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【ユダヤ人が迫害される理由】 藤沢 晴巳さんの寄稿です。
『私たちの40年!!』のメーリングリストは、他人への中傷、酷すぎる良俗に反する書き込み、下ネタは小話までといった制約らしいものは有りますが政治、経済、宗教等に付いてもご自分の御意見を述べるにはまったく制限を設けておりません。今回は、大分の桐井さんの質問から始まり【ユダヤ人が迫害される理由】との話題で盛り上がりましたが、その集大成とも云える大論文を藤沢さんが3回に分けて投稿して呉れました。その力作をここに収録し続編としてコメント集を収録して置くことにしました。
先日、南伯日本商工会議所の昼食会の席上で藤沢さんと顔を合わせる機会が有ったのに写真を撮らせて貰う機会を失し写真がないので昼食会の席上で撮った遠景の写真から引き延ばして使用しますが、次回お会いした時にまた撮らせて頂き置きかえることにします。


皆さん
   これまで「ユダヤ人はなぜ迫害されたか」をみてきました。
こんどは「ユダヤ人はこれからも迫害され得るか」を考えて行きたいと思います。
   そのまえに、彼らがユダヤ人であるために迫害されることになった、紀元4世紀までのユダヤ人の通史を見ておきましょう。
ユダヤ人をふくむセム(語)族をより良く理解するための余話もいくつかご紹介しておきます。すこし長いので3回に分けて報告します。
   個性が強く毀誉褒貶の激しい民族であり、基本的な全体像をとらえておかないと、彼らについて誤まった認識を抱くおそれ無きにしもあらずです。そうでないと、もしまた新たな差別や迫害がおきた場合、知らず知らずのうちにそれに手を貸させられていた、などという事もあり得ます。大量生産される工業製品とちがい、歴史は同じものはひとつとしてありません。こんど迫害が起こるとすれば、今までとちがった形で起きると思います。まさかとは思いますが、核兵器もあり不気味です。
   今年はユダヤ暦で紀元5772年、世界最古の紀年かもしれません。
   有史以来ユダヤ人といえば、全員が「ヴェニスの商人」に出てくるシャイロックのような強欲で冷酷な人間ばかりかといえば、そんなことはあり得ません。一方、「アンネの日記」のオットー フランク のような、他人を思いやって生きる善良な人達ばかりかと言えば、それもまたあり得ないでしょう。圧倒的大部分は、シャイロックとオットー フランク両者の性格を千差万別の比率で併せ持つ個人で構成される中間層だったに違いありません。他の種族、民族、国民もそれぞれのシャイロックとオットー フランクを持っていて、ユダヤ人と同じような中間層を持っていたはずです。そうでなければ、集団としての社会的なまとまりは保てません。集団の平均的な性格は、時代により住む地域により多少の変化はあったでしょうが、両極のどちらかに殆ど重なった時代があったかといえば、それは考えられません。そんな状況になると、内部から崩壊したり外部の勢力によって圧しつぶされたりして、物理的にも精神的にもその集団は存続不可能になります。そんな集団は、そのままの形では存続する方策が立てられなかったり、存続する価値がないと、とみなされるからです。留意すべきは、論理的に考え行動する左脳派のシャイロックがいるかと思えば、情緒的に考え行動する右脳派のシャイロックもいただろう、ということです。当然そのどちらにも属さない中間派もいたでしょう。これが事情をさらに複雑にしますが、これについては別の機会に考えようと思います。
   紀元前千年ごろ、ダビデと息子のソロモンが築いた王国は大いに繁栄しました。「シバの女王」も登場したりして、映画の格好の題材にもなりました。しかしソロモンの死後、王国は北イスラエルとユダ王国に分裂し、両国ともアッシリアとバビロニアに滅ぼされてしまいます。その後、彼らの地(パレスチナ)はマケドニアのアレキサンダーに、ついにはローマ帝国に占領され属領にされてしまいました。紀元前63年のことです。属領期間中とくに知られているのが、紀元前37年ユダヤの王となったヘロデで、彼は30年にわたって圧政を敷きました。そんな暗い世相のなかで生まれたのがイエス キリスト(救世主)です。
   ローマの圧政はつずき、これに抵抗するユダヤ人たちに対してローマは大軍を送って鎮圧し、紀元70年神殿に火が放たれ略奪と殺戮が始まります。この戦争によってユダヤ人は祖国を失い、バビロニア捕囚に次ぐ第二回目のディアスポラ(ギリシャ語で「離散」の意とのこと)が始まりました。ローマが支配していたライン川、ドナウ川までの、西ヨーロッパへのユダヤ人の移住はここから始まります。彼らはローマの軍団とともに捕虜や商人、医者、兵士としてこの地にやって来ました。彼らはローマの市民権を持ち、今日のイタリア、フランス、スペイン、ドイツなどのローマ帝国全土に住みつきましたが、なかでもドイツのラインラント地方のシュパイヤー、ヴォルムス、マインツなどの町に住む者が多くいました。しかしパレスチナに残ったユダヤ人は抵抗をやめません。ローマ皇帝ハドリアヌスのエルサレム異教化政策に対するユダヤ人の反乱が、紀元132年に起き135年までつずきました。失敗に終わったバル コフバの乱で、死者は8万人に及んだと言います。これによってユダヤ人のディアスポラは決定的なものになりました。
   ローマがユダヤ人の王国を滅ぼしたのは、それがユダヤ人の国だったからではなくて、ローマに反抗したからです。カルタゴも同じくローマに、未だに立ち直れないでいるほど徹底的に破壊され、滅ぼされました。将軍ハンニバルが出てくるポエニ戦役です。あれもカルタゴ人の国だったから滅ぼされたのではなくて、ローマの支配に異をとなえたからです。
   ここで余話です。あとにも出てくるので(その1)とします。
アルメニアもひどく痛めつけられました。クズカレイシというところには、捕虜を猛獣の餌食にし、それを見て楽しむ施設がつくられ、いまでも保存されているそうです。上から眺めることのできる迷路を地面に掘った構造で、迷路の入り口に捕虜を立たせ、出口に妻がいるからそこまで無事にたどり着いたら開放してやる、と告げます。途中に腹を空かせた猛獣を放っておいて、捕虜の恐怖と妻の絶望するさまを見て楽しんだ、というのですからひどい話です。ローマは行く先々の異民族にとって、時には極悪非道の動物以下の人間でした。あのころからもうワルだったようです。  (続く)
                        
前回の「アルメニアの迷路」から後の続きです。
  313年ローマ皇帝コンスタンチヌスがキリスト教に改宗し、392年皇帝テオドシウスはキリスト教を国教と定めました。
これ以後、教会はキリスト教徒とユダヤ人との間に厳しい区別を設けました。(実際はユダヤ人を含む異教徒ですが、便宜上ユダヤ人に限定して話を進めます)
ユダヤ人はキリスト教徒との結婚、キリスト教徒の奴隷の所有も出来なくなりました。
少し後ですが、6世紀にはすべてのユダヤ人の生活を規定し、ユダヤ人からすべての既存の権利を奪う、ユスチニアヌス法典も制定されました。
ローマ帝国がユダヤ人迫害の原因をつくった、と私は思います。
現代でも我々はきわめて悪質で巨大な諸悪を目にすることが出来ます。
根拠の無い勝手な言いがかりをつけた挙句、何の罪も無い子供をふくむ大量の人たちを殺したアメリカの対イラク戦争などその好例です。
これだって元はといえば、かつてローマが開発したモデルをアメリカが踏襲した、そんな風に私は思います。
いいがかりなどその気になればいくらでもつけられます。
スターリンもこれに勝るとも劣らない悪事を数々やりました。
いよいよ私の「独断と偏見」の始まりです。
しかし「偏見の無い意見は香りのない花束である」という諺もあります。
どうせフランス人あたりの作でしょうが、私たちには「・・・・香りのない味噌汁である」のほうがわかり易いですね。
変な諺を持ち出して「偏見」をこじつけようと「独断」も始めました。
偏見には独断がつきものです。
閑話休題
ローマは大帝国をつくり、イタリアをはじめフランス、スペインなど西ヨーロッパ各地それにトルコなど近東に巨大な建築物や施設をつくり、政治形態をさだめ、法典を整備し文化的にも後世に大きな影響を及ぼしました。
しかしその一方で、異民族の支配は非人間的なものでした。
余話 (その2)
こんどは遊牧民のモノの考え方についてです。
ユダヤ人は2千数百年まえにはすでに灌漑技術をおぼえて遊牧をやめ、農耕の生活に移っていました。
しかしそれまでの何千年かは遊牧をしていたため、考え方が多少は変わっていたとしても基調は相変わらず遊牧民のままでした。
遊牧民は農耕に適さない砂漠や半砂漠が生活の場であり、草地をもとめてしょっちゅう移動をくりかえします。
どこそこに雨が降ったというニュースは、そこには牧草が豊富に違いないということでアッという間に広まります。
情報にはいやでも敏感にならざるを得ない日常です。                                         その草地へ、広大な砂漠のあちこちからふだんは話したことも見たこともない人たちが集まってくるのですから、接触するのは赤の他人ばかりといっても過言ではありません。
同じセム族のアラビア人もいたでしょう。
おまけに砂漠は水も食料も不足がちで、生き残るための奪い合い殺し合いもよく起こりました。
そのうち、水も食料も不足していないのにこれが常態になり、油断してウッカリだまされたら何をされるかわからない、略奪と殺戮が横行する酷薄な社会になってしまいました。
このような社会では、習いは性となり行きつく先は「信用できるのは神と自分だけ」の考え方です。
オスマントルコ治下のアラビアでは「アラビアのロレンス」が活躍したころでもまだ略奪と殺戮がよく発生していたそうです。
イブン サウド王の時代になって、盗みをした者は片手を切り落とされ、再犯は残ったほうを切り落とされ、嘘をついたものは舌を切られ、人を殺したものは公開処刑の厳罰主義で臨んで、ようやく略奪や殺戮がなくなりました。
余話 (その3)
略奪と殺戮がおきるとそれに仕返しをし、またその仕返しをする、の報復合戦が始まります。
こんな状況のなかで生まれたのが、「目には目を、歯には歯を」の思想でした。
私はこれをはじめは報復を奨励するものと思っていましたが、事実は逆でした。
「目をやられたら目だけにとどめよ、歯をやられたら歯だけにとどめよ、それ以上はするな」の意味だそうです。
報復合戦はその都度規模が大きくなっていたためです。
余話 (その4)
遊牧民の性格を物語るこんな記録もあります。
遊牧民ジンギスカンの軍勢がペルシャのメラガ(テヘランの西北西約500キロ)を攻略した時、全住民を虐殺したがまだ生き残りがいるようだったので、捕虜に命じて「モンゴル軍はもう退却したぞ」と叫んで歩かせ、だまされて出てきた者を片端から殺しました。                  
虐殺がすんだあとムタウア(坊さん)にお祈りの呼びかけをさせて、これでやっと安心して出てきた者を次々と殺したため、全市民のうち生存者はわずか5,6名しかいなかったそうです。
とにかく騙されたら命がないのですから、絶対に騙されてはなりません。                                  煙のような善意を信じがちな我々日本人には俄かには信じがたい話です。
(本多勝一 「アラビア遊牧民」を紙幅の都合もあり多少変更。以下の余話5,6,7も然り)     (続く)

皆さん 藤沢です。
前回(第二回)の冒頭の部分で、「これ以後、教会はキリスト教徒とユダヤ人との間に厳しい区別を設けました。・・・・・。」と書きましたがこれではいくぶん舌足らずなので若干の補足をさせていただきます。以下です。
  392年ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教と定めたあと、教会はキリスト教徒とユダヤ人を含む異教徒との間に厳しい区別を設けました。
テオドシウスは熱心なカトリックで、カトリック以外の宗派も他の宗教も異教であるとして認めませんでした。
このためアリウス派を始めとして異端派はことごとく法律の保護外におかれ、徹底的な弾圧を受けました。
またローマ人の祖先伝来の宗教である多神教の「異教」は九百年の歴史を反古にして、地上から掃蕩されてしまいました。
この時代の動きは、ギボンの大著「ローマ帝国衰亡史」に生き生きと述べられています。
トラヤヌス、ハドリアヌスと並び英帝と称されるテオドシウスにはこんな一面もありました。
こんな状況の中でもユダヤ人だけは、棄教も改宗もせず、それどころかユダヤ教への信仰をますます強くしました。
異教徒としてはユダヤ人が残ったのです。
キリスト教の権威を認めないユダヤ人は、教会にとっては目障りだったにちがいありません。
おまけに自分たちの救世主キリストを十字架にかけさせた「神の敵」です。
ローマ人に何も悪いことなどしなかったユダヤ人を標的にした、大規模で執拗な差別迫害はこうして始まりました。
ユダヤ人はキリスト教徒との結婚、キリスト教徒の奴隷の所有も出来なくなりました。
かつてはキリスト教徒をきびしく弾圧したローマ帝国ですが、313年にはもう皇帝(コンスタンチヌス)でさえ改宗させるほどの、それこそ日の出の勢いでキリスト教は勢力を拡大させていました。
   ではここからが、紀元4世紀末までのユダヤ人の通史の第三回(最終回)です。
余話 (その5)
一箇所に定住し、まわりは物心ついてからずっと知っている人ばかりの森の民の農耕民とは、これが大きく異なる点です。
「月の砂漠」という童謡があります。
作詞者は加藤まさを氏で、大正12年「少女倶楽部」3月号に発表したものです。
作詞の動機は「何でもいいから」と注文されたのに応じたもので、加藤さんは砂漠どころか外国へはどこにも出たことはなく、砂漠には憧れがあったので、それをもとに想像で作った詩なのだそうです。
曲もそうですが、詩も幻想的で美しく、私はとても好きです。                                              
  好きなだけではなくて、砂漠はあんところなのだろうなあ、と以前は漠然と想像していました。
  今でもおうかたの日本人はそうなのではないでしょうか。
しかしアラビアの事情を知る人に言わせれば、あんな旅は絶対に不可能なのだそうです。
王子様とお姫様が供も連れず旅をしたらたちまち略奪されただろうし、月がおぼろにけぶるのは、猛烈な砂嵐が静まりかける時だけなのだとも言います。
沙漠の盗賊といえば、なんとなく義賊みたいに思っていたのですがとんでもない話で、そんなこととは無縁な強欲な強盗だったのでしょう。
映画「アラビアのロレンス」でヨーロッパ人とはあまりに異なる考えと行動のアラビア人に、ロレンスが疲労困憊させられた様子が描かれています。
日本人よりはヨーロッパ人の方がはるかにアラビア人よりの考え方をすると思うのですが、その彼にしてこうでした。
余話 (その6)
遊牧なんて遊びながら牧畜をするんだから、さぞノンビリした日常だろうなあ、いいなあ、などと思っていたものですがとんでもありません。
疎らにしか生えていない牧草を食べるために一日中歩き回る、何百頭という家畜の番をしなければなりません。
夕方には、その家畜のために所々にしかない井戸で家族総出で水も汲まなければなりません。
暑い砂漠を一日中歩き回った家畜は、とくに体の大きいラクダはバケツ一杯の水など瞬時に飲み干し、次を催促するのだそうで、遊牧は大変な重労働で、とてもアソんでなどいられないそうです。
余話 (その7)
遊牧民といえばいつも略奪ばかりしていたのかと言えば、そんなことはありません。
自分たちで生産できない物資は、他者と交渉の上入手しなければならないからです。
相手がより強い武力を持っていそうな場合には、絶対に手を出してはなりません。
彼らが機を見るに敏で、状況しだいで即座に相手を説得する論理を構築する交渉術に長けるようになったのには、こんな事情もありました。
ただし、時には詭弁を、屁理屈をもぐりこませるので注意が必要です。
遊牧民は、見知らぬ人でも旅人や困っている人を助けることで知られています。
困っている人を助けないのは「恥」と考えます。
ただそれも長年の生活の知恵として培ってきた習慣の範囲内までで、それを過ぎると出方を一変させます。 
  自分に少しでも理があると見るや、それの何倍もの利を要求します。
要求に限度はなくて、取れるだけ取ろうとします。
これは実際にあった話しで、二人の日本人が取材を目的に、自動車でアラビア半島の遊牧民(べドウイン)のテント村を訪れた時のことです。
その日、日本人は歓迎され、オレ達はここの人たちに気に入られたと考え、居続けることにしました。
ある日、リヤドに用事が出来たので、雇っていた運転手に行くよう頼みます。
ところがグズグズするばかりで出発しません。
夕方になったらなんと同じテント村の一家の引越し荷物を積み込み始めたというのです。
さすがに怒って、「ことわりもなしに何故オレたちの車を使うんだ」と叱り付けました。
すると返ってきた答えは、不思議そうな顔で発した「だってオレはお前さんらのメシを炊いてやったじゃないか」でした。
意表をつかれた返事に唖然としている間に、車は走り去ったそうです。
「メシを炊いてやった」にはこういう事情がありました。
この二人が自分たちで食べるために持参した米で、この男が自主的に飯を炊いてくれたのです。
10人分ぐらいを一度に炊き、日本人には茶碗一杯の盛りつけ飯を渡しただけで、あとは鍋ごと自分のテントに持ち帰り、一家で平らげました。
これではたまらないので、何回か後には飯炊きを断りました。
粉石けんや殺虫剤でも似たようなことをされました。
とにかく僅かでも自分に合理性があれば堂々といくら取っても恥ではない、そのように考えます。
しかし、誇り高い彼らべドウインは、コソ泥みたいな自分たちの名誉を損なう行為は一切しなかったそうです。
贈り物をやろうとしても受け取ろうとしない、慎み深い人たちだったそうです。
アラビア語の「シャラフ」(名誉、誇り、威信)だの、「カマーラ」(名声、高貴、尊厳)だのは、彼らにとっては命をかけることもあり得る言葉です。
余話も本体とあまり変わらない分量になってしまいました。
  ユダヤ人、というよりはセム族のような長くて複雑な民族の歴史はこうした余話の宝庫です。
悲しい話や残酷な物語が多いのは、彼らが何千年も生活してきた、砂漠という酷薄な自然のなせる業かもしれません。
彼らのアクが強いのは、「和」より「個」を優先させる文化から生まれたと思います。
だからといって、遊牧民は邪悪だといっているのではもちろんありません。
彼らの生きる環境がそのような考え方、生活の仕方をさせ、それが最も合理的だったからだと思います。
我々日本人とは異なる考え方をする人達がいることを理解する必要がありましょう。
同じセム族でも、アラビア人の「アラビアンナイト 千夜一夜物語」が色っぽかったりして楽しいのはなぜでしょうね。
中国など東洋から伝わった話が題材になっているものもあって、その故かも知れません。
ここまでが私が語りたかったユダヤ人の4世紀末までの通史と、歴史書にはあまり出てこない「余話」です。
周辺に目を転ずると、ユダヤ人といっても他の諸民族と比べて信仰に篤かった事以外、それほどの差はなかったと思います。
取り立てて言うほど優秀ではなかったし、また邪悪でもなかったと思います。
今でこそ商売上手で手ごわい交渉相手と見られています。
商業で栄えた古代イスラエルはどうだったかと言えば、フェニキアやカルタゴの方がもっと繁栄していました。
古さの観点からはどうか。
ユダヤ暦はともかく、古代エジプト、メソポタミアのシュメール、古代インド、商殷周時代の中国と比べ、古代イスラエルは若い国です。
国の規模にいたっては四国ほどの面積、まるでケシ粒です。
小粒ながらピリッとした国だったろう事は容易に推察されます。
知性を研ぎ澄まして優秀になり、しぶとくなったのはなぜか。
中国を除く他の古代の文明国が消滅してしまっているか、弱小になってしまっているのに、イスラエルはそうはならずに世界に大きな影響力を及ぼすようになったのはなぜか。
これが分かれば「ユダヤ人はこれからも迫害され得るか」がおぼろげながらも見えてくるのではないか。甘いかも知れませんが、そんな期待を持っています。
後編として、この事を紀元5世紀からのユダヤ人の歴史を見ながら考えて行きたいと思います。
それまでまた一服することにします。
参考書目
    「大世界史 2」村川堅太郎 文藝春秋社
    「大世界史 7」堀米庸三  文藝春秋社
    「ユダヤ人」上田和夫 講談社
    「アラビア遊牧民」本多勝一 朝日新聞社
    「にせユダヤ人と日本人」浅見貞雄 朝日文庫
    「ローマ帝国衰亡史 3,4,5」ギボン 村山勇三訳 岩波文庫
    「シオンの架け橋」www.zion-jpn.or.jp/israel_history01.html 
(加 藤さん教示)



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