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海を渡ったサムライたち ―日伯セレソン物語― ラモス瑠偉【ニッケイ新聞連載中より抜粋転載】
日韓合同W杯開催時期にあわせブラジルから日本に海を渡ったサッカー選手(サムライ)たちと題してニッケイ新聞に連載されていますが今大会でも活躍した三都主アレサンドロー選手も紹介されておりますが、現在NHKの朝の連続テレビ小説“さくら”で渋い居酒屋の主人として出演している俳優?ラモス瑠偉さんの最終項を転載させて貰う事にしました。ラモス瑠偉さんは、テレビでもバラエテイー番組等にも出演人気者で昨年6月にNHKの特別番組の出演取材でサンパウロに帰国するのに乗り合わせ色々個人的な情報も含め楽しく起きている間は話し合う機会に恵まれました。丁度韓国でのコンフェデレーションズ杯に敗退したブラジルの選抜軍の急な帰国選手及び帰国後更迭されたレオン監督(後任が現在のフリッポン監督)等も乗り合わせており若手選手がラモス瑠偉さんに助言を求める姿や多くのフアンが押し掛け写真をねだったりしていましたが私も一枚隣のラモス瑠偉さんと写真に収まりました。何かあれば連絡するようにと自宅のご住所と携帯電話番号を書いたサインを手帳に書き留めて呉れ気さくな人柄と家族思いのやさしさに感心しました。写真は隣り合わせたラモス瑠偉とのツウショットです。


「今度は早く日本人になりたい」誰よりも「日の丸」を愛す。二〇〇二年六月四日、自国開催のW杯初戦。日本は強豪ベルギーを相手に二対二で引き分け、史上初の勝点一を獲得した。
得点を決め、喜びを爆発させるイレブンの右腕で「日の丸」が輝いていた。
ユニホームのそでに「日の丸」が付いて、実はまだ十年も経過していない。
一九九二年十月から十一月に、広島で開催されたアジアカップが最初だった。日本が始めてアジアを制した記念すべき大会だ。
ラモスが、「日の丸」とともに戦いたい、と日本サッカー協会に求めたのだ。
「日本人」になってわずか三年。しかし、「日の丸」を愛する資格は、誰よりも十分だった。
「ブラジルでは草サッカーでも三百人は集まるよ」七七年四月に来日し、同十月にデビューしたラモスは二部リーグとはいえ観衆の少なさにあきれていた。
そんな彼に最初の試練が待っていた。七八年一月十四日の第十二節対日産戦。ラモスは競り合った坂本嘉和にひじ打ち。大げさなしぐさを取った坂本を追いかけ回した。
二枚目のイエローカードで退場となったラモスに、協会は非情ともいえる厳罰を突き付けた。
一年間の出場停止。
異端児の読売クラブと「ガイジン」ゆえに下された、異例の判断だった。
「辛かった。でもせっかく連れてくれたジョルジの立場もあったし、自分の力をみせたかったから」ラモスは負けなかった。
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 得点王(十四点)とアシスト王(七)の独占。解禁後の翌七九年、ラモスは釜本邦茂以来初めての二冠を獲得し、その実力を見せつけた。
 ジョルジの芸術的なパスに壁パスを使った中央突破。二人が見せたサッカーは、まさしく「王国」の薫りに満ちていた。
 しかし、再び悪夢がラモスを襲う。八一年八月二日、バイクに乗っていた彼は、自動車と衝突し、左足を複雑骨折。
骨が皮膚を突き破り選手生命の危機を迎えていた。
 ラモスを支えたのが、当時交際中の初音だった。
 「単身で異国に来て、夢が途絶えかけた恋人を持てば、誰でもするはず」初音は毎日二時間かけて看病に通った。三カ月間で欠かしたのは、ケンカした一日だけだった。
 最大の危機を初音と乗り越えたラモスは、八三年に得点王に輝き、八三、八四年の優勝に貢献した。
 八四年二月、初音とともにサンパウロに帰省し、結婚式を挙げたことが「日の丸」への第一歩だった。
 初音は一人娘だった。「オレが将来、初音をブラジルに連れて帰れば、両親の面倒はどうなる」親思いのラモスならではの悩みを解決したのが、尊敬するブラジル人監督、ジノ・サニだった。
 「外国人枠も有効に使えるし、いいんじゃないか」という恩師に従い、帰化申請。書類審査や漢字のテストなど苦労の末、八九年11月二二日、ラモス瑠偉が誕生した。
 しかし、特別に「日の丸」は意識していなかった。彼はネルソン吉村や与那嶺ジョルジのような日系人ではなかったからだ。
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「弟の貢献を日本人は分かってくれていた」九九年八月二三日、マリアや初音ら家族と共に東京・国立競技場にいた義兄のエイトールは、涙が止まらなかった。ラモスの引退試合に集まった4万八千人の思いがうれしかった。来日後二二年間の長い道のりだった。
九〇年九月のアジア大会で念願の「日の丸」を付けて以来、ラモスは日本にガッツと誇りを植え付けた。
唯一のW杯予選こそ夢はかなわなかったが、横山、オフトの両代表で数多くのタイトルを勝ち取る原動力となった。
九五年八月には、日伯修好百周年を記念したブラジル代表との試合に出場。「日の丸」を付けた最後の試合だった。かつて憧れた栄光のセレソンもラモスにとって勝つべき相手にすぎなかった。
「ただの敵。勝ちたかった」と悔しさをにじませたラモス。国籍だけでなく、心の底から日本人だった。初めて「日の丸」を付けたときに鳥肌が立つほどの感動を覚えたというカリオカは言う。
「今度生まれてきたら、もっと早く日本に来て、もっと早く日本人になりたい。そしてみんなと一緒にW杯に行きたい」
=敬称略= この項終り (下薗昌記記者)

(平成14年6月22日タイプアップ 和田 好司)




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