです。
台湾紀行は明日にでも纏めて寄稿集に収録させて頂きます。

SABURO:いつもながら素晴らしい紀行文ですね。
単に観光地を回り、お土産を買い、帰ってくる人たちとはちがい、urasimaさんの物を見る目に、いつも感心させられています。
もう一度ゆっくりと読ませていただきます。

富田:Sabuさん お褒めに与り、恐縮です。下巻で、台湾の衝撃てきな出産率について書きます。こんなことに興味を示す観光客は確かに変わってますね。
何時も読んでくださって、感謝しています。

あひる:「クラブツーリズムのひとり旅」という表記はおかしいです。
クラブツーリズムのパッケージ旅行にひとりで参加した。そのツアーの総勢は7人・・・ということでしょう。

富田:あひるさん この旅はクラブツーリズムが主催する、「ひとり旅」というパッケージなのです。

杉井:台湾・日本の国交断絶前夜を経験した元台湾駐在員として補足説明させて戴きます。
今回は台南まで行かれなかった様ですが、鄭成功は海賊兼貿易商だった鄭芝龍と日本女性の間に長崎で生まれたハーフで、明朝復興を目指して清朝と戦うもののことごとく失敗して、オランダが占領していた
台南に1661年侵攻してオランダ人を追い出して台湾統治を始めた人物で、台南の鄭成功廟には母親の田川氏も祀られています。
台湾の近代史で重要な事件は国民党が台湾に逃げた1947年に起きた
二.二八事件で、闇タバコを売っていた台湾女性が国民党軍に袋叩き
されたのを機に大規模暴動が起き、多数の死者、処刑者を出して
鎮圧されたものの、これが台湾人の外省人に対する反感、反抗の始まりだと言われています。 現在は国民党政権で中国寄りですが、台中以南は本省人が大半なために独立運動や反中国感情が強いです。
私見では台湾独立容認派で、共産主義の中国とは一体になるべきではないと思っています。 万一中国が共産主義を捨てて本当の民主国家になった場合には米国やブラジルの様な中国連邦共和国になるのが
ベストかとも思います。

富田:杉井さん、台湾に関する補足説明を頂き、有難うございました。
杉井さんの言う「台湾独立」が台湾人にとって理想でしょう。
かつてソ連はゴルバチョフ時代、言語が異なる民族に自治権を与えたスペインの政策に関心を示していました。
中国がゴルバチョフの柔軟性を持つことが出来るか。
今後も台湾を見守っていきたいと、思います。
有難うございました。

SETSUKO:富田さん 台湾紀行上下ありがとうございます。楽しそうですね
台湾の歴史勉強になりました。
父が(存命だと94歳)昭和16年台北帝國大學を卒業したんです。一度訪ねてみたいと思っています。

富田:Setsukoさん コメント、有難うございます。私の父は昭和6年、東京高商を卒業しました。学友に台湾の人がいたとよく聞きました。
お父様が卒業後、どう言う人生をたどったのか、興味があります。

SETSUKO:富田さん 父は、大學の理農学部卒業してから、郷里の北海道空知郡に帰り帝國繊維(株)月形亜痲工場で責任ある立場で、終戦をむかえました。
そこでは、パラシュートを作って軍に納めていたそうです。敗戦と同時に工場は閉鎖され、一時職を失ったんですが、道庁の農業試験場に職を見つけることが出来、そこで定年を迎えました。好きなことを仕事に出来たので、父は、幸せだったとおもいます。
簡単ですけど、母に聞いたことをまとめました。久しぶりに 父を思い出す事が出来ありがとうございます。父が書いた履歴書これからも大事に大切にしようと思います。

松川:富田さん 松川です。「台湾紀行」をありがとうございます。
私は1年半ほど仕事の関係で台湾にいましたが、あまり見て回ることができませんでした。
詳しく現地の様子を紹介いただいているので、自分もそこにいたかのような感覚です。
私が在台中に母と伯母がいちど台湾に来ましたが(台北だけでしたが)、彼女たちが言うには「一歩裏通りに入れば昭和30年代がそこにある」ということでした。
富田さんも同様にお感じになるときがございましたでしょうか。
「台湾紀行」にお書きになった中で一か所、故宮博物院の項、僭越ながら訂正させていただきます。
同博物院収蔵の宝物類が台湾に疎開したのは、大東亜戦争終了後、支那で国共内戦が再開して後のことです。蒋介石が台湾へ移すことを指示しました。
確かに北京の故宮より難を避け運び出されたのは日華事変勃発後ではありますが、両国交戦中は大陸の各地で保管されていました。
1930年代の台湾は日本の領土です。

富田:松川さん 台湾紀行の「誤り」をご指摘頂き、有難うございました。
早速、訂正させていただきました。
さて、松川さんのお母様と叔母上の台湾に関する印象は、私も持ちました。
子供のころ、父の大学の学友に台湾からの留学生がいた話を、父から聞き、台湾に親しみを感じていました。台湾が我々と同じ漢字を使っていることにも、親しみを感じました。
今後も宜しく、お願い致します。



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