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柔道家・石井先生の人生指南(1)-(5=終わり) サンパウロ新聞 WEB 版より
日本の現役の頃には早稲田大学の柔道部で副将を務めており移住研究会にも籍を置いていた石井千秋さん(1972年のミュンヘン・オリンピックで柔道のブラジル代表選手として初の銅メダルを獲得)は、文筆家としてもコロニアで名が通っており今回サンパウロ新聞の特別寄稿『柔道家・石井先生の人生指南』と題して5回の連載寄稿を掲載しており『私たちの40年!!』のメーリングリストででも紹介しましたが、ホームページにも収録して置く事にしました。
写真もサンパウロ新聞から昨年6月にブラジル国内では最高段位となる九段に昇段した時の記事からお借りして使用させて頂きます。尚、サンパウロ新聞の石井さんの9段昇格を取り上げた記事も一緒に掲載して置きます。写真:九段昇段を喜ぶ石井氏(前列中央)と祝福する柔道関係者たち


柔道家・石井先生の人生指南(1) 11/02/08 サンパウロ新聞 WEB 版より

面白い人間の生き方  特別寄稿 石井千秋
 1972年のミュンヘン・オリンピックで柔道のブラジル代表選手として初の銅メダルを獲得した石井千秋さん(69、栃木県出身)。昨年6月に伯国内では最高段位となる九段に昇段し、現在も後進の指導を続けるなど意欲的な活動を行っている。柔道やブラジルでの生活を通じて体感し、氏が日々の日記の中で綴ってき た思いを特別に寄稿してもらった。5回の連載で紹介する。(編集部)

 人の生き方というものは面白いもので、こちらで利用してやれと思ったら、人は金輪際働いてくれない。反対にこちらの方から奉仕してやろう、何かよくしてしてやることが無いかと思って付き合って行くと、向こうが反対にこっちへ尽くしてくれる。
 つまり、『俺が俺が』ではダメなのだ。人が自分を生かしてくれるように仕向けて行かなければいけないと思う。自分に人徳がないのは自分のためにだけ一生懸命になって仕事をして、他人のために奉仕する心が無いからなのかも知れない。

 柔道界にも県人会にも稲門会(早稲田大学OB会)にも盛和塾にも、真剣に奉仕をしなければ俺の将来は無い。でも、そんな暇は果たしてあるかな。ゴルフもやりたい、農場もこのままでは中途半端だし、道場の方もうまくいってないのに他のことに奉仕していたら、みんなパーになるだろう。だって、人間の持ち時間は一日に24 時間。これは誰も変らない。1か月には720時間、1年で8760時間となる。これをいかに有効に利用するかで、その人の人生が変ってくる。
 『利他』の教えは、功成り名を遂げてから、人の為に行うことではないだろうか? 自分がこれからどうころぶか分からないのに、いったいどうして他人の為に奉仕して行かなければならないのか……。まず大事なのは自己管理。つまり、克己が出来てから妻子への配慮、つまり良い家庭を築き上げ、そして良 い子孫を残す。

 もし自分が日本に居て、親から受け継いだ人間関係、遺産がたくさんあり、それを活用しての奉仕活動なら出来ないこともない。しかし、自分はブラジルでは石井家の創立者だ。家風だって、子供教育だって、仕事だって、皆パイオニアなんだ。すべて自分で開拓して行かねばならない。趣味に生きるとか、優雅なことは言ってら れない。死にもの狂いでこのチャランポランな大国でサバイバルして行かねばならない。もう、大変なことなんだ。『利他』とか奉仕ばっかりしていたら、一家心中しなければならない。悲しいけれど、これが現実なのだ。だから、いつでも胸を張って、大ボラ吹いて虚勢を張って突っ張って生きている。

 実際に強くなくても、強がってなければ柔道の先生なんてやってられないし、金が無くてもあるフリをしなければ、誰も相手してくれない。日本食レストランやカラオケにスコッチを持ち込んで、金のある飲み方をするようなセコイこともしなければならない。儲けていないのに儲けているフリをするぐらい辛いことはない。これ も男のやせ我慢、つまらん意地を捨てれば楽になる。
 今まで自分がいなければブラジルの柔道は真っ暗闇だと、ホラを吹いてきたが、自分がいなくても世の中は立派に動いている。時代が変ってきたんだ。もう、つまらない見栄を張るのはよそう。大ボラ吹いて、自慢話ばかりするから、世の中が狭くなり、苦しくなってしまう。いつまで続けるつもりだね。誰も俺のことなんか見て はいないよ。あとは余生、静かに生きよう。(つづく)
2011年2月8日付


柔道家・石井先生の人生指南(2) 11/02/09 サンパウロ新聞 WEB 版より

コロニア柔道史について 特別寄稿 石井 千秋
ブラジルコロニア柔道史を書くに当たって、まず基本になるのは人物史である。誰が何をした、何年に大会があって誰が勝ったではなく、コロニア人としてブラジル柔道に何を貢献したか? いかに生きたか? その背景は何か、を書いてみたい。だから全然知らない人のことは書きたくとも書けない。
 会ったときの印象と社会の評価、友達の良否、その他、諸々の事実を照らし合わせて書きたいと思っている。

 ブラジル日系コロニアには、かなり異色の人物が多い。何故なら、日本という狭い枠の中に納まりきれず、飛び出してきた「侍」だからである。私の知っている諸先生方、諸先輩たちの中にも、かなり日本の柔道マンたちと異なった生き方をしている。日本というきめ細かな繊細な土壌の中に芽生えても、ブラジルという大雑把な 、しかも大らかな土地で育まれると、同じ人間でも別種のものになるのかも知れない。

 環境は人格を作るという。日本でも「裏日本」の人と「表日本」の人では、大分に性格が違う。まして、九州と北海道では別な人種のそれである。育まれた山河、気候、風土によって人間の性格もかなりの差が出て来るのかも知れない。ブラジルでは、それがさらに人種の違いが加わって来る。アマゾン、ノルデステ、カリオカ、 パウリスタ、ガウショでは、まったく性格も考え方も生き方も異なってくる。だから、そこに生きる日系コロニアの生き方も考え方も、日本人のそれと異なるのは当然のことである。
 柔道家なんていうものは、変わりものばかりである。自分の身体を極限まで痛めつけて、しかも相手に対しても極限まで攻撃する。つまり『マゾ』と『サド』を一緒にしたようなものである。自分にはマゾヒストであって、相手に対してはサドヒストなのである。まったく因果なスポーツである。それを教える 柔道の先生なんていうものは、もう一種の気狂いである。だからやることも狂気が多い。
 酒を飲むと暴れる。相手かまわず喧嘩を仕掛ける。打たれ強いから勝つまでやる。考え方は単純そのもの……。数学や物理、科学という分野には極めて弱く、歴史や軍記に傾倒して涙もろい。
 これは自分のことを言っているのであって、柔道家の全部が全部こうだとは言えないが、まあ、みんな似たようなものである。私の知っているコロニアの柔道の先生をしている人は考え方、生き方はほとんど相似ている。

 2世となると、ちょっと違ってくる。酒を飲まない人が多い。でもそれは私に比べてであり、普通の人と比べれば飲める方なのかも。みんな一見しただけだが裏の裏は知らない。所詮、人間なんて、本人でさえ自分の本当の性格や、好みは確かに掴みきれないのではないかな。
 表面に出て来る部分と、裏のかくれた部分は大違いなのがほとんどである。だから、人物史を書くというのはむずかしいことである。(つづく)
2011年2月9日付


柔道家・石井先生の人生指南(3) 11/02/10 サンパウロ新聞 WEB 版より

素質か、努力か、幸運か  特別寄稿 石井千秋
 芸術やスポーツの世界でよく言われることで「あいつは良い素質を持っている。だが、どうも努力が足りない。あの子はとても努力家なんだが、素質がない」というような会話を聞かされる。
 スター性のあるいい素材。つまり、親から受け継いだ血筋、遺伝というものを、いわゆる素質というなら、努力家つまり一つのことに打ち込める、又は、努力できるということも偉大なる素質の一つではないかと考えられる。
 いくら良い素質を持っていても、ちょっとも努力をしないで消えてしまう者も多い。しかし、素質の片鱗がなくても、小さな努力を積み重ねて偉大なる功績を残す人もいる。そうすれば、努力が出来るということも偉大なる素質ではあるまいか。

 手前味噌だが、私などは柔道家としての素質は大して持ち合わせていなかった。運動神経は大したことないし、100メートル競走でも遅かった。野球やサッカーも大してうまくなかったし、中学、高校を通して大した成績も残していない。
 それがオリンピック、世界選手権大会という世界の桧舞台に上がれたのは、まったくの偶然というか、つまりコロンブスの卵だったからである。しかも、メダルを取れたということはラッキーとしか思い当たらない。娘たちも大した素質も無いのに一生懸命頑張っている。私も雑種で、別に大した血統は持っていなかったが、頑張 りで何とかやり通した。
 「なにくそ」「こんちくしょう」と、ただ歯を食いしばって、一つひとつこなして来たつもりだ。だから大した成功は出来なかったが、そこそこのことはしてきたつもりである。
 イビウーナにある農場にしても、金を稼げるまでに持ってきたことは偉いとしたい。娘たちにしても何とか引っぱってきた。女房の尽力がこれは大であった。何はともあれ、これまで「努力」と「頑張り」で、今日までもって来た。
 これは勇吉親父からの遺伝なのかも知れない。親父は本当の男だった。好きなことをやり通して、実に幸福な人生を送ったと思う。男の幸福なんて、いかに好きなことをやり通して生きられたかだと思う。人に使われず自分の思ったこと、好きなことをして、人生を生きられることが何といっても至福の人生だと思う。

 その意味なら、金は無くとも俺の人生は、まさに幸福そのものだ。「我人生に悔いはなく生きたい」―。石原裕次郎もそう言って死んだが、本当はまだまだ生きていたかっただろうと思う。
 私の人生はまだこれからだ。ガンバルゾ。(つづく)
2011年2月10日付


柔道家・石井先生の人生指南(4) 11/02/11 サンパウロ新聞 WEB 版より

物を書く、ということ  特別寄稿 石井 千秋
 物を書くということは物事の考え方を確かにするといわれるが、本当のことだと思う。物事を順序立てて考えて、それを明示することによって、将来への前進の方法を模索する。そうすることによって軽率な行動を慎む。書き残すことによる証拠を作るからである。しかし、落書きみたいに嘘八百をならべて、ただ、でたらめに書 き散らすのでは何にもならない。やはり、書き残す為の責任のようなものが生ずる。

 生きる為に何をなすべきか考えると、頭がこんがらがって来る。人の為になること、皆に喜ばれることばかりやってると、ストレスばかり溜まってますます我慢できなくなる。そうかといって自分の楽しいことばかりすれば、不安感にさいなまれ苦悩が生ずる。ここのところの調和をいかに取るかが人生の課題なのかも知れない。

 自分みたいに好き勝手やっていても、苦悩が生じないのは馬鹿なのか。女房はいつも愚痴を言う。私は人の為、貴方の為、子供の為に尽くし、自分の他の楽しみは何も求めず生きてきた。自分の好きなことをパッーとやってみたい。そしたら気も晴れるだろうとぬかすが、「やってみなー」である。そしたら、気がせいせいするど ころか、ますます陰々滅々ですよ。苦あれば楽あり、楽ばかりしてたら必ずすごい苦労がドカッと待っている。
 それより、毎日を一生懸命ベストを尽くして生きることが一番の幸福なのではないかと思うが、どうだろうか。蟹(かに)は自分の甲羅によって、穴を穿(うが)つ。人間だって同じこと。今まで生きてきたパターンを繰り返す。一度一つのことで成功すると、いつも同じやり方を繰り返す。でも天才はそれを 繰り返さず、いつも違った方法で成功を勝ち取る。凡俗はいつもワンパターンで行くが、織田信長は桶狭間の大功を二度と試みなかった。

 奇襲は一度しか通用しないことを知っていたからである。だから、彼は天才なのだ。作家にしろ、一度ひとつの型で出ると、一つの作風というものが生れ、それによって同じパターンの小説が次々と生れる。司馬遼太郎が『龍馬がゆく』と『国盗り物語』で成功して歴史小説のジャンルを作った。その次の小説はほとんどこの二本 を縮めたり、伸ばしたり、別な視点から見たりしながら、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にあしらって戦国物を書き、坂本龍馬の次に西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、江藤新平、大村益次郎と書き、明治に入ってゆく。

 日本史の中で何といっても一番面白いのは戦国期と維新である。動乱期に生きた人々はみんな英雄である。どれひとつとってもキラキラと輝いている。時代がそうさせるのか? 平和な時に一人を殺せば死刑になるが、動乱期の時代なら千人殺して大名となる。国を盗んで大英雄になる、平和時なら逆臣である。
 自分も100年前に生れていれば、「人斬り千秋」とか呼ばれ、いっぱしの志士になったかも知れない。まったく、遅く生れて残念である。でもいい。自分はブラジルが好きだから。(つづく)
2011年2月11日付


柔道家・石井先生の人生指南(終) 11/02/14  サンパウロ新聞 WEB 版より

柔道というスポーツ 特別寄稿 石井 千秋
 柔道というスポーツは、ポカの少ない競技だという。つまり、強い奴が大抵勝つ。組んでみてすぐ、ああ、こいつは強い。ちょっと取れそうもない、それなら待って相手に攻めさせて、裏でも取るか。それとも、寝技に引き込んで絞めるか逆でも狙うか。いろいろ作戦を立てる。それでも今のルールでは、そうも行かない。
 待っていたら、すぐペナルティーを貰うし、うかつに寝技に誘おうものなら、すぐ注意が来る。不利を承知でも馬車馬みたいに前に出て行くしかない。だから、弱い者にはほとんど勝つチャンスがなくなって来た。その代わり、昔みたいに無差別ではないから、6、7キロの体重差はトレーニングによって克服するしかない。この 体重制だと、民族性による体型の違いが大変大きくモノをいってくる。

 日本人は100キロ以上というと、もう肥満型になってくる。北欧やロシアでは100キロ前後で2メートル近い。手足が長くて、ゴリラ的な体型の者がわんさといる。遠くから見ると少しも巨人には見えないが、近くへ寄って見ると見上げるほど大きい。同じ体重で、頭ひとつ完全に違う。これでは見上げて戦わなければならな い。
 柔道がまだ海外に普及してなかった頃は、相手の奥衿(おくえり)を取って引き回し、頭を下げさして、崩していくらでも投げることが出来た。しかし外人が本当に柔道を修行して鍛錬して来ると、もうこんなことは到底、不可能になってきた。
 私がブラジルに来た頃は、まだみんな相手の脇の下から背中を掴んで内股や払腰をかけてきた。だから、その手を上から殺し、真向からの大外刈りが良く効いた。これが憶えられて、右足を引かれた時には右の大内刈りに変わり、膝車や支え釣込足のような技はほとんどかけなかった。しかし、技なんてものは 流行があるし、本質はスピードとタイミングである。いかに上手にタイミングを取るか、いかに早く相手に接近するかだと思う。

 今の柔道はポイント制になって、つまらなくなったというが、これは体重制にしたことに起因する。体重差のない鍛え抜いた者同士がたった5分間で優劣をつけるとなったら、ポイントを取るしかない。「一本」とか「技有」は余程の差がなければ取れない。判定の試合が多いのも仕方がない。本当に限られた時間の中で相手を投 げるのは難しい。30分やったら稽古の優劣が出て来るけど、たった4、5分ではまず出ない。だから運の悪い者は1回戦で負けてしまう。エンジンもかからんうちに、プレッシャーで負けてしまう。日本の選手は練習をし過ぎる。しかし、それをプレッシャーで生かせない。外人はその点、楽しんで柔道をやっているので、プレッシ ャーなんか全然感じない。練習なんてまったくしなくても、平気で試合して勝ってしまう。稽古をしていて、こんなに弱いのがなんで国際試合で勝てるのかさっぱり理解できなかった。でも、それはスポーツとはレクレアソン(娯楽)なのだ。

 オリンピックなんて言って、記録にこだわって心身をすり減らすこと自体が間違いなのかも知れない。そういう自分がメダル収集家だったことを忘れてはいないか。所詮、これは人類の愚かさかも知れない。(おわり)
2011年2月12日付



伯国柔道指導・普及に尽力 石井千秋氏が九段に昇段 10/07/02 サンパウロ新聞WEB版より
 柔道家で、1972年のミュンヘン・オリンピックでブラジル代表柔道選手として初の銅メダルを獲得した石井千秋氏(68、栃木県出身)が、ブラジルで最高段位となる九段に昇段した。

 その昇段伝達式が、去る6月12日、聖州ジュニア(20歳以下)選手権大会が開かれたカンピーナス体育館で行われ、ブラジル柔道連盟(パウロ・バンデレイ理事長)を通じてパウリスタ柔道連盟のフランシスコ・デ・カルバーリョ・フィーリョ会長からジプロマ(証書)と金、銀、銅のメダルをイメージした記念盾と九段用の赤帯が手渡された。

 石井氏は、早稲田大学を卒業後、ブラジルの柔道指導のために1964年「あめりか丸」で渡伯した。南米を周って異種格闘技と闘いながら柔道を普及し、同年に行われた全伯柔剣道大会に出場して優勝。伯国に「石井」の名前を知らしめた。

 伯国柔道関係者から「ブラジル人として帰化してほしい」と懇願され、悩んだ末に帰化を決意。72年にドイツ・ミュンヘンで開催されたオリンピックにブラジル柔道代表軽重量級選手として出場。ブラジル史上、初の銅メダルを獲得したことが、その名をさらに広めることになった。

 その後、柔道普及に携わり、数多くの後進を指導。自ら「石井道場」を設立し、門下生約50人が所属する。現在、全伯講道館有段者会の副会長を務め、今年5月下旬に九段に昇段したミュンヘン五輪で伯国代表監督を務めた岡野脩平同有段者会名誉会長たちとともに、伯国への柔道普及に尽力してきた。
 柔道一家である石井氏は九段昇段について、「大変な名誉をいただいた。九段と言えば、日本では『神様』と言われるほどで、それをもらえたという喜びは柔道をやっている人間にしか分からない。その意味では、家族にも感謝している」と述べるとともに、「ブラジルの人たちに自然に認めてもらえたことが嬉しい」と喜びを表した。

 岡野名誉会長は、「戦前の日本移民が日本柔道の精神的な基礎を築いてくれたことに非常に感謝している。今後は2016年の(リオ)オリンピックに向けて、我々ができる範囲でバックアップをしていきたい」と伯国柔道界へのさらなる協力を行っていく考えだ。
2010年7月2日付



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