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神高生ブラジル移住のパイオニア、逝く  東海林 正和さんの追悼記
神戸高校9回生の西 精二先輩が11月29日に亡くなられましたが、12回生の東海林 正和さんが神高生のパイオニアと位置付けされた西先輩を偲んで追悼記を彼のBLOG【ブラジルに50年・男のエッセイ】書いておられます。
『私たちの40年!!』寄稿集に関係記事を掲載しておりますが、別枠として収録して置きたいと思います。
東海林君の移住を決心した経緯、ブラジル到着後の印象、西先輩の独立時の経緯「ニシ ニゲタ」の電報、同期9回生の新井秀介先輩との切っても切れない友情、私の知らなかった事も紹介されており西先輩を偲ぶ追悼記としては最高の寄稿です。同君が書いている「Cemiterio da Paz は、綺麗な墓場でした。現場を見ると、他人ごとではない気がします。」のコメントに全く同感の意を抱きます。元気な間は元気に生きて行くことが故人への手向けに成るのではないかと思います。
写真は、初七日の法要の席上で山下さんが撮られた霊前の西先輩の遺影をお借りしました。


神高生ブラジル移住のパイオニア、逝く ブラジルに50年・男のエッセイ 東海林 正和さんの追悼記が届きました。

神高生ブラジル移住のパイオニア、逝く

神高9回生 西 精二氏

2010年11月29日、ブラジル・サンパウロ市在住の西 精二さんが永眠された。
1959年の秋、神戸高校3年生(12回生)を集めた講堂で、高山校長の講演を聞いたあと、ブラジルに関する話をさらに詳しく聞くために、私は校長室を訪れた。
その時始めて、既に9回生2名、10回生1名、11回生2名が、ブラジルに渡り、同じサンパウロの貿易商社で働いていることを知った。
ブラジル移住のパイオニアたる9回生の一人が、西精二先輩だった。もし、自分が最初のケースなら、相当難しい決断をすることになったであろうが、既に先輩5名が現地に居るなら、気持ちはずっと楽だ。
高山校長は、その場で、西さんからの近況報告の手紙を披露してくれた。手紙の中で「肉が安く、毎日のように食べる」「パイナップルやパパイアはただ同然の値段でいくらでも食べられる」などの内容が特に印象に残った。(後日、西さん曰く「女性は美人が多く、金髪は選取り見取り」と書こうと思ったが、校長宛の手紙なので差し控えた。)食べ物に魅かれた訳ではないが、我が家ではよほどの特別な場合にしか口にできないものを、毎日食べているという話はやはり魅力的で、もうそれだけで50%は、ブラジル行きに心が傾いた。
それにつけても、ブラジル移住のパイオニアとなった9回生お二人は、さぞかし、多大な勇気を要したであろうと、未だ見ぬ先輩に、尊敬の念を抱いたものだ。
私は今、ブラジルに移住して来て、本当に良かったと思っている。その意味でも、先鞭をつけて、自分にブラジル行きを決断させてくれた、西先輩たちには心から感謝をしている。
それから丁度一年後に、ブラジル・サンパウロで西さんを始め、5人の先輩たちと会うことになる。西先輩は、元ラグビー部にしてはナイーブそうな人、というのが第一印象であった。
先輩たちの温かい歓迎を受け、用意されていた下宿に落ち着いた。部屋は、西先輩と山下先輩(10回生)と同室であった。そして、ほぼ2ヶ月振りに陸のベッドでぐっすり眠った。
翌日、気分良く目覚めた私に、西さんから通達があった。
「部屋の掃除は、後輩の君が担当してくれ」と西さん。
私は、ブラジルくんだりに来てまで、学校の延長のように、先輩風を吹かして指図をされてはたまらない。後日のためにも悪例を残すべきでないと思った。
「納得できません。3人の部屋ですから、当番制にすべきだと思います」と私。
すったもんだの末、結局西さんが前言を撤回して、当番制ということになった。
一度決まってしまうと、西さんは実にさっぱりしたもので、翌日には近くのレストランで、歓迎代わりに、目玉焼きが二つ乗った特大のビーフステーキ(乗馬ステーキという)をご馳走してくれた。
私は、感激で涙が出そうになりながら(内心では、掃除を引き受けてもよかったとすら思った)肉を頬張った。
現実のブラジルは、西さんの手紙にあった通り、確かに肉も果物も安かった。しかしその反面で、給料も安く、仕事はキツい、というもう一つの現実に関する情報が不足していたことは否めない。その部分については、きっと両親や先生たちを心配させないという配慮があったのだろう。
数日後、西さんは、校長への手紙には書かれていなかった「金髪が選取り見取り」の世界に案内してくれた。そして、パートナーの選択法から床技に加え、ことに及んで必要な、最小限のポルトガル語まで、丁寧に手ほどきをしてくれた。お陰で後日、私はその世界にのめり込んでいくことになる(「1」わが人生と金髪、参照)。
肉体労働で厳しい一週間を過ごした後の日曜日は、待ちかねた貴重なプライベートの時間だ。西さんは、もっぱらラグビーの練習だった。私は、高校では馬術部に所属していたが、野球にもかなり自信があったので、二世の社員に勧められるままに野球クラブに入った。肩の強さを買われてピッチャーに抜擢されたが、日曜だけの練習では今ひとつコントロールが定まらない。西さんに相談したところ、快くキャッチャー役を引き受けてくれて、平日の昼休みに下宿の裏の路地で、毎日ピッチングの練習につきあってくれた。お陰で、コントロールが定まり、二部リーグだったチームを、翌年には一部に昇格させることに貢献できた。

元気な頃の西さん
このように面倒見のいい西さんは、反面ではとても几帳面で、繊細な神経の持ち主だった。社長は彼のそんな面を評価して、経理部の仕事を任せていた。
私は、ようやく肉体労働から解放されて、セールスマンに昇格し、あちこちに旅行をするようになった。ある時、北東地域へのセールス旅行に、社長が同行することになった。出張は一週間の予定だ。リオ・デ・ジャネイロ市、ヴィトーリア市を経由して、4日目にバイア州のサルバドールに着いた。
ホテルにチェックインすると、会社から一通の電報が届いていた。短い電文で「ニシ ニゲタ」とあった。驚いた社長は、すぐに長距離電話を会社に入れて、打電した山下さん(10回生)に詳細を問い合わせたところ、西さんが突然退社届けを出して、即日に辞めていったとのことであった。
神経が繊細な西さんは、社長に直接辞表を出すと、引き止められたら断りきれないと思ったのであろうか、鬼の居ぬ間にトンズラをする形で、退職してしまったようであった。それが、「ニゲタ」という表現の電報になったようだ。私は、いかにも西さんらしいと思って思わず頬がゆるんだが、社長は裏切られたという思いが強かったようで、私をジロリと睨み、急に不機嫌になってしまった。そして、そのまま旅行を切り上げ、一人でサンパウロに帰ってしまった。
それにしても西さんの突然の退職には、皆が意表をつかれた。彼は、在職中からコツコツと独立の準備をしていたようであったが、親しくしていた山下さんでさえ全く気付かなかったというから、恐れ入った。
西さんは、郊外にあった倒産寸前の文房具店を買い取り、人生の勝負を賭けたのだ。文房具に加えて、雑貨とみやげ物をレパートリーに加え、着々と商売を拡大させていった。ダウンタウンをはずれた郊外で、近所にさしたる競合店が無かったことも幸いしたが、何より、西さん持ち前の商才が存分に発揮されて、地域社会から重宝されて愛される店に発展していった。新学期、子供の日、母の日、父の日、恋人の日、クリスマスなどの稼ぎ時には、整理券を発行しても捌ききれないほど店は客で溢れた。誕生日、結婚式、何々記念日とプレゼント好きのブラジル人たちの好みにあった品揃えは、口伝えに広まり、平日でも客が途切れることはないくらいに繁盛した。
数年後、店が軌道に乗ったところで、日系の銀行に勤めていた評判の美人(日本生まれ)を果敢に口説き落とし、見事トライを決めて、奥さんにしてしまった。一時は疎遠になっていた社長との関係も、結婚式に招待することによって、社長に「西君はいい奥さんを射止めた」といわしめて、修復した。

西さんの法要で奥さんに言葉をかける新居さん
西さんと一緒にブラジルに来たもう一人の9回生は新居さんという。彼は、同じ貿易商社でセールスを担当していたが、3年目にヴォルタ・ヘドンダという街で八百屋を経営していた日本人オーナーにスカウトされ、会社を辞めてしまった。私が入社したときは、新居さんは既に退社していたので、どのような条件で転職をしたのか、詳細を知る由もなかったが、そのオーナーは、とにかく人使いの荒い人だったようで、新居さんを最悪の条件で、馬車馬の如くコキ使ったという。それでも、新居さんは自分で選んだ道なので、歯を食いしばって耐えていたが、8年目になってとうとう体調を崩して、心身ともにボロボロになり、ほとんど着の身着のまま、一文無しの状態で、サンパウロに戻ってきた。
そこからが、西さんの真骨頂である。彼は、新居さんを受入れ、自分の店を手伝ってもらいながら仕事を覚えさせ、数年後に新居さんが、隣町で同業者として独立するまでの段取りを、計らってやったのである。パイオニアの9回生二人は、血の繋がった兄弟以上に強い絆で結ばれていた。お互いに信頼しあっていて、本当に仲が良かった。
そんな順風満帆だった西さんが、病に侵されることになろうとは、誰が予想したであろうか。パーキンソン病であった。それは10年ほど前から徐々に西さんの身体を蝕んでいたのだ。最近は容態が次第に悪化し、あれほど愛した店に出ることもままならなくなっていたという。その間、側で手助けしたくても出来ない新居さんの心痛は、いかばかりのものであったろうか。
そして西さんは、ある日転倒して骨折し、入院した病院で、あろうことか、院内感染して肺炎を併発し、医師の懸命の努力にも関わらず、あえなくノーサイドとなってしまった。
私は、ブラジルに於ける神高卒業生たちの歴史の1ページが、今、パラリとめくられたような気がする。
享年73歳であった。
心から、ご冥福をお祈りしたい。       (完)

東海林 さん
神高生ブラジル移住のパイオニア、逝く 送付有難う御座います。
西先輩の追悼文としては最高です。知らなかった西さんの一面を知り得て嬉しいです。
『私たちの40年!!』寄稿集にも収録させて頂きます。
全文と写真を下記BLOGにも掲載しております。
その内、西さんを偲ぶ会を神校生を集めて遣りたいですね。実現するようであれば知らせて下さい。

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/21847302.html



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