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樋渡 悦子さん86歳にお話を伺いました。
ポルトアレグレにお住まいの男性長老には何人かお話を伺い掲載しておりますが女性の長老?の方のお話を伺う機会がなかったのですが、11月25日―27日のポルトアレグレ婦人会主催の2泊3日の温泉旅行にご一緒させて頂く機会があり帰路、バスの中で隣に座らせて頂き色々の人生経験をお聞かせ頂きました。大正14年3月26日生まれとの事で来年3月には87歳になられます。足腰もしっかりしておられお話を伺っていても抜群の記憶力に驚かされました。ポルトアレグレ婦人会の会計(財務担当)をしておられる長女のマリー樋渡さんも御一緒でしたが殆どの事はご自分で遣っておられました。
『灯台下暗し』と云われますが、今後も地元の長老の皆さんのお話も伺って記録して行きたいと思います。写真は、バスの中で撮らせて頂いたものです。


大正14年(1925年)3月26日に宮崎県西都市に生まれ遠い姻戚関係にある樋渡久雄さんと日本で入籍、結婚し呼び寄せ移民として1953年5月末に飛行機でブラジルに移住して来られた花嫁移住者のお一人です。日本では女学校を卒業後会社員として経理、会計担当のお仕事をしておられ当時の事務機器?のそろばん、暗算を今でも器用に使い数字にめっぽう強いとの御嬢さんのコメントもあるようにその記憶力には驚かされます。必要な電話番号は、15人分程はそらんじておられとの事ですが、亡くなられたりして、もう掛ける機会もない番号が頭に残っており寂しく思うとの事。
当時、RS州南部のペロッタスの近郊でトマト6万本を植えて大家族で営農をしていた樋渡家の二男の久雄さん(当時35歳)が婚期を逃し独身で有った事を心配した郷里宮崎のおばちゃんが白羽の矢を立てたのが姻戚関係にあった悦子さん(当時28歳)で久雄の嫁としてブラジルに行って遣って欲しいと頼まれこれを受けて立ったそうです。当時はまだ移民船もなく飛行機と行ってもプラぺラ機でウエキ島、ハワイ、アメリカ本土、ニューヨークからべレン、リオ、サンパウロまでに1週間掛かったそうです。リオ―サンパウロ間の飛行機がプロペラの一つが停まってしまいあわやご主人に逢う前に航空機事故死に合う可能性があったとの事でこれで肝が据わり『神さんが私を生かして呉れたのだから、何の心配もなくブラジルで生きて行ける』との確信を持たれたそうです。
サンパウロまで出迎えに来ておられた久雄さんと初対面の印象は、なんて背が低い人か!だったと笑っておられました。サンパウロでお会いしてから1週間程、親戚廻りとか市内観光を楽しまれたそうですが、これが新婚旅行になったそうで順調なブラジルでの生活の助走期間となったそうです。
ポルトアレグレからペロッタスにはバスで4時間、大家族の樋渡家には、男6人、女3人の兄弟を中心に食卓には何と23人-25人が1堂に集まるのを見て驚きの連続だった。一番の驚きは、電気、水道がなかった事で井戸の水揚げ作業が辛かった事を覚えているそうです。54年に長女のマリーさん(RS州裁判所判事=退職)、56年に次女リジアさん(農学部卒)、58年に長男のミルトンさん(農学部卒)、60年に二男ジルベルトさん(医学部卒)の4人の子供に恵まれている。58年にペロッタスの街を引き上げポルトアレグレ市内の農村地帯(今では住宅地帯)のVILA NOVAに27ヘクタールを土地を求めて1958年に引っ越して来て今も同じ場所に住んでおられる。ペロッタスからポルトアレグレへの引っ越しは家具、農機具等を含めてのトラック数10台の大引っ越しだったそうですが、悦子さんは、丁度お腹に長男のミルトンさんが宿っていたので安全を取り飛行機での引っ越しになったそうで長男のミルトンさんはポルトアレグレ生まれになったそうです。お孫さんがまだ4人だけでこれは少し心残りとのこと。ポルトアレグレに引っ越して来てからもトマトを中心とした蔬菜に桃の産地ペロッタスから持ち込んでポルトアレグレ市内の桃の里を作り上げ現在も同地区では桃祭りを毎年開いている。ビラ ノバー地区は、ポルトアレグレ市内での果樹栽培の産地として栄えているが、現在は周りには住宅が増えて廻りに住む子供たち等が袋を提げてもぎ取りに来るとかで犬を30匹以上飼って離しているが犬をけしかけると過剰防衛とかで文句が出るそうで何れは27ヘクタール(長男10ヘクタール、5男13ヘクタール、二男の久雄さん=悦子さんが3.5ヘクタールと分けており農場経営は、5男の定夫エヅアルドさん(農学士)がまとめて営農しているそうです。このポルトアレグレ市内で纏まった土地として土地開発会社等から土地を譲って欲しいとの要請が増えて来ており何れ住宅地になって行くことは仕方がないのではと時代の成り行きを感じておられるようです。
ブラジル生活58年を過ぎるが、生活環境からして余りポルトガル語を必要としない生活だったのでポルトガル語は、生活に困らない程度で得意ではないと謙遜しておられますが、それでもお子さんたちが小学校に上がった頃は日本語しかしゃべれない状態だったそうで学校から持ち帰る宿題等を母親として手伝ったそうでお子さん4人が皆大学を出ておられますが、家庭に置ける最初のポルトガル語の先生が悦子さんだったと感謝の念を持っておられます。
悦子さんの健康状態は、少し血圧が高いそうですが、至って健康だとの事で趣味は日本語の読書で文芸春秋を購読しておられるとの事でインタネットは遣っておられないようですがブラジルでも安い国産のiPADが販売されたら日本語の本を援護協会に借りに行くよりiPADの操作を教えて好きなだけ日本語の本を読めるようにして遣りたいと一緒に住んでおられる長女のマリーさんがコメントしておられたので近い将来はタブレットでの好きな読書が出来るようになるのかも知れません。
これまでに3度訪日しておられ最初は着伯20年後の1973年でお一人で郷里の宮崎にも立ち寄られたそうですが、女学校の同窓会では、結婚適齢期を戦後のどさくさの中に過ごした事もあり48歳になっても独身でいる仲間が多数いてブラジル20年の悦子さんには、余り馴染めない違和感を感じたそうです。
1989年の訪日にはご主人の久雄さんも御一緒で郷里宮崎だけでなく日本の温泉地等を訪問し遅まきながらの日本での旧婚旅行?を楽しまれたそうです。
1994年には、3度目の訪日をしたそうですが、余りにも変わってしまった日本、縁者親戚も多くは亡くなってしまっておりこれが日本訪問の最後にしたいと決めて最後の方は、早くブラジルに帰りたいと思ったそうですが、唯一嬉しかったのは、長女のマリーさんが日本滞在中にJICAの研修に行っていたご主人を訪ねて訪日して呉れた事で自分の故郷、宮崎を娘に見てもらう事が出来て嬉しかったと笑っておられました。
最後に私がインタビユで必ず聴く(一番知りたい)質問、『人生の選択としてブラジルに来られて良かったですか?』には、にっこりと笑いながら『私にはブラジルに来て夫、子供たち、孫達に恵まれ本当に良かったと思います』との返事に私自身がホットすると云うか嬉しい気持ちにさせて頂きました。
大変だった人生に置ける3分の2以上に当たるブラジル生活58年を生きぬかれ現在もお幸せに日本の本を読む事を趣味にしておられポルトアレグレ婦人会でも色々な活動に積極的に参加しておられる悦子さんのお話を聞かせて頂く機会を与えて頂いた事に感謝します。悦子さんの今後のご多幸を祈りつつ拙いインタビュウを終わらせて頂きます。
有難う御座いました。



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